令和6年12月1日 御正忌報恩講から
「顕浄土真実行文類二」
「謹んで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とは、すなわち無碍光如来のみ名を称するなり。この行は、すなわちこれもろもろの善法を摂し,もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。かるがゆえに大行と名づく。しかるにこの行は、大悲の願より出たり。すなわちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく。また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。
諸仏称名の願
『大経』に言わく、設(たと)い我仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して我が名を称せずば、正覚を取らじ、と。已上 また言わく、我仏道を成るに至りて名称十方に超えん。究竟して聞こゆるところなくは、誓う、正覚を成らじ、と。衆のたえに宝蔵を開きて広く功徳の宝を施せん。常に大衆の中にして説法獅子吼せん、と。抄要」
・・・・・
今日から教行信証の行巻のところを話すことになります。勉強方々と思って始めた教行信証の読み方ですが、縁あって、こうして当寺の法要で話しています。原稿書きから法話といささか時間に追われていますが、おかげ様で法要でこのように聞いていただけるのは有難いことです。この教行信証の読み方はすでに証巻と教巻を通してきましたが、それをいまさら違う話し方に変えようと思っても無理だろうと思います。もう少しましな話が出来ないものかといつも考えます。しかし、これもまた自分の個性だろうとも思い、表現の仕方については言い訳しまいと、一応心に留めております。
それで、とにかくこれまで読んできた感想をまず述べるとするなら、すごく難解であります。自分がそれをどれだけ消化できて話しているか、そしてその内容が的を得ているかどうかと、いろいろと悩み、思いを巡らして準備をしてきました。今回もそのつもりで準備をしていますが、この行巻はかなり長文でありまして、行巻全体を観ながら話すことが出来ません。それで、それぞれの部分を読み進めながら全体を眺めて行こうと思っています。それが出来るかどうかは別にしても、まとらずお聞き苦しいことがあるかと思います。とにかく精一杯背伸びして話すことにしていますので、何とぞお許し願いましてお聞きいただければ幸いです。
それでは、今回から行巻を読んでいきます。長丁場になりますので宜しくお願い致します。そして先ほど読みました行巻の始めの文ですが、まず読んでみて、そして分からない訳です。「謹んで往相回向を案ずるに、大行あり、大信あり。」と書いてありますね。その次に「大行とは、すなわち無碍光如来のみ名を称するなり」といわれていて、この行は、もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具している、極速円満であり真如一実の功徳宝海である、と、このように続きます。それをこういうことだから大行というのだということですね。
で、初めに往相回向に大行と大信がある、そしてその次に、大行だけを取り上げて説明をされているでしょう。そこのところを読むと「この行は、もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり」ですね。そしてそれは極速円満しているということです。極速というのはほんの短い時間を言うのではないですか、だからそれは短い時間であり円満していると言われている。そしてまた、そのことは真如一実の功徳宝海であるとも言われています。で、これはいったい何を言われているのか。
それからまた「かるがゆえに大行と名づく」ですから、いったいこの全体で何を言われようとするのか皆目分からない訳です。次に「しかるにこの行は、大悲の願より出たものであるから、諸仏称揚の願と言い、諸仏称名の願という、諸仏咨嗟の願と名づける。そして往相回向の願と名づけ、選択称名の願と名づけると幾つもの願を並べておられますが、まず大悲の願より出たりと言われ、そして願文が羅列されている、その初めの三つが諸仏称揚の願、諸仏称名の願、諸仏咨嗟の願です。
