ただ念仏して

令和3年度 秋彼岸会      令和3年9月23日

 歎異抄第二条に「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」というお言葉があります。この「ただ念仏して」ということですが、簡単な事ですね。皆さんもすぐに出来るし、誰でも出来ます。でもね、この「ただ」というニュアンスが曲者ですね。ボケっとしてとは書いていない。どちらかといえば脇目もふらずにということだとは思いますが、でもその脇目をふらずといってもまた、そうかなあと、違うような気がする。どうもこの「ただ」という言葉は分かったようでいてもはっきりしない。

 で、この「ただ念仏して」をもっと難しくいえば「乃至十念」ということだと思います。こうなると回数の問題にもなります。乃至十念だから10回程度の念仏だということです。乃至なら5~6回でもいいんじゃないか、とアホなこともいいたくなりますが、実はこの「乃至十念」が歎異抄14条で問題になっているところがあります。「一念に八十億劫の重罪を滅すると信ずべしということ。この条は十悪五逆の罪人、日ごろ念仏を申さずして命終のとき、はじめて善知識のおしえにて、一念もうせば八十億劫の重罪を滅し、十念もうせば、十八十億劫の重罪を滅して往生すといへり。これは十悪五逆の軽重をしらせんがために、一念十念といえるか、滅罪の利益なり。」

 一念に八十億劫の十悪五逆の罪が滅するなら、十念は十八十億劫の重罪が滅するのだといわれています。で、このような念仏は我が罪の軽重を知らせんがための念仏だといわれる。歎異抄ではこのような滅罪の念仏は親鸞聖人がいわれるところの念仏ではないといわれています。ましては、一念に八十億劫の罪が滅するから、十念で十八十億劫の罪が滅するという勘定したような念仏ならなおさらでしょう。

 この歎異抄14条でいわれている滅罪の十念は『観無量寿経』の「下品下生」に書かれています。今日はこの「下品下生」の念仏を通して少しばかり話をしようと思いますので宜しくお願い致します。ではまず『観無量寿経』の「下品下生」のところを読んでみましょうか。

「仏阿難におよび韋提希に告げたまわく、下品下生というは、あるいは衆生ありて、不善業たる五逆・十悪を作る。もろもろの不善を具せるかくのごときの悪人、悪業をもってのゆえに悪道に堕すべし。多劫を経歴して、苦を受くること窮まりなからん。(かくのごときの悪人、命終の時に臨みて、善知識の、種々に安慰して、ために妙法を説き、教えて念仏せしむるに遇わん。)この人、苦にせめられて念仏するに遑あらず。

〔善友告げて言わく、汝もし念ずるに能わずは、無量寿仏と称すべしと、かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆえに、念念の中において八十億劫の生死の罪を除く。〕

命終の時、金蓮華を見る。猶し日輪のごとくしてその人の前に住す。一念の頃のごとくに、すなわち極楽世界に往生することを得ん。蓮華の中において十二大劫を満てて、蓮華方に開く。観世音・大勢至、大悲の音声をもって、それがために広く諸法実相・除滅罪の方を説く。聞き己りて歓喜す。時に応じてすなわち菩提の心を発す。これを下品下生の者と名づく。これを下輩生想と名づく、第十六観と名づく。」

「下品下生」のヵ所の全文になります。これを一つひとつ押さえて説明できるようなものは持ち合わせておりませんが、ここに〔善友告げて言わく、汝もし念ずるに能わずは、無量寿仏と称すべしと、かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆえに、念念の中において八十億劫の生死の罪を除く。〕とあるでしょう。これが先ほどの十念のことですね。で、その前に(かくのごときの悪人、・・・)と、善知識から進められる念仏があるでしょう。その念仏は心に仏を念じて念仏することを言う訳です。ところが臨終間際で苦しくてその遑さえない。そこで〔汝もし念ずるに能わざるは、無量寿仏と称すべし〕です。これが今日話すところの「下品下生」の口称念仏です。

 この称名念仏を「かくのごとく心を至して、声を絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。かくのごとく念念の中において八十億劫の生死の罪を除く」とあります。この念念の中にそれぞれ八十億劫の罪を除くのだから、十念で十八十億劫の罪が除かれるのだということになる。歎異抄ではここのところをいわれていることになりますが、そしてそれを親鸞聖人のお念仏はこのような臨終の際のお救いではなくて、今生きるこの身のお救けでありますから、聖人の教えというわけにはいかないのだというのが、この14条に書かれているのでしょう。

