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宝池観
平成26年9月 彼岸会より
前回の宝樹観は浄土を感ずるところでしたが、宝池観はその奥へと入る過程を述べています。つまり阿弥陀仏の浄土に入ったところです。お釈迦様は韋提希に十方国土の諸仏の浄土をお見せになりましたが、韋提希はその諸仏の浄土を自らが望む浄土ではないとして、阿弥陀仏の浄土に生まれることを望んだのでした。宝池観はその阿弥陀仏の浄土にまさしく入るところになります。韋提希が諸仏の浄土ではなくて阿弥陀仏の浄土を選び望んだ理由を、善導大師はお釈迦様があえて韋提希に選ばせるためであると言われているようです。親鸞聖人もまた「釈迦韋提をして安養(阿弥陀仏の浄土)を選ばしめたまへり」と書かれてありますから、善導大師と同じ意味になるのではないでしょうか。
しかし、よく比較すると若干の違いがある。善導大師はお釈迦様が韋提希に選ばせたのだといわれるのに対して、親鸞聖人はお釈迦様のお導きによって韋提希自らが選んだといわれる。つまり親鸞聖人の場合は韋提希の主体を見ておられるわけです。これは教行信証に「斉(ひさ)しく苦悩の群萌(ぐんもう)を救済し」と書かれていますが、この群萌というのは萌え出るところのものですから、苦悩にあえぎながら萌え出でようとする衆生をいうのでしょう。自らの願いで阿弥陀仏の浄土を願った韋提希の姿を通してその群萌を見ている。そういう違いがうかがえると思います。これは今日申し上げる内容ではありませんから、後の課題にさせていだきます。
で、宝樹観は阿弥陀仏の浄土を観察するにおいて樹木を観ぜよいわれます。この樹木は壽木であり、阿弥陀仏の壽(いのち)木です。つまり私の命を超えた阿弥陀仏のいのちの時間です。そしてその奥に今回の宝池観があります。宝樹観ではそれぞれの樹木の枝は空中で重なり合いまるで天蓋のようであると記されます。そして宝池観ではその樹木の下に八の功徳の池がある。八功徳水といわれる池です。この功徳の水がそれぞれの樹木に流れいり、天蓋まで遍満する世界を宝池観に表現されます。そしてその八功徳水が木々に遍満する水のせせらぎは、浄土全体を覆いつくすかのように仏法の徳を行き渡らせている。つまり八功徳水が行きわたって一切の仏法の功徳ではないものはない。そういう世界として言われます。混じりっけのない功徳そのものの世界を表現されている。
幻想的な世界でありますが、宝池観の内容をいうならばこのような表現になるかと思います。こういう八功徳水の世界観は阿弥陀経にも説かれています。阿弥陀経にはこの八功徳水は阿弥陀仏の浄土の一部として説かれていますので、浄土の全部をとらえたものではないのでしょう。観経においてもその次が宝楼観でありますから、まだ途中であるということです。玄関に立ったところが宝樹観なら、玄関から奥に入る過程を宝池観ということになるではないでしょうか。
阿弥陀経には「一心不乱」という言葉が出てきますが、これは阿弥陀仏の浄土にどうしたら行けるかということにおいて、一心不乱に念仏せよと説かれるところです。舎利弗は知恵第一の弟子だと言われた人ですが、その舎利弗に一心不乱に念仏せよといわれるのはどういう事だろうか。次にその意味が書かれています。「一心に乱れざればその人(舎利弗)命終のときに臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と現じてその前にましまさん」この命が終わるときですから死ぬときです。仏教ではよくこういう臨終という言葉を聞きますが、ではこの臨終は死んだ後なのか、死ぬ寸前なのか。こだわるとこういう死の前後も考えなければなりません。医者からご臨終です言われるのは亡くなられたということですが、まだ死後という訳ではないでしょう。お通夜の時に親族にご臨終されまして残念なことでしたとは言わない。お亡くなりになってお寂しいことでしょうが正しい言葉です。何を言いたいのかというと、臨終は死の前後ではなくて死ぬ時の刹那的なものですね。まさしく死に臨むその状況を臨終というのではないでしょうか。阿弥陀経の「命終のときに臨みて」も同じ意味でしょう。その命終のときに臨みて阿弥陀仏がもろもろの聖衆とともに現れると説かれている。聖衆は浄土の住人だと思いますが、その聖衆を連れて阿弥陀仏が現れる。この一心不乱の念仏を知恵第一舎利弗に説かれるのです。
