行巻その③ 龍樹(十住毘婆沙論)Ⅱ

令和7年5月25日 永代経法要より 

(地相品)「問うて曰く、初歓喜地の菩薩、この地の中にありて「多歓喜」と名づけて、もろもろの功徳を得ることをなすがゆえに、歓喜を地とす。法を歓喜とすべし。何をもって歓喜するや。 答えて曰く、「常に諸仏および諸仏の大法を念ずれば、必定して稀有の行なり。このゆえに歓喜多し」と。かくのごとき等の歓喜の因縁のゆえに、菩薩、初地の中にありて心に歓喜多し。「諸仏を念ず」というは、然燈等の過去の諸仏・阿弥陀等の現在の諸仏・弥勒等の将来の諸仏を念ずるなり。常にかくのごときの諸仏世尊を念ずれば、現に前にましますがごとし。三界第一にして、よく勝れたる者ましまさず。このゆえに歓喜多し。」

今回のテーマは地相品です。ご覧のように引用されている地相品は問から始まります。それで、前の入初地品を受けての問だと思いますから、まず入初地品の最後のところを少し見ておきます。「この菩薩所有の余の苦は、二三渧のごとし。百千億劫に阿耨多羅三藐三菩提を得といえども、無始生死の苦においては、二三の水渧のごとし。滅すべきところの苦は大海のごとし。このゆえにこの地を名づけて「歓喜」とす。」

入初地品の最後のところですが、ここに「滅すべきところの苦は大海の水のごとし」とあります。この大海のことを前回は、これは家清浄の「この菩薩」のいのちのフィールドということではないかと言っておりました。フィールドというのは陸上競技場でいえばトラック内の競技場だそうで、走り幅跳びや高跳びなどの競技場のことだそうですね。

また学問の世界では、その学問における活動分野とか活動領域ということになります。それで「この菩薩」のフィールドといえば、「この菩薩」の活動領域ということになるかなと思います。だから、入初地品の「大海の水のごとし」の大海は「この菩薩」が活動する領域だと言っていることになります。それを大海という器に表現される。

では、この大海の水とは何か。これは凡夫の煩悩の量だと思います。この大海の水が初歓喜地の菩薩において無量のいのちとなり、その無量のいのちは諸仏の領域となる。こういうことかなと思っていますが、まずこの大海の水といわれる領域とは何かというと、過去をどこまで遡ろうとも、また未来をどこまで見渡そうとも、それは量り知ることができない時間と広大さであるということでしょうね。

この初歓喜地の菩薩において、大海の水は無量のいのちとなり現前し、その無量のいのちは、過去そして未来の諸仏が輝いている、と、こういう世界観を表現されているのではないでしょうか。

最近、年寄りになって、といっても、別に急に年寄りになったわけじゃありませんが、年を取るとフト考え込むことがありますね。普段、体力の衰えが気になるので運動もしたりするわけですよ。そんな中でも、体力が衰えなければ、ボケなければとかじぁなくて、何かこう、それでも時間は刻々と過ぎていくわけですから、そんな中に、この老ということについてフト思うわけです。その先の答えが見えない。

自分の老や死を認めたくないために、ただ先延ばしをしているに過ぎないのかなと、そんな気持ちがフトよぎるのですね。やっぱり、この年齢というのは自分を現実に戻しますね。そんなに時間は残っていないかなぁということですかね。そんな中で、何かこう、自分の命を貫いていくような仕事というか、そういう自分にも納得できるものがあれば、これはこれで救われるような気がするのですよ。

自分のいのちを貫き、そして超えていくもの、そういういのちの中に、自分のいのちもあるというのは、この老ということにおいてすごく有難いなぁと思うのですね。若いうちは老人なんて遠い先のことでした。皆さんも同じでしょうが、過ぎたらアッという間ですね。この一人のいのち、つまり煩悩の海に生きる無力な我が身が、そのまま「この菩薩」のフィールドとなり、そこに初歓喜地の菩薩の無量のいのちが展開する、そういうことかなと思う時があります。

それで、「地相品」のこの問ですが、まず初めに「初歓喜地の菩薩」とありますね。この初歓喜地の菩薩というのは、前回まで遡らなくてはなりませんが、端折って言えば、「家清浄のこの菩薩」が「かくのごとき人」の初果を地にするときに「初歓喜地の菩薩」である、と、このようになるのだろうと思っています。だから「初歓喜地の菩薩」とは、「この菩薩」と「かくのごとき人」の初果とに関係が生じていることを、「初歓喜地の菩薩」とこう表現されていると読んでいるわけです。

で、その次に「地相品」には「法を歓喜すべし」と書いてありますね。ではこの法というのは何でしょうか。ぼくには正直言って分りませんが、とにかくこれは私の意識では捉えることが出来ないものだということではないでしょうか。その法というのを、ここでは初歓喜地の菩薩は歓喜すべきであると、このように言われているのかなと思います。だから、歓喜地というのもまた、本来、法が歓喜されるべき地なのでしょうね。

