観経疏の発菩提心

令和2年12月 御正忌報恩講より

  親鸞聖人の御命日を記して、こうして報恩講が全国で執り行われます。親鸞聖人が日本の代表的な高僧であることは間違いありません。しかし日本の仏教において高僧だと認められたのはつい最近のことではないでしょうか。聖人が修業をされた比叡山は様々な高僧たちを輩出してきました。聖人もその一人です。ただ日本仏教を代表とする高僧だと認められていたかといえば定かではありませんでした。

  師である法然上人は比叡におられた頃から智慧第一の法然房と言われ、比叡を降りてもなおその名声は日本を代表するものでした。しかし親鸞聖人は違います。何百年もの間、比叡山の高僧とはなっていません。理由は妻帯をされたからです。仏教には妻帯の概念が無いのですね。高野山にケーブルカーで登りますと、途中で女人禁制の場所が残っています。昔女性はそこから先に入れなかったのです。現在はおかまいなしに入れます。禅の道元は、京の伏見の興聖寺で男女ともに禅の修業をしたと聞いていますが、後程福井の山中に永平寺を建立して厳しい修行場を開かれました。親鸞聖人はこの道元と同時代の方ですが、法然上人のもとに行かれる頃には、すでにこの妻帯の問題をどこかで背負っておられています。親鸞聖人が生きられた鎌倉時代は仏教が民衆に入っていく転換期でありますから、こういう民衆的であり、人間的な課題が登場したのではないかと思います。

  また、社会的な見方からすれば、聖人は知識人や文化人から人間親鸞と称されて、非常に人間味ある高僧だと言われ続けております。若き青年親鸞の悩みは何だったのか。よくこういうストーリーが描かれたのではないでしょうか。形ばかりを聖人ぶるより真正直に一人の人間として悩む姿、そしてその現実を生きる姿勢をそのまま仏教にぶつけられた魅力が聖人にはあります。29歳の時に法然上人の元へ行かれた後も変わらずにご自身の問題をひっさげて生きて行かれました。妻の恵信尼との間には沢山のお子さんもおられます。この人間味が親鸞聖人の魅力なのですが、しかしこういった聖人への捉え方はおそらく明治から大正、昭和とその時代の知識人や文化人が描いた親鸞像でもあったのでしょう。

  親鸞聖人が生きた鎌倉時代にはそういう知識人や文化人はいないのですから、青年親鸞、親鸞と名乗られたのはもっと後の話ですが、とにかく親鸞の悩みがいかに人間味があると言っても親鸞一人だけが悩んだのではないはずですね。時代背景に沿って同じような悩みがそこらじゅうにあったはずです。その頃、民衆仏教の先駆けである法然上人はすでに70歳近いお年でした。20年ほど前にすでに比叡を降り専修念仏を京で開かれておりましたので、法然上人の名声は日本全国に広まっていたことでしょう。当然、当時の親鸞聖人にも聞こえたはずです。ご存じにように法然上人に遇いに行かれる時はかなり悩んでおられます。六角堂の百日間の参籠が有名ですが、恵信尼文書にも晩年の思い出としてこの六角堂の参籠の話が書かれていますので、日常の会話にもよく出ていたのでしょう。

  法然上人と親鸞聖人とのご信心について、歎異抄の後序に書かれています。「善信(親鸞)が信心も聖人(法然)の御信心も一つ」と親鸞聖人が言われるのについて、お弟子の勢観房・念仏房が「いかでか聖人の御信心に善信房の信心、一つにはあるべきぞ」と文句をつけられます。親鸞聖人は「聖人の(法然)の御智慧・才覚ひろくおはしますに、一つならんと申さばひがごとならめ。往生の信心においは、まったく異なることなし、ただ一つなり」法然上人の智慧や才覚が親鸞と同じだというならば、自分のいうことは間違いである、しかし往生の信心においてはただ一つだと返答をされる。勢観房・念仏房はその答えになお納得がいかいものだから、法然上人にその旨をお聞きすることになります。すると法然上人は「源空(法然)が信心も、如来からたまはりたる信心なり、善信房の信心も、如来からたまはりたる信心なり。されば、ただ一つなり。別の信心にておはしまさんひとは、源空がまゐらんずる浄土へは、よもまゐらせたまひ候はじ」と弟子たちの論争を収められたことが書かれてあります。 

  この「如来よりたまはりたる信心」という表現はよく耳にして聴きなれているから別に何とも感じませんが、しかし普通なら信心と言えば私が何かを信じることですから、まず私がありそして何かを信じる事ですね。たとえば私が神の存在を信じるとか、ご加護を信じる。何ゝ仏の御利益を信じるというような類になるでしょう。しかし、ここで言われている「如来からたまはりたる信心」は、如来が私に信心をくださるということですね。じゃあどういう信心をくださるのか。考えるとよく分からなくなる。

  これは自分の受け取りでありますけども、この「如来からたまはりたる信心」というのは、この私をたまわることで成立する信心である、そういう事かなと思っております。では、その私をたまわるとはどういう事でしょうか。