これは阿弥陀仏の浄土がまじりっけがない徳そのものの世界であり、どんなに舎利弗が知恵第一であろうとも、その知恵を浄土は一切受け付けない。阿弥陀仏の浄土には人間の知恵はないのだということでして、人間の知恵では浄土の門は開かないのです。それを教えるのがこの一心不乱に念仏するという事だろうと思うのですね。この一心不乱ということは簡単なようでありますが、そういう事でもない。オレは今一心不乱だと思えばすでに一心不乱ではないわけです。たとえ少し前に一心不乱になったとしてもですね、すでにその一瞬は過ぎたものです。あ、今一心不乱になったかもしれないじゃ一心不乱じゃないでしょう。これは無心といわれたり無我の境地と言われるものですからそう簡単ではない。つまり無我の境地で念仏せよということでしょう。そうすればその念仏が浄土の門を開いていくのだということではないでしょうか。
宝樹観もこの無我のまなこで観ぜよと言われます。また宝池観においても無我の境地で八功徳水を観ぜよと言われる。矛盾しているといえば矛盾しています。観察するまなこが無いのですから観察しようがないですね。そういう状態の臨終であります。こういう刹那的な臨終と広大な阿弥陀仏の浄土が重なっている。次の宝楼観も同じです。宝樹観から宝楼観までの宝はこの無我を表しています。無分別とも言いますが、この無分別による浄土の樹木であり池である、そして浄土の家と住人の宝楼観に進むのです。
この宝池観の初めに「極楽荘厳安養国」と書かれています。ここからが阿弥陀仏の浄土であるということです。浄土の玄関から奥に入るところであるという事でもあります。そして宝池観の最後には「だたちに闇を破し昏を除くのみにあらず、到ところに能く仏事を施す」とあります。阿弥陀の浄土は闇を破ると書かれているのですが、舎利弗ほど知恵があるとは思わないでも人間の知恵によりながら生きている生活が私たちの姿です。しかし一度阿弥陀仏の浄土に入ればその生きる姿そのものが照らし出されるのでしょう。そしてその姿がどのようなものかというならば、人間の知恵の中でしか生きられない姿そのものです。闇で暗いから見えないのではない。自分の姿そのものが見えないという闇ですね。照らされることで初めて見えるその姿は、闇でしか生きられない姿であるということでしょう。そして「到ところに能く仏事を施す」は、そういう気づきの世界がこれから始まるのだという意味ではないでしょうか。こういう仏事のちえを智慧とかいて、普段使うところの私たちの知恵と区別します。
時の変化に立って
令和2年6月 永代経法要から
新型コロナウイルスの影響で中止になってから最初の法要になります。よろしくお願いします。まずは歎異抄を少しお話してみたいと思います。お手元の経本にも現代語訳が載っています。この歎異抄は真宗の教義というよりも親鸞語録のようなものでして、親鸞聖人の言葉の響きを聴くことも大事な書ではないかと思っています。歎異抄は明治から大正、昭和、そして戦中戦後をとおして読まれてきたと聞いております。ではまず第一条を読んでみましょうか。
「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもいたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心をようとすとしるべし。そのゆゑは、罪業深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるほどの悪なきゆゑにと云々」
この歎異抄は作家の司馬遼太郎さんも戦地に持っていかれたそうです。同じように戦地に持っていかれた方々もおられるのでしょうね。そういうことを考えるとこの第一条の最後の文ですが「他の善も要にあらず、念仏にまさるほどの悪なきゆゑに」とあります言葉に、すべては念仏にまかせて生きろ、と感じた人もいたかもしれないですね。こういう究極な場面で読まれる歎異抄があったのではないかということですが、しかしさっき申し上げた明治からずっと読まれてきた歎異抄の意義というのは、それとはまた違う角度からのものっだたのではかったか。今日はそういったところからの話になろうかと思いますのでよろしくお願いいたします。
まずこの歎異抄の信心という言葉ですが、ここには「ただ信心を要とすとしるべし」と書かれてあります。普通、信じる時は何かを信じるわけですから、信じる対象があります。対象も何もないのにですね、漠然とただ信心だというだけでは宗教という点では少し腑に落ちないわけです。でも親鸞聖人が使われる信は一概に私たちが思うところの信というものでもなくて、違った意味でこの信の字をあてられているとも思うのです。そしてまたこの歎異抄の後序には「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」と書かれていますが、この「一人」という言葉を個人とも言いかえることが出来るでしょう。明治における文化人や知識人は西洋化して行く日本の対応をこの歎異抄の「一人」に見ようとしたのじゃないかという気がするのですね。
