2016年12月 報恩講より
御文の五帖
「末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。これすなはち第十八の念仏往生の請願のこころなり。かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。」
よくお聞きになる御文だと思います。御文章に詳しいわけではありませんが、今日はこの御文の内容を見ながら、少しばかりイメージを膨らませてみたいと思っております。言うなればフィクションでありまから、気軽に聞いていただければ幸いです。
どうもこの「末代無智」という言葉が好きになれないのでして、馬鹿にしているわけじゃないでしょうが、そう聞こえてもきます。時代的に合わないというか、すっと入れない。いろんな御文がありますが、たまたまこれはそういうものだという訳にもいかないと思います。
この「末代無智の」という言葉は何でしょうか。ずっと昔から無智だというなら、先祖代々無智だということです。お手紙のやり取りですから、当然相手を想定して書かれているはずですね。だから、おまえは無智だ!といきなり言われることはない。ただこのお手紙が誰に宛てられたかです。特定の人かそれとも複数の人に宛てられたか。末代というならば祖父・祖母・親・子・孫と時系列で見ても複数です。そのうえ先祖代々なら、その人というよりもそのあたりの人々としての先祖代々でもあります。そうなるとその地域周辺の代々からなる人達になる。
ではそれを回覧板のように回し読みしたのか、それとも誰かが読んで聞かせたのか。識字率を考慮すると、ある人が皆に読み聞かせたほうが自然でしょう。そうすると複数の人が集まってその御文を聞いている光景が出てきます。その光景は、「あなたたちは全て無智だ」と言われるのを聞いていることになるでしょう。どういうことでしょうね。 頭がいい人もいるはずです。だけど全員無智だと言い切られる。このあたりから少しついて行けないのですが、もうかれこれ600年ほど前の日本の何処かです。その時にこの手紙を受け取られた人たちがどんな気持ちで暮らしていたでしょうか。
まず、在家止住という響きには寺はないですね。そしてその暮らしの様子は末代無智であると書かれています。この無智の対語は知識や学問でしょう。当時の寺の住職はどちらかというなら学問をした側になる。そうすると寺とその人たちの間には、やはりこの御文の響きはいいものじゃない。しかしもしそうならばこの御文は成立しません。この御文で勇気をいただくのでしょう。だったら、どういうふうに読んだらいいのでしょうか。
次の文に「男女たらんともがらは、こころをひとつにして」とあります。これはみんなが同じ心になってという意味です。しかしもうひとつありますね。心は常に雑念がある。簡単に心は一つにはなりません。集中しても雑念はいつも入る。それぞれの心の状態を雑念を入れずに一つにしてという意味もあります。
この御文が複数の人たちへ関係しているならば、それはその地域の共同体意識へ書かれていることでもありますし、また、一人ひとりの信心について言われていることでもある。つまり共同体意識として言われていると同時に、ひとりの救いに焦点が合わされている。
この「末代無智」という言葉はどちらかといえば自らを卑下したものでしょう。そしてその自ら卑下をしている生活から出られない。ずっと代々がそういう暮らしをしてきた人々だということにもなります。おそらく現在のような交通手段はないはずです。そこに生れたものはそこの生活の中で生きてそして死んでいくしかない人たちでしょうか。立派になれば、もっと学問をすれば、違う生活があればという代わりが想像できない姿をそのまま「末代無智の在家止住の男女たらんともがらは」と書かれている。ここにはいいも悪いもないですね。そこにあるのは雑念を捨ててただ「一心一向に仏たすけたまへと申す」身があるだけです。
作家の真継信彦さんが『蓮如』の中で「迷信とは豊かさの産物である」と言われています。当時は間引きが流行ったそうです。飲まず食わずの生活で子供への負担がかかり過ぎることかなと思いますが、そんな厳しくまた悲しい時代が長く続いた中での間引きの問題です。その間引きや水子への思いに迷信は入らないと言われれます。迷信はまだそこから落ちる心配がある。気づかないまでもまだ恵まれているのだと言われている。すさまじい飢饉においては迷信など屁のつっぱりにもならない。その生きる環境の厳しさに「迷信とは豊かさの産物である」と説明されています。
「罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来は救いましますべし。」この罪業ですが、特別に何か罪を犯したのでしょうか。業は生活と密接に関わります。今この生活を生きることが罪業深重である。何かの因果でこういう生活を強いられているといった感覚じゃないですか。逃げようのない、どうしようもない生活として受け取るのに、昔罪深いことをしてこういうことになったのだという思いが、どこかこの罪業深重という言葉に込められている気もします。そんな中でこの御文が読まれたのなら、そしてこの御文を聞いている人たちに、解放さるような新鮮な感覚が響いたのなら、まずはそのどうしようもないこれまでの生業があったからでしょう。
