観経疏の発菩提心

令和2年12月 御正忌報恩講より

  親鸞聖人の御命日を記して、こうして報恩講が全国で執り行われます。親鸞聖人が日本の代表的な高僧であることは間違いありません。しかし日本の仏教において高僧だと認められたのはつい最近のことではないでしょうか。聖人が修業をされた比叡山は様々な高僧たちを輩出してきました。聖人もその一人です。ただ日本仏教を代表とする高僧だと認められていたかといえば定かではありませんでした。

  師である法然上人は比叡におられた頃から智慧第一の法然房と言われ、比叡を降りてもなおその名声は日本を代表するものでした。しかし親鸞聖人は違います。何百年もの間、比叡山の高僧とはなっていません。理由は妻帯をされたからです。仏教には妻帯の概念が無いのですね。高野山にケーブルカーで登りますと、途中で女人禁制の場所が残っています。昔女性はそこから先に入れなかったのです。現在はおかまいなしに入れます。禅の道元は、京の伏見の興聖寺で男女ともに禅の修業をしたと聞いていますが、後程福井の山中に永平寺を建立して厳しい修行場を開かれました。親鸞聖人はこの道元と同時代の方ですが、法然上人のもとに行かれる頃には、すでにこの妻帯の問題をどこかで背負っておられています。親鸞聖人が生きられた鎌倉時代は仏教が民衆に入っていく転換期でありますから、こういう民衆的であり、人間的な課題が登場したのではないかと思います。

  また、社会的な見方からすれば、聖人は知識人や文化人から人間親鸞と称されて、非常に人間味ある高僧だと言われ続けております。若き青年親鸞の悩みは何だったのか。よくこういうストーリーが描かれたのではないでしょうか。形ばかりを聖人ぶるより真正直に一人の人間として悩む姿、そしてその現実を生きる姿勢をそのまま仏教にぶつけられた魅力が聖人にはあります。29歳の時に法然上人の元へ行かれた後も変わらずにご自身の問題をひっさげて生きて行かれました。妻の恵信尼との間には沢山のお子さんもおられます。この人間味が親鸞聖人の魅力なのですが、しかしこういった聖人への捉え方はおそらく明治から大正、昭和とその時代の知識人や文化人が描いた親鸞像でもあったのでしょう。

  親鸞聖人が生きた鎌倉時代にはそういう知識人や文化人はいないのですから、青年親鸞、親鸞と名乗られたのはもっと後の話ですが、とにかく親鸞の悩みがいかに人間味があると言っても親鸞一人だけが悩んだのではないはずですね。時代背景に沿って同じような悩みがそこらじゅうにあったはずです。その頃、民衆仏教の先駆けである法然上人はすでに70歳近いお年でした。20年ほど前にすでに比叡を降り専修念仏を京で開かれておりましたので、法然上人の名声は日本全国に広まっていたことでしょう。当然、当時の親鸞聖人にも聞こえたはずです。ご存じにように法然上人に遇いに行かれる時はかなり悩んでおられます。六角堂の百日間の参籠が有名ですが、恵信尼文書にも晩年の思い出としてこの六角堂の参籠の話が書かれていますので、日常の会話にもよく出ていたのでしょう。

  法然上人と親鸞聖人とのご信心について、歎異抄の後序に書かれています。「善信(親鸞)が信心も聖人(法然)の御信心も一つ」と親鸞聖人が言われるのについて、お弟子の勢観房・念仏房が「いかでか聖人の御信心に善信房の信心、一つにはあるべきぞ」と文句をつけられます。親鸞聖人は「聖人の(法然)の御智慧・才覚ひろくおはしますに、一つならんと申さばひがごとならめ。往生の信心においは、まったく異なることなし、ただ一つなり」法然上人の智慧や才覚が親鸞と同じだというならば、自分のいうことは間違いである、しかし往生の信心においてはただ一つだと返答をされる。勢観房・念仏房はその答えになお納得がいかいものだから、法然上人にその旨をお聞きすることになります。すると法然上人は「源空(法然)が信心も、如来からたまはりたる信心なり、善信房の信心も、如来からたまはりたる信心なり。されば、ただ一つなり。別の信心にておはしまさんひとは、源空がまゐらんずる浄土へは、よもまゐらせたまひ候はじ」と弟子たちの論争を収められたことが書かれてあります。 

  この「如来よりたまはりたる信心」という表現はよく耳にして聴きなれているから別に何とも感じませんが、しかし普通なら信心と言えば私が何かを信じることですから、まず私がありそして何かを信じる事ですね。たとえば私が神の存在を信じるとか、ご加護を信じる。何ゝ仏の御利益を信じるというような類になるでしょう。しかし、ここで言われている「如来からたまはりたる信心」は、如来が私に信心をくださるということですね。じゃあどういう信心をくださるのか。考えるとよく分からなくなる。

  これは自分の受け取りでありますけども、この「如来からたまはりたる信心」というのは、この私をたまわることで成立する信心である、そういう事かなと思っております。では、その私をたまわるとはどういう事でしょうか。

  私たちは、普段何事もなく暮らしていると、自分というものがさもを分かったかのように暮らしていますが、いざ自分の思慮分別を超えるくらいのごたごたが生じたら、泣いたり、わめいたり、妬んだり、と変化に富んだ自分が現れます。その時心は何かに振り回されるがごとくに変わっていく。場合によっては取り返しのつかないことまで仕出かしてしまいます。あの時ああすればよかった、こうしたらよかったと、振り返りながら後悔先に立たずの現実です。何事もなく全て順調に過ごしてこられた方もおらるでしょうが、概ねこういうものじゃないですか。誤魔化しが利くものなら知らんふりで過ごせますが、この取り返しがつかない事実の積み重ねはどうしようもない。どれが本当の私なのかと改めて考えても、どれもこれも自分に変わりはないし、だからといってどの自分が私だとさっと出せる答もない。あるのは自分が気に入ったものは私として認めたいし、都合が悪い自分は認めたくないという心である。若い時はそういう認めたくない自分の姿を自分で責めて、自己嫌悪に落ちる人もけっこうおられるでしょう。年取ると老化現象か何か知りませんが、そういう感覚が薄れてきますね。だからといって心が深く広くなったのかといえば、一概にそういう事じゃない。ボケてるか、誤魔化し方が上手くなったのか、そういう事かなとも思います。

  ただ、老いは時間経過の加速する感覚が強いですから、これからどうなるんだろうって、何がどうなるか分からないのにせかされているみたいで、外見よりかなり焦った様子がある気がしますね。老後の心配は勿論あるし、子供が大きくなれば心配の内容が変わるだけで、より心配が増す気がする。身体的にも誤魔化しが利かない。そしていよいよ死が具体的に近づいてくる。それに伴いかえって死にたくない気持ちが増す。問題は山積みです。ずっと前に読んだ夏目漱石の、たしか『門』だと思いますが、その最後辺りに、主人公が門の前にたたずみ、そこから前にも帰ることもできないまま、門の前でただ茫然と日が暮れるのを待つだけだった。そのような内容だったと思いますが、ふと思い出しました。

  若い時は若い時の悩みがありますが、老人には漠然としたそして深刻な悩みがありますよね。この死が漠然としすぎて自分の器量をはみ出しますから考えようがないだけです。しかしこういう周囲や年齢による変化においても変わらずに、この私としていつも還れるような、私本来のこの私自身をいただく。それを「如来からたまはりたる信心」と、こう言われるのだろうと思う訳です。

  観経疏の序文義に「たゞこれ相因って生ずればすなはち父母あり、すでに父母あればすなはち大恩あり。もし父なくんば能生(のうしょう)の因すなはち欠けなん。もし母なくんば所生の縁すなはち乖(そむ)きなん。もし二人ともになくんばすなはち託生の地失わん。かならず須からず父母の縁具して、まさに受身の処あるべし。すでに身を受けんと欲(ほっ)するに、自の業識(ごっしき)をもって内因なし、父母の精血(しょうけつ)をもって外縁(げえん)となす。因縁和合するがゆえにこの身あり。・・・」観経疏は序文義、定善観、散善義 と別れていまして、この文章はその中の序文義の最後辺りのものですが、韋提希がいよいよ阿弥陀仏の浄土をお釈迦様から享受される前段階のところになります。

  韋提希が阿弥陀仏の浄土を求める意義は正しいのですが、その心の根といいますか、浄土を求めるところの心の発する場所がまだ明らかでない。そこで定善観に入る前に、韋提希の心根を正すために設けられた場所ではないかと思っています。普通いうところの本論に入る前の基礎認識ですね。ここを散善顕行縁と言いますが、その初めの文になります。そして次に韋提希の発菩提心が明らかになる。

  この発菩提心に入るまえに、善導大師はひとつの物語を載せています。飢饉で苦しんでいる町にお釈迦様が托鉢に出かけられる場面ですね。町中が飢饉に苦しんでいる状態ですから、誰もお釈迦様に食を施すものはいませんでした。三日たってもひと鉢の食もないまま次第に体が衰えていくお釈迦様に、一人の比丘が心配して何かお召し上がりになりましたかと尋ねます。お釈迦様は衰弱がひどく話す力さえ無くなりつつありました。お釈迦様のその姿を見た比丘は悲しみ泣いて、自分の三衣を売りお釈迦様に食事を施そうとします。するとお釈迦様は「貴方の三衣は、三世諸仏の幢相なり、この衣の因縁極めて重く、極めて恩あり」(あなたの着られている三衣はあなただけにとどまらず、過去・現在・未来に極めて重い因縁があるのです。それは極めて恩があります。)と言われ、私はそれをいただく事は出来ませんと、その食を断ります。

  その時、比丘は「仏(お釈迦様)はこれ三界の福田、聖の中の極みなり、それでも頂いてもらえないなら、他の誰かに施します。」(お釈迦様のような聖の極みのお方においても御召し上がていただけないなら、誰かに施すしかありません)。するとその時、お釈迦様はあなたの親は居られますかと尋ねます、そしてあなたの両親にこの食を与えなさいと言われる。比丘はお釈迦様がお食べにならないのに、どうして私の親が食べることが出来るでしょうか、と返答しました。お釈迦様は、「あなたの両親は食べて良いのです。あなたの両親はあなた自身をこの世に生んだのです。あなたにとってそれは大きな重い恩です。これがためにあなたの両親は食べてよいのです。」と告げられ、そしてまた「あなたの両親は信心がありますか」と尋ねます。比丘は両方とも信心はないと答える。その時にまたお釈迦様は「だからこそあなたの両親に与えなさい、いまそこに信心があるのです。」「あなたの両親もまた親がいます。いままでの経緯を教えてこの食を与えなさい。そうすればあなたの両親はこの食を得ることが出来ます。」

  比丘が言うところの「仏はこれ三界の福田。聖の極みなり」に対して、お釈迦様が比丘に言われた福田とは何だったでしょうか。それはこの三界(過去・現在・未来)において、あなたとして生を受けたことによる両親への恩だということでしょう。この文の最初の処ですが「すでに父母あればすなはち大恩あり」という言葉は、この私のいのちは、過去・現在・未来を貫いている福田であり、大きな恩があると言われるのです。その私のいのちの初めを、次の文に「すでに身を受けんと欲(ほっす)るに、自の業識をもって内因となし、父母の精血をもって外縁となす。因縁和合するがゆえにこの身あり。この義をもってのゆえに父母の恩重し」と、こういう言葉で続けられます。「自の業識をもって内因となし、父母の精血を外縁となす。因縁和合するがゆえにこの身あり」です。だからこそ父母の恩重しですね。

  この自の業識は生きんとする意志だと言われます。生の初めが父母の精血であることは分かりますが、その精血が生きんとする意志と因縁和合することによってという言い方です。自らのいのちが始まる時をこういうふうに表現されのですね。この生きんとする意志を、私が生きようと思うということなら、親の恩を決めるのも私の思い次第です。しかし、この生きんとする意志は、いのちが始まる時を言うのですから、今の私の気持ちがどうであれ否応なしにこの身として始まっているという事実ですね。ここに気づけば父母の恩重しです。私の思いよりも深く、私の意識よりも前に、生きんとする意志が私の生の初めとしてすでに始まっている。そういう私を頂くのでしょう。こういう生の根源を韋提希に享受して、そして発菩提心へと続いていきます。

  で、この発菩提心なのですが、正直困っております。なかなか難しい。当初はそう気にしてなかったのですけど、いざそこを通り過ぎようとした時に大きな壁みたいになってしまいました。

  この発菩提心は最後に「また菩提というは、すなはちこれ仏果の名なり。また心というは、すなはちこれ衆生能求の心なり。ゆえに発菩提心というなり。」の言葉で終わります。これも難しいですが、その前の菩提心の説明もなかなか難しい。「我が身、虚空に同じく心は法界に斉しく、衆生の性を尽くさん。」これをどう解釈するのだろうか。

  とにかく、この「菩提というは仏果の名なり」ですから、ここで言う菩提とは仏果の名前だということですね。仏果の名前なら他にもあります。法、法性法身がある。涅槃もそうでしょうか。まだ他にもあると思いますが、ここで言う菩提はその名の一つであるということです。また、衆生能求の心は衆生自らが求める心でしょう。これは仏果ではありません。あくまでも衆生という人間の心です。だからこの「菩提は仏果の名なり、また心は」というのは、菩提は仏果であり、また韋提希の菩提心は衆生が浄土を求める心である、とこうなるわけです。

  衆生を超える仏果と、韋提希の菩提心は違います。しかし、ここではある関係としてこの両方が生まれている。こういうふうにも読めるのですね。「我が身、虚空に同じく心は法界に斉しく」我が身をどこの我が身と捉えるかですが、この場合はやはり生の初めとしての我が身でしょうね。そしてその身は虚空に同じです。そして心は法界に斉しですね。するとこの心は韋提希の衆生能求の心というよりも、自の業識である生きんとする意志になるでしょう。ここでの法界も虚空も同じことだと思います。だからこの生の初めの我が身と心は法界に斉しい。その我が身と心を基礎認識としている韋提希の衆生能求心が発菩提心である。こういう言い方ではないかと思うのですね。