  私たちは、普段何事もなく暮らしていると、自分というものがさもを分かったかのように暮らしていますが、いざ自分の思慮分別を超えるくらいのごたごたが生じたら、泣いたり、わめいたり、妬んだり、と変化に富んだ自分が現れます。その時心は何かに振り回されるがごとくに変わっていく。場合によっては取り返しのつかないことまで仕出かしてしまいます。あの時ああすればよかった、こうしたらよかったと、振り返りながら後悔先に立たずの現実です。何事もなく全て順調に過ごしてこられた方もおらるでしょうが、概ねこういうものじゃないですか。誤魔化しが利くものなら知らんふりで過ごせますが、この取り返しがつかない事実の積み重ねはどうしようもない。どれが本当の私なのかと改めて考えても、どれもこれも自分に変わりはないし、だからといってどの自分が私だとさっと出せる答もない。あるのは自分が気に入ったものは私として認めたいし、都合が悪い自分は認めたくないという心である。若い時はそういう認めたくない自分の姿を自分で責めて、自己嫌悪に落ちる人もけっこうおられるでしょう。年取ると老化現象か何か知りませんが、そういう感覚が薄れてきますね。だからといって心が深く広くなったのかといえば、一概にそういう事じゃない。ボケてるか、誤魔化し方が上手くなったのか、そういう事かなとも思います。

  ただ、老いは時間経過の加速する感覚が強いですから、これからどうなるんだろうって、何がどうなるか分からないのにせかされているみたいで、外見よりかなり焦った様子がある気がしますね。老後の心配は勿論あるし、子供が大きくなれば心配の内容が変わるだけで、より心配が増す気がする。身体的にも誤魔化しが利かない。そしていよいよ死が具体的に近づいてくる。それに伴いかえって死にたくない気持ちが増す。問題は山積みです。ずっと前に読んだ夏目漱石の、たしか『門』だと思いますが、その最後辺りに、主人公が門の前にたたずみ、そこから前にも帰ることもできないまま、門の前でただ茫然と日が暮れるのを待つだけだった。そのような内容だったと思いますが、ふと思い出しました。

  若い時は若い時の悩みがありますが、老人には漠然としたそして深刻な悩みがありますよね。この死が漠然としすぎて自分の器量をはみ出しますから考えようがないだけです。しかしこういう周囲や年齢による変化においても変わらずに、この私としていつも還れるような、私本来のこの私自身をいただく。それを「如来からたまはりたる信心」と、こう言われるのだろうと思う訳です。

  観経疏の序文義に「たゞこれ相因って生ずればすなはち父母あり、すでに父母あればすなはち大恩あり。もし父なくんば能生(のうしょう)の因すなはち欠けなん。もし母なくんば所生の縁すなはち乖(そむ)きなん。もし二人ともになくんばすなはち託生の地失わん。かならず須からず父母の縁具して、まさに受身の処あるべし。すでに身を受けんと欲(ほっ)するに、自の業識(ごっしき)をもって内因なし、父母の精血(しょうけつ)をもって外縁(げえん)となす。因縁和合するがゆえにこの身あり。・・・」観経疏は序文義、定善観、散善義 と別れていまして、この文章はその中の序文義の最後辺りのものですが、韋提希がいよいよ阿弥陀仏の浄土をお釈迦様から享受される前段階のところになります。

  韋提希が阿弥陀仏の浄土を求める意義は正しいのですが、その心の根といいますか、浄土を求めるところの心の発する場所がまだ明らかでない。そこで定善観に入る前に、韋提希の心根を正すために設けられた場所ではないかと思っています。普通いうところの本論に入る前の基礎認識ですね。ここを散善顕行縁と言いますが、その初めの文になります。そして次に韋提希の発菩提心が明らかになる。

  この発菩提心に入るまえに、善導大師はひとつの物語を載せています。飢饉で苦しんでいる町にお釈迦様が托鉢に出かけられる場面ですね。町中が飢饉に苦しんでいる状態ですから、誰もお釈迦様に食を施すものはいませんでした。三日たってもひと鉢の食もないまま次第に体が衰えていくお釈迦様に、一人の比丘が心配して何かお召し上がりになりましたかと尋ねます。お釈迦様は衰弱がひどく話す力さえ無くなりつつありました。お釈迦様のその姿を見た比丘は悲しみ泣いて、自分の三衣を売りお釈迦様に食事を施そうとします。するとお釈迦様は「貴方の三衣は、三世諸仏の幢相なり、この衣の因縁極めて重く、極めて恩あり」(あなたの着られている三衣はあなただけにとどまらず、過去・現在・未来に極めて重い因縁があるのです。それは極めて恩があります。)と言われ、私はそれをいただく事は出来ませんと、その食を断ります。

