『浄土論註』上巻 作願門

令和4年9月 秋彼岸会より

『浄土論註』上巻 作願門

「 願生安楽国とは、この一句は作願門である。天親菩薩の帰命の意をあらわしている。安楽の意味はあとの観察門の中にくわしくのべられている。

 問う。大乗の経論の中には、処々に衆生はつづまるところ無生(空)であって、虚空のようなものだと説いている、であるのに、どうして天親菩薩は願生といわれるのか。

 答う。衆生は無生であって虚空のようだと説くのに二種ある。

 一には、凡夫が思っているような実体的な衆生、凡夫が見ているような実体的な生死というもの、そのような事実はけっきょくあることないもので、ちょうど年老いた亀の甲に毛があると錯覚するようなものでしかないから、虚空のようだというのである。

 二には、諸々の存在は因縁によって生じているものであるから、とりもなおさず不生である。だからあることがないのは虚空のようだというのである。

 天親菩薩が願われる生は因縁の意味である。因縁の意味だから仮に生と名づけるのである。凡夫が、実の衆生あり実の生死ありというがごときものではない。

 問う。どのような意味で往生を説くのか。

 答う。この国の人々の中にあって、五念門を修するという場合、前念は後念に対して因となる。この娑婆世界の人間(因)と浄土の人間(果)とは、まったく同一ではない。しかしまったく異なるものでもない。五念門を修する場合の前心と後心も、またこのようである。

 どうしてかといえば、もし同一であれば、因果がないことになるし、さればとて異なるなら娑婆の世界の人間と浄土の人間とは連続していないことのなるからである。この意味は一異を観ずる論に中にくわしくのべてある。

第一行の三念門の解釈をおわる。」

ー 令和4年9月23日 秋彼岸会より ー

 今日は論註上巻の作願門をお話ししようかと思っております。前回の下巻の讃嘆門でかなり一杯いっぱいでしたので、はたしてうまく読むことができるか心配ですが、とにかく話すことに致します。相変わらずお聞き苦しいかとも思いますが、宜しくお願い致します。

 作願門をこうして読んでみると、相変わらず難解であります。また、年を取った亀の甲羅に毛があると思ったことがないし、甲羅に毛があるようなことも知らなかったし、それが錯覚だとも思ったことがないものですから、このたとえそのもがピンとこない。論註には様々なたとえが説かれてありまして、何のことか分からないものや戸惑うものもあります。国の違いや曇鸞大師の生きてこられた時代背景もあるでしょう。それも含めて言わんとされるのは何か、それが問題である、などと偉そうに言ってみてもですね、実際の器量もありますから察しようと思ってもそうは問屋が卸さないことも重々分かっているつもりです。でも、これが最近の法話のテーマでありますから、それも含めて話が出来ればと思います。で、すでにこの年寄りの亀の甲羅に毛があるか無いかで戸惑っているわけです。

 曇鸞大師が生きておられた時と処を同じように体験することは出来ないのでして、そういう面では親鸞聖人も鎌倉時代のお方ですから、現在の私たちの感じる感覚とはまた違うはずです。しかし、それでも人間としての芯が違うかと言えば同じだといっても差し支えないのではないでしょうか。

 この前、ご法事の中休みにご親族の方と世間話をしていました。「007シリーズの最新版、ノータイムダイ」が来ているから観に行きたいと話しておりました。そうしたらですね、二十代の男性が何やらニヤニヤされている。で、そう思いませんかと尋ねてみました。するとわりとキッパリそう思いませんと返事をされるのですよ。しかし、ああいう映画は大きいスクリーンで観た方が面白いでしょうと聞き直すと、またかすかに笑われる。要するに入場券を買ってまで観ようと思わないということでして、ビデオで観ればいいから、それはそれでそういうものかと思いました。それで、また聞き直して、では「鬼滅の刃 無限列車遍」なら観に行くかと尋ねると、それは行きたいと答えられる。こちらは「鬼滅の刃」こそそうまでして観に行こうとは思わない。映画館で館内を見渡すと大体が同じ世代の人が多いですね。世代が違うと映画の嗜好も変わってくるようで、自分はどう考えても「鬼滅の刃」より「007シリーズ」の方が観たい映画である。これ、世代を代表する意見といえるかどうかですが、けっこうそう言えるのではないですか。