で、どうもここで一回区切っておられるようでありまして、そしてまた「往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり」と、このように続いているのではないか。はたしてこのような分け方が正しいのか分かりませんが、自分にはそう読めるわけですから、ここで区切られていることを切り口にしてこれらのことを考えてみようと思います。
すると、まずこの行巻の初めが「謹んで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり」です。その後にその大行とは何かを述べられて、その後に幾つもの願文を挙げておられますが、その中の諸仏称揚の願と諸仏称名の願と諸仏咨嗟の願を取り上げて、まずはこの願文が大行の願であると言われているのではないかということですね。
それでは、その次の往相回向の願と選択称名の願は何かといいますと、初めの「謹んで往相の回向を案ずるに大行あり、大信あり」の所に戻るような書き方をされているのではないか。つまり、まず三つの願文を得てから、そして最初に戻る。そうだとすると、往相回向の願の次の最後の願文である選択称名の願がこの行巻の最終的な願文ということになります。このように考えている訳ですけども、この事が一体どういうことなのかまだ分かりませんし、混乱している訳です。しかしとにかく、これらの事を念頭におきながら先に進んで行きたいと思います。
それでまず、今回は諸仏称揚の願、諸仏称名の願、諸仏咨嗟の願の方を考えていきますが、そこで最初に押さえなければならないのは「大行とは、すなわち無碍光如来の名を称するなり」と言われていて、次にその行が大行である所以を述べられている。それが、もろもろの善法や徳本が具せられていて、そして極速円満し真如一実の宝海であるからだということですね。
この事がどういうことなのか。とにかくこの行は大悲の願より出ているから、諸仏称揚の願といい、諸仏称名の願という、そして諸仏咨嗟の願と名づける、とこのようになっています。そこで、まず初めに諸仏称揚の願について見ていくと、揚は下から上に移動させるという意味だそうで、つまりは下から上に揚げることですから、何か持ち揚げるという事でしょう。
するとこの諸仏称揚の願は「大悲の願より出たり」と言われていて、その大悲の願より出て何かを持ち揚げる願である。つまり無碍光如来の名を称することによって、称揚という、ひとつの相を持っているということ。そしてその相とは何かといえば、「揚」という形である。つまり諸仏称揚の願は、諸仏称名の願の相を顕していて、その相とは「揚」という形である。
そこで、前回の教巻で学んだ中に、群萌という言葉がありました。「釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯い、恵に真実の利をもってせんと欲してなり」つまり、お釈迦様が生涯をかけて説かれた教えを明らかに説き示せば、「群萌を拯(すく)い、恵に真実の利をもってせん、と、欲(おぼ)してなり」とこのように言われています。
それでこの諸仏称名の願は何処に立っているのかというと、この群萌を拯うところに立っている。すると、諸仏称揚の願の揚が群萌を持ち揚げるという意味なら、群萌よりも深く、そして群萌をつつみ、弥陀大悲の中で浄土へと持ち揚げる願であると、このようなるかと思うのですね。このことをどのように考えていくのかまだ分かりませんが、とにかく初めの諸仏称揚の願は大悲の願と交差する願であり、そのことが諸仏称名の願の相のひとつ「形」を顕している。
それでは諸仏咨嗟の願は何かといえば、これも諸仏称名の願の相である。そしてこちらの相は諸仏称名の願の「中身」を顕している。この三つの願文をもって、次のステップである往相回向の願へと繋がっていく、と、このようになるのかなと考えているわけです。そして次に、行を改めて諸仏称名の願とだけ述べられます。
一応ここまでを見ると、行巻(顕浄土真実行文類二)はまず諸仏称名の願であると書いてあります。そして浄土真実の行であり選択(せんじゃく)本願の行であると最初で言われておりますけども、その諸仏称名の願が行巻の願文であると言われながらも、この諸仏称名の願の出し方が変ですね。幾つも願文が羅列されていて、その二番目が諸仏称名の願です。要は何故このような願文の羅列と順番があるのかということですね。しかし、変だと言われてもそんなに変だとは思わないでしょう。それは今そのことを説明しているから変だと思わないのであり、説明がなくていきなり見せられたらやはり変ですよ。