でも、このように初歓喜地の菩薩は法を歓喜すべきだといわれても、そのこと自体がよく分からないわけです。だから、そのことをつべこべ言いう事は出来ませんが、それでもあえて推測したらどうなるか。それでこれはおそらく、本来この法は私の意識では捉えることはできないけれど、そこに歓喜地という地をもって、そしてその歓喜すべき法を現わす。そこに捉えることが出来ない法を直感する。仏教の言葉を使うと、法を感得する、とまあ、そういうことかなと思います。

それで話を戻しますが、この初歓喜地の菩薩のとき、この煩悩の大海に、現在・過去・未来の三界があるわけです。それは初歓喜地の菩薩が見る煩悩の大海であるから、そこには初歓喜地の菩薩が見る現在・過去・未来の諸仏の相(すがた)をも顕しているということでしょう。

そこで、ここにまた問があります。「「諸仏を念ず」というは」というところですね。そしてこの答えが「然燈等の過去の諸仏・阿弥陀等の現在の諸仏・弥勒等の将来の諸仏を念ずるなり」と、このように書かれています。しかしこれ、すごく不思議な表現ですね。

そこでまず、ここで注目すべきなのは「等」という字でしょう。この「等」の字の使い方がいったい何を指しているのか。これはもう独断と偏見で述べるしかありませんが、この「等」の字を中心にしてこの「諸仏を念ず」のところを見ていくと、次の「常にかくのごときの諸仏世尊を念ずれば、現に前にましますがごとし」と書いてありまして、どうもこの辺りにそのヒントあるような気ましますね。まずこの文には「等」の字は付いていません。以後も出てきません。

そこでまず結論から言いますと、この「等」の字は何かということですが、これは、つまりは全一人称のことだと思うわけです。全一人称なんて言葉があるか知りませんが、そういうことかなと思います。で、この「等」とは、全初歓喜地の菩薩の全一人称の主観を見たてた表現だと思いますが、この場合は「現に前にましますがごとし」と書いてありますから、主観というよりも現象といった方がいい当てた表現ではないでしょうか。

そうすると、まずこの一人称とは何かということですが、それはそれぞれの初歓喜地の菩薩が見る、それぞれの現在・過去・未来ということでしょう。だから、この「諸仏を念ず」に少し言葉を加えてみます。すると、初歓喜地の全菩薩が「「諸仏を念ず」というは」という言葉になります。

そして、そのとき三界は「然燈等の過去の諸仏・阿弥陀等の現在の諸仏・弥勒等の将来の諸仏を念ずるなり」ですから、ここにはそれぞれの初歓喜地の菩薩が見る無量のいのちに、過去・現在・未来の諸仏の相(すがた)を見るということでしょう。その中でも注目するのは「阿弥陀等の現在の諸仏」です。

この阿弥陀等の等は、そのまま阿弥陀仏が複数述べられていることになりますが、要は、それぞれの初歓喜地の菩薩の阿弥陀仏ですから、つまりは初歓喜地の菩薩の分の阿弥陀仏です。そしてここに言われている現在の諸仏こそ、初歓喜地の菩薩の見る阿弥陀仏の浄土であり、その浄土の相(すがた)である諸仏の世界だということでしょうか。

初歓喜地の菩薩のとき、過去に浄土の諸仏を見る。これが然燈等の諸仏である。然燈等ですから、それぞれの諸仏がしっかりと輝いている。そして将来には、それぞれの弥勒がこの然燈等の諸仏を担ている。このような現在・過去・未来の諸仏を、初歓喜地の菩薩はそれぞれに念ずるのだということではないでしょうか。

だから、初歓喜地の菩薩の分だけの阿弥陀仏となるわけで、初歓喜地の全菩薩は、無量のいのちにおいて、その何処においても、過去・現在・未来の諸仏の相を見るということになり、このように「「諸仏を念ず」というは」のような、不思議な表現になっているのだと解釈しております。

「問うて曰く、凡夫人の未だ無上道心を発せざるあり。あるいは発心する者あり、未だ歓喜地を得ざらん。この人、諸仏および諸仏の大法を念ぜんと、必定の菩薩および稀有の行を念じて、また歓喜せん、と。初地を得ん菩薩の歓喜と、この人と、何の差別あるや。答えて曰く、菩薩初地を得ば、その心歓喜多し。諸仏無量の徳、我また定んで当に得べし。初地を得ん必定の菩薩は、諸仏を念ずるに無量の功徳有す。我当に必ずかくのごとき事を得べし。何をもってのゆえに。我すでにこの初地を得、必定の中に入れり。余はこの心あることなけん。このゆえに初地の菩薩、多くの歓喜を生ず。」

