令和8年3月 春彼岸会 法話より
「教行信証」の正式名は「顕浄土真実教行証文類」といいます。「文類」はいろんな文を集めたものということですから、浄土の真実を顕かにした文類ということになります。説明するのは簡単ですが、読もうとしても読めません。難解だからですが、読みかえがすごくて、その理由もよく分からないのですね。
しかし、それはこちらの立場で読もうとするからであり、親鸞聖人はちゃんと筋を通しておられるわけですから、こちら側との視点のズレがあることになります。だから親鸞聖人の描く文脈をこちらが探らなければなりません。
数百年の間、その作業が続けられています。そこでこの際ですから、自分もその作業に加えてさせていただいて、こうして聖教読みを皆さんと一緒に続けております。はたしてどこまで行けるか分かりませんが、まだ行き詰まってはいないと、自分ではそう思っているのでこうして続けています。
現在、教行信証の行巻を読んでいますが、先に証巻を少し読み、そして教巻から行巻に入りました。今回はその行巻の『十住毘婆沙論』から『浄土論』に入るところです。しかし、こうして聖典を読んでいくと、前後関係が当然出てきます。今回はとくにそれが強くて、前の『十住毘婆沙論』が無視できません。
ブログではそのまま読んでいただければ何とかつながるのですが、ここはある面一発勝負なので、なかなかそううまくいかない。今回の原稿をじっと見ていると、これはいくらなんでもこのままじゃ話にならんだろうと思ったわけです。だいたいにしていつもそういうジレンマはありますが、それでも何とかここまで来ました。しかし、今回はそういうわけにもいかないかなと困っていました。
考えた末、こういうふうにすることにしました。今回の課題から一点だけをしぼり、そこをダイジェスト版でお話ししようと考えました。まぁ予告編みたいのもので、タイトルには「付録」と書くことにしました。
で、どこに絞りこむかということですが、それが資料にあります「『浄土論』に曰く」のところです。
我修多羅 真実功徳相に依って、願偈摠持を説きて、仏教と相応せり、と。
仏の本願力を観ずるに 遇うて空しく過ぎぐる者なし、よく速やかに 功徳大宝海を満足せしむ、と。
前回は『十住毘婆沙論』の「易行品」の話でしたが、今回もこの「易行品」が登場します。詳しくはブログに載せていますので、興味がある方はそちらも読んでいただければと思います。そして今日はここのところを角度を変えて話してみようと思いますのでよろしくお願い致します。
それで、この『浄土論』の句の中から「遇うて空しく過ぐる者なし」のところをピックアップしました。どうしたかといいますとAIに聞いてみました。最近はこういうことが出来るんですね。AIは時々使いますが、それでも今回はなかなか面白いなぁと思いました。
それでAIに何を聞いたのか。「人生を虚しく過ぎるとはどんなことだろう」と聞きました。するとAIは答えました。
「人生を虚しく過ぎる」という感覚は、言葉にするのが難しいほど静かで、それでいて重たいものですよね。」すごいですね、これが最初の答えです。そして「それは単に「不幸である」ということではなく、「自分の人生に参加していない感覚」に近いかもしれません。具体的には、以下のような状態を指すことが多いようです。」と、このように続きます。
1)「反応」だけで一日が終わってしまう「自分の意志で何かを選び取るのではなく、降りかかる用事や、SNSから流れてくる情報、他人の機嫌に対して「反応」しているだけで時間が過ぎていく状態です。」(自分の手で舵を握っている感覚がなく、ただ川の流れに押し流されているような感覚です。)
2)「いつか」を待ち続けて「今」が空白になる「「もっとお金が貯まったら」「もっと良い環境になったら」と、本番の人生がいつかどこかで始まるのを待っている状態です。(準備運動ばかりを続けていて、結局一度もコートに立たないまま日が暮れてしまうような虚無感です。)
3)心の動かない「効率」に支配される「無駄を省き、合理的に動いているはずなのに、そこに驚きも感動も、あるいは心地よい疲れすらない。(「何のために?」という問いに答えられないまま、スケジュール帳を埋めること自体が目的になってしまう状態です。)
