『浄土論註』我依修多羅 真実功徳相から

令和5年3月21日 春彼岸会より

 前回の作願門で『論註」をひとまずお休みすると言っておりましたが、作願門上巻の次に「我依修多羅 真実功徳相 説願偈摠持 与仏教相応」の四句があります。ここまでを一区切りにしたいので、今日はこの「我依修多羅 真実功徳相」をテーマにしてお話をさせていただこうと思っています。で、今日のテーマは「我れ修多羅の真実功徳の相に依って 願偈を説いて摠持して仏の教えと相応す」ということになります。今回は少しずつ分けて読んでいきますのでよろしくお願い致します。

【 次に優婆提舎という名を成立させ、上の三門を全うして以下の偈を起こす。「我れ修多羅の真実功徳の相に依って願偈を説いて摠持して仏の教えと相応す」この一行はどのようにして優婆提舎という名を成立させ、どのようにして上の三門を全うして下の二門を起こすのであろうか。偈に「我れ修多羅に依りて仏の教えと相応す」といわれている。修多羅とは仏の経を呼ぶことばである。「私は仏の説かれたこの経を論述し、経の意に応じていささかの相異もなく、まったく仏法のまことの相と一致しえたから、この論偈を優婆提舎と名づけることができるのである」というのである。これで名を成立させおわった。どのようにして上の三門を全うして、下の二門をおこすかというに、「依る」ということには、何に依るのか、なぜ依るのか、どのように依るのか、ということがある。】

 まずはここまでですが、この文の最初のところに「優婆提舎という名を成立させ、上の三門を全うして以下の偈を起こす。」という文言がありますね。この『浄土論註』の初めに優婆提舎を説明されているところがありますので、まずその個所を読んでみます。「仏の説かれた十二部経の中に、論議経というのがあって、これは優婆提舎と名づけられる。さらに仏の弟子たちが仏の説かれた経の教えを解釈した、それが仏の教えの意(こころ)にかなっていれば、仏はそれを優婆提舎と名づけることを許された。それが仏法の相(すがた)を得ているからである。」

 こう書かれているわけですが、この論議経を調べると優婆提舎のことだと書いてあります。では今度は優婆提舎を調べると、それは論議経だということです。で、よく分かりませんが、とにかく仏弟子たちにより論議されたものだということのようです。

 また、天親菩薩もこの論議経を「私は仏の説かれたこの経のいわれを論述し、経の意に応じていささかの相異もなく、まったく仏法のまことの相と一致しえたから、この論偈を優婆提舎と名づけることができる」と書かれているわけですが、しかし、この作願門の後にこのように言われるのなら、上の三門の礼拝・讃嘆・作願門がこの経の意(こころ)に応じていて、いささかの相異もないといわれていることになります。すると、作願門においてこの優婆提舎は成立したことになりますね。だから「上の三門を全うして」と書いてあります。そしてこの優婆提舎は下の二門である観察・回向門とどのように関係するかということを次に書いてあることになります。

 そこで、上の二門との関係として、次の二門を起こすのはどういうことかといえば、それは「依る」ということがあるからだということになるのですね。そして、この「依る」ということを、何に依るか、なぜ依るか、どのように依るかと、三つに分けておられます。

 

 では、次の文を読んでみます。

【 何に依るかといえば、修多羅に依る。なぜ依るかといえば、如来はとりもなおさず真実功徳の相であるからである。どのように依るかといえば、五念門を修することによって、如来の真実功徳の相に相応することができるからである。これで上を全うして下を起こすことをおわった。修多羅とは、十二部経の中で仏が直接説かれたものを修多羅という。つまり四阿含の三蔵などがこれである。三蔵以外の大乗の諸経もまた修多羅と名づける。この偈の中で修多羅に依るというのは、三蔵以外の大乗の修多羅であって、阿含などの経ではない。】 

 まず初めの「何に依るか」ということですが、それは修多羅に依るのだということですね。そしてこの修多羅とは何かというと、この偈は無量寿経優婆提舎願生偈が正式名ですから、無量寿経をその修多羅とするのです。そしてその修多羅とは何かを下の文に説明してあります。そのまま読むと「修多羅とは十二部経の中で仏が直接説かれたものを修多羅という、つまり四阿含の三蔵などがこれである。三蔵以外の大乗の諸経もまた修多羅と名づける。この偈の中で修多羅に依るというのは、三蔵以外の大乗の修多羅であって、阿含などの経ではない。」と、このように書いてあるでしょう。