  そしてこの韋提希の発菩提心を私の信心としていただく時が、今この私を頂くという信心である。「如来よりたまはりたる信心」をこういうふうに思うのです。なかなか難しい所で、かなり消化不良な処になっています。ただこれは善導大師の念仏における信心ということで話しておりまして、法然上人は偏依善導と言われますように、善導大師の御信心を自らの信心だと言われるわけですから、こういう内容が法然上人の専修念仏の背景にもあるということかなと思う訳です。今日は「如来よりたまはりたる信心」を自分なりに探りながらここまで来ましたが、まだまだぼやけたところが多いようです。

  また、一般的に法然上人の専修念仏で、こういった信心が言われているとは聞ききませんが、当時の民衆に進められた専修念仏にこういった背景があったのではないかと考えるところのものです。そして思うのは、親鸞聖人は比叡の時にすでにこの観経疏を読破されていたのではないかという事ですね。

歎異抄第3条

令和2年9月 秋彼岸会より

  今日は歎異抄第3条を話すことにしております。この条の「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉はすごく有名です。今回どのような話をしようか考えていたら、昔の原稿に面白い言葉がありまして、それを取り上げながら話すことにしました。で、それは誰の言葉かといいますと立松和平氏の言葉だと書いてあります。自分で書いて忘れておりますが、原稿が平成19年のものですから覚えてないのも仕方がないかなと思います。

  「強力な先祖に縛られているのも苦しいが、祖先の物語を忘れて神話を喪失してしまったら、自分が何者であり、何故ここにいるのか分からなくなってしまう。」

  この言葉はイースター島のモアイ像について書かれたものです。イースター島はかって島民が滅んでしまったという説がありまして、その島民が滅ぶ原因とモアイ像の関係をイメージして書かれた時の言葉です。今はインターネットでモアイ像と検索すると最新情報が出ますので、興味がある方は検索していただく事にして、立松和平氏のこの言葉だけを引用して、歎異抄第3条を考えることにしました。

  ところで、私たちは立松氏が言われるような強力な先祖を持っているでしょうか。現在はなくても以前はそういう強力な先祖に縛られていたことがあったでしょうか。もしかってはあったとすれば、それはいつ頃なのか、そしてどのような様子でそれは存在しただろうか。

  現在の日本では無宗教が常識のように言われますが、実はこの何となくでも無宗教的だと言われているのは戦後からでして、それ以前はかなりの宗教の国だったと思っています。たしかに戦前・戦中における国家神道を例に挙げればそうなるわけですが、しかし突然降って湧いたように文化がガラッと変わることはないのですから、そういう国家的な宗教観もまた、庶民の宗教的な素地がなければ簡単には染まらないものだとも思います。そういう面では日本においての宗教観が習俗化していくのはもっと以前ではないでしょうか。少なくとも江戸時代頃までに定着していったのじゃないかと思っています。そういう日本において、またこの近年の日本において、先祖とすごく近い時期があったなら、それはいつ頃まであっただろうか。そして何故今はないのか。

  まず、戦後教育があるでしょう。まさしく自分が受けた授業そのものですが、先祖についての授業を受けた記憶はありません。家では両親や祖父母あたりまでが生活の現場ですから、当然、両親やおじいちゃんおばあちゃんを大事にしましょうなどといった話はあったでしょう。しかし、それよりも以前、それも何処まで遡るか分からないほどの祖先をどうしろと言った話はなかったように思います。

  昭和20年、1945年が終戦の年です。それから2年後、昭和22年に家長制度が廃止されました。それまでは家の長を戸主と言うそうですが、それ以外を家族と言ったそうです。戸主と家族という形ですね。代々長男が戸主になり一家を統率する習わしが家長制度です。そこには全財産の相続権もその戸主にありました。次男や三男には相続権はなかった。娘にいたっては嫁入りの費用がかさむのでいろいろと制約もあったそうです。また女子の家長も認められたそうですが、暫定的であり、あくまでも男子家長が原則だったようです。

  家長制度ですから家が中心の制度ですね。家族と言っても今の家族構成などとはイメージが違うものでしょう。そしてその家の家督相続で戸主が全てを受け継ぐのですから、戸主はその家の歴史も一手に担うことになります。それはそのまま家の祖先を受け継ぐことでもあったでしょう。この家長制度が廃止されたのが終戦から2年後1947年です。

  日本において強力な先祖に縛られている姿が、この家長制度の戸主と家族に見えるといえば大げさかもしれませんが、案外そういうことかもしれないなと思います。この家長制度は明治に始まったそうですが、もともとそれまでの習わしが制度化されたのでしょうから、それまで先祖代々受け継がれた日本の風土を明治時代に制度化したといってもいいと思います。当然かなりの弊害があったことも想像できますね。

  昭和22年にこの家長制度が廃止されて祖先との呪縛も無くなり、遺産相続などは様変わりして現在にまで至っているわけですが、では、この文にある「祖先の物語を忘れて(祖先の)神話を喪失してしまったら、自分が何者であり、何故ここにいるのか分からなくなってしまう。」という言葉はどうなったでしょうか。

  現在は祖先という言葉はほとんど死語になっています。誰も考えていないでしょう。優しくしてくれたおじいちゃんやおばあちゃんくらいまでではないですか。しかし、それだけでは自分が何者でありどこから来たのかといったような、アイデンティティーというものは出てこない。ところが、私が気がつかないまでも、そういった日本の風土や歴史を自分の血や肉として、何がしら背負っていることも間違いないのでしょう。そうじゃなかったらここに居ませんから。

  今日お参り下さっている皆さんも全くの偶然でここにお参りされているわけじゃありません。何かの縁がこうしてお参りされている背景にあるのでしょう。背負っていても自分では気がつかない。それほど近いもの、見えないもの。そういうものとして祖先がある。見たこともないし、肌で感じる訳でもない。あるのかどうかも分からないが、だからといって無いのではない。その人その人が持っている感じ方や考え方に癖があるように、そのくらい近いものとして祖先がある。

  これが歎異抄の「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」の言葉ににある善悪の問題だろうと思います。でもね、いきなりこれが歎異抄の善悪の問題だと言っても何のことか分からないですね。しかし、善悪とは、あなたにとっての善悪であり、私にとっての善悪ですから、私にとっての善は善きもの、私にとっての悪は悪きものです。当たり前のようですが、善い悪いは自分の都合できまる。

  もうひとつ、客観的な善いもの悪いものとされるものがある。法律や社会性で善いとされるものや悪とされるものがあるでしょう。戦前の家長制度は長男が家督相続する法律ですね。女の子が先に生まれても長男が継ぎます。では、女の子しか出来なかった場合はどうなるでしょうか。その時はおそらくですが、長女が継ぎます。ただし婿養子が来たらその時点で婿養子が戸主だそうです。女子はそれまでのつなぎですね。

  じゃあ、男も女もいない場合はどうだといえば、戸主は親族会議で決めるようです。親せきからそこの家に戸主が来たのでしょうか。家同士のつながりが現在とかなり違っているようです。長男は生まれた時から家督相続の対象で、その家の歴史もろとも全部担う。その代わりに次男や三男は何も継げません。詳しい財産分与の仕方は調べないとよく分かりませんが、今とはかなり違ったものだったでしょう。

  これは想像ですが、戦前にこの炭坑の地に地方から働きに来た人たちはおそらく次男や三男でしょうね。で、この家長制度を考えると、その人たちは稼いだ賃金はどうしたと思いますか。自分で使ってしまったでしょうか。酒飲んで博打してその日暮らしで暮らしたでしょうか。男の場合はそういう想像もたやすく出来ますが、炭坑には女子もかなり就労しています。これはどう思いますか。里の家に仕送りをしていなかっただろうか。田舎には戸主が家族を養っています。その子供たちがこの炭坑に働きに来ているとしたらどう思われます。

  家長制度の時代に生きた人々は、家のために懸命に働き、その賃金のほとんどを里の家に仕送りするのが当たり前だったかもしれないでしょう。今私たちが生きている世界など知らないのですから、そこに生きた人はそれが当たり前だと思い、それが善だと思った。しかし、今生きる人から見てそれはやりすぎだと思うなら、それは善ではない事になる。まして自分の体がぼろぼろになるまで働いて、その賃金の全てを仕送りするなら、それは社会的においてもおかしいと思う。そうするとそれは悪になる。

  時代において善と悪が変化するでしょう。家長制度に何も異議を感じない人は善人だったのか悪人だったのか。考えていくとなかなか難しい問題です。それぞれの時代には何がしらの善悪があって、そしてその時代状況に生きた人たちがいたということですね。そしてそれを今の自分が外から見て善や悪だという。また、当時の法律や社会性においても、善いとされるものが一個人においては必ずしもそうはならない事があったはずです。まして戦時中ならめまぐるしく善悪の価値観が変わるのではないですか。

  こういう時代状況の違いや社会性の違いの中でもずっと変わらずに続いているものは何だろうか。それは、あれが善だとか悪だと自分の都合で見たり決めたりしてきた、それぞれの時代を通して繰り返されたそれぞれの人のこころの在りようである。そのこころを分別心というのですが、その繰り返される分別心の歴史に、自らの姿を見る。そういう人を歎異抄では悪人と言っています。だから他人を悪人だとかとやかく言うのではなくて、そういう自らの姿を言っているのですね。

  そして善人とは自力作善の人です。自らの分別心を頼りにする人でしょうか。考えてみると、この分別心を頼りに生きるというのは、自分の経験値を生かすことでしょう。状況を読み、何をなすべきか。今日の話の家長制度で言うならば、戸主が家族のためにある状況下で何をするべきか考えて行動する。言い方を変えたら、自分の力で自分が思う処の善をなすです。まさしく善人じゃないですか。じゃあこの善人である自力作善は何故いけないのでしょうか。

  それでは、この辺りで歎異抄第3条を読んでみましょうか。歎異抄第3条全文になります。 

 【 善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや。」この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころのかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからずを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。】

  歎異抄は悪人が善人より優れているぞとは言っていません。善人は本願の意趣に背いていると言っています。何故本願の意趣に背いているのかここに書いてあります。他力をたのむこころがかけているからだ、という訳です。

  自分の人生の経験値が自分の全てだとする方もおられるでしょう。しかし、生まれた環境や血筋などもありますから、一概に自分の経験値だけが全てだと思わないまでも、自分の努力を考慮したらやはり自分の経験値がものをいうのだというのが、だいたいにして普通の見解じゃないですか。

  そこまでは理解できますが、その自分の経験値を描くこころのキャンバスの素地においても、すでに祖先の血の模様が描かれているというような表現はなかなかしない。私にまでなった祖先の歴史とは、私が思い感じるところのこころの背景にまでおよぶということですから、私が何かを見て考えるとして、その私が何をどういうふうに考えるか、その癖においても祖先の歴史が関わっているという事ですね。その全てに祖先の分別心が繰り返され続けた歴史模様がある。

  例えばここに黒板がありますね。今日の話を黒板にいろいろと書いていますが、この書いている文字が現在までの自分の経験値だとするでしょう。今話しているのはこの文字を書いている黒板自体のことを言っていることになります。黒板と言いながら実際の色は深緑ですが、その黒板にチョークで経験値を描いていくとする。するとその黒板自体は無色であるという約束事がどこかにあるでしょう。しかし実際は色はちゃんと付いています。この黒板の色の事を言っているのでして、無色であるという約束は勝手に自分がそう決めているだけであって、黒板そのものにすでに模様が描かれている。その模様が祖先の歴史という模様です。自分の経験値はそこに上書きされているという事ですから、そこに描かれた文字は黒板の模様とのコントラストでありながら、その全体がそのまま自らであるといった表現になると思います。

  この黒板は私のこころの領域なのか、それともこころの領域を超えたものなのか。こころには無意識の領域があるといえばそれがこころの領域にも聞こえますし、また無意識は身体的な領域にあるといえばそれもそれなりに聞こえます。総じて専門の学者じゃありませんから分からないのですね。ただ意識が何かを素地にして現れるのなら、たとえ意識が無になっても素地はそのままです。

  このこころの領域を、私の血となり肉となった分別心の永い歴史として見て、それをここでは生死といっているのではないでしょうか。第3条のこの「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからず」という言葉は、そのことを言っているようにも思えます。それでは、何故それを悪とおさえるのかという問題がありますね。これは分別心の捉え方によるものですが、また別の機会に話したいと思います。

  仏教では善因善果・悪因悪果です。しかし善悪がどのような状況でも同じかと言えば変わってくるでしょう。親鸞聖人は善因善果・悪因悪果というよりも、「因浄なるがゆゑに果また浄なり」と言われますように浄因浄果です。因が浄であるからこそ果もまた浄である。親鸞聖人は浄土往生を問題にされますので、それについての善悪ですから、悪というのは浄土の因に非ずという事ですね。何故なら悪は浄ではないからでしょう。だから私において往生浄土の因がないということは浄にあらずであって、それは悪人としての自覚がそういわせているのです。しかしその悪人の自覚こそが浄土往生の正因に他ならない。何故なら本願の本意は悪人成仏にためだからだということになります。

  今日このように歎異抄第3条を読んでみて感じることは、この善人悪人は二人を並べ比べたものじゃなくて、一人の人間が生きることにおいての生と死の問題だと思いました。精一杯に生きてもそれが自分が納得するものになるかといえばそういうわけではない。また、さぼれば身になるというような都合のいいものでもない。そういう中でのいうなれば人生の謳歌と躓きじゃないかと思います。自力作善と書いてありますが、自分の力で出来ると思っている人は自分を謳歌しているのでしょう。

  また、朝起きて顔を洗いに行くでしょう。鏡の前でまず躓きます。みなさんはまだ大丈夫ですか。老というのは何やかや言っても躓きじゃないだろうか。そしてもうすぐ死です。人生の謳歌は振り返ればけっこうあったような気がしますが、その最中はなかなか気づかいないものですね。しかし躓きはその瞬間で分かります。往生浄土はこの瞬間の問題かなとふと思ったりします。