「地相品」の二番目の問と答えです。

この問いに「この人」とありますが、「この人」とはいったい誰のことでしょうか。前回の「入初地品」では「ある人」のことでした。今回は「この人」の問題です。

それで、この問いでは、「この人」と初地を得ん菩薩の歓喜の違いは何かということになっています。それでまず、「この人」の前にある「未だ無上道心を発(おこ)せざるあり」のところですが、それをここでは凡夫人だと言われています。そして次に「あるいは発心する者(ひと)あり」ですね。この「発心する者あり」が「この人」のことだと思います。そしてその「この人」は、「未だ歓喜地を得ざらん」という「この人」のことですね。

そうすると「この人」とは誰かいえば、無上道心を発心しているが、未だ歓喜地を得ていない「この人」ですね。そして「この人」は「諸仏および諸仏の大法を念ぜんと、必定の菩薩および稀有の行を念じて、また歓喜せん、と。」願う「この人」のことです。そこでまず、「凡夫人」と「この人」の違いは何かとうことがありますね。そして「この人」と「初地を得ん菩薩の歓喜」の違いは何かということです。

家清浄の「この菩薩」が「かくのごとき人」の初果を地にしたとき、初歓喜地の菩薩といい、その地を歓喜地という。このことをここでは「初地を得ん菩薩の歓喜」と簡潔に述べられていることになりますが、そうすると、「この人」とは、未だ歓喜地を得ないが、諸仏および諸仏の大法をすでに知っているということになりまして、そしてまた必定の菩薩や稀有の行を念じて、歓喜を得ようと願う「この人」です。

その「この人」と「初地を得ん菩薩の歓喜」に何の差別があるかというのがここの問だと思います。そして答えが「菩薩初地を得ば、その心歓喜多し」です。

ここでおさらいですが、家清浄の「この菩薩」が「かくのごとき人」の初果を地にするとき、初歓喜地の菩薩といい、そしてそれは多歓喜であるということでしたね。そして何故この地が多歓喜であるかといえば、菩薩のいのちは無量であり、その無量のいのちには諸仏を念ずる歓喜と功徳があるということでした。

ここにある初果を前回では菩薩ではないと言っていましたが、菩薩の十位にはないということだと思います。もっと下位にあります。要するに菩薩としては未熟だということですが。しかし何故未熟だとするのでしょうか。これはおそらくですが、初果ということが基になっていて、そこに菩薩が登場する。つまり菩薩はこの初果に常に立っていて、その初果を未熟として、より完成度の高いものへと行ずる人のことを菩薩と、このように言われるのではないかと思うわけです。まぁ、ぼくがそう思っているだけですから、これも独断と偏見です。

するとつまり、「この人」というのは、初果に立っていて、そして必定の菩薩および稀有の行を念じて歓喜を得んとする「この人」のことになります。しかし、もしこういう事なら、これは考えようによっては、「この人」とは仏教でいう菩薩のことですから、その必定の菩薩や稀有の行を念ずとは、これはそのまま菩薩が歩む仏道のことでしょう。

話は変わりますけど、この初果ということですが、仏教ではそう名付けているわけですね。でもこれは仏教に限ったものではなくて、本来は人間の深い部分をいい当てたものだと思うのですよ。

最近はずっと原典読みに明け暮れていますが、聖典も含めて行間を読むことに始終しています。ここにいったい何が表現されているのか、じっと目を凝らしてその行間を眺めるわけです。悪戦苦闘のすえ、何か知らんが少しずつそこに文字が浮かんでくる。この試行錯誤の連続です。それでこの初果ということも、おそらく行間に散りばめられているだろうと探すわけですが、なかなか読み取れないのが実情です。

しかし、その初果を端的に現したところがあります。『観経』の「光台現国」のところです。『観経疏』ではここのところを「まさしく世尊、夫人の広く浄土を求むることをもって、如来すなわち眉間の光をを放ちて十方の国を照らし、光をもって国を摂し、頂上に還来して化して金台となる、須弥山の如(ごと)し。如の言は似たり、須弥山に似たり、この山腰は細く上は闊(ひろ)し。所有仏国並びに中において現ず。種々不同にして荘厳異あり。仏の神力のゆえに了々分明なり。韋提に加備して、ことごとくみな見ることを得しむることを明かす。」と、善導大師は言われています。

「須弥山の如(ごと)し」のところですが、「如の言は似たり、須弥山に似たり、この山腰は細く上は闊(ひろ)し」と書いてありますね。深い意味は分かりませんが、光台現国の須弥山の表現が何となく中途半端でしょう。「如来すなわち眉間の光を放ちて十方の国を照らし、光をもって国を摂し、頂上に還来して化して金台となる、須弥山の如(ごと)し」のこの須弥山の如(ごと)しが、すごく中途半端だと思いませんか。

お釈迦様が眉間から光を放たれて、韋提希に諸仏の国土を現わされたところですね。ここのところを善導大師は『観経疏』にこのように書いておられます。それでまず初果というのを、どこでそう思うのかというと、まず「仏の神力のゆえに了々分明なり」のところです。韋提希自らが見たとは言わずに、如来が「加備して、ことごとくみな見ることを得しむる」と書いてあります。そして「ことごとくみな見ることを得しむる」ですね。