 この説明では、無量寿経を三蔵以外の大乗の修多羅とするというのが曇鸞大師の説になりますが、この三蔵というのは経蔵・律蔵・論蔵をいうのだそうでして、いわば仏教における教えの体系のことだろうと思います。すると、この無量寿経を修多羅とするというのは、無量寿経を三蔵のように仏教の教えの体系には位置付けないということになります。そして、次に「阿含などの経ではない」とも言われていますね。

 阿含は初期仏教の経典をさしますので、この無量経は、時代的に後起こる大乗仏教の歴史に登場する経典ですから、初期仏教に無量寿経の原型があるのか知りませんが、しかしですね、だからといってここで阿含などの経ではないとわざわざ述べる必要があるのかということですね。なぜならば、ここは阿含経と無量寿経を比較する場所ではないと思うからです。

 つまり、ここで言われる優婆提舎というのは、仏教の体系を論じたものではなくて、また、阿含などのような仏陀の直接の言葉でもないというニュアンスがあります。修多羅ということで曇鸞大師はこういう表現をされていることになりますが、不思議な表現だなあと思いますよ。

 そこで、以前に話しました「我一心について」に戻らなければなりません。この「我一心」とは何かということですが、上巻の初めのほうに書いてあります、「我一心とは、天親菩薩が自らをすすめ、ひきい、正されたことばである。これは、無碍光如来を念じて、安楽国土に生れたいと願われ、その願う心がかぎりなく続き、雑念が少しもまざらないことをいう。」と、このように表現されています。この天親菩薩が自らをすすめ、ひきい、正されたことばであるということですが、この「ひきい」の原文である「率」は、ひきいる、ひきつれる、退く、引きこもるという意味もあります。天親菩薩は「我一心」において、自らが進んで率いですから、自ら進んで退き、そして我一心であると言われます。

 つまり「我一心」とは天親菩薩が自らが進んで退いて、そして正された言葉である。その我一心を「無碍光如来を念じて、安楽国土に生れたいと願われ、その願う心がかぎりなく続き、雑念が少しもまざらないこと」だと言われる、そしてこれが「我一心」の心ですね。だからこの「我一心」は、天親菩薩ご自身の言葉というよりも、「我一心」そのものを言われている。そしてその「我一心」の展開する様子を礼拝・讃嘆・作願門と観てきたわけですね。そして作願門において「我一心」がついに「一心」をもって完結した。それではその「一心」とは何であったかといいますと、それは阿弥陀如来の浄土の相(すがた)である、そしてその浄土の相(すがた)がそのまま「一心」としての菩提の相(すがた)であるというのが作願門までの内容でありましたね。

 だからこの三門が全うするとは、「我一心」が「一心」に完結することですから、この「我一心」が「一心」に完結することをもって、優婆提舎が成立していると言われている、と、そう思うのですね。しかしながら、そうすると、ここに言われる修多羅は、お釈迦様が説かれた経でありながら、お釈迦様が自らすすみ、ひきい、そして正された言葉であるということですね。だからお釈迦様が直接お説きなにられた阿含などの経ではないといわれている。何故なら、この修多羅は「我一心」がついには「一心」である菩提の相(すがた)をもって完結する経だからだということでしょう。そしてこれをもって無量寿経の優婆提舎が成立したといわれているわけです。

 では、この上の三門である礼拝・讃嘆・作願門が全うされたら、下の二門を起こすのは何故かということとですが、それが「修多羅に依る」からだということですね。そこで、この修多羅は上の三門が全うされることで下の二門を起こすことになりますから、下の二門である観察門と回向門がその依るところの修多羅だということになります。しかしですね、そうなりますと、上の三門の礼拝・讃嘆・作願門はどうなるのかということでしょう。ところが、しかし、上の三門もまた修多羅であるということです。

 そこでこの上の三門と下の二門の修多羅の関係を、ここでは「依る」ということでいわれています。おそらくこれは、上の三門と下の二門はリンクしていると言われているのではないかと思います。リンクとは連動するとか連結するといった意味になります。そこで上の三門と下の二門のリンクする様子を見ていくことにしますと、『浄土論註』の「我一心」とは天親菩薩の「我一心」ですが、この修多羅では釈迦様の「我一心」になりますね。だからお二人それぞれの「我一心」ということになりますから、ここに複数の「我一心」が登場しているわけです。そしてそのそれぞれの「我一心」が完結する相が「一心」ということでありますから、この「一心」においては、すでにもうそれぞれというのはないと、こういう意味が含まれているのではないかと思います。しかしそうなりますと、これは天親菩薩とお釈迦様お二人だけの問題ではないでしょう。私たちにも何か関係してくるような気がしますね。