  今日の話は歎異抄の善悪の問題がまだ不十分だということは分かっていますが、今日話したところの善悪もまた歎異抄の中のものであります。

  で、最後に話をまた立松氏の言葉に戻しますが、「祖先の物語を忘れて、神話を喪失してしまったら自分が何者であり、何故ここにいるのか分からなくなってしまう。」この言葉に自分の考えを添えて終わろうかなと思います。この立松氏の言葉が何故気になったのかというと、この神話を喪失すると自分が分からなくなるということですが、この神話の喪失と自己の喪失がどういうものなのか。

  ご存じのように、真宗にも法蔵菩薩という神話があります。神話と言っていいのか分かりませんが、神話だといえばそうかもしれない。そういう神話だとか違うとかいうのではないけれど、この言葉にある神話の喪失とアイデンティティーの喪失、つまり自己の喪失ということを、立松氏はどのような意味で言われたかなと気になったものですから取り上げました。

  イースター島においてこの神話とは何だったのか、まだ謎のままです。しかし地図で眺めてみると、イースター島は南太平洋の絶海の孤島ですから、逃げ場のない海に囲まれた小さな範囲での神話です。そこにある神話は天と地が垂直に関係した神話ではないだろうか。それこそ垂直に先祖・祖先がそのまま神話化している。自らがそこにいることにおいての垂直的なものを神話と言われているのかなと感じた次第です。だからこういうのを垂直型と言わせてもらいますが、こういうタイプはおそらく東洋的じゃないかもしれない。

  じゃあ東洋的とは何だといいますと、あやかるといいますか、そこに行けばパワーを貰えるというようなパワースポット。神社仏閣のご神木に触れたり側にいたりすると、自分までいい風が当たってくるというような、あやかり型じゃないかと思うのですね。だから東洋的な神話というのは、直接自分に関わりはないけど、しかしその神話は日本の国造りの物語だったりする。だからお伊勢参りをすれば何やら神話のパワーも頂く気がするというようなものじゃないでしょうか。専門的な見解ではないですから、そんな感じじゃないかなと思いますが、それに対して西洋哲学は自分をとことん掘り下げて、ついにはそこに神までを見出そうする垂直型ではないかと思います。

  そういう中で、法蔵菩薩はどちらだろうかと考えるのですね。そういうことを常々考えていますのでこういう言葉が気になったのだろうと思います。まだ答えはありませんが、真宗のご信心には法蔵菩薩がおられます。そういうことも気に留めていただければと思い、ついでと言っては何ですが最後に少しばかり話した次第です。

  

  

  

二つの向こう岸

平成17年3月 彼岸会より

  お彼岸と言いますとまず思いつくのはご先祖さんが帰ってくる日です。お盆や正月もそうです。正月の方はもともとは村の氏神のお祭りだったそうです。産土神(うぶすながみ)と言って、村の小さな共同体の祭りであり、先祖神のお祭りだったと言って良いのでしょう。この正月の行事が全国に広がり、現在のように全国の神社仏閣に初詣をするようになったのは江戸時代からだと聞いています。

  大晦日の夜を除夜と言いますが、この除夜から元旦にかけて寝てはいけないと言われてきたそうです。理由は古くから正子(夜の12時)を過ぎると、村の鎮守に参詣して実り豊かな新年を祈願する習わしがあり、五穀豊穣を祈ったわけです。五穀とは米・麦・栗・豆・黍(きび)の事を言うそうですが、この五穀は当時は生活の基盤ですから、五穀豊穣は村の死活問題でありました。

  これが江戸時代になると、村の小さな共同体の枠から飛び出して、一般庶民が様々な寺や神社にこぞって初詣へ行くようになりました。そしてこの初詣が広がるとともに無病息災などの祈願が加わったと言われます。初詣が盛んになるにつれそれ以外にいろんな祈願が混ざり、次第に祈願の内容よりも、とにかく初詣をすると何か良いことがあるかもしれないと、本来の意味から初詣そのものが目的になり、新しい年を迎える新鮮さを感じ取るようになったと言わる方もおられます。いわばレジャー感覚に変わったということでしょう。

  しかし、レジャーと言えば響きが良くありませんが、その当時の初詣は時代のトレンドであったわけですから、娯楽感覚だったということも言えるのではないでしょうか。これは江戸時代の時代状況が安定してきたことでありますから、以前よりも生活全体に少し余裕が出たことでもあります。現在の正月の初詣にそういう江戸のパワーを観ることは出来ないようですが、少なくとも江戸時代の民衆パワーはそれまでの村の氏神のお祭りを、初詣という全国規模の一大行事にまで変えていったことになります。最近「心の豊かさ」という言葉が使われていますが、その江戸当時として見る「豊かさ」には何か次のものに繋げていくというような、そしてできればより良きものへと繋げようとしたパワーを内に秘めたものではなかったかと思う時があります。

  それではお彼岸はといいますと、この彼岸とは仏教の言葉です。向こう岸という事ですが、向こうの世界であり、覚りの世界です。この向こう岸に対してこちらを此岸といいます。娑婆(しゃば)世界とも言います。娑婆とは煩悩や苦しみが多い世界の事。そして同時にお釈迦様がお救いくださる教化の世界と言われます。言い換えれば、私たちの煩悩や苦しみを目当てにしてお釈迦様が救いとる世界。それを娑婆世界というふうに言っております。

  実はこのお彼岸が一般的な習慣として現れるのも江戸時代だと言われます。お彼岸は家族でお墓参りをしてご先祖様を敬う日です。江戸時代から始まり現在もしっかりと続いております。文化という言葉は、私たちは日常ではほとんど使いません。普段の生活が文化だと思って生活してますか。この文化という意味を辞書で調べてみると「社会を構成する人々によって習得、共有、伝達される行動様式の総体、世代を通じて伝承されていくもの」と書いてあります。そういう堅苦しく考えて生活しているわけじゃありませんから自覚はないけども、日本人の文化であることも事実です。だからお正月の初詣も、お彼岸のお墓参りも、江戸時代という時代安定期に始まり現在まで脈々と続く、日本人の立派な文化であると言えます。

  しかし、考えるとこの正月と彼岸会は少し違います。お彼岸には正月のようないろんな祈願が混ざっていない。亡くなった人や先祖を敬い、故人に出会い、思い起こす、こういう事が中心の行事です。私たちは楽しい時ばかりでお墓参りはしないでしょう。そういう面では自分が生きて行くということと関係させながらお参りをされています。今は亡き親や夫、妻、子供、近しい方々、そういう人達との関係を思いながらのお参りです。そういう人生の重さや人との繋がりを考える。こういう命のつながりを亡き人においても感じていくことは日本人として尊いことだと思っています。そしてまた、こういう私にとっての向こう岸への思いが、より私を超えたいのちの深さ、尊さ、広さという仏の世界に出会う場所にまでなれば、本当の意味での仏教を背景にした日本人の文化になったのだとも思います。

  仏教と言いますとインドが発祥の地です。現在のインドは仏教徒の人口は少ないそうです。大半がヒンズー教です。このヒンズーとは大雑把な地域の名称だそうで、西洋人がインダス川の向こう側に住んでいる人々をヒンズーと呼んだと言われています。インドに生れ住んでいる人の総称でしょう。そこには仏教徒もなくイスラム教徒もない。キリスト教もありません。そういう特定の宗教に属さない人々を称してヒンズーと呼んでいるそうです。だからヒンズー教とは永いインドの歴史に培われた生活様式や社会習慣全体ということで、開祖が誰という事なく経典もない。昔から受け継がれ言い続けられたインドにおける「インドのこころ」のことをヒンズー教と呼ばれているそうです。バーラト・マータ(母なるインド)寺院というヒンズー教の寺院の本尊は、大理石で造られたインド全土の立体地図だそうです。言うなればインド民族の総称を宗教とするものでしょうか。

  ガンジス川の沐浴はご存じだと思いますが、沐浴においてべナレス(バナーラス)という地は死ぬまでに一度は訪れたい聖地だそうで、毎年の沐浴者は百万人にのぼると言われます。この聖地の水で沐浴すれば今までの罪が清められる。またこのベナレスで死んで火葬された遺灰をガンジス川に流せば、苦しみの輪廻の世界から解脱すると信じられているそうです。ある日本人の記者が臨終を前にした親子を取材させてもらったそうですが、その取材の返答は誇らしげだったと書いています。親の天寿を全うさせるために10時間かけて家族一同でベナレスまで連れてきたのです。家族で天国に送り出すことが最上の親孝行であり誇りだそうです。

  このベナレスの沐浴が最も神聖だと言われる所以は、この地がガンジス川で唯一川の流れが南から北に向いている処だからだそうで、イメージとすれば天に上る場所なのでしょう。そして沐浴はガンジス川の西側だと決まっています。そして火葬は修行僧、妊婦、5歳以下の子供は出来ない。だから水葬にされるそうです。また、火葬はお金がかかるので費用がない人も出てきます。そういった人も水葬だそうです。それらの遺体は2~3日すると向こう岸に流れ着きます。だから向こう岸に住んでいる野良犬はよく太っているそうです。

  ここに天に上る向こう岸とガンジス川の向こう岸があります。近年の日本においては「死ねば死に切り」「死んだら終わり」というような言葉がありますが、そこに見えるのは命の切り捨てのような気がします。以前ある先生が、お父さんの葬式について、火葬での思いにこういうことを書かれています。

  亡くなられたお父さんの遺骨は脆く頼りなげだった。その時に「要するに、こういう事だな」そんなセリフが頭にあふれていた。「しかしそのうち、次第に白骨の方が大変確かな存在として迫ってくるのを感じました。周囲に集まっている生者の方が、なんとも頼りなげなのです。」そこに白骨の姿を事実として受け止められない、うろたえる自分の姿に気づいたそうです。そうすると「ここから、この俺の白骨から、もう一度、お前のしてることを眺めなおしてみろ」とお父さんの声を聴いた思いがした。「そしてその声とともに、それまで一大事のごとく思っていた多くが、小さなものに思えてきた。」と言われています。

  私はこの先生の「要するに、こういうことだな」という言葉が、先ほどのガンジス川の向こう岸の情景と重なりました。それこそ命の切り捨てであります。そしてこの向こう岸から見たベナレスの沐浴は人生の最高の場所としてにぎわっています。その数百メートル離れた岸では野良犬が餌を探している。この二つの情景が重ならない。そして私たちの観る景色は、この向こう岸の野良犬の餌になった死体だけを観てしまっているのではないだろうかという思いです。しかしもう一度ベナレスの沐浴に思いを戻すと、また違う景色が浮かび上がります。それは修行僧、妊婦、5歳以下の幼児は火葬できないという事。中夭(ちゅうよう)と言いまして、中倒れ、辞書では「人生の途中で死ぬこと、思いがけない災難」とあります。修行僧はまだ僧になれない身です。妊婦は母になり切れない。五歳以下の幼児はインドでは人になり切らないということでしょうか。こういう中夭は火葬しない。つまりベナレスで臨終を迎え火葬されて遺灰をガンジス川に流すことは、苦しみの輪廻の世界から解脱することです。ですから、それは大いなるいのちに還ることです。つまり中夭はまだ還れません。だから出直してきなさいという事ですね。そういう思いが脳裏をかすめます。人生の区切り方が単純で分かりやすい。そう思って向こう岸を眺めれば、この沐浴の情景と野良犬の景色の両岸が次第に重なってきます。

  ずいぶん前になりますが、教育テレビの「宗教の時間」で仏像の彫り師が出演されました。その時の言葉を一つだけ覚えていますが、「仏像を眺めていると、この作者はここのところを苦労したなと会話ができる。」こんな感じの言葉です。仏像の彫り師だからできる彫り師同士の出会いと会話でしょう。こういう出会い方があるのだなと思いましたが、親鸞聖人も法然上人と本願の中で出会われた。そして法然上人において出会われた本願において、また様々な人とも出会われていきます。こういういのちの連続性を具体的な人間のつながりの中で見て行かれたのだろうとも思います。こういういのちのつながりがなければ「死ねば死に切り」だけで、それこそガンジス川の向こう岸の情景が、ただ不気味なものに見えるだけではないだろうか。

  親鸞聖人の教えとともにそこにある歴史観を私たちは学んでいくのですが、そこに何が見えるのかと言うならば、親鸞その人ということでしょう。親鸞その人としての歩みであります。「信不具足」といいまして「道あるを信じて、すべて得道の人あることを信ぜず」と、こういうお言葉があります。そこに道があることにうなずけても、その道を歩いている人と出会えなければ観念にすぎない。そこに具体的に生きた人間に出会っていくこと。そういう出会いの歴史観でありますが、親鸞聖人は法然上人はもちろんのこと、その出会いをインド、中国、そして日本の高僧とも出会って行かれた。その出会う場所が本願であります。この本願において親鸞聖人がどういう出会いをされたのか、これが私たち真宗門徒である者の最大の関心ごとではないかとも思っています。私たちの向こう岸は、この本願においての出会いであり、そしてそこを歩んだ人との出会い、そういう信心と伝承にあるのではないかと思っている次第です。

  

  

  

  

  

コロナに負けるな「不安」編

 2010年 その他の原稿から 

  気がついたら老人でした。気持ちは違いますが、年齢はすでに老人です。証拠もあります。よく老後の人生を考えています。老人になって老後を考えるのは手遅れ気味ではありますが、だいたいがそういうものではないでしょうか。後どのくらい生きるのだろうか。いい人生設計はあるか、できればいい人生でありたい、生きがいがある老後でありたい、などなど・・。

  新型コロナウイルスはこの定まっていない老後の人生設計に、新たな課題を、それも強引に付け加えました。それはいかに生き延びるかです。死に方ばかりが気になる老人に、いかに生き延びるかという意義をいやおうなしに押し付けてきたのでした。でも考えてみれば、昔々の人々はこのいかに生き延びるかは最初から生きる前提条件だったはずでした。そんなこんなでまだ老人になる少し前に書いた原稿を見つけだしてみました。もし老人自粛でお暇でしたら読んでいただければ幸いです。若い方も歓迎です。