明治の文豪であります夏目漱石の『草枕』に有名な書き出しがあります。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世はすみにくい。」漱石の生きた時代は西洋から個人主義が津波のように押し寄せてくると思われたそうです。漱石もこれから来る西洋化の波にどのように対応ができるか思いに駆られたのではないでしょうか。
そういう思いでこの書出しを見て、自分なりに解釈してみることにしました。まず、漱石がこの『草枕』に書いた「人の世は」とは一般的な社会といったものではなくて、もっと身近なところで言う世間という事でしょうから、この「人の世」を向こう三軒両隣とも言っています。すごく狭い範囲ですね。漱石はヨーロッパに住んだことがありますから、この世間というものがよく見えたはずです。その西洋という外からの目を持って世間を見た時に思わずにはおれない様々なことがあったでしょう。
そういう思いで解釈してみると「だけどもそれをその世間においてああだこうだと言い出してみても角が立つ。だからといって、周りに合わせてしまうと自分という個人的なものが消えて流されそうだ。しかし、また自分にこだわってしまえば周りからあんたは違うと言われてしまい閉じこまざるを得なくなる。とかくに人の世はすみにくい。」こういう解釈でいいか分かりませんが、世間というものを中心にすえたらこういう解釈も出来ないではない。
ご存じのように明治における西洋化はキリスト教を背景にしています。別に詳しいわけではありませんが、キリスト教では神との契約においてそれぞれが一人ですから、夫婦や家族であっても神に対してはそれぞれの個人が対象になります。クリスチャンの友人がいまして、昔彼の結婚式に行ったときに牧師さんがそう言われていたのを思い出しますが、神と私個人との関係があり、その上で夫婦・家族をはじめ社会そして国家がある。こういう個人と社会・国家のバックボーンをキリスト教が支えている。やがて日本に押し寄せ来る西洋化の津波はそういう個人主義の波である。その時に日本人としてあるべき個とは何か。明治のころの知識人にはこういう危機感や国家観についてのテーマみたいのものがあったのでしょう。明治において歎異抄がもてはやされたわけもこういうところにあったのではないかと思うのです。
例えば、自分が死ぬ時に「神を信じなさい。そうすればあなたは救われますよ」とキリスト教で言われたとするでしょう。その時に「信じられないオレはどうなるのだ」と返答をするようなものでして、こういう問題を取り上げた人は当時わりといたと思いますよ。吉本隆明が『信の構造』で「親鸞は早くから人間の無意識の構造に眼を注いだようだ」と言っています。神の存在を信じて、その神に対する信仰心を信心というのではなくて、無意識という意識の深層に信心の通路を見出し、そこに歎異抄の信をとらえようとした。そういった信のとらえ方が明治から昭和にかけて文化人や知識人に共通するものだったのではなかろうかと思います。そして平成においてもまだ歎異抄を通して親鸞ブームは続いていくわけです。親鸞とタイトルのついた書籍は常に売れ筋のものでもありました。しかしですね、フト気がつけばそれがどうも書店から無くなりつつある。そんな気がするのですが、何か潮目が変わろうとしているのだろうか。それとも自分だけの思い違いでしょうか。
それでは、漱石が悩んだ向こう三軒両隣はどうなったでしょうか。江戸時代にはすでにあったであろう向こう三軒両隣ですが、これは戦後に公民館活動や隣組として行政が復活させます。そして戦後日本の地域づくりの礎になったといっても過言ではない。自分より年配の方はまさにそこを生きて行かれた方々でしょう。ぼくはまだ幼くて町内公民館で幻燈会をしたり、海水浴に行ったりした事ぐらいしか憶えていませんが、この日本における世間が戦後の地域復興を支えていったことは事実だろうと思います。
この前、葬祭場でそこの人と話したのですが、「何故忌中の張り紙をしないのか」と。そうしたら防犯だそうです。情報漏洩。あそこに死人が出たと教えることになる。なるほど確かに周りに教えるわけですね。だから防犯だそうです。ホントですかね。最近は家族葬が多くなりましたが大阪からだそうです。この辺りは大阪から流行りだすそうですよ。
で、これは持論なのですが、以前は地域での葬式はそこそこで少し違っていました。葬式に地域の風習が混ざっていたのでしょうね。こういう地域色のある葬式は次第になくなり全国的に画一化して行きますが、これは葬祭場での葬式が普及するのと同時期だと思います。そして現在は自宅葬はありません。