この、ことごとくみな見るというのは、ときどき出てきますね。覩見という言葉もこの意味になると思いますが、『無量寿経』では、法蔵菩薩が世自在王仏のみ前で諸仏の国を覩見したとあります。韋提希の場合は「須弥山のごとし」です。この如しを「如の言は似たり、須弥山の似たり」ですから、それは須弥山とちょっと違うぞということでしょう。この本物じゃないぞという感覚は何か分かりませんが、ここに初果ということを見るのかなと思っています。

西洋哲学などでは、このように行間を読むようなことは、おそらく無いと思いますが、その代わりに論理がすごくて、これでもかというぐらいに言葉を構築する。だから行間を読む難解さはないにしろ、論理そのものが難解である。どちらがどうだということではありませんが、そういう苦労話もありますよと言いたかったわけです。

それで、初果というのが、人間の深い部分を言い当てたものだとすると、それは仏教に限ったものではなくて、西洋哲学などでも深く関わっているのだと考えられるわけです。このブログでもそのことを少し述べたものがあります。また、現代の科学の領域では、量子力学の分野で、龍樹(ナーガル・ジュナ)その人が注目されています。論理物理学者カルロ・ロヴェッリは、彼の著書「世界は関係でできている」の中に、龍樹(ナーガル・ジュナ)を次のように言っています。

「西洋哲学のかなにも、これと似た方法をおずおずと目指す直観がないわけではない。しかしナーガル・ジュナの視点は徹底している。ありきたりな日常の存在を否定せず、むしろ逆に、複雑なそれらをまるごと、さまざまな階層や側面も含めて考えに入れる。日常的な存在を研究することも、探求することも、分析することも、より基本的な項に帰することも可能だ。しかし、とナーガル・ジュナは主張する。究極の基層を探すことに意味はない。ナーガル・ジュナと、たとえば現代の構造的実在論との違いは明白だ。現在流通している自著に「すべての構造は空である」と題する短い章を付け加えるナーガル・ジュナの姿を、簡単に思いうかべることができる。構造は、ほかのものを組織化しようと考えたときに限って存在する。ナーガル・ジュナに倣っていえば、構造は対象に先立つのではなく、対象に先立たないわけでもない。先立ちかつ先立たないわけでもなく、最後に、どちらでもないわけではない。

(中略)

ナーガル・ジュナのおかげで、関係抜きでは語れない量子について考察するための圧倒的な概念装置が手に入った今、わたしたちは、自立的な本質という要素が存在しない相互依存を考えることができる。じつは、互いに依存しているからには ― ここがナーガル・ジュナの主張の鍵なのだが ― 自立的な本質のことはいっさい忘れなければならないのだ。」

で、また話を戻します。「この人」と「かくのごとき人」に違いですが、「この人」は、つまりは菩薩を行ずる人ですね。これに対して「かくのごとき人」は、家清浄の「この菩薩」が「かくのごとき人」の初果を地にするとき、つまり初歓喜地の菩薩のとき、「この菩薩」と「かくのごとき人」の関係にある「かくのごとき人」の方です。

お分かりのように、「この人」のことを説明した菩薩と、家清浄の「この菩薩」との使い方が違いますね。家清浄の「この菩薩」のことはいずれ分かってくるのかなと思いますがまだ分かりませんので、このまま「この菩薩」という名にしています。それで、ここに二つの事柄があることになります。一つは「この人」の菩薩の行ずる道です。もう一つは「この菩薩」が「かくのごとき人」の初果を地にするときの初歓喜地の菩薩です。

それでまず、「この人」と初地を得ん菩薩の歓喜に何の差別があるのかということですね。その答えが「菩薩初地を得ば、その心歓喜多し」ですから、つまりは「この人」はまだ初地を得ていないということです。

最後にここまでの感想を少し述べようと思いますが、この初歓喜地の菩薩は初果において二面性があるということでした。初果を地にした「この菩薩」と「かくのごとき人」の関係が初歓喜地の菩薩を生みながらも、「この菩薩」と「かくのごとき人」の関係はそのままである。これを自己流に表現すれば、まず初歓喜地の菩薩は、仏の方で家清浄の「この菩薩」であり、凡夫の方で「かくのごとき人」である。この仏の方と凡夫の方が、初果において表裏一体でありながら交わらない。このような関係ではないかと思っているわけです。そして、凡夫の方で「かくのごとき人」は大海の水のごとき煩悩の海となり、仏の方で、家清浄の「この菩薩」は、無量のいのちに三界の諸仏を現前する。未消化のままですがこのようになるのだろうかと思います。