  「不安」という不気味さ。面白い表現です。この不気味さは「居心地の悪さ」という意味でもあるそうです。「脅かし」という不気味さ。これについては様々な対応が考えられますが、こちらの力量が足りませんので一つひとつ取り上げて説明することが出来ません。ただ、人間が辿ってきた歴史は、この周囲からの「脅かし」を心配して、どのような対応が営まれてきたのかその結果でもある、ということは言えないだろうか。国家、民族、文化をそこに描くことが出来そうな気もします。人間の心の動きはそれぞれが違うものだと思われそうですが、こういう観点から観たら特定な方向性が見えてくる。これをハイデガーは気遣いという言葉で表現してます。そして私たちが普通に気遣うのと同質であるともいうのです。

  「不気味さ」を背景にして心が動いているのなら、どのような動きとして働くのか考えると思いつくものがあります。それは「集める」ということです。お化け屋敷に何人かで入ると、気づいたらみんなが密になっていた。ギャー、ワーと叫びながら同じ場所で密になる。誰が集めたわけじゃないのに集まる。それは怖さや「不気味さ」が集めるのです。人間関係もこういう「不気味さ」に対する心の動きによって私を動かす。そう考えると身近なものになります。そして私たちの生活現場である様々な関係においてもこの「不気味さ」がいつも顔を出している。こういったことを考えながら生活する人はあまりいないと思いますが、それでも普段とは違った風景がそこに現れることでもあります。皆さんがいろんなところで気遣う背景には、こういう「不気味さ」を背負っておられる。

  そういえば背後霊なども、こういう感覚を昔の人が何処かで感じていたからかもしれませんよ。外では蝉も泣き出したようですから、サービスで涼しくしました。で、ハイデガーはこの気遣いをとおして人間の心の動きやそこに現れる現象を分析した人です。

  「居心地の悪さ」は何処からくるのか。それはその場に対する不気味さであるという事になりますが、だからといってその場所が不気味で居心地が悪いということじゃありません。何故なら気遣いは居心地を良くしようと動くのですから、それではこの「居心地の悪さ」は居心地が良くなる前の状況になります。しかしそういう状況の前後を言っているのではありません。私がそこを居心地良くしようと気遣う時に常に同席するもの。同席と言えば誰か他に居るみたいですが、そうではない。気遣いがある時にいつも同席するということで、隣にいつも何かあるということですね。妖怪ウォッチみたいになってしまいますが、気にせず先に進みます。

  パソコンで原稿を書くのですが、文章の入れ替えも簡単ですし、誤字の訂正もしてくれます。領域設定して文章ごと入れ替えることも簡単です。で、この領域設定をここでいう気遣いに当てはめてみることにしました。そうすると気遣いは何かの目的があるから気遣うのでしょう。だから気遣いはその人の目的に応じてその都度に領域設定がされ、それにともなうその人の目的を持った気遣い方になるのですが、こういう意図的な気遣いもそうですが、とっさの雰囲気での気遣いも同じだという事になります。その時に同席するものです。何か得体の知れないものがあるという訳です。これを「不安」という言葉で表して、それは「居心地の悪さ」だというのです。しかしそれにしても、この「不気味さ」というのは何だろうか。ハイデガーは、それは無だと言います。私が何かを気遣う時に無もそこにあると言うのです。

  そして気遣いは何かを目的にする時にあるもの。その気遣っているところの視点でありますから、言うなればそれを気遣おうとする主体です。これを現存在というのだと思っております。そうなりますと、その領域設定されるところのものは、現存在から領域設定された世界ですから現存在における世界内存在だということです。ハイデガーの現存在・世界内存在をこういうふうに考えていきます。

  現存在が無とともにあるという事ならば、無という足場のない場所が常に世界内存在の場所でもある。これを感覚的に表現されたときに、何か全体に得体の知れない「不気味さ」があるということになるのでしょう。ただ困ったことに、こういう「不気味さ」における対処法がないということです。私の意識がある時は常に現存在とその世界内存在なのですから。

  晩年にハイデガーはこの「不安」を「呼び求める促し」と説明しています。ぼくはまだ晩年だとは思っていませんので、横着にこれを単に「呼び戻し」と言っていますが、ではいったい何処から呼び戻されるのか、それは本来から呼び戻されるということです。それでは何処にその本来があるのか。しかしそれはただ漠然とした無の空き地状態があるだけなのです。

  この世界内存在から現存在は出ることは出来ませんが、しかし、ある特異な場所を設定することで一時的に出ることがあるのです。それはある場所へ「ずれる」ということですが、では何処へずれるのかと言えば無へずれるのですね。移行するとも言います。実際にこういう世界内存在や気遣いの世界がどういうものか知るには外から全体的を観ることが必要ですが、気遣っている自分そのものを観ることですから、現存在である限り観ることは出来ません。だから視点に何かのずれが生じないかぎりこの気遣いとしての現存在と世界内存在の関係全体を見ることは出来ないのです。それで、この現存在と世界内存在の関係自体を観るためにこのずれることを述べています。それをハイデガーは世界内存在が事物的存在に移行すると言っています。つまりここで言えば事物的存在にずれるということになります。

  「不安」というものは自分の存在に対するゆらぎなのでしょう。足場が抜け落ちるような不確かな状態です。だから確かなものへと呼び戻されるのです。しかしながら、その確かなものが何処にあるというのでしょうか。何処を探しても無いのです。ハイデガーはこの「気遣い」を頽落と言って、良い言葉では使っていません。何故でしょうか。この気遣いというのが「世人に没する」という言葉で示されているからですが、この気遣いは自分を表現するものであるにも関わらず、常に偽装されているというのです。装っているといえば分かりやすいでしょうか。もともと気遣いはその「不安」に対するものを背景にしていますから、いくら気遣う内容が変わっても「不安」に対する心の動き方としては同じなのですね。だから気遣う相手の対応は、心の動きを元にすると、現存在がその存在者(私)を通してその世界内存在に対する動きですから、その世界内存在におけるものは気遣うための道具としての存在になるのです。本質が不安に対するものですから、世界内存在は常にそのための道具の世界なのです。だから世界内存在の気遣いは本質のための二次的なものなので、そういう観点からすれば世界内存在の気遣いは常に偽装されていて、そしてこの見せかけからは離れられない。

  それではこの「不気味さ」から逃避するにはどうすればいいのか。いろんな人のその人なりの建設的な捉え方があるかもしれませんが、この不気味さから逃避することは出来ません。そして良いも悪いも全て現存在と世界内存在の出来事なのです。こういう感覚で捉えられると何もかもが偽装の五十歩百歩なのですね。気遣いをこの不気味さに対する態度だとすればそういう言い方になります。それでこれを頽落という言葉で表現します。

  次に「共現存在」という言葉が登場します。これは少し説明をつけ加えると分かります。その人の世界内存在は無機質ではないのですから、当然いろんな人がその世界内存在に関わっています。だからその場は幾重もの世界内存在になっているわけです。それぞれの世界内存在がそれぞれの人の現存在としての世界内存在なのです。  

  それでは、この世界内存在は何によっての世界内存在なのか。それは私の過去の経験がその世界内存在の内容なのです。言い換えれば、私の過去の経験がその世界内存在の内容を見せているのだから、この現存在が観る世界内存在は過去の経験が投影されたものだと言うのです。その世界内存在に現存在が可能性を見つけて、その世界内存在に自らを没入させるという言い方になります。可能性は当然未来を見つめたものですが、実際は何処に向かって可能性に没入するかと言えば、もちろん世界内存在ですから、私の過去の経験が投影されたものへと投げかけられたものであるのです。つまり過去に向かって未来に没入するという形になります。論理的に言えばすごく不自然でしょう。私たちは何かにつれよく行き詰まったりしますが、こういう不自然さに立っているのなら、何事もスムーズに進んでいかないことの方が当たり前な気がします。

  考えてみると、いろんな壁を乗り越えたり、壁から引返したり(これを挫折というのでしょうか)しながら年取っていくわけです。自分なりに歩こうとすればそれなりの壁が有ります。こういう普通に私たちが経験することを、現存在と世界内存在に吟味してみると、私の意識よりも先にすでに何か命の生成というものがあって、その生成する姿を元にすれば、すでに私の意識下において特定の動き方が備わっていたということだろうと思います。それを現存在と気遣いの仕方で表現したのでしょう。生きるという事をこういう観点から見つめるのです。

  さて「不安」に戻ります。「不安」は私たちには微妙な感覚ですが、それは「居心地の悪さ」であり足場の無いところからの呼び戻しである。こういうことは、おそらく、日常的には漠然としていて捉えどころがないでしょう。だから私たちがこの日常と思っている何気ない時間が崩れ落ちて、非日常的なものに出くわした時、この「不安」が一気に湧き上がってくる。この非日常な時こそ死だというのです。

  死をこういう観点で捉えるのはよく分かるのですね。しかしここでいう処の死は具体的に現前する死を前提にするのですが、よく考えると死ぬちょっと前の状態です。といっても死にかけて意識が朦朧とした状況ではありません。はっきりした意識でこの死の崖っぷちに立っている状態です。ハイデガーはこういう死のシチュエーションを強調します。つまり世界内存在は私の過去の経験が内容だから、死んだ経験がない私にとって没入しようがないのです。たしかに近しい人の死に接することはあります。しかしたとえ身近な人が亡くなってもそれはあくまでも外の経験であり、自らの経験にはなりえない。こういう世界内存在が成立できない死のがけっぷち状態をもって、日常が崩れ落ちる場所として究極であるとする。その場所こそが、気遣いそのものを浮き上がらせ頽落の全体像が現れてくるというのでしょう。これが「無」へずれるという事の説明ですが、ハイデガーの世界内存在が事物的存在に移行するといのはこういうことを言うのでしょう。

  このあたりの個所を『存在と時間』から引用してみましょう。(第69節世界内存在の時間性と、世界の超越の問題)

「(おのれの外へ抜け出している脱自)の統一は、おのれの「現」として実存する或る存在者が存在しうることのための可能性の条件なのである。現にそこに開示されている現存在という名称を担っている存在者は、明るくされている。現存在がこのように明るくされていることを構成している光は、この存在者が時おり出来(しゅったい)して照射する明るさの、存在的に事物的に存在する力や源泉ではない。現存在というこの存在者を本質上明るくするもの、言い換えれば、この存在者をそれ自身にとって「開いた」ものにするとともに「明るい」ものにもするものは、すべての「時間的な」学的解釈に先立って、気遣いとして規定されていた。この気遣いのうちに現に完全な開示性がもとづいている。こうした明るくされていることが、すべての照明や開明を、また、何ものかを承認し、「見てとり」、所有したりするあらゆるはたらきを、はじめて可能にするのである。この明るくされていることの光をわれわれが了解するのは、われわれが、植えこまれている、事物的に存在しているなんらかの力を探し求めずに、むしろ、現存在の全体的な存在機構である気遣いを問題にして、この気遣いの実存論的な可能性の統一的根拠いかんを問い求めるときだけである。脱自的な時間性が現を根拠的に明るくする。」

  この難解な文章を、こうして申し訳ないぐらいかいつまんでいますが、この「脱自」が無にずれた状態です。そして「頽落の全体が現れてくる」がこの引用文の全体になります。特徴的なのはこの「明るくされている」ということですが、説明では「照射されるような明るさや、物質的な明るさの根源ではない」という事です。この(無にずれた)脱自は何かを統一しているのですが、それは私を含めた現存在が世界内存在で頽落する姿そのものであり、また共現存在のそれぞれの世界内存在が幾重にも重なる世界そのものなのでしょう。この頽落の全体が開示されて、そのことで明るくされているということになります。そしてこの気遣いそのものが私をして動く心のあり様ですから、この時間性は私よりももっと以前から続いている時間ですが、その時間性がこの「現」というある特定の場所において一時的に収まっているというのでしょう。ハイデガーはこの小タイトルにあるように、この現存在と世界内存在の開示における時間性を世界の超越の問題に繋げようとしたのです。

  

宝樹観

平成26年3月  彼岸会より

  観経疏の定善観第四の宝樹観です。宝の樹ということですが、まずこの樹は一本の木ではありません。イメージすれば林や森の類になると思っております。森に入って森を観ずということもありますが、皆さんも樹といいますかそこら辺りにもありますので木といったり樹というものはご覧になるわけですが、ここで言われる宝樹というのはそういうものではありません。阿弥陀仏の浄土の特徴を樹というものに例えてある。その宝樹を観想することで浄土を知らしめようとされる個所です。

  浄土を樹木として感想するのかということですが、皆さんが思われる樹木はどんなイメージをお持ちでしょうか。大きな寺や神社にはご神木がありますね。寺はご神木という訳にはいきませんが、境内に大きな木があるお寺さんもあります。パワースポットなどと言って触ったりする人も多いでしょう。また小学校の校庭にも木が立っていた。自分が大きくなるので思い出の木や校庭が意外に狭く思えることも経験します。

  自分はずっと心に残っているものがあります。いろいろと樹は観ましたが、その中でも結構印象的だったのでしょう。比叡山の根本中堂を下りまして、そこからどういうふうに行ったのか覚えていませんが、もっと下ります。おそらく阿弥陀堂だろうと思います。とにかく山の中へと歩いていくと、その山道の脇に大きな樹木が現れてきました。その木々の大きさがずっと印象に残っています。比叡山という事で親鸞聖人もそこでご修行されたのだなという感覚もありました。京都におりました頃は比叡山はそれほど遠いものではなかったので、こういう処にこんな樹々がと、人の出入りがない山中にそびえ立つ様子を観たものですから、宗教的な感覚とその意外性が混ざり合い印象深くなったのだろうと思っています。校庭の懐かしい樹もあるし、そういう何か得体の知れない場所で出会う樹木もあるのでしょう。