 私が育った時代は科学の時代、今も科学の時代ですが、私が育った時代は科学信奉の時代で、科学がまず一番先にあった時代。科学的でないのは迷信である。科学の研究者はそうは言わなかったかもしれませんが、科学を何となく思っている程度の人は、科学的でないのは迷信であると思っていた。

 以前は、49日は三ヵ月かかるといけないのですかと、ご門徒さんが心配して聞かれると、それは迷信ですと答える。しかし、どうも受け答えがかみ合わないことも何となく分かっていました。すると、迷信とは雑草と同じような意味だと考えるようになる。雑草などという草はないのですから、迷信もまた何かの意味があるのではないかと、考える人が出てくる。そうすると、それは俗信ですと答えるようになる。俗信を、その地域に根付いた生活と密接に関係がある習俗だとすると、そこに何かの理由で禁句というのが出来て、そしてそれを禁ずることで周囲が調和することですね。この指とまれで、村社会や地域性に禁ずるものをもうけて、それによってその周辺が団結するということですが、これは生活の知恵ではありますが、また閉鎖性がつよくなることもある。現在でもよく聞きますいじめ問題もこういう深層的なものが何処かにあるのかもしれないでしょう。

 迷信をひとくくりにしないで、それぞれの成り立ちにスポットライトをあてていく、いわば迷信の細分化ですが、これを科学というのかといえば、これも科学的ではないでしょうか。で、今も科学の時代ですが、科学と魔法が同じ場所にあるような気がする時代、これが現在ではないかと思ったりしております。「ハリー・ポッター」のように魔法の杖ひとつでいろんな事が出来るなんて思わなくても、何となく科学が全てではないと何処かで思って入る時代。そんな気がしませんか。しかしこう言いましてもですね、おそらく私たちの世代はそれほどは強くはそう思わない、違いますか。これは若い方に聞いた方がいいと思いますが、どこか私たちの感覚と違うものがあるのではないかと思いますよ。「007」と「鬼滅の刃」の違いですね。

 私たちはしょせんマンガじゃないか、ということから「鬼滅の刃」を観る。そして内容はなかなかよく出来ていて、けっこうおもしろいと思う。では、若者はどう思うのか。若者でもないものが察しても仕方がないのですが、あえて言えば、科学信奉でないならば、しょせんマンガじゃないかという発想はなくて、内容が充実しているならそれでいいのですね。そしてこの科学信奉という偽りをどこかで気づいているのかもしれない。情報過多の時代に生きている中で、この盲目的な科学信奉は嘘っぽい、そういう空気をすいながら大きくなってきたのではないかと、もう若くないというか、年寄りがそう考えるわけです。年寄りは漫画だから嘘っぽいと思い、若者は科学信奉が嘘っぽいと感じている。で、この両方のどちらが正しいかといえば、どっちもどっちだというのが大体の答えになりそうですね。

 じゃあここに何があるのだろうかといいますと、空気の流れのような時代の変遷でしょう。その時々の時代に流されて生きているものだから、何処からどこまでが自分で、何処からが時代の空気なのかよく分からない。すると、オレがオレがと思っていたら何処までがこのオレなのか分からなくなる。こういう点では老人も若者も同じかもしれないでしょう。この『浄土論註』が顕された時代は、現在のような科学的な見識などほとんどなかったでしょうね。今の私たちの日常から科学を消してしまって、そのうえで生活しようとしたらどうなるでしょう。とうてい考えられないというのがほとんどの方の答えではないかと思います。

 しかし、それでは人間というものに何か芯というものがあって、その芯も時代の移り変わりと共に違っていくのかというなら、きっと変わらない芯があるはずだと答える自分がいます。だから曇鸞大師が気になるのだし、親鸞聖人が何を説こうとされてきたのか知りたいと思う。