 しかしですね、いくら何でも、お釈迦様や天親菩薩と並べたらだめじゃないかということが当然あります。しかし、ここはそういうレベルの違いを述べる所ではありませんから、あえて言えば、上の三門において「我一心」がどれだけあろうとも「一心」は同じであるということでしょう。そして、上の三門は「我一心」から「一心」までの展開をあらわし、下の二門では「一心」を展開する。修多羅にはこういう二つの展開があるということではないかと思います。

 それで、次の「なぜ依るか」ということになりますが、これを「如来はとりもなおさず真実功徳の相であるからである。」と言われます。とりもなおさずとは、同じ内容を違う言葉で言い換えることだそうですから、すなわちという意味ですね。すると如来はすなわち真実功徳の相であるということになります。これをまた言い換えれば、真実功徳の相はすなわち如来であり、その如来である真実功徳の相に二種あると書いてあることになります。 

 

 それでは、次の処を読んでみましょうか。

【 真実功徳相とは、功徳に二種ある。一には煩悩にとらわれた心より生じ、存在の道理にしたがわないもの。いわゆる凡夫の世界の諸々の善根、それによって起こる結果は、因であれ果であれ、みな本末を顛倒し、みな虚偽である。だからこれを真実でない功徳というのである。】 

 ここに「凡夫の世界の諸々の善根」とありますが、この凡夫の世界とは何だろうかと思うのですよ。この凡夫の世界ということでさんざん考えました。はっきりした結論のようなものはありませんが、とにかくどういったものかと自分なりの考えを述べようと思います。

 で、この凡夫の世界とは、ようするに私たちの普通に思うところの世界だと思うのですね。この場合は世間といった方が分かりやすいかもしれませんが、まず、世界という場合は私たちが見る所の世界ですから、私の思いが見ている世界であり、主観というようなものかなと思います。それに対して世間は私たちの生活における身近な環境でしょう。家族や子育て、また親せきや友達関係、ご近所との関係、仕事関係者とのお付き合い、これら実際の生活環境でどのように生きているか、その様子が凡夫の世界だと思うのですね。ここには私の思いだけがあるのではなくて、世間はさまざまな思いの集合体ですから、いろんなものが溢れていますよね。

 すると私の悩みというのは、そのほとんどがこの世間での悩みですね。で、それをここでは煩悩にとらわれた心より生じたものだと言われています。こういう言い方をすれば、もうこれ以上の説明はいらないのじゃないかという気もしますが、では、その次の存在の道理にしたがわないものとはどういうことでしょうか。

 私たちは比較しながら生きているでしょう。誰かと比較する、何かと比較する、こういうことは日常茶飯事ですね。鏡を見てこんなはずじゃないと鏡の中の自分とも比較します。自分の存在を観ようとするときは、そのほとんどが何かと比較している時です。そしてそういうことをしょちゅう繰り返しながら生きているわけですね。しかしですよ、そういう比較ばかりしている私は本当の私ではないと、心のどこかで感じている、と、そんな気もする。どうでしょうか。

 で、世間ということで話をもどしますが、誰もわざわざ悪だくみをしながら世間に生きているわけではありませんが、それでもときどきはそういう悪だくみの中で生きている人もいる。それでもですね、だいたいにして多くの人が善良に生きようとしておられる方ですね。そして自分に良かれと思いながら生きている。それを諸々の善根というのだろうと思いますよ。しかしながら、この悪だくみをしながら生きている人においても、すくなくとも、その人自身にとって良かれと思い悪だくみをしているわけですよ。だからこの悪だくみの者も「凡夫の世界の諸々の善根」に入るかどうかということですが、本人の都合で良かれと思っているのなら入るのではないですか、どんなものでしょうね。まあ、それもこれもで、そして、自分をとりまくさまざまな人間模様や社会的制約とともに法律が混ざり合い、それぞれに結果が生れていく、そして、その結果においてまたそれぞれの思いが生れていくわけですね。

 こういうものを凡夫の世界というのかなと思うのですが、ではなぜこれが本末転倒しているのかということになります。これは私の心というのは分別心のことですから、この分別心とはまた私の自我であり、私の執着心のことでもあります。この分別心が本末転倒した虚偽の心であると言われるのですね。