  この樹を観るというのは、その樹の歴史を観るようなものがあると思うのですね。では花はどうだろうか。花の歴史を観る人はあまりいないでしょう。ああこの花はここで何代も咲き続けたのかと感慨深く思ったりはあまりしない。可憐に咲く花に感情移入して慰めらる人はおられるでしょうが、樹への感情移入とは少し違うでしょう。樹に対しての感情移入はやはりその樹にまつわる時間性ではないでしょうか。その樹の歴史を映し鏡にして、何かの時間性といいますか、たとえば自分の生きてきた時間とその樹の時間とがタイアップしていくような感覚のようなものです。

  この宝樹といいますのは仏様の樹ということですが、仏様のいのちをそして仏様の国をこの宝樹として感ぜよというのが宝樹観であります。特徴としては樹を観る時にその樹を観る私をも映しているということです。つまりその樹を観ずることにおいて私の姿も観ているのだということを気づかされて行く。そういうことを込められています。花をよく育てられる方は、花は裏切らないとよく言わる。すればちゃんとそれに花が応えようとする。花が好きな人からよくこういう事を聞きます。そこにも花を観ながら自分の生活や生き方が映し出されている。

  壽命という言葉がありますが、この壽はおめでたい時に使いますが、いのちという意味です。壽命というといのちいのちという意味になります。で、この壽と命との違いはといいますと、まず命は私のいのちです。いつまで生きるか分からんいのち。いつかお別れしなければならないいのちです。限られたいのちである。命が限られたいのちなら壽は限られていないいのち。つまりあり続けるいのちということになりますでしょうか。この壽と樹の問題。洒落みたいですがこの壽がここでいう樹であります。

  この壽なるいのちですが、なかなか捉えようがない。しかしこの壽をいのちと言いそして壽を樹として感じろというのは、何となくでもうなずけるのではないでしょうか。昔からずっと流れているようなもの、続いているようなもの。そういうのを何処か思うことはないですか。最近は聞きませんが昔は大和魂と言われたのでしょうね。こういう魂という言葉にある時間的な感覚は私個人の魂というものではなくて、日本人として流れている、民族が歩いて来た時間性といいますか、そういうもを言うのかもしれません。これをもっと身近に言えばご先祖様もそうです。血筋というのもあります。国の歴史もあるし地域の歴史もある。

  では、仏教でいうところの壽とはどのようなものか。この宝樹観にあります樹を観るということは、先ほどいいましたが、観るこちらの方への映し鏡が説かれています。仏教の特徴だと思っているのですが、この「観」るという字がある。また「見」るもあります。観るという場合は観る側と観ているものとの距離があるときに使われる。それに対して見るは距離がない状態です。距離がないのにどうして見るというのかという疑問が当然出てきますね。目を寄せてひんがらにしても対象との距離はあります。でもこの見るは距離がない状態を見る場合なのです。

  樹を観る場合は、大和魂でもご先祖様でもいい。そういう私と共にあるのでですがまだ距離があるもの。感じるけど一つという事ではない。やはり壽であるが壽命の壽でしょう。二つ並んでるのですね。しかしこれが見るになるとそこには距離はないのですから、いったいどうなっているのでしょうか。月を観るというのはお月さんを観ていることでしょう。じゃあお月さんを見るという場合はどうでしょうか。お月さんが自分の心にどう映っているかではないでしょうか。対象とされたお月さんではなくて、自分の心にそのお月さんがどのように映りそれをどう感じているか。そこには具体的な距離はないでしょう。お月さんと私との距離は無くなっています。

  仏教はそういう癖があるのではないかと思うわけです。常に自分というものとの関係を外さない。花を見て、その花が自分にどう話しかけているか。心に捉えた花と会話をしているのだとしたら、それも心に映る花との関係でしょう。樹にしてもですね、そこに樹の時間性を見るなら、それは見ている私の心にその樹の時間を感じているのでしょう。

  良寛に「なにものが苦しきことと 問うならば ひとをへだつる心と答えよ」という歌があります。ひとを隔てる心とは、私とあなた。いつも「と」がある。その「と」にはいろんなものが含まれています。あれがいいぞ。これがだめ。妬み、そしり、高慢。こういうものが「と」にいっぱい詰まってますね。こういう良い悪いで生きる心を仏教では分別心といいます。これはかなり手ごわいんです。植木等さんがすーだら節で歌ってました。わかっちゃいるけどやめられない。ああまたこういう心で過ごしてしまったと反省することもあれば、そんな反省じゃあ止まらない憤懣やむことなしの時もある。こういう怒る、謗る、愚痴る心の根にあるものが分別心だというわけです。だからその分別心を取り除いて素直に物事を見れたら充実した日々が送れるだろうなと思いますね。そういう立派な人になれたらこしたことはないですね。

  ところが、そういう自分の失態を見て、ああ自分はダメな人間だなあと思うのも分別心です。分別心は良い悪いの心ですから、良いほうも分別心なのですね。悪い方を除いても良い方の分別心があります。自己満足などもこちらの類でしょうか。オレはこうまでしてきたぞという自負心もそうだという事です。これら総じてもって分別心といいます。つまり私の心そのものです。これは分からないでしょう。自分で自分の心そのものは見えないです。

  この分別心と阿弥陀仏の本国とを対比して説かれたのが宝樹観ですが、この宝樹観で説かれるところの樹のいのちが、こちらのどのような心との関りの中にあるべきかを説かれてあるのです。まず結論を申しあげますと、宝というのは無分別ということでしょう。宝樹は宝(無分別)樹だから、無分別/樹で宝樹ですね。分別心のない心において初めて阿弥陀仏の本国である浄土が映るということです。この無分別と樹の関係を観ぜよというのが宝樹観になります。樹だけなら何となくでも分かるが、こうなるとかなり難しい。そして弥陀の浄土はこの宝樹観で次第に立体感をもって説かれていきます。

  その弥陀の本国を表されている最初のあり様を樹といい、そして壽といういのちの時間性、いのちの歴史として現わされております。しかし時間性といいましても阿弥陀仏の本国の時間ですから、私たちが持っております時間的な感覚でとらえるようなのもではなくて、私たちの思慮分別を超えたものであるということです。阿弥陀仏の本国である浄土においてはこの思慮分別を超えた時間性を量という字で現わされています。分別心のない心だけが量としての弥陀の本国を映すのですから、この宝樹観に説かれる内容は難しいし深いといいますか、そういう内容になっております。そしてまたこの分別心がないということと弥陀の本国のいのちのあり様の関係が説かれながら、同時に分別心と無分別の関係も説かれる。無分別にける宝樹の関係および分別心と無分別の関係、双方の関係と両方を宝樹観で現わされる。複雑ではありますが宝樹観はこういう浄土の取扱書的な役割をもったものではないでしょうか。

  ところで私たちの分別心はある面分かりやすいでのすが、また奥も深いのでしょう。自分の心が深いとは思いませんが、大きく言えば日本国という歴史や世界の歴史もそれぞれの人たちがそれぞれの時間の中で試行錯誤されたのだから、それは裏を返せば分別心が繰り返された出来事でしょう。そして私たち一人ひとりもまた限られた時間で分別心に生きる者です。しかし分別心がなければ無分別もないのです。無分別だけがぽつんとあるわけではない。弥陀の浄土が無分別と樹の関係なら、分別心も弥陀本国で言われるところの樹の時間性や深さとともにあるのですね。だから分別心を中心にして言うならば、限られた時間に生きる私の人生はその歴史を背負っていまこうして生きているのだという事でもあるでしょう。これを衆生としての歴史と言っていいのか分かりませんが、個人的にはそういうふうに考えております。

  ところで宝樹観の初めに七重行樹という言葉がありますが、それぞれの樹には根、茎、枝、小枝、葉、華、菓(このみ)の七層の輝きがあると書かれています。行樹はそれぞれが乱雑なく整然としている状態です。分別心を負として捉えらるしかない衆生の歴史は、この宝樹観においては七重行樹の輝きを観るとも言われています。

  

  

  

  

宝池観

平成26年9月 彼岸会より   

  前回の宝樹観は浄土を感ずるところでしたが、宝池観はその奥へと入る過程を述べています。つまり阿弥陀仏の浄土に入ったところです。お釈迦様は韋提希に十方国土の諸仏の浄土をお見せになりましたが、韋提希はその諸仏の浄土を自らが望む浄土ではないとして、阿弥陀仏の浄土に生まれることを望んだのでした。宝池観はその阿弥陀仏の浄土にまさしく入るところになります。韋提希が諸仏の浄土ではなくて阿弥陀仏の浄土を選び望んだ理由を、善導大師はお釈迦様があえて韋提希に選ばせるためであると言われているようです。親鸞聖人もまた「釈迦韋提をして安養(阿弥陀仏の浄土)を選ばしめたまへり」と書かれてありますから、善導大師と同じ意味になるのではないでしょうか。

  しかし、よく比較すると若干の違いがある。善導大師はお釈迦様が韋提希に選ばせたのだといわれるのに対して、親鸞聖人はお釈迦様のお導きによって韋提希自らが選んだといわれる。つまり親鸞聖人の場合は韋提希の主体を見ておられるわけです。これは教行信証に「斉(ひさ)しく苦悩の群萌(ぐんもう)を救済し」と書かれていますが、この群萌というのは萌え出るところのものですから、苦悩にあえぎながら萌え出でようとする衆生をいうのでしょう。自らの願いで阿弥陀仏の浄土を願った韋提希の姿を通してその群萌を見ている。そういう違いがうかがえると思います。これは今日申し上げる内容ではありませんから、後の課題にさせていだきます。

  で、宝樹観は阿弥陀仏の浄土を観察するにおいて樹木を観ぜよいわれます。この樹木は壽木であり、阿弥陀仏の壽(いのち)木です。つまり私の命を超えた阿弥陀仏のいのちの時間です。そしてその奥に今回の宝池観があります。宝樹観ではそれぞれの樹木の枝は空中で重なり合いまるで天蓋のようであると記されます。そして宝池観ではその樹木の下に八の功徳の池がある。八功徳水といわれる池です。この功徳の水がそれぞれの樹木に流れいり、天蓋まで遍満する世界を宝池観に表現されます。そしてその八功徳水が木々に遍満する水のせせらぎは、浄土全体を覆いつくすかのように仏法の徳を行き渡らせている。つまり八功徳水が行きわたって一切の仏法の功徳ではないものはない。そういう世界として言われます。混じりっけのない功徳そのものの世界を表現されている。

  幻想的な世界でありますが、宝池観の内容をいうならばこのような表現になるかと思います。こういう八功徳水の世界観は阿弥陀経にも説かれています。阿弥陀経にはこの八功徳水は阿弥陀仏の浄土の一部として説かれていますので、浄土の全部をとらえたものではないのでしょう。観経においてもその次が宝楼観でありますから、まだ途中であるということです。玄関に立ったところが宝樹観なら、玄関から奥に入る過程を宝池観ということになるではないでしょうか。

  阿弥陀経には「一心不乱」という言葉が出てきますが、これは阿弥陀仏の浄土にどうしたら行けるかということにおいて、一心不乱に念仏せよと説かれるところです。舎利弗は知恵第一の弟子だと言われた人ですが、その舎利弗に一心不乱に念仏せよといわれるのはどういう事だろうか。次にその意味が書かれています。「一心に乱れざればその人(舎利弗)命終のときに臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と現じてその前にましまさん」この命が終わるときですから死ぬときです。仏教ではよくこういう臨終という言葉を聞きますが、ではこの臨終は死んだ後なのか、死ぬ寸前なのか。こだわるとこういう死の前後も考えなければなりません。医者からご臨終です言われるのは亡くなられたということですが、まだ死後という訳ではないでしょう。お通夜の時に親族にご臨終されまして残念なことでしたとは言わない。お亡くなりになってお寂しいことでしょうが正しい言葉です。何を言いたいのかというと、臨終は死の前後ではなくて死ぬ時の刹那的なものですね。まさしく死に臨むその状況を臨終というのではないでしょうか。阿弥陀経の「命終のときに臨みて」も同じ意味でしょう。その命終のときに臨みて阿弥陀仏がもろもろの聖衆とともに現れると説かれている。聖衆は浄土の住人だと思いますが、その聖衆を連れて阿弥陀仏が現れる。この一心不乱の念仏を知恵第一舎利弗に説かれるのです。

  これは阿弥陀仏の浄土がまじりっけがない徳そのものの世界であり、どんなに舎利弗が知恵第一であろうとも、その知恵を浄土は一切受け付けない。阿弥陀仏の浄土には人間の知恵はないのだということでして、人間の知恵では浄土の門は開かないのです。それを教えるのがこの一心不乱に念仏するという事だろうと思うのですね。この一心不乱ということは簡単なようでありますが、そういう事でもない。オレは今一心不乱だと思えばすでに一心不乱ではないわけです。たとえ少し前に一心不乱になったとしてもですね、すでにその一瞬は過ぎたものです。あ、今一心不乱になったかもしれないじゃ一心不乱じゃないでしょう。これは無心といわれたり無我の境地と言われるものですからそう簡単ではない。つまり無我の境地で念仏せよということでしょう。そうすればその念仏が浄土の門を開いていくのだということではないでしょうか。

  宝樹観もこの無我のまなこで観ぜよと言われます。また宝池観においても無我の境地で八功徳水を観ぜよと言われる。矛盾しているといえば矛盾しています。観察するまなこが無いのですから観察しようがないですね。そういう状態の臨終であります。こういう刹那的な臨終と広大な阿弥陀仏の浄土が重なっている。次の宝楼観も同じです。宝樹観から宝楼観までの宝はこの無我を表しています。無分別とも言いますが、この無分別による浄土の樹木であり池である、そして浄土の家と住人の宝楼観に進むのです。

