二つの向こう岸

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平成17年3月 彼岸会より

  お彼岸と言いますとまず思いつくのはご先祖さんが帰ってくる日です。お盆や正月もそうです。正月の方はもともとは村の氏神のお祭りだったそうです。産土神(うぶすながみ)と言って、村の小さな共同体の祭りであり、先祖神のお祭りだったと言って良いのでしょう。この正月の行事が全国に広がり、現在のように全国の神社仏閣に初詣をするようになったのは江戸時代からだと聞いています。

  大晦日の夜を除夜と言いますが、この除夜から元旦にかけて寝てはいけないと言われてきたそうです。理由は古くから正子(夜の12時)を過ぎると、村の鎮守に参詣して実り豊かな新年を祈願する習わしがあり、五穀豊穣を祈ったわけです。五穀とは米・麦・栗・豆・黍(きび)の事を言うそうですが、この五穀は当時は生活の基盤ですから、五穀豊穣は村の死活問題でありました。

  これが江戸時代になると、村の小さな共同体の枠から飛び出して、一般庶民が様々な寺や神社にこぞって初詣へ行くようになりました。そしてこの初詣が広がるとともに無病息災などの祈願が加わったと言われます。初詣が盛んになるにつれそれ以外にいろんな祈願が混ざり、次第に祈願の内容よりも、とにかく初詣をすると何か良いことがあるかもしれないと、本来の意味から初詣そのものが目的になり、新しい年を迎える新鮮さを感じ取るようになったと言わる方もおられます。いわばレジャー感覚に変わったということでしょう。

  しかし、レジャーと言えば響きが良くありませんが、その当時の初詣は時代のトレンドであったわけですから、娯楽感覚だったということも言えるのではないでしょうか。これは江戸時代の時代状況が安定してきたことでありますから、以前よりも生活全体に少し余裕が出たことでもあります。現在の正月の初詣にそういう江戸のパワーを観ることは出来ないようですが、少なくとも江戸時代の民衆パワーはそれまでの村の氏神のお祭りを、初詣という全国規模の一大行事にまで変えていったことになります。最近「心の豊かさ」という言葉が使われていますが、その江戸当時として見る「豊かさ」には何か次のものに繋げていくというような、そしてできればより良きものへと繋げようとしたパワーを内に秘めたものではなかったかと思う時があります。

  それではお彼岸はといいますと、この彼岸とは仏教の言葉です。向こう岸という事ですが、向こうの世界であり、覚りの世界です。この向こう岸に対してこちらを此岸といいます。娑婆(しゃば)世界とも言います。娑婆とは煩悩や苦しみが多い世界の事。そして同時にお釈迦様がお救いくださる教化の世界と言われます。言い換えれば、私たちの煩悩や苦しみを目当てにしてお釈迦様が救いとる世界。それを娑婆世界というふうに言っております。

  実はこのお彼岸が一般的な習慣として現れるのも江戸時代だと言われます。お彼岸は家族でお墓参りをしてご先祖様を敬う日です。江戸時代から始まり現在もしっかりと続いております。文化という言葉は、私たちは日常ではほとんど使いません。普段の生活が文化だと思って生活してますか。この文化という意味を辞書で調べてみると「社会を構成する人々によって習得、共有、伝達される行動様式の総体、世代を通じて伝承されていくもの」と書いてあります。そういう堅苦しく考えて生活しているわけじゃありませんから自覚はないけども、日本人の文化であることも事実です。だからお正月の初詣も、お彼岸のお墓参りも、江戸時代という時代安定期に始まり現在まで脈々と続く、日本人の立派な文化であると言えます。

  しかし、考えるとこの正月と彼岸会は少し違います。お彼岸には正月のようないろんな祈願が混ざっていない。亡くなった人や先祖を敬い、故人に出会い、思い起こす、こういう事が中心の行事です。私たちは楽しい時ばかりでお墓参りはしないでしょう。そういう面では自分が生きて行くということと関係させながらお参りをされています。今は亡き親や夫、妻、子供、近しい方々、そういう人達との関係を思いながらのお参りです。そういう人生の重さや人との繋がりを考える。こういう命のつながりを亡き人においても感じていくことは日本人として尊いことだと思っています。そしてまた、こういう私にとっての向こう岸への思いが、より私を超えたいのちの深さ、尊さ、広さという仏の世界に出会う場所にまでなれば、本当の意味での仏教を背景にした日本人の文化になったのだとも思います。

  仏教と言いますとインドが発祥の地です。現在のインドは仏教徒の人口は少ないそうです。大半がヒンズー教です。このヒンズーとは大雑把な地域の名称だそうで、西洋人がインダス川の向こう側に住んでいる人々をヒンズーと呼んだと言われています。インドに生れ住んでいる人の総称でしょう。そこには仏教徒もなくイスラム教徒もない。キリスト教もありません。そういう特定の宗教に属さない人々を称してヒンズーと呼んでいるそうです。だからヒンズー教とは永いインドの歴史に培われた生活様式や社会習慣全体ということで、開祖が誰という事なく経典もない。昔から受け継がれ言い続けられたインドにおける「インドのこころ」のことをヒンズー教と呼ばれているそうです。バーラト・マータ(母なるインド)寺院というヒンズー教の寺院の本尊は、大理石で造られたインド全土の立体地図だそうです。言うなればインド民族の総称を宗教とするものでしょうか。