 私たちは何かことがあると、まるでそこに我があるかのごとくに、おれはおれはとふるまう、これを執着心というのだろうと思います。そのもとにあるのを分別心というのですが、この分別心とは何かといいますと、分け隔てする心ですね。おれとおまえ、おれとあの事とか、おれをあの時おまえはどうしたとか、だんだんめんどうくさくなってきますが、このような分別心が何かの縁で、何かにとらわれていく、そして何かが起きていく。その結果の集合体が今の私の世間ということだろうと思います。だから私たちが普段思っているところの我とは、この分別心のことになるわけです。この分別心をもって生きていることが、世間を生きていくことですから、ごく普通の私たちの姿でしょう。しかし、それは存在の道理からすれば本末転倒であるということですね。

 で、ここからが難しくなります。この本末転倒しているとか、虚偽だとかいわれるのは、なんとなく分かる気がします、だって他人と比べて有頂天になったり、嫉妬や妬みにさいなまれて生きることが良いとは思わないでしょう。他人と比べない本当の自分自身でありたいと思ったりしますよね。だから、わざわざ執着心だとか分別心だとか言わなくても、比較ばかりしてはだめだなあと思ったりしますよ。しかしですね、それが、ここに言われているように、これを「真実でない功徳である」というのはどういうことかということです。このように「真実でない功徳である」と言い切れるのは、これは分別心を超えた、それこそ真実を背景にして、はじめて言い得ることでありますから、私の分別心には無いものでしょう。しかしですね、だからといって何となくは分からないではない、と、どこかではそう思えることもある、と、まあ、えらくあいまいな表現ですが、感覚としたら分からないではないでしょう。

 こういう漠然とした感覚は、実は私たちが死の問題を抱えているからだと思うのですね。なぜならば私の思いとは、私の生において生じる分別心ですから、その生の対極にある死は、生における分別心には入りません。だから、死はいつも私の生の影のように存在するのですね。だとすると、死を感じながら生きるとは、私の分別心を超えた何かを感じながら生きていることになるでしょう。天親菩薩はこの分別心を超える何かを、自らひきい、そして正して「我一心」の心をもって顕されたと思います。つまり、「我一心」からすれば、私の分別心は本末転倒であり虚偽なのです。これを「真実でない功徳」だと言われるのではないかと思います。

 

それでは、その二つめの真実功徳相です。

【 二には、菩薩の智慧による清浄の業にもとづいて、仏の衆生教化の事業を立派に行われた功徳である。これは存在の道理にしたがい、清浄の相にかなっている。この法は顛倒せず、虚偽がない。これを真実の功徳というのである。どのように顛倒せず、虚偽がないかといえば、存在の道理にしたがい、二諦に順じているからである。どうして虚偽がないかといえば、衆生をつつみいれて、もはや変わることのない清浄に必ず入れるからである。】

 これまで、この上の三門の礼拝・讃嘆・作願門を、「我一心」がついには「一心」において完結することを見てきたわけですが。二つめの真実功徳相ではそれを「菩薩の智慧による清浄の業にもとづいて」そして「仏の衆生教化の事業が立派に行われた」と書いてありますね。つまり、「我一心」から「一心」への完結を、ここでは菩薩と仏のはたらきとして言われていることになろうかと思います。では、その菩薩の智慧による清浄の業と仏の衆生教化の事業がどのようなはたらきであったのかといいますと、それが一つめの「真実でない功徳」である真実功徳相です。真実でないというのは、私には分別心しかないということですから、つまり分別心が私であるということになります。この私が分別心であるという、この顛倒した虚偽の姿をそのまま衆生の姿としていただくのですね、これが仏からすれば衆生教化の事業ですね。この衆生の姿を頂くことこそが存在の道理にしたがっている清浄の相であると、そして、それを「二諦に順じている」のだといわれています。

 ここに二諦という言葉がでてきます。この二諦というのは龍樹菩薩の世俗諦と勝義諦のことだと思いますが、また真諦門と俗諦門とも言われています。この二諦の教えは龍樹菩薩の教えとして有名ですが、実際のところはまだ定説とはなっていないとも聞きます。それをですね、ここで詳しく述べることなど当然できないわけですね。しかしながら、ここに述べられている「二諦に順じている」ということがどういうことかというのは、ここの内容の他にはないことにもなるので、ここにおける内容から曇鸞大師の「二諦に順ずる」とは何であるのかを自分なりに見て行くことは出来るのかなとも思いますので、少しこの二諦について考えてみたいと思います。

