『浄土論註』下巻 作願門

令和4年12月 御正忌報恩講より

 

『浄土論註』下巻 作願門

 どのように作願するのか。心につねに願いをなしつづけるのである。一心に専ら(阿弥陀如来を)念じて、ついに必ず安楽国土に往生して、実(まこと)の如(まま)に奢摩他(しゃまた)を修業したいとおもうからである。奢摩他を訳して「止」という。止とは、心を一つ処に止めて、悪をなさないことである。

 この訳名は、おおよそその意味にたがうことはないけれど、まだその意味において充分ではない。なぜかといえば、心を鼻の端(さき)に止めるような[観法]をも止と名づけるし、不浄観[法]は貪[欲」を止め、慈悲観[法]は瞋(いかり)を止め、因縁観[法]は[愚]痴を止めるが、このようなものもまた止と名づける。人が(どこかへ)行こうとして、行かないような場合もまた[中]止という。

 これで、止という、[訳]語は漠然としていて、正確に奢摩他という名をあらわしたとはいえないことがわかる。たとえば、椿やクワや楡や柳のようなものはみな木と名づけるが、もし単に{木}といっただけでは、どうしてそれが楡や柳か決めることができようか。

 ここで奢摩他を止というについては、三つの義(わけ)がある。

 一には、一心に専ら阿弥陀仏を念じて、彼の[国]土に生れたいと願えば、この如来の名号及び彼の国土の名号が、よくすべての悪を止めるのである。

 二には、彼の安楽[国」土は、三界の道をこえているから、もし人が彼の国に生れれば、自然に身や口や意(こころ)の悪を止(や)むのである。

 三には、阿弥陀如来の正覚の、しっかりと衆生をとらえてはなさない力によって、自然に声聞・縁覚[の利己的なさとり]を求める心が止むのである。      

 この三種の止は、如来の実(まこと)の如(まま)の功徳より生ずる。だから、「実(まこと)の如(まま)に奢摩他を修業したいとおもうから」といわれるのである。

    

    ― 御正忌報恩講より 『論註』下巻 作願門について ―

  相変わらず、何となく読んでいけば、それはそれでよく分からないまま通り過ぎてしまう文章なのですが、目を凝らして読み込もうとすると、また違う景色が表れるのですね。この作願門の文を読むと、一年前のちょうどこの御正忌報恩講で話した「我一心について」を思い出します。この文の初めの「心につねに願いをなしつづけるのである。一心に専ら(阿弥陀如来を)念じて、ついに必ず安楽国土に往生して」と書いてあるところなど、そのままその「我一心について」とかなり類似しておりまして、ブログの「我一心について」の方を読んでいただいた方が、これから簡単に説明するよりもよほどいいのではないかと思ってしまいます。ただし、ここに書いてあるのは、「我一心」ではなくて「一心に専ら(阿弥陀仏を)念じて」とありますように「一心」ということです。

 では、「我一心」とこの「一心」とは同じものかそれとも違うのか、と、こういう問題がまずある訳ですが、「我一心について」の、自分なりの理解からするなら同じになろうかと思います。この「我一心」の「我」は、「一心」との関係において成立する「我」ですから、単に「一心」といいましても、これもまた「我一心」における「一心」である、ということではないかと思っています。すると、今回の作願門(下巻)を読ませていただくと、まず「一心に専ら(阿弥陀如来を)念じて」と書いてあります。だからすでに「我一心」においての「一心」ですから、あえて「我」は除いてあるのだろうと思う。しかし、もしそうならば「我一心」とそのまま書いておればいいじゃないか、という疑問もおこるでしょう。

 次に、「ついに必ず安楽国土の往生して」と、その往生への願いがついには成就することが書いてある。この、「必ず」と書いてあるのは、すでに往生は決まっているという意味でありまして、おそらく決まるだろうという意味ではありません。ほとんど決まっているというならば、それは、もしかしたらその願いは叶わぬかもしれないでしょう。だから、ここに必ずとあるのは、それは決定していると言われていることになります。しかし、私たちからしたら、大体にして大丈夫じゃないかといった方が、どちらかというと意味が通りそうです。では、このもう決定しているというのは、いったいどういうことなのかと、ここにも疑問がある。