この諸仏称名の願は第十七願といわれているものです。願文を読むと内容は三番目の諸仏咨嗟の願になっています。「『大経』に言わく、設(たと)い我仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して我が名を称せずば、正覚をとらじ、と。」お分かりのように、これは諸仏咨嗟の願文です。つまり諸仏称名の願の相のひとつが諸仏称揚の願であり、もうひとつの相が諸仏咨嗟の願である。このように両方で諸仏称名の願を形と中身で顕していることになります。
そこで、この諸仏称名の願を読むと、まず『大経』に言わくと書いてある。「大無量寿経」を略して「大経」と書いてあります。前回の教巻では、この「大無量寿経」を「大」と「無量寿」に分けてその関係を話しました。それをまた、この「諸仏称名の願」でも同じように考えていいのかどうか。正直なところよく分かりませんが、「大無量寿経」を「大経」とまで強調されているかのように読めるものですから、これはやはり前回と同じように「大」と「無量寿」の関係を通して見た方がいいのかなと思っていましてね。
でも前回はそれなりの理由があって、それで「大」と「無量寿」の関係として、ちょっぴり無理に分けたつもりでいましたが、今回もはたしてそういう事でいいかどうか、正直少々とまどっています。しかし、とにかく真偽は後のお任せすることにして、引き続き前回と同じように「大」と「無量寿」の関係をもって先に進んでみることにしました。
そこでまずこの『大経』に言わくという事ですが、勿論これは「大無量寿経」に言わくですね。その『大経』の四十八願の第十七願が行巻の願文であるといわれる諸仏称名の願です。願文の中身は諸仏咨嗟の願です。「設(たと)い我仏を得たらんにに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して我が名を称せずば、正覚を取らじ、と。」
その次に「また言わく、我仏道を成るに至りて・・」と続いていますね。この文は四十八願を説かれた後に、法蔵菩薩が重ねて誓われるところの偈文ですが、そこから二か所を抜きだしておられます。「また言わく、我仏道を成るに至りて名称十方に超えん。究竟して聞こゆるところなくは、誓う、正覚を成らじ、と。」これがひとつ。もうひとつが「衆のために宝蔵を開きて広く宝を施せん。常に大衆の中にして説法獅子吼せん」ですね。偈文では別々ですが、親鸞聖人はこれを一緒にされています。そして最後の抄要の文字は親鸞聖人ご自身が付けられたのでしょう。
そこでまず、この抄要ということですが、これは一部分を抜きだして要だと言われるのですから、二つの文を一緒にして諸仏咨嗟の願のあとに付け加えられて、これらの文が第十七願と共に要であるということになるでしょうか。
それでは、この諸仏称名の願を「大」と「無量寿」の関係で見たときにどうなるのかということですが、第十七願の初めの「設い我仏を得たらんに」のところは、「あるとき、阿弥陀仏の浄土のとき、法性身が我が身を度外視して正直(まっすぐ)に阿弥陀仏へ成仏するとき」であり、そのときに十方世界の無量の諸仏は、ことごとく咨嗟して我が名を称せずば、正覚を取らじ、と、このようになります。
「咨嗟」というのは「嘆息して嘆くこと」だそうで、嘆息はため息をつくことですから、嘆きため息をつくことでしょう。しかし、この諸仏咨嗟の願における咨嗟は褒めたたえるとか称賛するという意味だと言われておりまして、辞書などで使われている咨嗟の意味とは違うことになっています。
例えば、親子の場合を考えて見ると、子供がハイハイから歩行へとうまく独り立ちができないときに、親は子供を見守りながら、あぁもうちょっとなのになぁと、嘆きため息をする。そしてその子がやっと上手く自分で立って歩き始めたとき、よくやったと子供を褒め称賛する。このような一連の流れを諸仏咨嗟の願に見ることができるなら、この咨嗟の意味も何とか分かる気がしますね。つまりこの咨嗟には諸仏の願いが込められているということになりますが、しかし、どうもすっきりしないですね。