 この「下品下生」の十念と滅罪のことを、曇鸞大師も『浄土論註』の上巻末尾にのせられていますので、こちらの方も紹介します。まず、十念から。

「問。どれほどの時間を一念というのか。答え。百一の生滅を一刹那といい、六十刹那を一念という。しかし、この『観経』の中に「一念」というのは、このような時間についていうのではない。ただ(ここに一念と)いわれているのは、阿弥陀仏の全体の相なり、各部の相なりを憶念して、そこに感じられてくるままにまかせて、心にほかの想いをいれず、十念が相続するのを、名づけて十念とするのである。ただ口に仏の名号を称えるのも、このようにいえるのである。

問。(十念する)心に、もし他のことを思いうかべれば、これをもとにかえらしめて、仏を念ずる数の多い少ないを知ることができる。(しかし)ただ数の多い少ないを知るだけでも、雑念がまじっていないとはいえない。(かといって)もし心を集中させて、想いを仏にそそげば、こんどはどうやって念ずる数の多い少ないを心にきざむことができるのか。答。『観経』にいうのは、十念とは往生の業が全うしたことを明かすのみで、たとえば、夏ぜみは、春や秋を知らない。してみればこの虫は、いまは夏の季節だということを知るはずもない、というようなものである。春秋を知る者が、いまは夏の季節であるというだけである。十念の業が全うしたというのも、これと同じで(人間の)はかりしれぬ境地に到達したもののみが、十念というのである。(われわれのほうは)ただひとえに念(おもい)を積みつづけ、他のことをおもいうかべないなら、それで充分なのである。そのうえどうして、かりそめにも念ずる数を知る必要があろうか」

 この『浄土論註』にある『観経』(観無量寿経)の「下品下生」の段ですが、ここにある十念も数の問題ではないですね。心が一杯になりオーバーフローして念仏が口から溢れだす様子でしょうか。それがこの「阿弥陀仏の全体の相なり、各部の相なりを憶念して、そこに観じられてくるままにまかせて、心のほかに想いをいれず、十念が相続するのを名づけて十念とするのである。」と書いてある訳ですが、このようにあふれ出るような念仏も回数ではなくて心が満ちて雑念が入りようがないということでしょうね。しかし、それはまた、はかりしれない境地に到達したもののみが十念というのであり、われわれはもっとハードルを低くして、余計なことを考えないで阿弥陀仏を想いつづけてただ念仏していくことでも充分なのだといわれます。

 それではこの「下品下生」の十念を、善導大師は『観経疏』ではどのように言われているか。「念数の多少、声々間なきことを明かす」とこれだけです。この十念はただひたすら念仏することで、念仏の合間がないことだとあっさりしています。 それでは、今度は滅罪の方です。まずお手元の資料に「十悪五逆」を載せていますのでそこを見て下さい。

十悪とは、殺生、偸盗、邪淫、妄語、綺語、両舌、悪口、貪欲、瞋恚、愚痴または邪見のことです。

次に五逆ですが、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血。

 五逆の殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血はなかなか分かりづらいかなと思います。また、この五逆罪はどれか一つでも犯せば無間地獄に落ちると言われるものですが、今日は全体的な雰囲気で見てもらえればそれでいいのかなとも思います。で、ここにある罪ということですが、単に罪だといいましても、たとえ自分がそれを行わなかったとしても、条件さえそろえば自分もしでかすかもしれないと心に罪の意識を持たれる方もいれば、それとは反対に死刑になっても、罪の意識がないまま他人や世間のせいにして死んで行く人まで様々ですが、ここにいうところの十悪五逆の罪というのは、どちらかと言うなら心の問題として取り上げられているのではないかと思うのですね。

 この滅罪について『浄土論註』に言われているのは、まず『無量寿経』には五逆罪と謗法罪があるということです。天親菩薩が『無量寿経』を釈された『浄土論』を曇鸞大師が註釈されたのが『浄土論註』ですが、そのもともとの原本である『無量寿経』には五逆罪の他に謗法罪があると、まずこう言われます。そしてその五逆罪と謗法罪を比較して、謗法罪のほうが五逆罪より断然重いのだと言われる。で、なぜ謗法罪の方が重いのかといえば、謗法罪とは法を謗る罪ですね。この場合の法とは仏法のことですから、仏法を謗る罪ということになります。この法を謗ることをいま風にいうならば、生きる本質を知らないままに生きていることへの罪ということだと思いますが、現代に生きる私たちの感覚でそう捉えようとすると何処か分かりにくい。