  ガンジス川の沐浴はご存じだと思いますが、沐浴においてべナレス(バナーラス)という地は死ぬまでに一度は訪れたい聖地だそうで、毎年の沐浴者は百万人にのぼると言われます。この聖地の水で沐浴すれば今までの罪が清められる。またこのベナレスで死んで火葬された遺灰をガンジス川に流せば、苦しみの輪廻の世界から解脱すると信じられているそうです。ある日本人の記者が臨終を前にした親子を取材させてもらったそうですが、その取材の返答は誇らしげだったと書いています。親の天寿を全うさせるために10時間かけて家族一同でベナレスまで連れてきたのです。家族で天国に送り出すことが最上の親孝行であり誇りだそうです。

  このベナレスの沐浴が最も神聖だと言われる所以は、この地がガンジス川で唯一川の流れが南から北に向いている処だからだそうで、イメージとすれば天に上る場所なのでしょう。そして沐浴はガンジス川の西側だと決まっています。そして火葬は修行僧、妊婦、5歳以下の子供は出来ない。だから水葬にされるそうです。また、火葬はお金がかかるので費用がない人も出てきます。そういった人も水葬だそうです。それらの遺体は2~3日すると向こう岸に流れ着きます。だから向こう岸に住んでいる野良犬はよく太っているそうです。

  ここに天に上る向こう岸とガンジス川の向こう岸があります。近年の日本においては「死ねば死に切り」「死んだら終わり」というような言葉がありますが、そこに見えるのは命の切り捨てのような気がします。以前ある先生が、お父さんの葬式について、火葬での思いにこういうことを書かれています。

  亡くなられたお父さんの遺骨は脆く頼りなげだった。その時に「要するに、こういう事だな」そんなセリフが頭にあふれていた。「しかしそのうち、次第に白骨の方が大変確かな存在として迫ってくるのを感じました。周囲に集まっている生者の方が、なんとも頼りなげなのです。」そこに白骨の姿を事実として受け止められない、うろたえる自分の姿に気づいたそうです。そうすると「ここから、この俺の白骨から、もう一度、お前のしてることを眺めなおしてみろ」とお父さんの声を聴いた思いがした。「そしてその声とともに、それまで一大事のごとく思っていた多くが、小さなものに思えてきた。」と言われています。

  私はこの先生の「要するに、こういうことだな」という言葉が、先ほどのガンジス川の向こう岸の情景と重なりました。それこそ命の切り捨てであります。そしてこの向こう岸から見たベナレスの沐浴は人生の最高の場所としてにぎわっています。その数百メートル離れた岸では野良犬が餌を探している。この二つの情景が重ならない。そして私たちの観る景色は、この向こう岸の野良犬の餌になった死体だけを観てしまっているのではないだろうかという思いです。しかしもう一度ベナレスの沐浴に思いを戻すと、また違う景色が浮かび上がります。それは修行僧、妊婦、5歳以下の幼児は火葬できないという事。中夭(ちゅうよう)と言いまして、中倒れ、辞書では「人生の途中で死ぬこと、思いがけない災難」とあります。修行僧はまだ僧になれない身です。妊婦は母になり切れない。五歳以下の幼児はインドでは人になり切らないということでしょうか。こういう中夭は火葬しない。つまりベナレスで臨終を迎え火葬されて遺灰をガンジス川に流すことは、苦しみの輪廻の世界から解脱することです。ですから、それは大いなるいのちに還ることです。つまり中夭はまだ還れません。だから出直してきなさいという事ですね。そういう思いが脳裏をかすめます。人生の区切り方が単純で分かりやすい。そう思って向こう岸を眺めれば、この沐浴の情景と野良犬の景色の両岸が次第に重なってきます。

  ずいぶん前になりますが、教育テレビの「宗教の時間」で仏像の彫り師が出演されました。その時の言葉を一つだけ覚えていますが、「仏像を眺めていると、この作者はここのところを苦労したなと会話ができる。」こんな感じの言葉です。仏像の彫り師だからできる彫り師同士の出会いと会話でしょう。こういう出会い方があるのだなと思いましたが、親鸞聖人も法然上人と本願の中で出会われた。そして法然上人において出会われた本願において、また様々な人とも出会われていきます。こういういのちの連続性を具体的な人間のつながりの中で見て行かれたのだろうとも思います。こういういのちのつながりがなければ「死ねば死に切り」だけで、それこそガンジス川の向こう岸の情景が、ただ不気味なものに見えるだけではないだろうか。

  親鸞聖人の教えとともにそこにある歴史観を私たちは学んでいくのですが、そこに何が見えるのかと言うならば、親鸞その人ということでしょう。親鸞その人としての歩みであります。「信不具足」といいまして「道あるを信じて、すべて得道の人あることを信ぜず」と、こういうお言葉があります。そこに道があることにうなずけても、その道を歩いている人と出会えなければ観念にすぎない。そこに具体的に生きた人間に出会っていくこと。そういう出会いの歴史観でありますが、親鸞聖人は法然上人はもちろんのこと、その出会いをインド、中国、そして日本の高僧とも出会って行かれた。その出会う場所が本願であります。この本願において親鸞聖人がどういう出会いをされたのか、これが私たち真宗門徒である者の最大の関心ごとではないかとも思っています。私たちの向こう岸は、この本願においての出会いであり、そしてそこを歩んだ人との出会い、そういう信心と伝承にあるのではないかと思っている次第です。

  

  

  

  

  

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