この咨嗟を称賛の意味だとすると、「大」と「無量寿」の関係で見れば、阿弥陀仏の浄土のとき、法性身が我が身を度外視して正直に阿弥陀仏へ成仏するのに、十法世界の無量の諸仏が、ことごとく称賛して我が名を称えないならば、私は成仏しない、と、このようになりますが、それではこの十方世界の無量の諸仏が褒めたたえて我が名を称えるとは、いったい何を言われているのでしょうか。
この「大」と「無量寿」の関係は、次に「仏の方」と「凡夫の方」に分けて、その関係を見ることになりますが、この場合は「仏の方」が無量寿仏であり「凡夫の方」が群萌ということになります。すると、この諸仏咨嗟の願は、「仏の方」である無量寿仏が「凡夫の方」である群萌に向かって成仏することになりますが、ここでは阿弥陀仏の浄土のとき法性身は我が身を度外視して正直(まっすぐ)に阿弥陀仏へ成仏する、そのときに十方世界の無量の諸仏が咨嗟して我が名を称せずば正覚を取らず、と、このようになる。
そしてこのことを抄要の文に見ると、「我仏道を成るに至りて名称十方に超えん。究竟して聞こゆるところなくは、誓う、正覚を成らじ」とありまして、ここでは「名称十方に超えん」と言われている。次では「衆のために宝蔵を開きて広く功徳の宝を施せん。常に大衆の中に説法獅子吼せん」となっていますから、この十方とは衆であり大衆のことである。その十方の大衆の中で説法獅子吼せんです。これをまた「大」と「無量寿」の関係で見ていくと、これらはすべて「仏の方」の出来事です。「凡夫の方」はありません。
しかし「凡夫の方」のように見えるところがあるでしょう。しかしよく見ると、これは阿弥陀仏の浄土のときの、阿弥陀仏の成仏における諸仏の関係ですから、やはり「凡夫の方」ではなくてすべて「仏の方」です。つまりここには群萌はないのですね。
それでは「凡夫の方」である群萌の代わりとしていったい何があるか。それが「衆のために宝蔵を開きて広く功徳の宝を施せん。常に大衆の中にして説法獅子吼せん」の「衆」であり「大衆」です。これらは凡夫でもないし凡小でもない、まして群萌ではありません。だからここに言われている大衆とは、そのまま私たちであり、私たちの姿です。つまり一般大衆ということでしょう。その一般大衆の中で説法獅子吼せんです。そのとき大衆の中に説法獅子吼する諸仏を見る。
凡夫とは自らの自覚にあり、群萌はその自覚の深さにある。群萌が諸仏だということではありませんが、この群萌の姿こそ、諸仏が嘆きため息をし、そしてついには諸仏が称賛する諸仏咨嗟の願ではないかと思うのですね。しかしもうひとつの相、諸仏称揚の願では、一人の自覚である群萌より深く大悲と交差する。諸仏咨嗟の願では名称は十方に超えて、大衆の中で説法獅子吼せるがごとくである、と、このようになるのではないでしょうか。
親鸞聖人は『無量寿如来会』で、「かの貧窮において伏蔵とならん。善法の円満して等倫なけん。大衆の中にして獅子吼せん、と。」このように述べられています。貧窮は「びんぐ」と読みまして、貧しさの度合いが強まって追いつめられることをいうそうですね。するとここでは、心の貧しさが窮まって追いつめられている大衆の伏蔵となり、その大衆の中で説法獅子吼せん、と、このような意味になるかと思います。
このことをその次に「この義利をもってのゆえに、無量無数不可思議有無等等無辺世界の諸仏如来、みな共に無量寿仏の所有の功徳を称讃したまう」と述べられています。ご覧のように、ここではもう諸仏咨嗟の願には嘆きため息をするという意味は無くなっていて、諸仏がすべて無量寿仏の功徳を称讃したまうという意味になっているでしょう。
このことをまた「大」と「無量寿」の関係で見れば、あるとき阿弥陀仏の浄土のときに、法性身は我が身を度外視して正直に、「仏の方」である無量寿仏(阿弥陀仏)は、「凡夫の方」である群萌に向かって成仏する。そのとき、諸仏は貧窮の伏蔵となって、無量無数不可思議無有等等無辺世界に立ち、共に無量寿仏の功徳を称賛して、大衆の中で説法獅子吼する、と、このよのようになりますから、この諸仏称名の願は、一人の自覚である群萌より深く、この無量無数不可思議無有等等無辺世界に立っている願であるといわれているのでしょう。それで、親鸞聖人にとってこの無量無数不可思議無有等等無辺世界とはどんな世界観なのかと言うことですが。