しかし、その次に「かならず弥陀如来は救いましますべし、これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり」。この救いましますとはどんなことでしょうか。まずは死んだら阿弥陀仏の浄土に往生することでしょう。人間の素朴な感覚ですね。死んだら親の元に帰るのだ。先に死んだ人たちが待っているところに行くのだ。
僕も父親がわりと早く亡くなったものですから、当時はそういう感覚がありました。何か向こうの方が賑やかな気がしたこともあります。そういう死が身近に感じることは皆さんも経験さているのではないですか。こういう人間の感覚の延長線上に阿弥陀仏の浄土があるということでしょう。宗教はそういう素朴なものだと思います。しかしですね、仏教である、また真宗の教えはまたそこを突き抜けていかなければならないものでもあります。だから第十八の念仏往生の誓願があるぞと忍ばせてある。本当はこれを言いたいのだけれど、人間の死に対する思いを除いて阿弥陀仏の浄土もない。両方とも死という人間の切羽詰まった問題ですね。
念仏往生をそういうぎりぎりの場所に置くのです。そして仏たすけたまえとすがれと言われる。この一心一向がそういう切羽詰まったぎりぎりの中に含まれている。そしてこの御文を聞いている人たちの中で何人がその意味に気づいているだろうか。この一心一向という言葉は、自分の思いを捨ててしまって白紙状態でということでしょうか。先は死があるだけならば、それこそ何もかもないでしょう。そこに阿弥陀仏にたすけたまえとすがれと言われる。このあたりにどうしてもまだ抵抗があります。どうも素直に受け取れない。そう思いませんか。しかし、この今の生活の自分では全てが間に合わないのですから、のるかそるかでしょう。
もう自分はここで死ぬしかない、そんな状況の時にお札を貰って、やれやれこれで安心という訳にはいかないですね。迷信は豊かさの産物である。いざとなったら間に合わない。そういう極限において念仏が忍ばせてある。こういうふうに読んで行くと、その次が気になるでしょう。「かくのごとく決定してのうえにはねてもさめてもいのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり」またこれも腑に落ちない。
しかし、この決定してというのは何かに気づているということです。念仏往生に何か気づいている。そうすると気になりだす。この第十八の念仏往生の誓願とは何だろうか。そうするともう調べるしかないじゃないですか。どうやって調べますかね。一番手っ取り早いのは近くのお寺さんに聞くことですよ。学識ある寺の住職に訊いてみる。住職はちゃんと答えなければならないでしょう。これは大変ですよ。住職もぼやっとしておれないから勉強しなければなりません。それでも分からないことはまた誰かに尋ねるしかないでしょう。誰に尋ねたらいいでしょうか。それはこの御文を書かれた蓮如上人が一番いいに決まってます。
そこの住職さんと蓮如上人の連携も大事ですね。住職さんも得るものは大きいはずです。こんなコミュニケーションを通していくと、このどうしようもない環境を生きるしかないところの罪業深重が、まったく違う意味として現れてきます。今度は仏法における信心の自覚としての罪業深重を、住職さんと一緒になって学んでいかなければならなくなるからです。信心の深いところを聴いていかなければならない。こういう循環が生まれるでしょう。この御文は罪業深重に浅い部分とすごく深い部分があり、それが交差しているように思います。
なんでもそうですが、何かフト気になりだしたらスイッチが入るでしょう。気になってしょうがない。それに対してそこの住職は答えなければならないので必死に勉強するはめになる。こういうふうに捉えますとね、ねてもさめても命のあらん限り聴いて行けるものが見えてきたということでしょう。そしてそれは、自らの死に対しても応えるものです。スイッチが入った者同士なら、そこに生きがいすら感じるでしょう。この短いお手紙にそういう景色が込められているのかなと思って話しました。
この違和感だらけの御文を我流で読んでみましたが、こういう読みがもし出来るならば、このお手紙を読み聞かせる人はおそらく住職さんか寺の総代さんあたりでしょうか。末代無智のといった言葉から始まる御文を披露するその光景には、寺と門徒との信頼関係がなければ冷や汗ものですよ。ひとつ間違えれば、おい!おれたちのことを末代無智とぬかしたな、と、迫られる場面ですね。よく聞く御文ですが、この御文に生き生きとしてそこに集う民衆と寺の関係が垣間見えるような気がします。 蓮如上人の時代に浄土真宗は一気に広がりますが、その勢いを少しだけ垣間見たつもりです。