証巻 正定聚について その①

令和5年5月28日 永代経法要より

 今回より親鸞聖人のお書物から浄土論註を見ていくことにしております。前回までで作願門は終了したので,本来ならば次の観察門へと入るはずなのですが、実の処、親鸞聖人はこの観察門を証巻にかなり引用しておられまして、それならば論註の観察門を読むよりも、証巻の方から観察門を読んだほうが真宗の立場とすればいいだろうというふうに思いまして、今回から教行信証の証巻に引用されている観察門を読んでいこうと思いいたりました。結果、論註の続きということにもなりますが、証巻を論註を通して見ることにもなりますので、角度の違う見方になるかとも思います。難易度がかなり上がるのはしかたありませんし、こういう読み進みを当初から計画していたのでもありませんが、これまで論註を読んできたなかで自然にそうなった、と、そういう事でもありました。とにかくそういうことで、このまま流れにまかせて読んでいきたいと思っております。どうぞよろしくお願い致します。

 では、まずは観察門第11「荘厳妙声功徳成就」を読んでいきます。解読文

 [たえなる法を説く声においてかざりあげる功徳とは、偈に「梵声の悟り深遠にして微妙なり、十方に聞こゆ」といわれているからである。これはどのように不思議な功徳なのであろうか。経(大経)に、「もしひとあって彼の国土の清浄で安楽なことを聞くだけで、よく心にきざみ念じて、彼の国土に生れたいと願うものと、またすでに往生をえたものとは、たちまち正定聚(なかま)に入ることができる」といわれている。これは国土の名字(みな)が仏の(衆生教化の)いとなみをするということである。どうして(常なみの)思いの及びうることであろうか。]

 

 実は、この「妙声功徳」にある「国土の名字(みな)」というところはすでに作願門にもでております。どこにあるのかといえば、下巻にありまして「一心に専ら阿弥陀仏を念じて、彼の(国)土に生れたいと願えば、この如来の名号及び彼の国土の名号が、よくすべての悪を止めるのである」のところですね、ここに「国土の名号が」と付けくわえられています。ほんの短い文なので、これが「妙声功徳」と関連があるかどうか分からんではないかといわれそうですが、作願門の願生浄土において、はじめて「国土の名」が登場しています。間違っていたら教えて下さい。で、まずこの国土の名号と名字はどう違うのかということですが、意味としたらだいたい同じではないでしょうか。名号という場合は仏国土(浄土)の名のりですから主体が彼の仏国土でしょうか、名字という場合は単に仏国土の名ということかと思います。その仏国土(浄土)の名をとるか取らないか、こちら側にその主体があるかもしれません。

 そして、この「妙声功徳」には作願門にはないものがありますね。「たちまち正定聚(なかま)に入ることができる」というところです。この正定聚に入るということがどのようなことか、それが今回のテーマになっております。とにかくまとまった話が出来ればといいなと思っております。

 そしてまた、聖人は証巻に観察門をそのまま引用されておりませんので、まずはそこのところから簡単に説明することにします。

 まず観察門は三つに構成されています。国土荘厳、仏荘厳そして菩薩荘厳がその三つになります。国土荘厳が17種、仏荘厳が8種、菩薩荘厳が4種で、計29種の荘厳功徳成就の文があります。そのうち聖人が証巻に引用されているのは、国土荘厳から第11・12・13番目の三種の荘厳功徳成就です。「妙声功徳」「主功徳」「眷属功徳」がその三種になります。その内の「妙声功徳」を今読んだわけですね。この三種の功徳成就文の次に、国土荘厳の第1番目にあります「清浄功徳」が引用されています。要するに11と12と13番目の次に1番目が措かれているわけです。何故そうなるのだろうかという問題がありますし、国土荘厳は17種あるのに全文を引用されているのはこの4種だけである。こういうようななかなか捉えどころがない内容にも思えますが、少しずつでもそれなりにひも解ければいいなと考えております。そしてまた、その他、部分的な引用文もありますので後程説明することにしましょう

 次に仏荘厳においては最後8種目の「不虚作住持功徳」が後半部分が引用され、そのまま続けて菩薩荘厳の4種全部が還相回向として引用されています。論註では観察門の次の回向門がこの還相回向にあたりますから、引用の仕方がかなり複雑ですね。しかしこの複雑さもまた、聖人のご信心として一貫するものを顕しておられるのですから、まあどういったものか、とにかく始めることにいたします。

 それでは、今回は国土荘厳から「妙声功徳」「主功徳」「眷属功徳」の三種を話すつもりです。で、まずこの「妙声功徳」にある、「もしひとあって彼の国土の清浄で安楽なことを聞くだけで、よく心にきざみ念じて、彼の国土に生れたいと願うものと、またすでに往生をえたものとは、たちまち正定聚に入ることができる」という文ですが、ここにある「もしひとあって」を、この証巻から見た場合は「もし(往生の)ひとあって」と読むべきだと思うのですね。証巻は教行信証の最終部でありまして、論註を読み進めて行くうちに私たちの方が横から入り込んだわけです。だから教行信証の順序に沿っていくなら、この「もしひとあって」は「もし(往生の)ひとあって」と読んでしかるべきだと思うのですよ。しかし、そうしますと文が少し変になる気がすます。この「もし(往生の)ひとあって」と「すでに往生をえたものとは」と、同じものが何となく並び違和感があるのですね。で、このことについては後から話しますので一応このままにしておきたいと思います。