 そしてまた、この必ずという文字の前に「ついに」という言葉までが添えられています。この「ついに」ということが、ついにそこまで行けばという意味なら、「一心」がついにそこまで成れば必ず安楽国土に往生して、と、こういうことになるでしょう。すると、まだそこまでの過程が残っているということですね。で、その過程を通り越すと、それこそついに必ず安楽国土に往生する。しかし、ついに必ず安楽国土に往生するのなら、今はまだ往生はしていないのではないか、それともすでに往生をしているのか、と、こういうような疑問もあります。

 そして、ついにその安楽国土に往生すれば、そこからいったい何が始まるのか。それは、実(まこと)の如(まま)に奢摩他を修業することが始まるのだ、ということでしょう。こうまでして安楽国土に何をしに行くのかといえば、それは、実(まこと)の如(まま)に奢摩他を修業するために行くのだ、と、言われていることになるでしょう。

 この作願門を読んで、いくつか疑問を作ってみました、こうしてみると、どれもこれもよく分からないし腑に落ちないものばかり。

 で、この作願門にあります「止」は奢摩他といいまして「止観」の「止」の事です。仏教のさとりを「止観」という言葉で現わすのですが、その「止観」の「止」の方が今回のテーマであります。この「「止」の意味が次の文にありますので、まず読んでいきますと、「奢摩他を訳して「止」という。止とは、心を一つ処に止めて、悪をなさないことである。」と、こう説明されています。まずこの「止観」ですが、調べてみたら「止」は「三昧」、「観」は「智慧」だと言われているようです、が、それ以上にはっきりした回答は見つかりませんでした。しかし、とにかくこの「止」を「三昧」で調べると次のようになっております。

 定、正受、調直定、正心行処、息慮凝心、の五つが出て来ます。まず定は、心を一処に定めて動くことがない。正受は、正しく処観の法を受けるとありますから、正しくその観法を受けるという意味だと思います。調直定は、心に暴を調え、心の曲がるのを直し、心が散るのを定める。正心行処は、心の動きを正して、法に合わせるための依処である、とあります。そして息慮凝心については、縁慮を止めて心念を凝結すると書いてありまして、この縁慮というのは対象を捉えようとする心だそうです。また、心念を凝結するとは心を一つに定めることですから、息慮凝心は物事を捉えようとする心を止めて、静かに心を一つに定めることかなと思います。

 で、この説明に従って考えるならば、どれが作願門における「止」なのかということになりますが、「止とは、心を一つ処に止めて、悪をなさないことである」という意味なら、「三昧」のどれもがこの「止」に当てはまるのではないでしょうか。

 次に、この「止」を「不浄観」と「慈悲観」と「因縁観」で説明しておられますね。そして、それだけではこの奢摩他をあらわしつくしていないといわれる。まず「不浄観」ですが、これは死の問題でありまして、人が死んでから腐敗していくまでをじっと観想する。どんなに容姿端麗や美貌の持ち主であっても、その死体は腐敗し、そしてついには骨だけになってしまう、そういう情景を観想して、むやみな欲を止めるということです。

 「慈悲観」は少し難しいですね。仏の慈悲の前では全てが平等であるというような観法だと思いますが、この「平等」という言葉はすぐに賛同される言葉ですが、実際具体的になると、何をもって平等とするかという難問にぶつかる。あちらを立てればこちらが立たぬ、余すことなく平等だというのは、理念としたら魅力的ですが、具体性からすれば不可能に近いと思いますね。で、この「慈悲観」は難しいので少し措いておきます。