ご存じのように隣組のお世話はご婦人方のお世話です。お母さんたちのお仕事でした。だいたいですね、裏方で炊事や何やらをしてると、いろいろとその辺の世間話に困らないじゃないですか。「あそこの誰だれはこうだそうよ。あらまあ、」世間話に花が咲くでしょう。そういう世間話をしながら裏方でとして葬式に関わります。表では坊さんたちがお経をあげている。寺の品評会も話題の一つでしょう。そういう表も裏も見ながらがやがやと見送るわけです。騒がしいと言えばそれまでですが、どこか映画のワンシーンにも出るような光景ですよね。
先ほどは近代の日本において、世間と個人主義はどうあるべきか、と、歎異抄の信心に注目して、その真相を手繰り寄せようとした歴史があると言いましたが、そのもう一方ではそんなこととは関係なく、明治・大正・昭和と暮らしてきたそれぞれの小さな世間というものがった。それは文化人や知識人が探し求めた信心というものではないが、今度は自分の番だからあんたよろしく頼んどくよと言える、バトンタッチのような連続性であり、その連続に安心感すら持てた時代があったのではないだろうか。そして明治から大正と続く隣組は戦後新たな形で復興に一役を担って行きますが、この小さないのちの連続性もその中でかろうじて昭和・平成と保たれていったのではないだろうかというのが持論になります。
しかし今はもう隣組はないでしょう。向こう三軒両隣の地域は家族だけに単位が変わりはじめ、近所に誰が亡くなったのかも分からなくなってきた。周りに知らせないから何やらこそこそと葬式するようにも見えてしまう。でもね、本来人間の死はもっとおおらかだったはずです。遺跡が発掘されるときはたいてい祭祀や葬式の後じゃないですか。極端に言ってしまえば葬式をしながら人類は歩いて来たんでしょう。日本も弔いながら国が出来たのです。今現在進行中の事ですから何やらぼやけて見えずらいかもしれませんが、歴史の芯がどこかほどけかけているのじゃないかとも思うのですね。
僕はこの歎異抄を改めて見た時に、先ほど言いましたような明治から平成までこの信心について歩んできた時間を、今度は「ただ念仏して」という中で見ていくことが大事なのではないかと思っています。
第二条の「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるたねにやはんべらん。また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じて存知せざるなり。・・・」
今回のような新型コロナウイルスの影響においてもそうですが、こういう先の見えない理不尽さに「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」という親鸞聖人の言葉が響いてくる気がします。戦地で称えた念仏が、何故オレがこんな目にと、運命の理不尽さをかき消す念仏だったのなら、今日の念仏はこの何やらぼやっとした不安のなかで、本来の自分に戻れるような、一点の安息場所として「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」という、親鸞聖人の響きを聴いていく時ではないかと思っています。
御文章から見える光景
2016年12月 報恩講より
御文の五帖
「末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。これすなはち第十八の念仏往生の請願のこころなり。かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。」
よくお聞きになる御文だと思います。御文章に詳しいわけではありませんが、今日はこの御文の内容を見ながら、少しばかりイメージを膨らませてみたいと思っております。言うなればフィクションでありまから、気軽に聞いていただければ幸いです。
どうもこの「末代無智」という言葉が好きになれないのでして、馬鹿にしているわけじゃないでしょうが、そう聞こえてもきます。時代的に合わないというか、すっと入れない。いろんな御文がありますが、たまたまこれはそういうものだという訳にもいかないと思います。
この「末代無智の」という言葉は何でしょうか。ずっと昔から無智だというなら、先祖代々無智だということです。お手紙のやり取りですから、当然相手を想定して書かれているはずですね。だから、おまえは無智だ!といきなり言われることはない。ただこのお手紙が誰に宛てられたかです。特定の人かそれとも複数の人に宛てられたか。末代というならば祖父・祖母・親・子・孫と時系列で見ても複数です。そのうえ先祖代々なら、その人というよりもそのあたりの人々としての先祖代々でもあります。そうなるとその地域周辺の代々からなる人達になる。