 作願門では、一心は我一心の完結した相ですから、つまりそれは阿弥陀仏の浄土の相(すがた)であるということになります。その浄土である仏国土が、阿弥陀仏の善根の力によって住持される国土であるというのが、次の「主功徳」です。それでは「主功徳」を読んでいきます。 

観察門第12「荘厳主功徳成就」

[ 主たる力においてかざりあげる功徳の成就とは、偈に「正覚の阿弥陀法王、善く住持したまえり」といわれているからである。これはどのように不思議(な功徳)であろうか。正覚そのものである阿弥陀仏は不思議であらせられる。彼の安楽国土は、その正覚たる阿弥陀仏の善根の力によって住持されているのである。どうして(常なみの)思いのはからい及ぶことであろうか。住とは変質せず滅しないことをいい、持とは分散せず消失しないことをいう。たとえば、不朽(という名の)薬を種子に塗ると、水にいれても腐らず、火に入れても焼けずに、因縁をえて(芽を)出すのである。これは不朽薬の力によるからである。(これと同じく)もし人が、一たび安楽国土に生れれば、後になって(再び)三界に生じて、三界のいろいろなまよいの生活―煩悩が火のようにもえさかるただ中にもどっても、無上菩提の種子は、けっして朽ちることがないのである。これは、正覚たる阿弥陀仏が善く住持したもうからである。] 

 この「主功徳」の文は「阿弥陀仏は善く住持したまえり」ということが主な内容だと思っています。この住持を二つに分けて説明されていまして、住の方は変質せず滅しないといい、持は分散せず消失しないといわれます。そしてこの住持という不朽薬を種子に塗ると、水に入れても腐らず、火に入れても焼けないということですね。

 で、まず水と火の譬えがありますが、この水と火の譬えを善導大師が「観経疏」に言われておりますので、そこのところから説明すると、「衆生の貧愛は水のごとし、瞋憎は火のごとしと譬うるなり」と書いてあります。貧はむさぼるで、そのむさぼるに愛という字が付いている。愛の対語は憎だそうでして、愛と憎しみは表裏一体だといいます。仏教にも愛憎異順という言葉がありますね。愛と憎しみはむさぼりの度合いに比例するということでしょうか。テレビのサスペンス劇場でよくやっております人間模様ですが、いうなれば私たちの人生の縮小版ですね、そしてこういう愛欲は貧りに入ります。しかしですね、この愛欲には家族愛や子供に対する愛情も入るし、最近ではペットへの愛情もある、ひょっとすると郷土愛などもあるかもしれない、広げると分からなくなりますね。ただ、やわらかく言ってしまえば、度が過ぎた貪りはするなということかなとも思います。しかし、いったい何処までが度が過ぎるのか分からんのも私たちではないでしょうか。

 そして、火は瞋憎(しんぞう)だと言われていますね。瞋は怒りですから、怒りと憎しみが合わさった意味でしょう。ここにも憎しみが入ります。ちょっとムカッとすることから、気持ちが収まらないことまで様々です。そしてこれらは私たちの日常で避けられないものだということも事実ですね。この貧愛の水に住しても腐らず、また瞋憎の火中でも焼けずに、浄土の種はしっかりと芽を出す因縁であり続ける、そしてその不朽の種子は、安楽国土に生れた後のまよいの三界にあっても、けっして朽ちることのない無上菩提の種であると言われています。

 作願門では「一心」とは阿弥陀仏の浄土の相(すがた)でありますから、阿弥陀仏の正覚の相(すがた)であります。この正覚の相がそのまま無上菩提の相であるというのが「一心」までの内容でした。その無上菩提の相が、この「主功徳」においては無上菩提の不朽の種であると言われています。すると、無上菩提の相と無上菩提の不朽の種とはどう違うのかなと疑問があるでしょう。無上菩提の相というのは一心の相ですから一心そのものです。それに対して無上菩提の不朽の種だというならば、その無上菩提の不朽の種を懐いているところのその人を指しているのだと思うのですね。

 で、ここでさっきそのままにしておりました「もし(往生の)人あって」と「すでに往生を得たもの」とふたつ並んで違和感があるということでしたが、それは違和感ではなくて、このたび往生を得たものと、すでに往生を得たものとは、同じ無上菩提の不朽の種をいだくものとしては共通しているということですね。この証巻の証はさとりという意味ですから、往生の結果を顕かにされているわけです。初めて往生するものであれ、すでに往生を得たものであれ、それぞれが彼の国土の清浄で安楽なことを聞くだけで、よく心にきざみ念じて、彼の国土に生れたいと願えば、無上菩提の不朽の種が芽を出し、たちまち正定聚に入ることができるのである、と、そういうような読みが出来るのではないでしょうか。