それからこの群萌と諸仏の関係を少し話してみようと思います。おそらく群萌と諸仏はすごく近いのですよ。しかし群萌と諸仏は違いますね。つまり境涯が違う。群萌は何処までも凡夫です。諸仏ではありません。群萌とは一人の煩悩の自覚であり、その自覚の深さである。諸仏は群萌より深く何処までも広い。この二つの関係が諸仏称名の願で一つになる、そういうことかなと思っています。お気づきのように群萌はまだこの中にはありません。
次に『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』(ぶっせつしょぶつあみださんやさるぶつだんかどにんどうきょう)と、聞きなれない経典があります。これは何だろうと思っていましたが、『無量寿経』の異訳である「大阿弥陀経」のことだそうです。「大阿弥陀経」と言わずに俗っぽい経典名を使われています。そこで、ここでもやはり「大」と「無量寿」の関係を述べよと言われている気がしましてね。本当のところは分かりませんが、とにかくそうすることにします。
すると、ここには「大」と「無量寿」の関係はありません。あえて言えば「大」が後ろに隠れている関係である。つまり法性身が後ろに隠れている。それで、とにかく何と書いてあるか。
第四に願ずらく、「それがし作仏せしめん時、我が名字をもって、みな八方上下無数の仏国に聞こえしめん。みな、諸仏おのおの比丘大衆の中にして、我が功徳・国土の善を説かしめん。諸天。人民・蜎飛・蠕動の類、我が名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せん者、みな我が国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、終に作仏せじ、と。已上」
この経文を一つひとつ押さえながら説明することはできません。それで、自分としては一応は冗長性が高いつもりでいますが、まあ単なる逸話というか、ちょっとした小話でもってこの経文の感想を話してみようかと思います。まず、この「八方上下無数の仏国に聞こえしめん」とは何か。八は方向、上下は時間とするなら、これはとにかくある時ある所であり、無数とはその誰でもがということでしょう。つまりいつでも何処でも誰でもが、この仏国に聞こえしめんです。仏国とはそのまま諸仏の国だと思いますから、そのときどきにそれぞれの凡夫にそれぞれの仏国があるということでしょうか。
でこの、いつでもどこでも誰でも仏国がある。まずここを押さえて、あるときある所に、例えば温泉まんじゅうがあるとする。お分かりのように名号を温泉まんじゅうと言い換えている訳です。ふざけた譬えだと思われるかもしれませんが、「大」が隠れているとはどういうことかというと、これはぼくは言葉の問題ではないかと思っていまして、「大」と「無量寿」の関係では、あるとき阿弥陀仏の浄土のとき、法性身は我が身を度外視して正直(まっすぐ)に群萌に向かって成仏する。しかしこの場合は、「大」は「言葉」に隠れていて、そこには言葉の名号(南無阿弥陀仏)がある。つまりその言葉(名号)に向かって法性身は我が身を度外視して阿弥陀仏へと成仏する。
「大」である法性身と言葉の関係ですが、ここではそれを「大」と「名号」との関係でもって顕そうとされるのではないかと思っているものですから、この関係性を単に言葉ということで説明するなら、まあ、このように温泉まんじゅうという、ちょっとふざけた風の譬えの方が考えやすいのではないでしょうか。それで、これは「大」と「無量寿」の関係というよりも、「大」と「言葉」の関係であり、つまりは「大」と「名号」の関係に見る言葉の問題ではないかと思います。
そこで、あるときそこに温泉まんじゅうをじっと見ている人がいた。そして、その傍らで様子を窺う者がいたとするでしょう。この様子を窺う者が皆さんであり主人公だと思ってください。で、そのある人は温泉まんじゅうを感慨深く見ていました。
その温泉まんじゅうには何か書いてある。「諸仏称名の願」と書いてある。まんじゅうの箱にも説明書きがあり「浄土真実の行 選択(せんじゃく)本願の行」と書いてある。その人はこの説明を読んでこのまんじゅうが浄土真実の温泉まんじゅうだと分かった。
説明書には効能も詳しく書いてある。「設い我仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して我が名を称せずば正覚を取らじ、と。また言わく、我仏道を成るに至りて名称十方に超えん。究竟して聞こゆるところなくは、誓う、正覚を取らじ、と。衆のために宝蔵を開きて広く功徳の宝を施せん。常に大衆の中にして説法獅子吼せん」とある。