ではそれを回覧板のように回し読みしたのか、それとも誰かが読んで聞かせたのか。識字率を考慮すると、ある人が皆に読み聞かせたほうが自然でしょう。そうすると複数の人が集まってその御文を聞いている光景が出てきます。その光景は、「あなたたちは全て無智だ」と言われるのを聞いていることになるでしょう。どういうことでしょうね。 頭がいい人もいるはずです。だけど全員無智だと言い切られる。このあたりから少しついて行けないのですが、もうかれこれ600年ほど前の日本の何処かです。その時にこの手紙を受け取られた人たちがどんな気持ちで暮らしていたでしょうか。
まず、在家止住という響きには寺はないですね。そしてその暮らしの様子は末代無智であると書かれています。この無智の対語は知識や学問でしょう。当時の寺の住職はどちらかというなら学問をした側になる。そうすると寺とその人たちの間には、やはりこの御文の響きはいいものじゃない。しかしもしそうならばこの御文は成立しません。この御文で勇気をいただくのでしょう。だったら、どういうふうに読んだらいいのでしょうか。
次の文に「男女たらんともがらは、こころをひとつにして」とあります。これはみんなが同じ心になってという意味です。しかしもうひとつありますね。心は常に雑念がある。簡単に心は一つにはなりません。集中しても雑念はいつも入る。それぞれの心の状態を雑念を入れずに一つにしてという意味もあります。
この御文が複数の人たちへ関係しているならば、それはその地域の共同体意識へ書かれていることでもありますし、また、一人ひとりの信心について言われていることでもある。つまり共同体意識として言われていると同時に、ひとりの救いに焦点が合わされている。
この「末代無智」という言葉はどちらかといえば自らを卑下したものでしょう。そしてその自ら卑下をしている生活から出られない。ずっと代々がそういう暮らしをしてきた人々だということにもなります。おそらく現在のような交通手段はないはずです。そこに生れたものはそこの生活の中で生きてそして死んでいくしかない人たちでしょうか。立派になれば、もっと学問をすれば、違う生活があればという代わりが想像できない姿をそのまま「末代無智の在家止住の男女たらんともがらは」と書かれている。ここにはいいも悪いもないですね。そこにあるのは雑念を捨ててただ「一心一向に仏たすけたまへと申す」身があるだけです。
作家の真継信彦さんが『蓮如』の中で「迷信とは豊かさの産物である」と言われています。当時は間引きが流行ったそうです。飲まず食わずの生活で子供への負担がかかり過ぎることかなと思いますが、そんな厳しくまた悲しい時代が長く続いた中での間引きの問題です。その間引きや水子への思いに迷信は入らないと言われれます。迷信はまだそこから落ちる心配がある。気づかないまでもまだ恵まれているのだと言われている。すさまじい飢饉においては迷信など屁のつっぱりにもならない。その生きる環境の厳しさに「迷信とは豊かさの産物である」と説明されています。
「罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来は救いましますべし。」この罪業ですが、特別に何か罪を犯したのでしょうか。業は生活と密接に関わります。今この生活を生きることが罪業深重である。何かの因果でこういう生活を強いられているといった感覚じゃないですか。逃げようのない、どうしようもない生活として受け取るのに、昔罪深いことをしてこういうことになったのだという思いが、どこかこの罪業深重という言葉に込められている気もします。そんな中でこの御文が読まれたのなら、そしてこの御文を聞いている人たちに、解放さるような新鮮な感覚が響いたのなら、まずはそのどうしようもないこれまでの生業があったからでしょう。
しかし、その次に「かならず弥陀如来は救いましますべし、これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり」。この救いましますとはどんなことでしょうか。まずは死んだら阿弥陀仏の浄土に往生することでしょう。人間の素朴な感覚ですね。死んだら親の元に帰るのだ。先に死んだ人たちが待っているところに行くのだ。
僕も父親がわりと早く亡くなったものですから、当時はそういう感覚がありました。何か向こうの方が賑やかな気がしたこともあります。そういう死が身近に感じることは皆さんも経験さているのではないですか。こういう人間の感覚の延長線上に阿弥陀仏の浄土があるということでしょう。宗教はそういう素朴なものだと思います。しかしですね、仏教である、また真宗の教えはまたそこを突き抜けていかなければならないものでもあります。だから第十八の念仏往生の誓願があるぞと忍ばせてある。本当はこれを言いたいのだけれど、人間の死に対する思いを除いて阿弥陀仏の浄土もない。両方とも死という人間の切羽詰まった問題ですね。