 次の「因縁観」ですが、因果応報といいまして、原因がありその結果がある、当たり前のことですが、その因に何かの縁が関わり結果が生じる。こういう道理を因果応報というのだろうと思いますし、そしてこのことを「因縁観」ともいうのだと思います。この「因縁観」は、私たちの人生といいますか、この私が生きるということにおいては業の問題になるのではないでしょうか。業の問題は一人称の問題でありまして、この私が、ここにこうして生きていることにおいての私の業ですから、良いも悪いも今の私は、この私の業において生きているということですね。こういう状況や環境で、こうして来たからこうなったのだという、この道理は当たり前であるがゆえに、大きな尺度にもなると思います。

 信仰ということにおいてもですね、人間がするものですから、その信仰が何かのきっかけで暴走することもある。だから、信心の吟味においても、この因果因縁の道理は大きな物差しになる。物差しとは迷ったときにもとに戻る目安でしょう。いつも気持ちはあっちこっち飛んでいきます。何でも度が過ぎてしまう、信仰や信心も同じです。そういう私たちに足るを知ることを教える。これね、分かっちゃいるけどなかなかそうならない訳ですが、このなるようにしかならないという因果因縁の道理が、今の私の尺度になり、ああそうだったなと何となくでも気持ちを落ちつかせる。ただ、しかしそういう「因縁観」もまた、この作願門の奢摩他をあらわすには正確ではないといわれるのでしょう。 

 まず一通りですが、このように「不浄観」「慈悲観」「因縁観」を話してみました。で、しかしながら、何故ここにこういう観法が載せてあるのだろうかと考えてみた訳ですよ。少し気になる事があるものですから、あえてこの観法を自分なりに踏み込んでみようと思います。そういうことは、この何処にも書いてないのですが、こういうことも言えるのではないかと思いますので、違うかもしれませんが、とにかく話そうと思います。で、どういうことかといいますと、まず、この「不浄観」ですが、「不浄観」は死の観法ですね、すると、自らの死における観法とは何かというと、これは私が死ぬ時ですから「臨終時」のことですね。「慈悲観」はその自らの臨終の時における阿弥陀仏の「慈悲観」ではないか。では、その阿弥陀仏の慈悲とは何かということですが、それは衆生への「平等観」だということです。衆生一人ひとりにそそがれる阿弥陀仏の慈悲の心であります。

 そして、次の「因縁観」が私の業の問題ならば、阿弥陀仏の慈悲はそれぞれの業の深さにあわせて臨終が変わります。三三九品といいまして、上品から下品までの上中下と、そのそれぞれにまた上中下の三種の臨終の様子と往生が説かれています。上品上生から下品下生まで全部救うぞというのが『観無量寿経』の「散善義」ですね。『観無量寿経』は「定善観」とこの「散善義」の二つが説かれていまして、その「散善義」にこういう臨終時の「慈悲観」が阿弥陀如来の来迎として説かれています。この『観無量寿経』の阿弥陀如来の来迎については、今の私たちにはあまりピンときませんが、時代をさかのぼるとかなり宗教的には影響があったのですよ。

 しかし、この「慈悲観」については、実は『観無量寿経』の「定善観」の中の「真身観の仏」に説かれています。仏のはたらきを智慧と慈悲といいまして、阿弥陀仏の智慧の世界とは余すところなく広がる光明の世界観ですね。私たちが良いとか悪いとかいう知恵ではありません。そして、阿弥陀如来の余すところなく広がるその智慧の光は、一人も除くことのない光明の世界ですから、それはそのまま平等の世界観でしょう。その光明の世界観が私一人においても、と、いう時に、智慧の光明はそのまま阿弥陀如来の慈悲心であるということを、この「真身観の仏」に説かれていると思います。なるだけ多くの人に優しくしたいと思っておられる方も多いかと思いますが、また、そういう心がなければこのような阿弥陀如来の慈悲観にも気づかないのでしょうが、仏の慈悲というのは、普通私たちが思う処のやさしさと同じものではありません。