  この宝池観の初めに「極楽荘厳安養国」と書かれています。ここからが阿弥陀仏の浄土であるということです。浄土の玄関から奥に入るところであるという事でもあります。そして宝池観の最後には「だたちに闇を破し昏を除くのみにあらず、到ところに能く仏事を施す」とあります。阿弥陀の浄土は闇を破ると書かれているのですが、舎利弗ほど知恵があるとは思わないでも人間の知恵によりながら生きている生活が私たちの姿です。しかし一度阿弥陀仏の浄土に入ればその生きる姿そのものが照らし出されるのでしょう。そしてその姿がどのようなものかというならば、人間の知恵の中でしか生きられない姿そのものです。闇で暗いから見えないのではない。自分の姿そのものが見えないという闇ですね。照らされることで初めて見えるその姿は、闇でしか生きられない姿であるということでしょう。そして「到ところに能く仏事を施す」は、そういう気づきの世界がこれから始まるのだという意味ではないでしょうか。こういう仏事のちえを智慧とかいて、普段使うところの私たちの知恵と区別します。

  

  

  

  

時の変化に立って

令和2年6月 永代経法要から

  新型コロナウイルスの影響で中止になってから最初の法要になります。よろしくお願いします。まずは歎異抄を少しお話してみたいと思います。お手元の経本にも現代語訳が載っています。この歎異抄は真宗の教義というよりも親鸞語録のようなものでして、親鸞聖人の言葉の響きを聴くことも大事な書ではないかと思っています。歎異抄は明治から大正、昭和、そして戦中戦後をとおして読まれてきたと聞いております。ではまず第一条を読んでみましょうか。

「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもいたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心をようとすとしるべし。そのゆゑは、罪業深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるほどの悪なきゆゑにと云々」

  この歎異抄は作家の司馬遼太郎さんも戦地に持っていかれたそうです。同じように戦地に持っていかれた方々もおられるのでしょうね。そういうことを考えるとこの第一条の最後の文ですが「他の善も要にあらず、念仏にまさるほどの悪なきゆゑに」とあります言葉に、すべては念仏にまかせて生きろ、と感じた人もいたかもしれないですね。こういう究極な場面で読まれる歎異抄があったのではないかということですが、しかしさっき申し上げた明治からずっと読まれてきた歎異抄の意義というのは、それとはまた違う角度からのものっだたのではかったか。今日はそういったところからの話になろうかと思いますのでよろしくお願いいたします。

  まずこの歎異抄の信心という言葉ですが、ここには「ただ信心を要とすとしるべし」と書かれてあります。普通、信じる時は何かを信じるわけですから、信じる対象があります。対象も何もないのにですね、漠然とただ信心だというだけでは宗教という点では少し腑に落ちないわけです。でも親鸞聖人が使われる信は一概に私たちが思うところの信というものでもなくて、違った意味でこの信の字をあてられているとも思うのです。そしてまたこの歎異抄の後序には「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」と書かれていますが、この「一人」という言葉を個人とも言いかえることが出来るでしょう。明治における文化人や知識人は西洋化して行く日本の対応をこの歎異抄の「一人」に見ようとしたのじゃないかという気がするのですね。

  明治の文豪であります夏目漱石の『草枕』に有名な書き出しがあります。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世はすみにくい。」漱石の生きた時代は西洋から個人主義が津波のように押し寄せてくると思われたそうです。漱石もこれから来る西洋化の波にどのように対応ができるか思いに駆られたのではないでしょうか。

  そういう思いでこの書出しを見て、自分なりに解釈してみることにしました。まず、漱石がこの『草枕』に書いた「人の世は」とは一般的な社会といったものではなくて、もっと身近なところで言う世間という事でしょうから、この「人の世」を向こう三軒両隣とも言っています。すごく狭い範囲ですね。漱石はヨーロッパに住んだことがありますから、この世間というものがよく見えたはずです。その西洋という外からの目を持って世間を見た時に思わずにはおれない様々なことがあったでしょう。

  そういう思いで解釈してみると「だけどもそれをその世間においてああだこうだと言い出してみても角が立つ。だからといって、周りに合わせてしまうと自分という個人的なものが消えて流されそうだ。しかし、また自分にこだわってしまえば周りからあんたは違うと言われてしまい閉じこまざるを得なくなる。とかくに人の世はすみにくい。」こういう解釈でいいか分かりませんが、世間というものを中心にすえたらこういう解釈も出来ないではない。

  ご存じのように明治における西洋化はキリスト教を背景にしています。別に詳しいわけではありませんが、キリスト教では神との契約においてそれぞれが一人ですから、夫婦や家族であっても神に対してはそれぞれの個人が対象になります。クリスチャンの友人がいまして、昔彼の結婚式に行ったときに牧師さんがそう言われていたのを思い出しますが、神と私個人との関係があり、その上で夫婦・家族をはじめ社会そして国家がある。こういう個人と社会・国家のバックボーンをキリスト教が支えている。やがて日本に押し寄せ来る西洋化の津波はそういう個人主義の波である。その時に日本人としてあるべき個とは何か。明治のころの知識人にはこういう危機感や国家観についてのテーマみたいのものがあったのでしょう。明治において歎異抄がもてはやされたわけもこういうところにあったのではないかと思うのです。

  例えば、自分が死ぬ時に「神を信じなさい。そうすればあなたは救われますよ」とキリスト教で言われたとするでしょう。その時に「信じられないオレはどうなるのだ」と返答をするようなものでして、こういう問題を取り上げた人は当時わりといたと思いますよ。吉本隆明が『信の構造』で「親鸞は早くから人間の無意識の構造に眼を注いだようだ」と言っています。神の存在を信じて、その神に対する信仰心を信心というのではなくて、無意識という意識の深層に信心の通路を見出し、そこに歎異抄の信をとらえようとした。そういった信のとらえ方が明治から昭和にかけて文化人や知識人に共通するものだったのではなかろうかと思います。そして平成においてもまだ歎異抄を通して親鸞ブームは続いていくわけです。親鸞とタイトルのついた書籍は常に売れ筋のものでもありました。しかしですね、フト気がつけばそれがどうも書店から無くなりつつある。そんな気がするのですが、何か潮目が変わろうとしているのだろうか。それとも自分だけの思い違いでしょうか。

  それでは、漱石が悩んだ向こう三軒両隣はどうなったでしょうか。江戸時代にはすでにあったであろう向こう三軒両隣ですが、これは戦後に公民館活動や隣組として行政が復活させます。そして戦後日本の地域づくりの礎になったといっても過言ではない。自分より年配の方はまさにそこを生きて行かれた方々でしょう。ぼくはまだ幼くて町内公民館で幻燈会をしたり、海水浴に行ったりした事ぐらいしか憶えていませんが、この日本における世間が戦後の地域復興を支えていったことは事実だろうと思います。

  この前、葬祭場でそこの人と話したのですが、「何故忌中の張り紙をしないのか」と。そうしたら防犯だそうです。情報漏洩。あそこに死人が出たと教えることになる。なるほど確かに周りに教えるわけですね。だから防犯だそうです。ホントですかね。最近は家族葬が多くなりましたが大阪からだそうです。この辺りは大阪から流行りだすそうですよ。

  で、これは持論なのですが、以前は地域での葬式はそこそこで少し違っていました。葬式に地域の風習が混ざっていたのでしょうね。こういう地域色のある葬式は次第になくなり全国的に画一化して行きますが、これは葬祭場での葬式が普及するのと同時期だと思います。そして現在は自宅葬はありません。

  ご存じのように隣組のお世話はご婦人方のお世話です。お母さんたちのお仕事でした。だいたいですね、裏方で炊事や何やらをしてると、いろいろとその辺の世間話に困らないじゃないですか。「あそこの誰だれはこうだそうよ。あらまあ、」世間話に花が咲くでしょう。そういう世間話をしながら裏方でとして葬式に関わります。表では坊さんたちがお経をあげている。寺の品評会も話題の一つでしょう。そういう表も裏も見ながらがやがやと見送るわけです。騒がしいと言えばそれまでですが、どこか映画のワンシーンにも出るような光景ですよね。

  先ほどは近代の日本において、世間と個人主義はどうあるべきか、と、歎異抄の信心に注目して、その真相を手繰り寄せようとした歴史があると言いましたが、そのもう一方ではそんなこととは関係なく、明治・大正・昭和と暮らしてきたそれぞれの小さな世間というものがった。それは文化人や知識人が探し求めた信心というものではないが、今度は自分の番だからあんたよろしく頼んどくよと言える、バトンタッチのような連続性であり、その連続に安心感すら持てた時代があったのではないだろうか。そして明治から大正と続く隣組は戦後新たな形で復興に一役を担って行きますが、この小さないのちの連続性もその中でかろうじて昭和・平成と保たれていったのではないだろうかというのが持論になります。

   しかし今はもう隣組はないでしょう。向こう三軒両隣の地域は家族だけに単位が変わりはじめ、近所に誰が亡くなったのかも分からなくなってきた。周りに知らせないから何やらこそこそと葬式するようにも見えてしまう。でもね、本来人間の死はもっとおおらかだったはずです。遺跡が発掘されるときはたいてい祭祀や葬式の後じゃないですか。極端に言ってしまえば葬式をしながら人類は歩いて来たんでしょう。日本も弔いながら国が出来たのです。今現在進行中の事ですから何やらぼやけて見えずらいかもしれませんが、歴史の芯がどこかほどけかけているのじゃないかとも思うのですね。

  僕はこの歎異抄を改めて見た時に、先ほど言いましたような明治から平成までこの信心について歩んできた時間を、今度は「ただ念仏して」という中で見ていくことが大事なのではないかと思っています。

第二条の「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるたねにやはんべらん。また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じて存知せざるなり。・・・」

  今回のような新型コロナウイルスの影響においてもそうですが、こういう先の見えない理不尽さに「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」という親鸞聖人の言葉が響いてくる気がします。戦地で称えた念仏が、何故オレがこんな目にと、運命の理不尽さをかき消す念仏だったのなら、今日の念仏はこの何やらぼやっとした不安のなかで、本来の自分に戻れるような、一点の安息場所として「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」という、親鸞聖人の響きを聴いていく時ではないかと思っています。

  

 

  

 

 

  

御文章から見える光景

 

2016年12月  報恩講より

  御文の五帖

「末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。これすなはち第十八の念仏往生の請願のこころなり。かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。」

 よくお聞きになる御文だと思います。御文章に詳しいわけではありませんが、今日はこの御文の内容を見ながら、少しばかりイメージを膨らませてみたいと思っております。言うなればフィクションでありまから、気軽に聞いていただければ幸いです。

 どうもこの「末代無智」という言葉が好きになれないのでして、馬鹿にしているわけじゃないでしょうが、そう聞こえてもきます。時代的に合わないというか、すっと入れない。いろんな御文がありますが、たまたまこれはそういうものだという訳にもいかないと思います。

 この「末代無智の」という言葉は何でしょうか。ずっと昔から無智だというなら、先祖代々無智だということです。お手紙のやり取りですから、当然相手を想定して書かれているはずですね。だから、おまえは無智だ!といきなり言われることはない。ただこのお手紙が誰に宛てられたかです。特定の人かそれとも複数の人に宛てられたか。末代というならば祖父・祖母・親・子・孫と時系列で見ても複数です。そのうえ先祖代々なら、その人というよりもそのあたりの人々としての先祖代々でもあります。そうなるとその地域周辺の代々からなる人達になる。

 ではそれを回覧板のように回し読みしたのか、それとも誰かが読んで聞かせたのか。識字率を考慮すると、ある人が皆に読み聞かせたほうが自然でしょう。そうすると複数の人が集まってその御文を聞いている光景が出てきます。その光景は、「あなたたちは全て無智だ」と言われるのを聞いていることになるでしょう。どういうことでしょうね。 頭がいい人もいるはずです。だけど全員無智だと言い切られる。このあたりから少しついて行けないのですが、もうかれこれ600年ほど前の日本の何処かです。その時にこの手紙を受け取られた人たちがどんな気持ちで暮らしていたでしょうか。

 まず、在家止住という響きには寺はないですね。そしてその暮らしの様子は末代無智であると書かれています。この無智の対語は知識や学問でしょう。当時の寺の住職はどちらかというなら学問をした側になる。そうすると寺とその人たちの間には、やはりこの御文の響きはいいものじゃない。しかしもしそうならばこの御文は成立しません。この御文で勇気をいただくのでしょう。だったら、どういうふうに読んだらいいのでしょうか。

 次の文に「男女たらんともがらは、こころをひとつにして」とあります。これはみんなが同じ心になってという意味です。しかしもうひとつありますね。心は常に雑念がある。簡単に心は一つにはなりません。集中しても雑念はいつも入る。それぞれの心の状態を雑念を入れずに一つにしてという意味もあります。

 この御文が複数の人たちへ関係しているならば、それはその地域の共同体意識へ書かれていることでもありますし、また、一人ひとりの信心について言われていることでもある。つまり共同体意識として言われていると同時に、ひとりの救いに焦点が合わされている。

 この「末代無智」という言葉はどちらかといえば自らを卑下したものでしょう。そしてその自ら卑下をしている生活から出られない。ずっと代々がそういう暮らしをしてきた人々だということにもなります。おそらく現在のような交通手段はないはずです。そこに生れたものはそこの生活の中で生きてそして死んでいくしかない人たちでしょうか。立派になれば、もっと学問をすれば、違う生活があればという代わりが想像できない姿をそのまま「末代無智の在家止住の男女たらんともがらは」と書かれている。ここにはいいも悪いもないですね。そこにあるのは雑念を捨ててただ「一心一向に仏たすけたまへと申す」身があるだけです。

 作家の真継信彦さんが『蓮如』の中で「迷信とは豊かさの産物である」と言われています。当時は間引きが流行ったそうです。飲まず食わずの生活で子供への負担がかかり過ぎることかなと思いますが、そんな厳しくまた悲しい時代が長く続いた中での間引きの問題です。その間引きや水子への思いに迷信は入らないと言われれます。迷信はまだそこから落ちる心配がある。気づかないまでもまだ恵まれているのだと言われている。すさまじい飢饉においては迷信など屁のつっぱりにもならない。その生きる環境の厳しさに「迷信とは豊かさの産物である」と説明されています。