 ただ、しかしですね、この往生ということを思う時に、これから浄土を生きるとか、浄土に生きるといっても、今この自分の生活以外にはないのですから、今のこの自分において、さて浄土を生きるとはいったいどういう事かということになります。すると、もし仮にですよ、その往生を得たもとして意気込んで、浄土に勇ましく生きるのかどうかということですね。勇ましく生きられるのは大したことだと思います。しかし、そういう勇ましさをここで言われているのではなくて、たとえいかなる時であっても法王阿弥陀仏の功徳である、不朽の種が善く住持されているのだということですから、たとえそれが生きることに躓いても、何かに嘆いても、失敗しても、たまたま成功してもですね、正覚の阿弥陀法王の住持する種はいつも芽をだす因縁を待っているのだということです。その因縁が芽をだして、如来の名号と浄土の名字が善く私をまもるのだということではないでしょうか。

それでは観察門第13「荘厳眷属成就」です。

[(仏の)眷属(はらから)においてかざりあげられている功徳の成就とは、偈に「如来浄花の衆、正覚の花より化生す」といわれているからである。これはどのように不思議(な功徳)なのであろうか。おおよそこの雑生の世界には、胎生や卵生や化生などいろいろな生があって、それぞれ眷属の数もしれず、苦しみや楽しみにもいろいろな種類がある。これは、さまざまな業によっているからである。彼の安楽国土は、阿弥陀如来の開いた正覚の浄花に感化されて生れないものは一人としてない。すべて同じく念仏して、それよりほかの道(より生まれるもの)ははるか遠く世界のはての者にまで通じて、全世界のすべての人々を皆兄弟とするのである。このように眷属の数ははかりしれないのである。どうして(常なみの)思いのはからい及ぶことであろうか。]

 この「如来浄花の衆、正覚の花より化生す」ということで思うのは、先ほども言いましたが、「妙声功徳」の「もしひとあって、彼の国土に清浄で安楽なことを聞くだけで、よく心にきざみ念じて、彼の国土に生れたいと願うものと、またすでに往生をえたものとは、たちまち正定聚に入ることができる」の「もしひとあって」を「もし(往生の)ひとあって」と読むなら、次の文は「彼の国土に生れたいと願うものと、またすでに往生をえたものと(が)、たちまち正定聚に入ることができる」と読むのだろうと思うのですよ。単に「往生をえたものとは」を「往生をえたものとが」と読み変えただけですが、ニュアンスが変わります。

 これね、ずいぶん前でいつ頃か忘れましたけど、あるテレビ放送で、仏師つまり仏像を彫ることを専門にされる方がインタビュウーで、「昔の仏像を眺めていると、ああここを苦労して彫られているなと感じる、と、そのとき時空を超えて、その彫り師と逢えるのが嬉しい」と言われたのを思い出します。同じ道を歩く人には見える世界があるのだなあと思って忘れずにずっと覚えているのですが、念仏の道も同じで、往生浄土への道はその眷属にかざりあげられているということは、このたび往生するものと、すでに往生をえたものとが出逢っていく世界観ではないか。そしてその世界観とは、浄土の清浄と安楽をもって往生浄土を願う時、その往生のひとは、すでに往生を得たものと共にたちまち正定聚に入ることができる、と、このような往生するものと往生を得たものとが共感し共鳴しあう、そういう心象的な世界観を言われているのではないかと思うのですね。

 ただし、この国土荘厳の三種を全体的に捉えた場合、そこに往生を得たものは、それぞれが阿弥陀仏に善く住持されたもの同士なのでしょう。それぞれが阿弥陀仏に住持されて、それぞれが往生の光を頂いているところの世界観ではないかということですね。

 論註上巻の讃嘆門の最後のところにあります、「もし一仏が主となって三千大千世界をすべてつつんでいるというならば、これは声聞が論ずる中の説である。もし諸仏があまねく十方無量のほとりなき世界をつつんでいるというなら、これは大乗の論の中の説である。天親菩薩がいま尽十方無碍光如来といわれるのは、とりもなおさず彼の如来の名によって、彼の如来の光明のはたらきたる智慧の相のごとくに讃嘆するのである」と言われております(諸仏)のところを、(往生を得た者)とするならば、「もし諸仏(往生を得た者)があまねく十方無量のほとりなき世界をつつんでいるというなら、これは大乗の論の中の説である」と同じ意味になるのではないかとも思えるのです。

 論註はもともと観経との関わりがつよいと言われます。この心象的世界観を今後どう見て行くかは自分としても大きな課題でありますが、とにかく論註を観点にしながら観経疏ともあわせて見ていくことができればいいのですが。

 「荘厳眷属功徳成就」をこのように頂いております。そしてこの「眷属功徳」までをもって「正定聚に入る」ということを顕されるのかなとも思います。しかしながら、この三つの功徳成就文の後に「また言わく」と付け加えられた文があります。それが国土荘厳第16の「荘厳大義門功徳成就」です。この「大義文功徳」を入れると引用文がひとつ増えることになりますが。終わりの部分だけを引用されているので、数には入れませんでした。