 年を取った亀の甲には毛があるのは錯覚であるという話が長くなっていますが、たしかに亀の甲羅に毛があるなどとは考えたことがありませんが、年を取ることが時代の空気に染まり続けるということならば、その空気の色や臭いがしみこんだ私という年寄りの見識はまた、この私が自分だと思っている漠然とした、モヤモヤっとして、いわば年取った亀の甲羅に生えた毛のようなものかもしれないですね。

 この作願門は天親菩薩の帰命の意をあらわしている、というのがこの上巻の作願門の初めの言葉です。そこにふたつの問を出されています。その最初の問いが「大乗の経論の中には、処々に衆生はつづまるところ無生(空)であって、虚空のようなものだと説いている。であるのに。どうして天親菩薩は願生といわれるのか。」この願生の問いは、そこに願が生じることですから、衆生が無生(空)であるならば、それを願生するところの発露といいますか、そういう起点がはたして衆生にあるのかということではないかと思います。

 この問いに答えられるときに、この亀の甲に毛があると錯覚するという話が登場するわけですね。実体的な自分というものが分からないなら、外に見るものも実体性に欠けてくる。この衆生が無生であり虚空のようだということを自分なりに話した次第です。

 そしてもう一つの答えが因縁生ということですね。「諸々の存在は因縁によって生じているものであるから、とりもなおさず不生である。だからあることがないのは虚空のようだというのである。」この因縁生というのは、前回讃嘆門の下巻で話しました衆生性にける根性論をそのまま持ってくればいいかと思いますが、因縁生とは業の問題だと思います。亀の甲の毛は時代という空気の問題ですから、生活と環境とその流動性。これに対して因縁生は業の問題でしょう。

 讃嘆門では、衆生性の根性論という言葉を使って話しましたが、身口意の身とは身体のことですから、日常の具体的な振る舞いもはいるでしょう。口は言葉です。会話でいろんなことが起こります。意は心ですから何を思い、そして何を考えているか。こういうふうに言ってみると、どうも良い事のほうがあまり浮かばないのはじぶんだけでしょうか。何を考えているかといえば、不安だったり、心配したり、うらやましがったり、愚痴ったりで、だいたいろくなことは出てこない気がする。根性が悪いからでしょうか。そしてこの身口意をもって生活があるのですが、他人との関係でもこの身口意をもって関わりますから、そこに当然様々な関係が生じて行きます。これを業というのだろうと思います。

 ただ、そこに私として連続する同一のものは何かというと、そこに私の根性がある。もっといいものが出ればいいのですが、じっと考えると根本には私の得体の知れぬ根性がある。性格もそうだし、そういう根性というものが深く私の業を作っていることはよく分かるのですね。しかし、ではその根性というものが実体的に有るかといえば、あるようないような。こういうふうに考えていくと私という個としての存在が段々と不確かになってきませんか。当たり前と思っていた私というものが、状況次第で、風に吹かれれてふらふらとさまよう根無し草のように思えてくるなら、それは様々な因縁により生まれ、また因縁により変化するようなものである。それは、私という主体性があるとも言えないし無いとも言えない虚空のようなものである。

 この二つの虚空をまずあげられて、そして「天親菩薩が願われている生は因縁の意味である。」と言われますね。じゃあ、天親菩薩はこの二つめの虚空である因縁生を願われるのかいうと、そいうことではないですね。この場合は、おそらく因縁にみることろの人間の心のメカニズムでしょう。どこのだれかの因縁がどういうものかというのではなくて、どこの誰でもの生であるところの心のメカニズム、このメカニズムということが分かりにくいなら、その時々の心の在りようは、状況次第でおおよそ同じような動きをするということでしょうか。「みんな違ってだいたい同じ」、最近聞いた言葉ですが、これはアフリカ人の方が日本人と一緒に物を考えたりしたときに紹介された言葉ですが、様々な環境や状況の違いがあっても、そのアフリカ人と日本人の基本的な心の思考方法はおおよそ同じだったということですね。このような心のメカニズムは個人を超えて一般的ではありますが、その人がそこにどのような環境で具体的に生きて来たかということにおいては、その人ならではの心でありその人の個性でしょう。