念仏往生をそういうぎりぎりの場所に置くのです。そして仏たすけたまえとすがれと言われる。この一心一向がそういう切羽詰まったぎりぎりの中に含まれている。そしてこの御文を聞いている人たちの中で何人がその意味に気づいているだろうか。この一心一向という言葉は、自分の思いを捨ててしまって白紙状態でということでしょうか。先は死があるだけならば、それこそ何もかもないでしょう。そこに阿弥陀仏にたすけたまえとすがれと言われる。このあたりにどうしてもまだ抵抗があります。どうも素直に受け取れない。そう思いませんか。しかし、この今の生活の自分では全てが間に合わないのですから、のるかそるかでしょう。
もう自分はここで死ぬしかない、そんな状況の時にお札を貰って、やれやれこれで安心という訳にはいかないですね。迷信は豊かさの産物である。いざとなったら間に合わない。そういう極限において念仏が忍ばせてある。こういうふうに読んで行くと、その次が気になるでしょう。「かくのごとく決定してのうえにはねてもさめてもいのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり」またこれも腑に落ちない。
しかし、この決定してというのは何かに気づているということです。念仏往生に何か気づいている。そうすると気になりだす。この第十八の念仏往生の誓願とは何だろうか。そうするともう調べるしかないじゃないですか。どうやって調べますかね。一番手っ取り早いのは近くのお寺さんに聞くことですよ。学識ある寺の住職に訊いてみる。住職はちゃんと答えなければならないでしょう。これは大変ですよ。住職もぼやっとしておれないから勉強しなければなりません。それでも分からないことはまた誰かに尋ねるしかないでしょう。誰に尋ねたらいいでしょうか。それはこの御文を書かれた蓮如上人が一番いいに決まってます。
そこの住職さんと蓮如上人の連携も大事ですね。住職さんも得るものは大きいはずです。こんなコミュニケーションを通していくと、このどうしようもない環境を生きるしかないところの罪業深重が、まったく違う意味として現れてきます。今度は仏法における信心の自覚としての罪業深重を、住職さんと一緒になって学んでいかなければならなくなるからです。信心の深いところを聴いていかなければならない。こういう循環が生まれるでしょう。この御文は罪業深重に浅い部分とすごく深い部分があり、それが交差しているように思います。
なんでもそうですが、何かフト気になりだしたらスイッチが入るでしょう。気になってしょうがない。それに対してそこの住職は答えなければならないので必死に勉強するはめになる。こういうふうに捉えますとね、ねてもさめても命のあらん限り聴いて行けるものが見えてきたということでしょう。そしてそれは、自らの死に対しても応えるものです。スイッチが入った者同士なら、そこに生きがいすら感じるでしょう。この短いお手紙にそういう景色が込められているのかなと思って話しました。
この違和感だらけの御文を我流で読んでみましたが、こういう読みがもし出来るならば、このお手紙を読み聞かせる人はおそらく住職さんか寺の総代さんあたりでしょうか。末代無智のといった言葉から始まる御文を披露するその光景には、寺と門徒との信頼関係がなければ冷や汗ものですよ。ひとつ間違えれば、おい!おれたちのことを末代無智とぬかしたな、と、迫られる場面ですね。よく聞く御文ですが、この御文に生き生きとしてそこに集う民衆と寺の関係が垣間見えるような気がします。 蓮如上人の時代に浄土真宗は一気に広がりますが、その勢いを少しだけ垣間見たつもりです。
念仏と自灯明・法灯明
2019年3月 彼岸会より
お釈迦様の晩年のお言葉ですが、「自灯明・法灯明」があります。他を拠り所にせず自らを拠り所にし、法を拠り所にせよという意味になります。このお言葉は晩年といいましても、最晩年、お釈迦様がお亡くなりになるときにお弟子たちに伝えられた教えだと言われています。クシナガラという村で容体が悪くなられてそのまま入滅されました。80歳だと聞いています。二本の沙羅の樹の木陰で静かに亡くなられました。涅槃の様子をそのように伝えられますが、その時、悲しむお弟子たちに告げられた教えがこの「自灯明・法灯明」であるということです。