 この『観無量寿経』における「真身観の仏」が阿弥陀仏の「智慧と慈悲」の世界観を顕している。だから『観無量寿経』は「定善観」と「散善義」が説かれているのですから、どちらも阿弥陀仏の「慈悲観」が説かれていることになります。「定善観」は世界観として、そして「散善義」では臨終行儀として。で、この作願門の次は観察門です。その「観察門」にこの「定善観」が関わっているのですね。すると、こういうふうに見て行きますと、『観無量寿経』の「散善義」は、奢摩他の「止」をあらわすにはまだ正確ではないと、こういうふうになるのですね。気になるものですからこういう観点を付けくわえさせていただきました。

 で、この奢摩他の「止」については、次に三つの義(わけ)を言われています。その最初に、「一には、一心に専ら阿弥陀仏を念じて、彼の「国」土に生れたいと願えば、この如来の名号及び彼の国土の名号が、よくすべての悪を止めるのである」と、ここに「一心に専ら阿弥陀仏を念じて」とありますが、この「一心」と「我一心」が違うのかそれとも同じなのかというのが初めに出しておいた問でありました。

 上巻の作願門では「どうして天親菩薩は願生といわれるのか」と、願生ということで言われています。この願生とは阿弥陀仏の国土に生れたいとう願いですが、この願うという場合には、そこに願う処の主体がなければならないでしょう。誰がそう願うのだということですね。私が願う場合は、私の心(我)が願うのだから、私の心(我)が願生するということになります。では、その私の心(我)が本当に願生の主体なのか。このことを上巻では、我とは無生(空)であり虚空のようなものであると言われる。だから私の心(我)といってもそれは亀の甲羅に毛が生えていると思っているようなもので、それは錯覚である。そういう無生(空)のごとき私の心(我)には願生する主体などないぞ、というのが問いかけだったわけですね。

 私たちは漠然とここに願生といわれた場合に、まるでその主体が自分にあるかのごとく思ってしまっているわけですが、そういう私の心というものが錯覚の代物だというのが上巻の説明でした。それじゃあ何がその願生の主体なのかということになります。そこに天親菩薩は「因縁」に願生の主体をおくのだといわれたわけです。ではその「因縁」というのはいったい何だったのか、これが上巻の問いに対する内容でありました。

 先ほどの「三昧」についての説明ですが、その「定、正受、調直定、正心行処、息慮凝心」のすべての主体は私の心であります。つまり、私の心を一処に定める。私の心に正しく処観の法を受ける。私の心に暴を調え、私の心が散るのを定める。私の心の動きを正して、法に合わせるための依処である。私の心の縁慮を止めて私の心念を凝結する。これすべて主体は私の心であり、その心の作用ですね。それに対して上巻では無生(空)をもって私の心の主体を否定されたのですね。そして「因縁」をもってその主体とするといわれます。

 ここで上巻のその「因縁」を思い出していただいて、もう一度作願門の因縁をおさらいしなければならん訳ですが、さあ記憶をたどってくださいてと言ってもですね、これは無理な話なので、よければ後からでも上巻の「因縁」を読んでいただければなと思っております。

 では、端折ってもう一回その因縁とは何かをお話ししますと、この因縁とは身体に属する心の在りようであり、その心の在りように映る私の業の姿でありました。そのどちらが因であり縁なのか分かりませんが、おそらく身体の方が鏡だろうと思っています。そこにそれぞれの私の業が縁として映る。つまり鏡とそこに映る業の関係になります。では、その私の業の姿とは何か、それは私の心である思慮分別心の中でしか生きられないという私の業の姿でありまして、そして、この私にまでになった業の歴史そのものであります。そしてその業の姿こそが名号の義(いわれ)によって、阿弥陀如来の光明に顕かにされた衆生の姿であり、阿弥陀如来が救わなければならない衆生の姿に他なりません。