 こういう心の在りようは、私の心といっても、どちらかといえば身体的な側面をいわれているのではないでしょうか。内臓機能を自分の気持ちで止めることができないように、心の在りようが身体に属しているなら、自分の心でありながら、把握しようとしてもとらえ切れることは出来ません。しかしまた、その機能としての心の在りようもまた自分であることに他ならない。では、この「天親菩薩が願われる生は因縁の意味である。」ということはどういうことでしょうか。私自身からしたら亀の甲羅に生えた毛こそが自分であり、こうして自らを生きてきた業こそが私の証であります。しかしながら、この心の在りようからすれば、それはたまたまそこに生えた毛のようなものであり、しかもそれが自分だと言い張っている私の姿がそこに有るだけです。しかし、だからといってそれ以外に何かある訳でもないですね。

 機能としての心の在りようがあるじゃないかといいましても、その心はこの私の思いが実有だと思いこんでいる、私という衆生の姿を映す鏡にはなれ、この私の思いに収まるものではないですね。この心の在りようの鏡とそこに写された衆生の姿との関係を、ここに因縁といわれているのだろうか。そしてそこに天親菩薩が願われる生の立ち位置があるのかなと、そう読ませていただいております。

 で、次に往生の問題が出てまいります。「問う、どのような意味で往生と説くのか。」この答えに、まず「この国の人々のなかにあって」と書いてありますが、この国とは、一応は浄土のことでしょうね。だから浄土の国の人々の中にあってと読むのだろうと思います。作願門は五念門の第三番目の門ですから、礼拝門からすでに浄土の門は始まっています。浄土の玄関まで来ているわけです。それが作願門でいよいよ浄土の玄関から奥に入る。私たちも便乗してここまで来ました。

 すると次に「五念門を修するという場合、前念は後念に対して因となる。」と書かれています。五念門の真ん中にあるのがこの作願門ですが、前念と後念をどこで分けるかといえばこの作願門である。この作願門の最初の問いが無生(空)がテーマになっています。この無生(空)であるところの虚空を立ち位置にして願生でありますから、礼拝門と讃嘆門がこの無生(空)の前念になりますね。それを「娑婆世界の人間(因)」と言われている。すると、後念は作願門を立ち位置にした第四門の観察門であり、それを「浄土の人間(果)」と言われていることになろうかと思います。しかしここに言われる「娑婆世界の人間」は、讃嘆門ですでに阿弥陀如来の名号の義(いわれ)を理解しているのだから、一応はこの浄土の国の人々である。しかしまだ虚空を実体と思いこんで生活しているから「娑婆世界の人間」だということでしょう。

 それでは「浄土の人間」とは何かといえば、この二つの虚空を実体と思いこむことでしか生きられない自らの姿を自覚していく人ではないですか。そしてその姿が名号の義(いわれ)とともに阿弥陀如来の光明に映されて、私に衆生の姿を賜るのでしょう。だから娑婆世界の人間であることが、そのまま浄土への人間を生んでいくということですね。門というのは出たり入ったりする場所ですから、行ったり来たりする。そして行ったり来たりしながら深まっていくのだろうと思います。

 五念門には前門と後門とにこの作願門という大きな門がある。そしてその作願門に「五念門を修する場合の前心と後心も、またこのようである」と述べられますが、この前心と後心といいますのも、この娑婆世界の人間の心と浄土の人間の心を、前心と後心とで言われているのではないでしょうか。その前心と後心が行ったり来たりする。それがそのまま、一ならず異ならずといった、不一不異を観じながら、少しずつ深まっていく世界であるといわれているのではないかと思っております。

 上巻の作願門をこういうふうに読ませていただく訳ですが、こういう読み方が的を射たものならば、この五念門は礼拝門から讃嘆門、そして作願門です。その次が本論の観察門で、最後が回向門です。本来ならばこの作願門は次の観察門の通路ですね。当然その観察門には入っていくのですが、この上巻の文を読みますと、作願門を行ったり来たりする。そして内容的には讃嘆門に納まるような気がするのですね。どういうことかなと、今後の課題にさせて頂くつもりです。で、今後の予定ですが、次の下巻の作願門をもってひとまず論註は終了しまして、その次からは親鸞聖人の御書物を中心にしてこの論註を訪ねて行きたいと思っております。