 で、この文脈からすると、二諦とはやはりさきほどから言いますように「菩薩の智慧による清浄の業にもとづいて、仏の衆生教化の事業を立派に行われた功徳」を二諦に順じているといわれるのだと思いますね。で、まず菩薩の智慧による清浄なる業が、私たち凡夫の世界にはたらきかけているとしても、いきなり凡夫が衆生の姿を成就することなどはないからですね。上の三門は凡夫が衆生の姿へと成就するまでの過程をいわれているのですから、凡夫が衆生の姿へと完結するまでのお育て期間ですね。するとこの「二諦に順じている」とは、凡夫が衆生の姿へと成就するまでを菩薩のはたらきとするのですから、それを「菩薩の智慧の清浄の業にもとづいて」といい、そして、凡夫が衆生の姿として完結するまでの期間を俗諦という。そしてその俗諦は、裏を返せば、仏の衆生教化の事業が立派に行われている功徳ですから、それを真諦という。真諦はこのように俗諦に基づいているから、このような真諦と俗諦の関係を「二諦に順じている」といわれるのではないでしょうか。これ以上に深く掘りさげることは出来ませんが、とにかくこの二諦の問題を、ここでさらっと述べられている、そういうことかなと思ったりしております。 

 

 そして最後の文になります。

【「願偈を説いて摠持して、仏教と相応す」とは、持は散せず、失わないことをいう、摠は少によってつつみとることをいう。偈とは五言の句をいくつかつらねた韻文である。願とは往生をこい楽(ねが)うことをいう。説とは諸々の偈と論とをとくことをいう。まとめてこれをいえば、往生を願う偈を説くことによって、仏の経をまとめて身につけ、仏の教えと相応するのである。相応とは、たとえが函と蓋とがぴったりあうようなものである。】 

 この最後の文はそのまま読んだ方がいいかと思います。これは偈を摠持すると書いてありまして、摠持とは記憶して忘れないようにすることですから、読誦することで、暗記して、空でもこの偈をあげるくらいに身につけるということですね。私たちの日常のお念仏と同じ感覚でしょう。そうすると、次第にこの願生偈の意味と相応してくる、まるで函と蓋とがぴったり合うようになるということでしょう。 

 ところで、これは余談になりますが、ここに函と蓋が出てきますね。この函と蓋の事で少し話をもどしてみたいと思います。さきほど「二諦に順じている」ということで、「衆生をつつみいれて、もはや変わることのない清浄に必ず入れしめるからである」とありましたね。この言葉をあえて函と蓋で言い表すとすると、「衆生をつつみいれて」ですから、衆生はそのつつみいれられるものです。だから函とは衆生をつつみいれる清浄の函ですね。すると、その函につつみ入れられることが「もはや変わることのない清浄にかならずいれしめるからである」ということですから、この函とは菩薩の智慧による清浄の業にもとづいている函ですね。そして蓋をその果とするならば、仏の衆生教化の事業が立派に行われた結果だということになります。つまり、この二諦に順じているということを、ここでは函と蓋でいい表わされようとしているということです。

 もしこのような解釈ができるならば、この函とは衆生を入れる器であり、その衆生はどこまでもひろがる凡夫の世界でしょう。函は衆生の数だけあり、その数がどれだけあろうとも足らないことはない、こういう含みがあります。そして「我一心」から「一心」までをお育て期間などと言いましたが、この函と蓋がぴったり合うのは「一心」においてですね。だからそれまでの期間の函と蓋とが、二諦に順じながら成立していくといった表現をされているのだろうと思います。

 しかし、それでもですね、このあたりの「我一心」のとらえかたが少しめんどうでして、このお育て期間を単なる時系列で考えるとぼやっとしたものになり、もうひとつ釈然としなくなる。しかし、もともと「我一心」は刹那的ですから、この上の三門の「我一心」を、その時々における刹那的な「我一心」は、二諦に順じながら、そしてついに「一心」に完結する、と、このように解釈するのではないかと思っています。この『浄土論註』が顕そうとするのは、単なる時間軸を表現しようとしたものではないことは、何となくですが分かります。例えば、この「我一心」は刹那的でありながら、単なる時間の断片的なものではなくて、刹那的であることによって、そこにふれることが時をも超えているというような内容があります。

 今回でこの『浄土論註』はお休みするつもりです。そして今度は親鸞聖人の書物から、またこの『浄土論註』の続きを眺めていきたいと思っています。