 で、この生の本質を知らないままに過ごしていることを無明といいます。その無明の闇から五逆が生まれるのだというのです。だからこの無明を生きる姿そのままが法を謗ることですから、無明に生きている姿を、真っ暗な部屋に住んでいることとして例えて、その真っ暗な部屋にも一度ひかりがそそげば、千年の闇もたちどころに明るくなる。それと同じように、これまで法を謗る者として生きた姿にひかりがそそげば、謗法罪とともに五逆の罪も我が身の自覚として明らかになるのである。このように五逆罪は謗法罪から始まるので、この謗法罪の抑止を強調されます。だから謗法罪が五逆罪よりも断然に重くて、罪の本質が違うのだという訳です。

 ところが、この「下品下生」には五逆罪はあるが謗法罪がない。だから『浄土論註』ではこの「下品下生」の口称念仏は初めから謗法罪が除かれているので、善知識からすすめられた念仏をただひたすら称えることで往生の業が全うするのだといわれているのでしょう。自分なりの読みですが、おおまかこのような意味だと思っています。

 では、善導大師の『観経疏』の方はどのようにいわれるのかというと、それは「未造業」だといわれる。この「下品下生」には五逆罪はありますが謗法罪がない。そのことをこの『観経疏』の「玄義分」に「下輩の三人はこれ大乗始学の凡夫にして、過の軽重に随いて分かちて三品となす」とあります。下輩の三人とは「散善義」の三三九品の下品の上生、中生、下生のことですが、上品、中品、下品がありまして、それぞれにまた上生、中生、下生がある。「散善義」にあるランク付けですね。その中でも最下位の下品の上、中、下を下輩の三人といいます。この下輩の三人でも大乗の仏法を志すものならば、法を謗って仏法を志すことはできない。だから仮にも仏法を志すものに謗法はないのだといわれているのですが、そのなかの最下位の「下品下生」は、取りようでは十悪五逆の罪の自覚において、自らを「下品下生」と位置づけているのだともいえるでしょう。

 そして、その「下品下生」にはなぜ五逆罪はあるのに謗法罪がないのかと自ら問いを出されます。この答えが「未造業」だというのですね。謗法罪が重罪だというのは同じですが、この五逆罪に謗法罪までが並んでしまえばもう救いようがない。だから「下品下生」の口称念仏で謗法罪を抑止するのだというのです。現代風にいえば大乗仏教を志すものへの、最終おちこぼれセーフティーネットです。このセーフティーネットを「下品下生」の十念にもってくるのですね。最後の土壇場にこの浄土のセーフティーネットが有るからこそ、そこからまた浄土への歩みを始めることができるのだというわけですが、ただし善導大師の「下品下生」の口称念仏は単なるセーフティーネットではありません。それこそ浄土への通門にもなっている。こんなたとえが当たっているかどうかは後にまかせるとして、とりあえず説明するとこういう言い方でしょうか。

 で、どちらがどのように違うのか分かりますか。曇鸞大師は信心のハードルを低くされて参加しやすくされますが、善導大師はストイックな生き方でものを見て行かれる、そんな気がしますね。でもね、個性の違いはあるかもしれませんが、善導大師に何かゆずれんものがあるようにも思えます。それがこの『浄土論註』の「下品下生」の十念です。先ほど紹介しました文に「阿弥陀仏の全体の相なり、各部の相なりを憶念して、そこに感じられてくるままにまかせて、心のほかに想いを入れず、十念が相続するのを名づけて十念とするのである。」とありましたが、このようなオーバーフローの十念を避けようとされているような気がするのですね。

 これは口称念仏ではなくて観想念仏ではないかということだろうと思いますが、このヵ所を観たら阿弥陀仏の相を憶念したところの念仏ですから、分別心という思いが混ざっているといわれてもしょうがない。 しかし、またその次には「はかりしれぬ境地に到達したもののみが、十念というのである」といわれます。では、そこにいわれる十念とはどういう十念なのか、そして『浄土論註』におけるこの「下品下生」の十念と、歎異抄第二条の「ただ念仏して」がどのように関り遇っていくのだろうか。そういうことを思っています。