 で、その抜粋されている文ですが、何が書いてあるのかといいますと「また言わく、往生を願う者、本はすなわち三三の品(ぼん)なれども、今は一二の殊なし。また淄澠の一味なるがごとし。いずくんぞ思議すべきや」淄澠は(しじょう)と読みます。そしてまた、親鸞聖人はこの淄澠と一味の間に「食陵の反」という文言を付けくわえられています。つまり「淄澠(食陵の反し)の一味なるがごとし」と、このような文になっています。「食陵の反」を(じきりょうのかえし)と読みますが、それをわざわざ聖人ご自身が付け加えられていることになります。

 まず、三三の品とは、これは観経の上品上生から下品下生までの九品ですから、阿弥陀仏の浄土往生を願う者のレベルを九つに分けて、そしてそれぞれの機に応じて、阿弥陀如来が救いとるという三三の品でしょう。それが往生のひとにとっては、この三三の品はすでにないということですね。たとえ煩悩の中に生きようとも、浄土に生れたいと願えば、すでに往生をえたものととともに、本願海でたちまち正定聚に入ることができるから、三三の品はもうないのであるということでしょう。

 で、次のところですが、「淄澠の一味なるがごとし」この淄澠とは、淄川と澠川という全く違う川が合流することだそうです。本願海に入ればこの全く違った川も一味であるといわれます。つまり、本願海には三三の品などはすでになく一味の世界であるという意味と、淄澠の一味なるがごとしの意味を重複されているともいえますが、しかしここに「食陵の反」とわざわざ付け加えられていますね。これがいったいどういう意味なのかということであります。それで、とにかく現在の了解をここで話そうかと思っています。真偽は後にまかせて、この問題に自問自答することをもって今回の話を終了させていただこうかと思っておりますので、そういうつもりで聞いていただければ幸いです。

 この淄とはどす黒いとか、泥の色をしたというような意味だそうです。澠はサンズイに亀とも読むそうですね。解説では亀の住むような川や池とありました。そして陵は「みささぎ」と読みまして、王の墓などを言うそうです。だから、食陵「じきりょう」とは王の墓を食うということになります。そしてその反(かえし)ですから、どんなもんでしょうか。聖人がこの「食陵の反」をわざわざ淄澠に付け加えられる意味は何かということなんですが、まず宇宙をイメージしてみると、するとまあ、この宇宙の壮大さというのは輝ける星の共演をいうのだと思うのですね、しかし、その無量無数の輝く星も、宇宙という漆黒に輝く星です。皆さんは息をのむくらい降り注ぐ星に圧倒されたことはありませんか、ぼくはありますよ。とにかく北斗七星がどこにあるのかすら分かりませんでした。天の川が手に届くくらいすぐそこに思えました。それほどの満天の星空でした。今思えばそれほどでもなかったのかもしれませんが、その時は圧倒されました。たまたまそういう光景を目にした訳ですが、ある所に行くともっとすごい満天の星を観ることができるでしょう。しかし、そのような満天の星もまた、漆黒という宇宙での共演です。この漆黒と輝ける星群とのコントラストが壮大な満天の星を表現するのでしょう。

 淄川を漆黒の川だとすると、澠は亀が住むような川です。亀がまた出て来ましたが、この亀のイメージには何の意味があるのでしょうか。とにかく亀に何かいろんな生きものの匂いがしますね。当然私たちのようなものも含まれるのではないでしょうか。で、この淄川と澠川とがまじわり一味になるとすると、だいたい淄川の漆黒に混ざりこむでしょう。すると、その漆黒にはさまざまな生きものが混ざりこむという意味になります。この漆黒を無明といえば何やらすとんと収まるような気がしますが、もう少し違う見方をすれば、この漆黒とは私たちのもっとも深くそしてもっとも暗い場所であり、そこにはさまざまな生きものや、それこそ年取った亀の甲に生えた錯覚という名の毛もまざりあっている、と、そういうものではないか。ぼくはそれを業の深さだと思っているのですが。

 阿弥陀仏の本願海をもしこの宇宙に例えるなら、本願海とはさまざまに輝ける星の世界観だと思うのですよ。しかし、この淄澠が混ざり合う漆黒もまた本願海の輝きの一部であり、本願が本願海として輝く場所である。そして、この本願海に往生の光を得て輝く自らもまた、この漆黒に浮かぶ星の一つである、と、そのように表現されたのではないかと思います。このように本願海と漆黒と往生との関係を「食陵の反し」と言われたのではないでしょうか。で、この「また淄澠(食陵の反)の一味なるがごとし」は当然前後の関係で言われているわけですから、ここだけをもって説明しようとしても無理がありますので、今後の宿題にさせていただくつもりです。ひとまず自分の考えを話してみました。

 

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