 「罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来は救いましますべし。」この罪業ですが、特別に何か罪を犯したのでしょうか。業は生活と密接に関わります。今この生活を生きることが罪業深重である。何かの因果でこういう生活を強いられているといった感覚じゃないですか。逃げようのない、どうしようもない生活として受け取るのに、昔罪深いことをしてこういうことになったのだという思いが、どこかこの罪業深重という言葉に込められている気もします。そんな中でこの御文が読まれたのなら、そしてこの御文を聞いている人たちに、解放さるような新鮮な感覚が響いたのなら、まずはそのどうしようもないこれまでの生業があったからでしょう。

 しかし、その次に「かならず弥陀如来は救いましますべし、これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり」。この救いましますとはどんなことでしょうか。まずは死んだら阿弥陀仏の浄土に往生することでしょう。人間の素朴な感覚ですね。死んだら親の元に帰るのだ。先に死んだ人たちが待っているところに行くのだ。

 僕も父親がわりと早く亡くなったものですから、当時はそういう感覚がありました。何か向こうの方が賑やかな気がしたこともあります。そういう死が身近に感じることは皆さんも経験さているのではないですか。こういう人間の感覚の延長線上に阿弥陀仏の浄土があるということでしょう。宗教はそういう素朴なものだと思います。しかしですね、仏教である、また真宗の教えはまたそこを突き抜けていかなければならないものでもあります。だから第十八の念仏往生の誓願があるぞと忍ばせてある。本当はこれを言いたいのだけれど、人間の死に対する思いを除いて阿弥陀仏の浄土もない。両方とも死という人間の切羽詰まった問題ですね。

 念仏往生をそういうぎりぎりの場所に置くのです。そして仏たすけたまえとすがれと言われる。この一心一向がそういう切羽詰まったぎりぎりの中に含まれている。そしてこの御文を聞いている人たちの中で何人がその意味に気づいているだろうか。この一心一向という言葉は、自分の思いを捨ててしまって白紙状態でということでしょうか。先は死があるだけならば、それこそ何もかもないでしょう。そこに阿弥陀仏にたすけたまえとすがれと言われる。このあたりにどうしてもまだ抵抗があります。どうも素直に受け取れない。そう思いませんか。しかし、この今の生活の自分では全てが間に合わないのですから、のるかそるかでしょう。

 もう自分はここで死ぬしかない、そんな状況の時にお札を貰って、やれやれこれで安心という訳にはいかないですね。迷信は豊かさの産物である。いざとなったら間に合わない。そういう極限において念仏が忍ばせてある。こういうふうに読んで行くと、その次が気になるでしょう。「かくのごとく決定してのうえにはねてもさめてもいのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり」またこれも腑に落ちない。

 しかし、この決定してというのは何かに気づているということです。念仏往生に何か気づいている。そうすると気になりだす。この第十八の念仏往生の誓願とは何だろうか。そうするともう調べるしかないじゃないですか。どうやって調べますかね。一番手っ取り早いのは近くのお寺さんに聞くことですよ。学識ある寺の住職に訊いてみる。住職はちゃんと答えなければならないでしょう。これは大変ですよ。住職もぼやっとしておれないから勉強しなければなりません。それでも分からないことはまた誰かに尋ねるしかないでしょう。誰に尋ねたらいいでしょうか。それはこの御文を書かれた蓮如上人が一番いいに決まってます。

 そこの住職さんと蓮如上人の連携も大事ですね。住職さんも得るものは大きいはずです。こんなコミュニケーションを通していくと、このどうしようもない環境を生きるしかないところの罪業深重が、まったく違う意味として現れてきます。今度は仏法における信心の自覚としての罪業深重を、住職さんと一緒になって学んでいかなければならなくなるからです。信心の深いところを聴いていかなければならない。こういう循環が生まれるでしょう。この御文は罪業深重に浅い部分とすごく深い部分があり、それが交差しているように思います。

 なんでもそうですが、何かフト気になりだしたらスイッチが入るでしょう。気になってしょうがない。それに対してそこの住職は答えなければならないので必死に勉強するはめになる。こういうふうに捉えますとね、ねてもさめても命のあらん限り聴いて行けるものが見えてきたということでしょう。そしてそれは、自らの死に対しても応えるものです。スイッチが入った者同士なら、そこに生きがいすら感じるでしょう。この短いお手紙にそういう景色が込められているのかなと思って話しました。

 この違和感だらけの御文を我流で読んでみましたが、こういう読みがもし出来るならば、このお手紙を読み聞かせる人はおそらく住職さんか寺の総代さんあたりでしょうか。末代無智のといった言葉から始まる御文を披露するその光景には、寺と門徒との信頼関係がなければ冷や汗ものですよ。ひとつ間違えれば、おい!おれたちのことを末代無智とぬかしたな、と、迫られる場面ですね。よく聞く御文ですが、この御文に生き生きとしてそこに集う民衆と寺の関係が垣間見えるような気がします。 蓮如上人の時代に浄土真宗は一気に広がりますが、その勢いを少しだけ垣間見たつもりです。

 

 

 

 

 

念仏と自灯明・法灯明

2019年3月 彼岸会より

 お釈迦様の晩年のお言葉ですが、「自灯明・法灯明」があります。他を拠り所にせず自らを拠り所にし、法を拠り所にせよという意味になります。このお言葉は晩年といいましても、最晩年、お釈迦様がお亡くなりになるときにお弟子たちに伝えられた教えだと言われています。クシナガラという村で容体が悪くなられてそのまま入滅されました。80歳だと聞いています。二本の沙羅の樹の木陰で静かに亡くなられました。涅槃の様子をそのように伝えられますが、その時、悲しむお弟子たちに告げられた教えがこの「自灯明・法灯明」であるということです。

 また違う説もあります。お釈迦様が病に倒れられ命を落とされそうになったことがあるそうです。幸い快復されるのですが、その時にお世話をした阿難尊者がお釈迦様のご快復をみて、きっと元気になると確信していたことをお釈迦様に話しました。その時に諭されたお言葉が「自灯明・法灯明」であるとも伝えられています。私(お釈迦様)を灯にせず自らを灯にせよ、そして私(お釈迦様)を灯にせずに法を灯にせよと阿難尊者に告げられた。

 この自灯明・法灯明はお釈迦様の入滅以後に大きな道しるべになっていくことになります。この拠り所ということですが、言い換えれば何かを当てにすることでもあります。私たちは何を当てにして生きているでしょうか。そんなことを考えるとこの「自灯明・法灯明」の言葉がまた違う思いで感じられるかもしれません。今回の話のテーマはこの「自灯明・法灯明」とお念仏ということにさせていただこうと思います。

 もうかなり前の事ですが、ある先生から聞いた話です。小学校のPTAである作文が問題視されたそうです。「親孝行」をテーマにした作文だったそうです。その文には「僕が大きくなったら、お父さんお母さんを立派な老人ホームに入れてあげます」と書かれてありました。親子関係を子供がこのようにお金で割り切った表現をすることは教育上問題であるということです。子供の将来にも不安がある。そういうことだったと思います。

 今、この作文を小学生が出したら大騒ぎされるでしょうか。それとも親の事をよく考えた内容だと思われるでしょうか。どちらも極端で大騒ぎされるほどでもないと終わるかもしれません。子供が描く立派な老人ホームとはどんなところでしょうね。考えてみれば、親と子供がつかず離れずそれぞれお互いに自分の生活が出来ればそれが一番いいじゃないか。喧嘩もしなくていいし、親もその場所が老人ホームなら、まして立派な老人ホームなら越したことはないぞと思うかもしれない。

 で、この立派な老人ホームはお幾らくらい掛かるんですか。立派な分だけ費用も掛かるでしょうね。それを見越して立派な老人ホームに入れてあげようと心がげてくれるなら有難いかもしれない。最近こんな子供おりませんよ。

 しかし何処か違和感がある。何か違うでしょう。介護福祉は今は充実しています。病気になれば入院して施設も出なければなりませんが、それでも終の棲家にと思われる方も結構おられるのじゃないですか。介護福祉の向上で何か変わりましたね。こういう施設が多くなる前は孤独死が流行っていました。現在も孤独死の問題はあるでしょうが、以前ほどは聞きません。またその孤独死問題の前は、年取った親たちが子供の家庭にお世話になりに行こうか行くまいか迷っておられた。そんな話をよく聞きました。実際に子供の家庭に入られた方はそれほど多いとは思いませんが、よく出る話でした。成功率がとても低い話でしたね。出来上がった家庭に後からジジババが入ってもそう簡単には馴染みませんよ。

 こんなことを思い出しながら考えますと、この数十年間といっても、知らず知らず私たちの周りの状況は変化しています。最近言うところの老人ホームなど在りましたかねえ。昔は養老院といってどちらかというと姥捨て山のイメージが強かった。現在の高級な老人ホームなどとはかなり違ったものでしょう。私たちはその時々の周囲の環境のなかで物事をとらえますから、この作文のような立派な老人ホームの話についても時期がずれると歯切れが悪くなる。いいのか悪いのかよく分からん。

 この作文が問題視された頃は、問題になったのですからはっきりしていたのです。しかし気づかないうちに物事を見る眼に変化が起きている。自分ではしっかりと物事を見ているつもりでも、実は自分が思うほど一貫性がない。もっと言えば、その時々の状況に流されて考えている。そしてその時々において何かを当てにしてその事を考えたのであり、生きていたことは間違いないでしょう。しかし、じゃあ何を当てにしてきたかと改めて問うてみても、ぼやっとした記憶でしかない。

 若いときは元気が当たり前ですし、知らずに自分の身体を当てにしていた。時間も無限にあるような気がしたかもしれない。年を取ると当たり前の健康が次第に宝物のように感じてくる。時間は無限にあったあの頃は、今じゃ残り時間が後どれだけだろうか、老後のお金は足りるかなと心配事も増えてくる。自分の抱えるものが変化するたびに気持ちも変化するのでしょう。ただその変化にはなかなか気づかないのですね。

 この自灯明ですが、自らを拠り所にしなさいという教えです。どこのどういう自分を拠り所にしなさいと言われるのでしょうか。考えるとなかなか答えが出ない問題です。

 では、この「法」を拠り所にしなさいとはどういうことでしょうか。大谷派の曽我量深師がこの法について書かれていますので紹介します。

『曽我量深選集』より

「法というのは、サンズイに去ると書く。去っていくこと水の如し。淡々として何の執着もない。それが法の意義であります。そして、この法というのは誰にあって何処にあっても、又、何時であっても、又、順境にあっても、逆境であっても、その本性は一貫して変わりがない。それを法という。それは善人にあっても悪人にあっても、変わりがない。仏にあっても凡夫にあっても変わりがない。証った人にあっても迷へる人であっても何ら変わりがない。聖者にあっても増さず、凡夫であっても滅せず、不増不滅である。これを法という。如何なる時によっても、処によっても変わらぬ。人によっても変わらず、環境によってその価値は変わらぬ。仏にあっても我がごとき愚かな者にあっても変わらぬ。どんな者の中にあっても変わらぬ。これを法という。」

 法についてこのように言っておられます。お釈迦様は阿難尊者に法を拠り所にしなさいと言われました。その法をこういうふうに表現されます。何となく興味深いですが、どこをどう捉えていいのかも分かりません。

 親鸞聖人の『教行信証』化身土巻に、「韋提別撰の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。」とあります。これは韋提希がお釈迦様に阿弥陀仏の浄土に行ける教えをお願いするところです。ただ、韋提希はこの阿弥陀仏の浄土の前に諸仏の浄土見せてもらっているのですね。韋提希はその諸仏の浄土を丁寧に断り、そして阿弥陀仏の浄土を懇願します。これを韋提別撰の正意と言います。正意ですから正しいい意味。韋提希が正しい意味で諸仏の浄土と阿弥陀仏の浄土を分けていることによって、弥陀大悲の本願が開かれたという意味だと思います。ここに正しく選ぶことが前提にされているわけです。

 それで、ではその諸仏の浄土と阿弥陀仏の浄土はどう違うのでしょうか。正信偈にも書いてありますが、最初の処です。法蔵菩薩は世自在王仏に見せられた諸仏の浄土をことごとく観察して、自らの浄土である阿弥陀仏の浄土建立を誓った。諸仏の浄土とは違う阿弥陀仏の浄土建立です。

 諸仏の浄土とは、法を拠り所にしてそれぞれの諸仏が自らの器量で成仏されたのが諸仏の浄土だと言われます。しかしそんな器があるとも言えずないとも分からない者が、法を拠り所にしてと言われても何が何やら見当もつかない。その時々に様々に執着しながら生きるしか術を知らない者に、執着するな、とどまるな、分け隔てするななどと言われても、そこにしか生きられない凡夫であり愚かな自分にとってどう行けばいいのだろうか。

 それに対して法蔵菩薩が誓った阿弥陀仏の浄土は、そのような我々凡夫をみそなわして、そして阿弥陀仏の浄土において成仏せしめようと誓われた浄土ですね。

 この阿弥陀仏の願いを本願と言います。四十八の願があります。その十八番目の願が念仏往生の願と言います。本願の要です。だから本願とは私に先立って、阿弥陀仏の方から私に向けられた願いである。こう言って差し支えないと思います。では、阿弥陀仏は私に何を願われるのか。わが名を称えよ。これが念仏「南無阿弥陀仏」を称えなさいということです。念仏にはこんなおいわれがあります。いうなれば阿弥陀如来は法より来りて念仏の衆生を摂取する仏様。

 それでは、韋提別撰の正意は何であったのかといいますと、韋提希のつまづきです。詳しい話はいつかできればと思いますが、韋提希は事件に巻き込まれます。その事件の中で別にボケっとして生きていたわけではない。それどころか懸命に事件に向かっていくわけです。しかしその姿がまた仇となり、ますます混迷を深めていきます。韋提希は懸命に取り繕おうとしながらもそれが原因で全てがガラガラと崩れて、最終的には自らの命すら危うくなるのですが、その韋提希の様子を善導大師は「あゝ、哀れなるかな恍惚の間に」と言われる。老人ボケだけが恍惚の人じゃないんですね。そして韋提希はお釈迦様の前で我が身の愚かさに気づくのです。そんな事を通して韋提別撰があります。