  その時、比丘は「仏(お釈迦様)はこれ三界の福田、聖の中の極みなり、それでも頂いてもらえないなら、他の誰かに施します。」(お釈迦様のような聖の極みのお方においても御召し上がていただけないなら、誰かに施すしかありません)。するとその時、お釈迦様はあなたの親は居られますかと尋ねます、そしてあなたの両親にこの食を与えなさいと言われる。比丘はお釈迦様がお食べにならないのに、どうして私の親が食べることが出来るでしょうか、と返答しました。お釈迦様は、「あなたの両親は食べて良いのです。あなたの両親はあなた自身をこの世に生んだのです。あなたにとってそれは大きな重い恩です。これがためにあなたの両親は食べてよいのです。」と告げられ、そしてまた「あなたの両親は信心がありますか」と尋ねます。比丘は両方とも信心はないと答える。その時にまたお釈迦様は「だからこそあなたの両親に与えなさい、いまそこに信心があるのです。」「あなたの両親もまた親がいます。いままでの経緯を教えてこの食を与えなさい。そうすればあなたの両親はこの食を得ることが出来ます。」

  比丘が言うところの「仏はこれ三界の福田。聖の極みなり」に対して、お釈迦様が比丘に言われた福田とは何だったでしょうか。それはこの三界(過去・現在・未来)において、あなたとして生を受けたことによる両親への恩だということでしょう。この文の最初の処ですが「すでに父母あればすなはち大恩あり」という言葉は、この私のいのちは、過去・現在・未来を貫いている福田であり、大きな恩があると言われるのです。その私のいのちの初めを、次の文に「すでに身を受けんと欲(ほっす)るに、自の業識をもって内因となし、父母の精血をもって外縁となす。因縁和合するがゆえにこの身あり。この義をもってのゆえに父母の恩重し」と、こういう言葉で続けられます。「自の業識をもって内因となし、父母の精血を外縁となす。因縁和合するがゆえにこの身あり」です。だからこそ父母の恩重しですね。

  この自の業識は生きんとする意志だと言われます。生の初めが父母の精血であることは分かりますが、その精血が生きんとする意志と因縁和合することによってという言い方です。自らのいのちが始まる時をこういうふうに表現されのですね。この生きんとする意志を、私が生きようと思うということなら、親の恩を決めるのも私の思い次第です。しかし、この生きんとする意志は、いのちが始まる時を言うのですから、今の私の気持ちがどうであれ否応なしにこの身として始まっているという事実ですね。ここに気づけば父母の恩重しです。私の思いよりも深く、私の意識よりも前に、生きんとする意志が私の生の初めとしてすでに始まっている。そういう私を頂くのでしょう。こういう生の根源を韋提希に享受して、そして発菩提心へと続いていきます。

  で、この発菩提心なのですが、正直困っております。なかなか難しい。当初はそう気にしてなかったのですけど、いざそこを通り過ぎようとした時に大きな壁みたいになってしまいました。

  この発菩提心は最後に「また菩提というは、すなはちこれ仏果の名なり。また心というは、すなはちこれ衆生能求の心なり。ゆえに発菩提心というなり。」の言葉で終わります。これも難しいですが、その前の菩提心の説明もなかなか難しい。「我が身、虚空に同じく心は法界に斉しく、衆生の性を尽くさん。」これをどう解釈するのだろうか。

  とにかく、この「菩提というは仏果の名なり」ですから、ここで言う菩提とは仏果の名前だということですね。仏果の名前なら他にもあります。法、法性法身がある。涅槃もそうでしょうか。まだ他にもあると思いますが、ここで言う菩提はその名の一つであるということです。また、衆生能求の心は衆生自らが求める心でしょう。これは仏果ではありません。あくまでも衆生という人間の心です。だからこの「菩提は仏果の名なり、また心は」というのは、菩提は仏果であり、また韋提希の菩提心は衆生が浄土を求める心である、とこうなるわけです。

  衆生を超える仏果と、韋提希の菩提心は違います。しかし、ここではある関係としてこの両方が生まれている。こういうふうにも読めるのですね。「我が身、虚空に同じく心は法界に斉しく」我が身をどこの我が身と捉えるかですが、この場合はやはり生の初めとしての我が身でしょうね。そしてその身は虚空に同じです。そして心は法界に斉しですね。するとこの心は韋提希の衆生能求の心というよりも、自の業識である生きんとする意志になるでしょう。ここでの法界も虚空も同じことだと思います。だからこの生の初めの我が身と心は法界に斉しい。その我が身と心を基礎認識としている韋提希の衆生能求心が発菩提心である。こういう言い方ではないかと思うのですね。

  そしてこの韋提希の発菩提心を私の信心としていただく時が、今この私を頂くという信心である。「如来よりたまはりたる信心」をこういうふうに思うのです。なかなか難しい所で、かなり消化不良な処になっています。ただこれは善導大師の念仏における信心ということで話しておりまして、法然上人は偏依善導と言われますように、善導大師の御信心を自らの信心だと言われるわけですから、こういう内容が法然上人の専修念仏の背景にもあるということかなと思う訳です。今日は「如来よりたまはりたる信心」を自分なりに探りながらここまで来ましたが、まだまだぼやけたところが多いようです。

  また、一般的に法然上人の専修念仏で、こういった信心が言われているとは聞ききませんが、当時の民衆に進められた専修念仏にこういった背景があったのではないかと考えるところのものです。そして思うのは、親鸞聖人は比叡の時にすでにこの観経疏を読破されていたのではないかという事ですね。