この1から3までを読んでどう思われますか。理解できるような出来ないような、なんとも言えず、反応しづらいと思いますが、こうやって聞いてみるとAIは日本人の感覚を推し量って言っているのではなくて、世界から集めた情報をもって答えているわけですね。だからこの1から3までの答えがそのままスキット届かないようにも思えます。
それどころか、この123は、自分の普段のひぐらしの姿そのものじゃないかと思われる方もおられるのではないでしょうか。これが何故自分の人生を虚しくするのかピンとこない、と、そういう人もいるかもしれませんね。日本人は協調性が高いといわれています。周りに合わせる習慣みたいなものがあるようで、悪く言えば、閉鎖的な島国根性が基本的にあるとも言われているのではないでしょうか。個人的な主張をあまり出そうとしない。そういうことを考えると、この123の答えが何故そうなのか分からなくなる気がします。
それでは4の答えです。4)誰とも分かち合えない「孤立」「たとえ周囲に人がいても、自分の本音や、美しいと感じたもの、痛みを誰とも共有できないとき、人生は急に色褪せて見えます。「自分がいなくても、世界は何も変わらない」という感覚が、虚しさの正体であることもあります。」
この4の答えは何となく分かりますね。しかしながら、私たちには周囲と同じになることを目的化する人もいるし、まわりと同じ色になっていないと不安な人もいる。でも、それはそれで、ただそのことだけなら自分自身はないのですから、みんなの中にいながらも、その孤独さには気づいている、と、こういうこともあるでしょう。
夏目漱石が言っています。「智に働けば角が立つ」自分の知識を出せば周囲と衝突する。ヨーロッパに留学した漱石は、当時の個人主義を目の当たりにします。その眼(まなこ)に日本人がどのように映ったでしょうか。「情に棹させば流される」だからといって、相手に合わせると流されてしまう。「意地を通せば窮屈だ」。かといって、自分の意思を通そうとすると息苦しくなる。「とかくに人の世は住みにくい」と、当時の日本の世間体を表現しました。
漱石は明治時代、この日本の世間体と近代ヨーロッパの個人主義の狭間で葛藤した人だと言われています。それから百数十年が過ぎました。今の私たちが漱石が見た世間体と個人主義の中で葛藤しているかどうか分かりませんが、この「人生を虚しく過ぎる」の答えの1から3がしっくりこないのは、やはり日本人のこの感覚がどこかで生きているのかもしれませんね。しかし、だからといって昔のような世間体を生きているとか、西洋の個人主義を生きているというのとは違う気がするでしょう。
西洋の個人主義はキリスト教を背景にした個人主義だそうです。日本の個人にはそのようものはないですね。だからといって、じゃあ日本人の個人主義は何だと聞かれても、ちゃんと答えられる人がどれだけいるでしょうか。しかしこの4の答えにある「誰とも分かち合えない孤立・孤独」は、世間体の中であれ個人主義であれ、そのどちらにおいても通じる「空虚感」ではないでしょうか。
そしてAIは最後に「一つの視点」でこう言いました。「「一つの視点」哲学者パスカルは「人間は自分が死ぬことや惨めであることを考えないようにするために、常に何かに没頭し気晴らししようとする」と言いました。もしかすると「虚しい」と感じる瞬間は、その忙しい気晴らしから一瞬脱却して、自分の生に誠実に向き合おうとしているサインかもしれません。」
AIが出したこれらの答えが、そのまま自分に合ったものかどうかは別にして、この「虚しい人生」というものの正体は何かと考えたら、やはりこの誰とも分かち合えない「孤立感」や「孤独感」に見る、人としての「虚しさ」、そして「死」における「孤独」の問題でしょう。世間体や個人主義といった、生活の表層的なのものから、もっと深いところにある、人間の心の芯のところの、この「孤独感」と「死」の問題は、人間の存在性として共通するのではないかと思います。
とにかく、この1から4までがAIが出した最初の回答です。もっと話しましょうと言っていましたが、こちらがすでにオーバーフロウ気味なので止めました。すごい時代になってきたなと思いましたね。
