「帰去来」

令和3年3月 春の彼岸会より

今日は善導大師の『帰去来』を話そうと思います。

まずは北原白秋の『帰去来』から。

山門(やまと)は我が産土(うぶすな)

雲騰(あが)る南風(はえ)のまち、

飛ばまし、今一度(ひとたび)。

筑紫よ、かく呼べば戀しよ潮の落差、

日照沁む夕日の潟。

盲(し)ふるに、早やもこの眼、見ざらむ、

また葦かび、籠飼(ろうげ)や水かげろふ。

帰らなむ、いざ鵲(かささぎ)かの空や櫨(はじ)のたむろ、

待つらむぞ今一度(ひとたび)。

故郷やそのかの子ら、皆老いて遠きに、何ぞ寄る童ごころ。

【大意】大和柳川は私を生んだ大地だ。南風に吹かれて雲がひるがえる、美しい場所(まほろば)だ。ああ鳥となってもう一度飛んで帰りたい。筑紫よ、この名前を呼べば恋しく思い出される。干潟の差の激しいその海が夕日に赤く染まる海の景色、今や私の視力は衰え見えなくなってしまった。たとえ故郷に帰っても葦の群生や籠飼、水かげろうといった懐かしい風物を見ることはできないのだ。それでも帰りたい。カササギの舞う櫨の木が群生する懐かしい故郷柳川に。きっと私をまっているだろう。故郷も当時遊んだ友達も年老いて遠ざかってしまった。それなのに子供のようにこんなにも心がひかれるのはどういうわけだろう。

  

善導大師の『帰去来』

帰去来(いざいなん)、

魔郷には停まるべからず。

曠劫より来(このかた)、

六道に流転して、ことごとくみな経たり。

到る処に余の楽なし、

たゞ愁歎の声を聞く。

この生平を畢(お)えてのち、

かの涅槃の城(みやこ)に入らん。

  観経疏における「帰去来」の位置ですが、定善観第二の「水観」にあります。この「水観」は複雑な構成になっていまして、「水観」の中に「氷想観」があり、その「氷想観」が「瑠璃地の下」と「瑠璃地の上」に別れています。「水観」から「氷想観」へと連続するのではなくて、「水観」の中に「氷想観」があるという独特な様相です。そしてこの「水観」の全体に六首の讃が措かれています。まず「水観」には天親菩薩の『浄土論』から一首。そして「瑠璃地の下」に三首、「瑠璃地の上」に二首とそれぞれに措かれています。「帰去来」は「瑠璃地の下」の三首目にありまして、「瑠璃地の上」へとつながるような、ジョイントの役目をしてるかのように見えます。

  内容も少し変わっていますね。「帰去来」は本来ならば北原白秋のように故郷に帰る歌ですが、ここではその故郷は魔郷だという。そしてその理由が次に述べてあります。「曠劫より来、六道に流転して、ことごとくみな経たり」。六道とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の事ですが、詳しい説明はありません。ただ六道流転とだけ書かれています。そしてこれが魔郷には停るなという理由ですね。解説としたらすごく大雑把な表現です。また、この「曠劫より来、六道に流転して、ことごとくみな経たり」も奇妙な表現です。「みな経たり」ですから、すでに過ぎたという言い方です。いったいどこでそんなことが分かるのだろうか。そしてこの「到る処に余の楽なし、ただ愁歎の声を聞く。」まで、何気なく気分だけで読んでしまうとそんなものかと思いがちですが、気になりだすと何ともおかしい内容です。また、この「曠劫」は極めて長い時間を現わす単位ですが、では実際にどのくらいの時間なのかといえばはっきりしたものは無いようです。10年は一昔と言いますから、では100年は、1000年はというような、そういう時間の捉え方ではおそらくないのでしょう。

  永遠という言葉がありますが、この永遠というのは「あなたの永遠は後どのくらいで終わりますか」というパラドックスが含まれていると言われます。永遠なのだから終わらないはずですが、実際にどこまでかと聞かれるとよく分かりませんね。「曠劫」という時間の概念をこの永遠と同じように考えるとすると、「永遠」の対義語は「瞬間」でありますから、この永遠と瞬間の関係を考えるべきかもしれません。

  最近は宇宙開発が盛んに行われているそうです。そう言った事を時々耳にしますが、この宇宙を地球から見れば満天の星が宇宙の世界でしょう。まじかに見えるのはお月さんですね。金星や火星なども教えてもらうと、あゝあれかなと思ったりします。以前読んだ『宇宙からの帰還』(立花隆著)は、アポロ計画で月に行った宇宙飛行士にインタビューされたものでした。新鮮な感覚で宇宙を肌で感じた事などが取材されています。その時の宇宙と地球との狭間で神をも感じた飛行士もおられたそうです。宇宙から地球を見た時に、地球が単に一個の星にすぎず、自転を繰り返すだけの時間も存在しないような星ではなく、また天候などを観察するくらいの近距離でもない。地球全体が俯瞰されていて、なおかつ自転することに時間の経過を思い、人類の歴史をも感じるくらいの距離があるとするならばどのくらいのものだろうか。 この距離から俯瞰された地球は、一目で観た地球でもありますから、瞬間的な感覚がそういう地球を捉えたという事でしょう。そこには生きている人々の姿や自然の風景、そして過ぎていく時間の感覚もある。もしそう言う距離とその時があるのならば、その俯瞰の時は時間を超えているという事はないでしょうか。