 この阿弥陀如来の光明とその衆生の関係がついには、阿弥陀如来の正覚の相にまで成就すれば、阿弥陀如来の正覚が成就する相はそのまま衆生の姿でありますから、その衆生の姿も阿弥陀如来の正覚の相に他ならないのであります。名号の義(いわれ)によって、その衆生の姿が成就する。その姿こそが「我一心」の「我」ですね。この「我」を拠り所にする「一心」でありますから「一心」もまた私の思いを超えた「一心」であります。しかし、こういうことはすごく難しい問題でありまして、人間の思慮分別を超えたものを、あえて分かったつもりで整理しようとしているだけですから、実際の信心というわけにはいなかいのですが、こういうことではないかと思います。で、この思慮分別を超えた阿弥陀如来の正覚のときに「一心」であるということですね。

 

 この阿弥陀如来の光明に明らかにされた衆生の姿と、阿弥陀如来の正覚が不二の関係であるといのが阿弥陀如来の正覚の相でありますが、それを思慮分別を超えた実(まこと)の相だというのですね。その実(まこと)の相においてこの「一心」もまた不二の関係だというのがここで言われようとされる処ではないでしょうか。つまり、阿弥陀如来の正覚の相は、衆生との不二の関係であると共に「一心」においても不二の関係であるということです。衆生と阿弥陀如来の関係を安楽国土としてあらわすときは、おそらく場所としての関係でしょう。そして「一心」においては「実(まこと)の如(まま)に奢摩他を修業したいとおもう」ということですから、「一心」は阿弥陀如来の正覚におけるところの菩提の相になります。この場合は時間の相です。

 そして、この菩提の相が何を欲しているのかというのが最後の文になります。「実(まこと)の如(まま)に奢摩他を修業したいとおもい、ついには必ず阿弥陀如来の正覚の成就された安楽国土に往生したい」と欲するのだ、といわれているのですね。「月を指さす」という言葉でいいますと、このときの「月」が安楽国土ですね。そして「指さす」が、今日話しました「一心」です。するとこのときの月は阿弥陀如来の安楽国土であり、阿弥陀如来の正覚の相でしょう。ところが、指さす「一心」も阿弥陀如来の正覚の相です。この「月を指さす」といった場合の月と指の関係は、指さす「一心」があるときに月「安楽国土」ありですね。そして「一心」がないとき月はない。ここにもまた「月を指さす」という場合の不二の関係があります。指さすこちらも安楽国土、指さした月も安楽国土、こういう表現が出来るかなと思いますが、この場合の指と月は離れていますか、それとも離れていませんか。

 こういう話をすると、科学に少し興味がある方はオヤっと思われるでしょうか。こちらに明かりがともると同時にあちらにも同じ明かりがともる。これ「量子もつれ」という現象だそうです。量子力学の「量子もつれ」はすでに実証されています。まだ解明はされていないと聞きますが、何か関係があるのかなとも考えています。物理学を専門に学んだこともありませんので、詳しいこことは分かりません。以前は宗教哲学といいまして、この二つは同じ領域で扱われています。それが最近は科学との境界もなくなりつつある、そういう思いはしております。

 しかし、それにしてもこの下巻の作願門は不思議な終わり方です。五念門の途中なのに完結している。勿論、曇鸞大師が「量子もつれ」を知っていたはずがありませんから、不可解な事だと感じておられたのではないかと、勝手に想像しているわけです。こういう解釈に対して、それはお前の読み違いじゃないかといわれるかもしれませんが、自分としてはこの「月を指さす」という関係は今後も観て行きたいと思います。

 で、いったい次の本論である観察門はどうなったのでしょうか。自分なりに一生懸命考えてみました。おそらくですが、すでにこの観察門らしきものを通ってきたのではないかと思うのですよ。あくまでもそれなりにですが、模擬的にひととおり通ってきた、模擬というのは本物ににせて行うことだそうです。それが一年前の「我一心について」から「礼拝門と讃嘆門」の上下巻をとおして、模擬的にでも観察門を通過してきたのじゃないかと思うのですね。今日はこの辺りで終わらせていただきますが、私たちからみれば、この模擬的な場所からすでに本論ではないだろうかとも思います。次回は親鸞聖人の書物から角度を変えて、この『浄土論註』を訪ねてみたいと思っております。