それで今度は「虚しい」と「空しい」の違いは何かを調べました。「「虚しい」と「空しい」はどちらも「むなしい」と読み、内容がない、無駄である、はかないという意味では共通していますが、ニュアンスに違いがあります。「虚しい」は精神的な空虚さや心が満たされない状態を、「空しい」は物理的なからっぽさや努力が無駄に終わるはかなさに使われます。」また「「使い分けとしたら、「虚しい」は「心」「気持ち」が「虚しい」、「空しい」は「努力」「時間」が「空しい」で、「存在そのもの」が希薄な場合は「虚しい」の方を使う」と、こういう答えもありました。
この『浄土論』では「空しく過ぐる者なし」ですから、心の虚しさよりも「空しく過ぎないのだ」というどこか主体的なところがある。それがこの「空しく過ぐる者なし」だと思うわけです。そしてこの「虚しく過ぎない」と「空しく過ぎない」の二つは必ずしも同じではありませんが、繋がっているのではないかということですね。
AI が最後に言った「一つの視点」がありましたね。「「哲学者パスカルは人間は自分が死ぬことや惨めなことを考えないようにするために、常に何かに没頭して気晴らししようとする」もしかすると「虚しい」と感じる瞬間は、その忙しい気晴らしから一瞬脱却して自分の生に誠実に向き合おうとしているサインかもしれません。」
ぼくは「存在の希薄さ」と、AIのこの最後の言葉がリンクします。掴もうとしても掴めず、自分の手からスッと抜け落ちていくうようでいて、しかしいつもそこに感じているような「存在の希薄さ」ですね。この言葉はすごいなあと思いますね。
それで、この「『浄土論』に曰く」と言われ、そして「願生偈」から二の句が載せられています。
我修多羅 真実功徳相に依って、願偈摠持を説きて、仏教と相応せり、と。
仏の本願力を観ずるに 遇うて空しく過ぐる者なし。よく速やかに 功徳の大法海を満足せしむ、 と。
この二つの句は『浄土論』では全く別のところにあります。それを単に二つ並べられて「『浄土論』に曰く」と親鸞聖人は述べられますが、しかしこれだけでは『浄土論』だと言われても意味がとおりません。そしてその句の中に「真実功徳相に依って」とあるわけですね。真実功徳の相ですから、相は姿かたちであり、またその世界観でもあります。厳密にいえば言葉もそうなると思いますよ。言葉ひとつで何か見えたりするでしょう。他人には見えなくても自分には見えたりします。
とにかく、この真実功徳の相は、この「存在の希薄さ」とすごく関係していて、その心の芯の部分を目指して現れてくると思っているわけです。
そこで「仏の本願力を観ずるに」ということがその次に問題になります。私たちは人の「孤独感」や「孤立感」は理解できるでしょう。みんなそれぞれ何処かに持っているのではないですか。だからそれに対して気晴らしや、うさばらしなら出来ると思いますよ。しかしその他に何か出来るでしょうか。
まして、この「存在の希薄さ」などはフトそう感じることはあっても見えない。鋭い感性の持ち主なら見えるかもしれませんが、私たちのような普通の人には見えるどころか、気づかないまま一生が終わる人だっているはずですね。しかし、そこにこそ私たちが真にそして誠実に求めていることがあるということだと思うわけです。
だからこそ、ここに「真実功徳相」を顕すのだということでしょう。そしてこの「真実功徳相」が、私たちには見えなかったはずの「存在の希薄さ」の意味を見せ、そして気晴らしの他になすすべがない「孤独感」や「孤立感」さえ丸ごと見せる。
私の心の深い処にこの「真実功徳相」を顕して、そこに私の心のありよう映し出す。仏教的にいえば「真実功徳相」によって私の煩悩を丸ごと映す。この「真実功徳相」が『十住毘婆沙論』の「易行品」だということでした。
そして「仏の本願力を観ずるに 遇うて空しく過ぐる者なし」です。この空しく過ぎないというのは、この仏の本願力を観じて、そしてその本願の本意に遇うことができたということではないでしょうか。相はすがた形のことですから、その真実功徳のすがたである、阿弥陀仏の浄土のすがたに遇うことができたということだと思います。そしてこの阿弥陀仏の浄土である真実功徳相に観た、その仏の本意に遇うて空しく過ぐる者なしです。このように読ませていただきました。