  時間を長さで考えると過去・現在・未来。前・今・後。こういった連続性が前提にされますが、このような俯瞰された時間ならば、その時間は瞬間的に内包されていて始めもなく終わりもない。瞬間に永遠を観るといった場合には、このような内包された時間の永遠性を観るのであり、そう感じたのではないかと思います。永遠と瞬間の関係を何か言葉で表現しようとしたら宇宙の話になってしまいましたが、普通に私たちにも一瞬に何やら永遠なものを感じるような経験があるかとも思いますが、こういう瞬間と永遠の関係もあるのではないかと思うわけです。

  「曠劫」をこういう一瞬に収まる永遠性と読む場合。その曠劫に見た六道に流転する我が身は、そのまま我が身を超えていて、六道が流転する丸ごとの世界観でありますから、六道はことごとくみな経ていながらも、何処にも六道流転でないものは無い。愁歎の声が響いているだけである。と、そういうような意味になるのではないでしょうか。

  「瑠璃地の上」の初めの讃に「処々の光明十方を照らす」とあります。これも興味深い表現です。一瞬に収まる永遠性であるがゆえに、それは光と共に記憶されていくという事でしょう。そしてその光があちこちにあるということですね。だから今度はその光の彩を分析して「瑠璃地の上」を現わす。『帰去来』の「いざいなん」は、この「瑠璃地の上」の光の彩りへと歩き出す時のことを言うのだろうと思います。だからすぐさまこうなりましたと言ったものではなくて、何度も分析を繰り返しながら深まっていくところのものだという訳です。

  この「水観」の前が「日観」です。「日観」はまず真西に太陽が沈む光景を観想します。つまり、今日のように彼岸に中日の事です。その夕日が今まさに沈まんとする時を思い浮かべながら心を整えます。その心は静かに、そして心が身体の一部としてあり、心と身体に隔たりがないかのように整えていきます。そして次にその身体と自然とが一体になるように心をもっと整えます。このように心と身体そして自然が一体になるような観想を行う。この観想の方法をまず身に着ける。そしてこの観想を尺度にして、我が心をそこに映し出すようにする。すると自分が何を思って生活しているか、何を悩んでいるか、心の内面の在り方が見えてくる。この観想の鍛錬からできた尺度は、自分の心の在りようを映し出し、その心が知れる度に、いかに自分の心の在りようが観想から外れているのかが分かってくる。つまり自分の心の在りようをまるごとこの観想に浮き上がらせると言うのですね。

  この「日」を観ずるというのは、私の心の在りようがちょうど鏡に映し出されるように見えるという事です。と、そこに今まで見えなかった、気がつかなかった私の心がそのまま見えることで、光が差すと言います。そしてこの心の在りようが事細かく明らかにされるほどにその光は大きくなり、ついには何千倍もの日輪となる。この日輪が真西に沈む夕日と重なり、「その日正東より出でて直西に没す。弥陀仏国は、日没の処にあたって、直西に十万億の刹を超過する」と、弥陀の浄土の方向が示されて行きます。

  ところで、この「日観」には、「浄心の境を障蔽(しょうへい)して、心をして明照ならしむること能わず」という文言がありまして、この浄心の境を覆い遮るものがこの心の在りようであるという、つまり、心の在りようを映す鏡をここでは浄心の境というのだろうと思いますので、どちらかと言うならば、この浄心の境を明らかにすることを持って「日観」の意義としている。で、この「日観」をもって、次の「水観」に続く訳ですから、この鏡に映る心の在りようの永遠性が「瑠璃地の下」に表現されたのではないでしょうか。そしてそれは瞬間に収まるからこそ、その永遠性に六道流転の世界観を観た。それが「ことごとくみな経たり」であり、「到る処に余の楽なし、たゞ愁歎の声を聞く。」と善導大師に言わしめるのでしょう。そしてその「瑠璃地の下」から「瑠璃地の上」へと「帰去来」いざいなん、です。

  これはお釈迦様が韋提希の願いに立って、阿弥陀仏の浄土を明らかにされる最初の処で、浄土の入り口になります。普段何気なく暮らしている私たちにとって、この「帰去来」に何か意味があるのかよく分かりませんが、どこか胸にしみるのは、生きることの足元にある命の深さをどこかで感じるからだろうかと思います。今日は善導大師の『帰去来』を話しました。親鸞聖人もこの「帰去来」を引用されています。親鸞聖人独自な引用の仕方でもあります。いつか話すことが出来ればいいなと思っています。