その人はこの説明文も読んで、温泉まんじゅうの効能を理解して、そしてそのまんじゅうを食べた。すると店の主人が挨拶をしに来た。名札には「法蔵菩薩」と書いてある。そこでその人は、店の主人に「みごとなまんじゅうです、おそれいりました。」と話した。続けて「このまんじゅうの餡は群萌ですか」と尋ねた。すると店の主人が「はい、そうです」と答えた。
すると「この群萌の餡を支えている称揚シートがいいですね」と言いながら、また尋ねた。「それにしても群萌の餡を包んでいる皮の透明度がすごい、まるで餡に光沢すら見えます。これほどに完成されるとは、ご主人もさぞご修行を積まれたのでしょうね。」と聞くと、やや感動して「五劫の時間がかかりました」と主人は答えた。その人は「有難うございます、あなたのおかげでどれだけの人が救わるでしょうか」「そしてこのまんじゅうはどこか懐かしさがある。この不可思議な温泉まんじゅうはいつからここにあるのですか」と尋ねると、「すでに久遠の時が過ぎました、多くの方が食べていかれました」と、店の主人は答えた。
それをずっと傍らで見ていた者が、ふと気がつくと、自分の前にもその温泉まんじゅうが有るではないか。で、側でじっと見ていたので、自分もそれなりに何となく分かったつもりでいたが、説明書きも効能も一応読んだふりをした。また、まんじゅうの餡が群萌だとは聞いていたが何のことかよく分からないし、餡の実感もない。しかしとにかく食べてみるとそれなりに心地よく悪い気がしない。味はよく分からないにしろ、側で聞いていたのでそれなりにポーズをとって真似をしていたら、店の主人が出てきた、名札には「法蔵菩薩もどき」と書いてある。
今度は観光客が現れた。がやがやと話しながら店に入っては、それぞれがその温泉まんじゅうを頬張っている。まんじゅうにはすべて諸仏称名の願と書いてあるが、まったく見ていない。だから説明書など見向きもせずにがつがつと食べてがやがやと出て行った。「法蔵菩薩もどき」さえ出ず仕舞いである。
それでもそのごった返す人の波にもかかわらず、ほんのわずかだがこの温泉まんじゅうが気になった者がいた。ある者は店に帰って来る。そしてしげしげと温泉まんじゅうを見て、名称や紹介文を読んでいる。するとあることに気づく。そして「このまんじゅうはいつか食べたような気がします。いつからここにあるのですか」と尋ねる。
ここに登場するのは三種類の人にしています。これを「仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経」に当てはめると、一人目が諸天、二人目が人民で三人目が蜎飛・蠕動の類のつもりです。
諸天の説明はできませんが、つまりは私よりも目利きが優れている人だということです。人民はそのまま自分であり、そして皆さんのこととして書いています。ここに蜎飛・蠕動(けんぴ・ねんどう)の類とあります。蠕動とは地にうごめく生き物だそうで、蜎はボウフラのことだそうですね。だから蜎飛・蠕動の類とは、その辺をくねくねして這いまわる虫か、飛び回る虫のような生き物ですね。
これらのすべては「仏の方」「凡夫の方」とは関係がない。いうなればいろんな人を二次元的にベタっと表現した世界です。広さだけがあって深さも奥行きもない、表面的な人間模様であり、群萌とは違います。登場するのは三者三様ですが温泉まんじゅうは同じです。いつでもどこでもだれでも全て同じまんじゅうである。餡も皮もまったく同じですが気づかない。
何故気づかないのか。まず群萌の餡に気づかない。群萌が自己のことだと気づいていないのですね。餡が入っていないから、いくらまんじゅうの効能を読んでも味が無いのです。しかしひとたび群萌の餡が入れば、この温泉まんじゅうは、「大」である阿弥陀仏の浄土のとき法性身は我が身を度外視して阿弥陀仏へ成仏する言葉の仏である。そのとき、この諸仏称名の願は阿弥陀仏の浄土であるがゆえに、諸仏称揚の願と諸仏咨嗟の願で完成する大行まんじゅうなのだという、ちょっとした逸話です。
言葉はいつ始まったのか。言葉はこれまでずっとあります。それでは、言葉はいつ生まれるでしょうか。言葉が言語として生れるのは、その言葉が発せられるときであり、その言葉を聞いているときです。言葉の問題は不思議でありハードルが高い。難問だと思いますが、考えていかなければならない問題でもあると思います。