また違う説もあります。お釈迦様が病に倒れられ命を落とされそうになったことがあるそうです。幸い快復されるのですが、その時にお世話をした阿難尊者がお釈迦様のご快復をみて、きっと元気になると確信していたことをお釈迦様に話しました。その時に諭されたお言葉が「自灯明・法灯明」であるとも伝えられています。私(お釈迦様)を灯にせず自らを灯にせよ、そして私(お釈迦様)を灯にせずに法を灯にせよと阿難尊者に告げられた。
この自灯明・法灯明はお釈迦様の入滅以後に大きな道しるべになっていくことになります。この拠り所ということですが、言い換えれば何かを当てにすることでもあります。私たちは何を当てにして生きているでしょうか。そんなことを考えるとこの「自灯明・法灯明」の言葉がまた違う思いで感じられるかもしれません。今回の話のテーマはこの「自灯明・法灯明」とお念仏ということにさせていただこうと思います。
もうかなり前の事ですが、ある先生から聞いた話です。小学校のPTAである作文が問題視されたそうです。「親孝行」をテーマにした作文だったそうです。その文には「僕が大きくなったら、お父さんお母さんを立派な老人ホームに入れてあげます」と書かれてありました。親子関係を子供がこのようにお金で割り切った表現をすることは教育上問題であるということです。子供の将来にも不安がある。そういうことだったと思います。
今、この作文を小学生が出したら大騒ぎされるでしょうか。それとも親の事をよく考えた内容だと思われるでしょうか。どちらも極端で大騒ぎされるほどでもないと終わるかもしれません。子供が描く立派な老人ホームとはどんなところでしょうね。考えてみれば、親と子供がつかず離れずそれぞれお互いに自分の生活が出来ればそれが一番いいじゃないか。喧嘩もしなくていいし、親もその場所が老人ホームなら、まして立派な老人ホームなら越したことはないぞと思うかもしれない。
で、この立派な老人ホームはお幾らくらい掛かるんですか。立派な分だけ費用も掛かるでしょうね。それを見越して立派な老人ホームに入れてあげようと心がげてくれるなら有難いかもしれない。最近こんな子供おりませんよ。
しかし何処か違和感がある。何か違うでしょう。介護福祉は今は充実しています。病気になれば入院して施設も出なければなりませんが、それでも終の棲家にと思われる方も結構おられるのじゃないですか。介護福祉の向上で何か変わりましたね。こういう施設が多くなる前は孤独死が流行っていました。現在も孤独死の問題はあるでしょうが、以前ほどは聞きません。またその孤独死問題の前は、年取った親たちが子供の家庭にお世話になりに行こうか行くまいか迷っておられた。そんな話をよく聞きました。実際に子供の家庭に入られた方はそれほど多いとは思いませんが、よく出る話でした。成功率がとても低い話でしたね。出来上がった家庭に後からジジババが入ってもそう簡単には馴染みませんよ。
こんなことを思い出しながら考えますと、この数十年間といっても、知らず知らず私たちの周りの状況は変化しています。最近言うところの老人ホームなど在りましたかねえ。昔は養老院といってどちらかというと姥捨て山のイメージが強かった。現在の高級な老人ホームなどとはかなり違ったものでしょう。私たちはその時々の周囲の環境のなかで物事をとらえますから、この作文のような立派な老人ホームの話についても時期がずれると歯切れが悪くなる。いいのか悪いのかよく分からん。
この作文が問題視された頃は、問題になったのですからはっきりしていたのです。しかし気づかないうちに物事を見る眼に変化が起きている。自分ではしっかりと物事を見ているつもりでも、実は自分が思うほど一貫性がない。もっと言えば、その時々の状況に流されて考えている。そしてその時々において何かを当てにしてその事を考えたのであり、生きていたことは間違いないでしょう。しかし、じゃあ何を当てにしてきたかと改めて問うてみても、ぼやっとした記憶でしかない。
若いときは元気が当たり前ですし、知らずに自分の身体を当てにしていた。時間も無限にあるような気がしたかもしれない。年を取ると当たり前の健康が次第に宝物のように感じてくる。時間は無限にあったあの頃は、今じゃ残り時間が後どれだけだろうか、老後のお金は足りるかなと心配事も増えてくる。自分の抱えるものが変化するたびに気持ちも変化するのでしょう。ただその変化にはなかなか気づかないのですね。
この自灯明ですが、自らを拠り所にしなさいという教えです。どこのどういう自分を拠り所にしなさいと言われるのでしょうか。考えるとなかなか答えが出ない問題です。
では、この「法」を拠り所にしなさいとはどういうことでしょうか。大谷派の曽我量深師がこの法について書かれていますので紹介します。
『曽我量深選集』より