 この韋提希の愚かな我が身に対する、自らへの眼が韋提別撰の正意であり、阿弥陀仏の浄土と諸仏の浄土を見分けた眼だったのだということです。

 だからと言って私たちが韋提希のようにつまずかないでもいいのですが、こうして先祖から頂いたお念仏を何気なく称えております。この念仏が自らを「ああ執着していたなあ」「愚かだったなあ」と我が身の愚かさを、そのまま法の方から見せて頂いているのだということを思い出していただければ幸いです。そして、もしそのようなお念仏ならば、それは法を拠り所にした我が身を具体化しているのだということも申し上げたいと思います。日常の生活に念仏を称えることで、次第に法があきらかになっていく。そういう事ではないかと思います。

 年を取らなくていいなら、病気にならなくていいなら、死ななくていいならと言っても、そんな人誰もいないし、何かに執着することでしか生きて行く術がない私と、一切に執着がない、変わることがない法が、どのように関りがあるのだろうか。そして南無阿弥陀仏は私と法との関りにまします仏ではないだろうか。そういう事を考えております。

 信心について「二種深信」というお言葉があります。

・決定して、かの阿弥陀仏、四十八願をもって衆生を摂受したまふ、疑いなく慮りなく、かの願力に乗ずれば、さだんで往生を得と深信せよ。

・決定して、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと深信す。

 上の文が「法の深信」。下の文が「機の深信」です。両方をもって二種深信といいます。今日はこのうち法の深信をもとに、念仏と「自灯明と法灯明」ということで話しました。

宗教観と信心について

2019年9月 彼岸会より

  宗教において信心は大きな前提でして、信じなかったらその宗教といってもあまり意味がなくなります。しかし日本という国はその点で変わっていまして信心という言葉に何やら抵抗感がある。下手に信じたらえらい目に合うかもしれないぞというような感覚です。宗教にどこかいかがわしさや、危険性を感じている。

 以前、オウム真理教での事件は記憶に深く残っておられると思いますが、宗教という場合に、まずそういうものがイメージされる。宗教を否定はしないが、のめり込むと危ない、皆さんもそういう気持ちはお有りではないでしょうか。

 あなたに宗教が必要ですかと聞かれたら、必要だと言い切れる方がここに何人おられるでしょうか。それに宗教がなくても特別こまらないなら、必要だということにもならないですね。私が現にこうして生きている中で宗教が必要かと聞かれても、この人は何を言っているのかとかえって警戒するでしょう。宗教はぜひ必要ですなんてとても言い切れません。

 真宗の教えを簡単に一言で言い表されている言葉があるでしょう。「おかげ様」という言葉ですね。これはどういうことかと言いますと、これはおれ一人で生きているぞと言い張っている言葉ではない。その反対に「生かされています」ということですから、この生かされていますということを、外に向かっていえば「おかげ様」ということになる。自分がもっと大きな中で生かされている感覚です。具体的にいえば私における環境です。周りの人たちや、その人たちによる様々なご縁を総称して、その中で生かされている。親もいれば、子供もいる。山に入れば自然の中に生かされている気がする。海に行っても、魚が泳いでいるし、うまそうな魚も入れば、海岸にはいろんな生き物がいる。そういう中で自分だけが特別に生きているという感覚でいるかと言えば、おそらくそうではないでしょう。何かよく分からないが、いろんな生き物の中で感じる「生かされている」という感覚は素直に受け入れられる気がします。だから「おかげ様」という言葉にはほとんど抵抗がない。

 これを日本人がもつ宗教感覚であるといえば、すごく偉そうですが、この感覚と、あなたに宗教が必要ですかと問われた時に持たれる宗教のイメージとはずいぶん違うでしょう。どこがどういうふうに違うのか。年輪をイメージすると何となく分かりそうな気がします。年輪の中心が私だとするでしょう。そうすると私の環境はその年輪の模様のようなものですね。つまり、それぞれの皆さんが年輪の中心です。そして年輪の中心として生きている。自分がこうして生きているのも周囲の私の年輪の模様のおかげです。このように自分が年輪の中心から見ているわけですが、同時にこちらが外側を向いて見ている分、外側も私に向いているような、何層もの年輪がおぼろげに見える。それが私が感じる周囲の環境です。そうすると、ああ自分が今こうしているのもあの人やこの人、そういう周囲の人たちや環境があるからこそだと分かる。そうすると「ほんと、おかげ様でした」と、こういう言葉がすとんと入ってくる。

 これは仏様を見る時も同じだと思います。仏様を拝む時に、拝みながらどこか拝んでいる自分も見ているでしょう。こちらは仏様を拝みながらその拝んでいる自分を感じているのだけど、仏様もこちらを見ておられる気がする。こういう拝む時に仏様と仏様から拝まれている自分がうまく交流すると、不思議に落ち着くのですね。そんなこと言われても、仏様といっても木に彫られたものじゃないかと言われるかもしれない。しかし、先ほどいいました年輪の話のように、自分が見るところの外側への視点である何層もの年輪の層は、自分と何も関係がないのかといえばそうではない。私が見るところの、私に向っている視点の感覚は単なる幻覚だろうか。もし幻覚ならこうして私が生きていることは、誰の世話にもならず、私一人が頑張ってきたからだということかもしれないし、誰への恩もないということにもなります。

 仏様を拝み、そして仏様から拝まれている感覚は、この年輪の中心と外とが交差するのと似ている気がします。「お前ねえ、肩ひじ張って自分だけで生きているぞと思っているだろうが、もっと自分に働きかけているものも見るべきじゃないかい」そんな言葉をふと感じたりすれば、そしてそれが仏様からの語りかけだとするならば、おかげさまを教えていただく有難い仏様です。他人から言われると腹が立つでしょう。嫌いな人ならなおさらですね。

 この内からと外からの交流する感覚は、私たちが宗教と言われたときにパッと思いつくイメージではない。それはすでに持っている日本人の宗教感覚だと思います。だから、宗教というものを何か特別なこととして見たら、いかがわしいとか、危険だとか、近寄らない方がいいとなりますが、本来日本人の持つこの宗教感覚をより研ぎ澄ましていくことをその宗教とするならば、その宗教は必要ですかという問いに皆さんはどう答えられるでしょうか。

 そして、「おかげ様」でこうして何とか生かされています。この言葉をもっと研ぎ澄ませていきませんかということが、この宗教は必要ですかという問いへの応えとすれば必要かどうかです。そこまでせんでもいいやでも、それはそれでいいのですね。しかし、これをもっと研ぎ澄ませようと思えば、その宗教における信心ということが問題になてくる。そうすると内側と外側が交流する感覚がすでに宗教感覚ですから、信心とはこの宗教感覚をもっと具体的に自分で握ることでもあります。信心を「信知」するともいいます。

 信心を生活の中だけで考える時はわりと興味本位でもかまいませんが、宗教はやはり生き死の問題でもあります。生のところだけで考えるのではないのです。しかしまた、死の事だけで考えるのも偏っていますよね。生死ですから両方扱う。

 今日は「自の業識」という言葉があります。善導大師のお言葉です。この「自の業識」の周囲を回りながら、この宗教感覚を研ぎ澄ますことがどういうものか少し見ていこうと思います。日本における仏教は大きく二つに分けることが出来ます。一つは自力聖道門、もう一つは他力浄土門です。善導大師は他力浄土門の方です。親鸞聖人も大きな影響を受けました。その善導大師の信心について「自の業識」があります。用意しましたプリントを見ていただくと書いてあります。

『観経疏』序文義

「たゞこれ相因(あいよ)って生ずればすなはち父母あり。すでに父母あればすなはち大恩あり。もし父なくんば能生の因欠けなん。もし母なくんば所生の縁すなはち乖(そむ)きなん。もし二人ともになくんばすなはち託生の地を失わん。かならず須(すべか)らく父母の縁具して、まさに受身の処あるべし。すでに身を受けんと欲(ほっ)するに、自の業識をもって内因となし、父母の精血をもって外縁となす。因縁和合するがゆえにこの身あり。」

 この自の業識ですが、内容としては「生きんとする意志」と習っています。以前、ある会合がありまして、会食の席ですからお酒も出ます。担当になりましたので酒を買いに行くことになりました。お酒はしばらく飲まなかったので何を購入しようかいくつか店を物色しました。せっかくだからどうせ飲むなら美味い方がいい。今はいろいろあるんですねえ。分からんからお店の人に尋ねて決めようと思いました。獺祭って知ってますか。インターナショナルワイン&スピリッツコンペンションで金賞を受賞したお酒だそうです。福岡の岩田屋ではお酒のコーナーには並んではいませんで、その代わりに獺祭だけのブースがありました。せっかくだから幾つか飲み比べすることにして、獺祭も含めて小瓶の程よいやつを数本か買ってきました。おもに冷酒に合う酒ということです。個人的には楽しかったですが、盛り上がりはそれほどなかったですね。皆さん詳しいようです。

 この日本酒には値段がいろいろあります。それぞれ銘酒ですから少し高いのは理解できますが、中にはすごく高いものもあります。で、お店の方に同じ銘柄なのにどうしてこんなに値段が違うのですかと聞きましたら、精米歩合だと言われました。この精米歩合というのは、お酒の原料である玄米の研ぎ方でして、その玄米を研いでどのくらい残るかということ。60%で吟醸酒。50%以下で大吟醸だそうです。研いだ残りのお米でお酒を造るのですからそれだけの原料が必要です。獺祭の一番いいので精米歩合は23%だそうです。受賞したのはこのお酒でしょうか。

 この研ぎ澄ますということですが、一定量のお酒を造ろうとする場合に、原料である玄米の量もこの精米歩合で決まります。精米歩合が小さければ小さいほど原料は多くなります。しかしこれを信心ということに置き換えて考えてみると、私以外に付け足すものはないのですから、精米歩合が小さくなればなるほど残りは小さくなるだけです。これどんどん研ぎ澄まされると消えて無くなりますよ。

 信心ということを宗教感覚を研ぎ澄ますことで説明するなら、何かが少しづつ無くなっていくことでもあります。お酒は一定量を作らなければなりませんが、こちらはそういう量の問題ではありません。そして信心という場合に何がいったい研ぎ澄まされていくのかというなら、すでにお気づきのかたも居られるかと思いますが、これは我執ということですね。自我が、我執が研ぎ澄まされていく。そしてだんだんと我執が小さくなっていく。これ最後はどうなりますか。我執が無くなったら何が残るでしょうか。精米歩合では少しは残らないとお酒も出来ませんが、仏教は最終的にこの精米歩合をゼロにすることが目的というか、そういう立場です。

 この精米歩合ゼロを目指して自力聖道門と他力浄土門がある。こういう事だろうと思います。しかしこう言ってしまうとですね。そこまではしなくても適当なところで止めてもいいんじゃないかなんてことも考えられるでしょう。程よい中途半端でもいいかな、なんて冗談ではなく思うこともありますよ。この精米歩合ゼロということを浄土真宗の教えをとおして生きた方々がおられます。妙好人といわれる方々です。主に江戸時代末期において全国各地でその妙好人がおられたことが分かっています。自力聖道門でいうならば、数少ない禅宗の高僧たちが到達できるような境地だそうでして、それを普段の生活を通して生きて行かれた方々だと言われています。精米歩合がゼロだからといって半分死んだような生活だろうなんてことは全くないのです。

 この妙好人を精米歩合でひとまず説明するなら、研ぎ澄まされた我執の分が阿弥陀如来の分量になっていることです。だから我執がゼロになることは阿弥陀如来だけになる。主が代わるということでしょう。そういうことが妙好人の方たちは感覚的に分かっておられる。

『妙好人 浅原才一のうた』

「わしが聞いたじゃありません、わしが聞いたじゃありません。こころにあたるなむあみだぶつ、いまあなたに打たれて取られて。なむあみだぶつ。わしが阿弥陀になるじゃない、阿弥陀の方からわしになる。なむあみだぶつ。」

「浮世はままならぬ。ままになったら浮世じゃないよ。それで慚愧で立つ浮世。あさまし、あさまし、あさましや。これが歓喜になる浮世。なむあみだぶつ。なむあみだぶつ。」

「才市や何が面白い。迷いの浮世が面白い。法をよろこぶ種となる。南無阿弥陀仏の花ざかり」

 それで、この自の業識ですが、こういうふうに信心を精米歩合のように見ていきますと、この自の業識、つまり生きんとする意志は、普通私たちが考える自分の意識のような類ではないことが何となく分かります。もっと深いところからくるものでしょうか。現在では無意識などと言われていますが、この自の業識では意識と無意識といったものでなくて、私が生を受ける時を言われている。その時における意志は私が生を受ける以前からなるものか。私が生を受ける前に私に意志がありましょうか。この自の業識は内縁だと書かれています。そして父母の精血をもって外縁となす。因縁和合するがゆえにこの身あり。もし私が生を受ける前なら生きんとする意志は今の私から離れたことになりますが、内因と外因が和合するところに初めてこの生きんとする意志を言われます。なかなか面倒ですが、善導大師における信心へのゼロポイントをこの自の業識として現わされています。親鸞聖人はこの善導大師にすごく傾倒された方です。

 もうすぐ東京オリンピックですが、世界中のアスリートが集結するのでしょう。単なる才能だけでは出られませんよね。怪我をして挫折された方もたくさんおられるでしょう。いいコーチが付くかどうかも大きく左右されるかもしれません。本人の努力が一番でしょうが、運も関係しますよね。偉そうに言ってしまいますが、やはりそれぞれがそれぞれのおかげ様をもっておられると思います。

 この生きんとする意志を自分がこの世に生を受けたと同時に頂いているのだと感じられれば、この私の生活の場がそれこそ私のオリンピックのフィールドであり、そのアスリートの人と何ら変わらない顔になっていくのではないかと、そんな気もしています。自らの環境を自分なりに精一杯生きて、そしてそれこそ才市さんじゃありませんが、無事浄土へ生還できたらいいな、そう思うこともあります。言うのは簡単ですがそう簡単なものではありませんね。しかしあなたに宗教が必要ですかと問われたときに、こういう生き方をしたいと思うなら、必要ですと答えていきたいと思っております。