「法というのは、サンズイに去ると書く。去っていくこと水の如し。淡々として何の執着もない。それが法の意義であります。そして、この法というのは誰にあって何処にあっても、又、何時であっても、又、順境にあっても、逆境であっても、その本性は一貫して変わりがない。それを法という。それは善人にあっても悪人にあっても、変わりがない。仏にあっても凡夫にあっても変わりがない。証った人にあっても迷へる人であっても何ら変わりがない。聖者にあっても増さず、凡夫であっても滅せず、不増不滅である。これを法という。如何なる時によっても、処によっても変わらぬ。人によっても変わらず、環境によってその価値は変わらぬ。仏にあっても我がごとき愚かな者にあっても変わらぬ。どんな者の中にあっても変わらぬ。これを法という。」
法についてこのように言っておられます。お釈迦様は阿難尊者に法を拠り所にしなさいと言われました。その法をこういうふうに表現されます。何となく興味深いですが、どこをどう捉えていいのかも分かりません。
親鸞聖人の『教行信証』化身土巻に、「韋提別撰の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。」とあります。これは韋提希がお釈迦様に阿弥陀仏の浄土に行ける教えをお願いするところです。ただ、韋提希はこの阿弥陀仏の浄土の前に諸仏の浄土見せてもらっているのですね。韋提希はその諸仏の浄土を丁寧に断り、そして阿弥陀仏の浄土を懇願します。これを韋提別撰の正意と言います。正意ですから正しいい意味。韋提希が正しい意味で諸仏の浄土と阿弥陀仏の浄土を分けていることによって、弥陀大悲の本願が開かれたという意味だと思います。ここに正しく選ぶことが前提にされているわけです。
それで、ではその諸仏の浄土と阿弥陀仏の浄土はどう違うのでしょうか。正信偈にも書いてありますが、最初の処です。法蔵菩薩は世自在王仏に見せられた諸仏の浄土をことごとく観察して、自らの浄土である阿弥陀仏の浄土建立を誓った。諸仏の浄土とは違う阿弥陀仏の浄土建立です。
諸仏の浄土とは、法を拠り所にしてそれぞれの諸仏が自らの器量で成仏されたのが諸仏の浄土だと言われます。しかしそんな器があるとも言えずないとも分からない者が、法を拠り所にしてと言われても何が何やら見当もつかない。その時々に様々に執着しながら生きるしか術を知らない者に、執着するな、とどまるな、分け隔てするななどと言われても、そこにしか生きられない凡夫であり愚かな自分にとってどう行けばいいのだろうか。
それに対して法蔵菩薩が誓った阿弥陀仏の浄土は、そのような我々凡夫をみそなわして、そして阿弥陀仏の浄土において成仏せしめようと誓われた浄土ですね。
この阿弥陀仏の願いを本願と言います。四十八の願があります。その十八番目の願が念仏往生の願と言います。本願の要です。だから本願とは私に先立って、阿弥陀仏の方から私に向けられた願いである。こう言って差し支えないと思います。では、阿弥陀仏は私に何を願われるのか。わが名を称えよ。これが念仏「南無阿弥陀仏」を称えなさいということです。念仏にはこんなおいわれがあります。いうなれば阿弥陀如来は法より来りて念仏の衆生を摂取する仏様。
それでは、韋提別撰の正意は何であったのかといいますと、韋提希のつまづきです。詳しい話はいつかできればと思いますが、韋提希は事件に巻き込まれます。その事件の中で別にボケっとして生きていたわけではない。それどころか懸命に事件に向かっていくわけです。しかしその姿がまた仇となり、ますます混迷を深めていきます。韋提希は懸命に取り繕おうとしながらもそれが原因で全てがガラガラと崩れて、最終的には自らの命すら危うくなるのですが、その韋提希の様子を善導大師は「あゝ、哀れなるかな恍惚の間に」と言われる。老人ボケだけが恍惚の人じゃないんですね。そして韋提希はお釈迦様の前で我が身の愚かさに気づくのです。そんな事を通して韋提別撰があります。
この韋提希の愚かな我が身に対する、自らへの眼が韋提別撰の正意であり、阿弥陀仏の浄土と諸仏の浄土を見分けた眼だったのだということです。
だからと言って私たちが韋提希のようにつまずかないでもいいのですが、こうして先祖から頂いたお念仏を何気なく称えております。この念仏が自らを「ああ執着していたなあ」「愚かだったなあ」と我が身の愚かさを、そのまま法の方から見せて頂いているのだということを思い出していただければ幸いです。そして、もしそのようなお念仏ならば、それは法を拠り所にした我が身を具体化しているのだということも申し上げたいと思います。日常の生活に念仏を称えることで、次第に法があきらかになっていく。そういう事ではないかと思います。
年を取らなくていいなら、病気にならなくていいなら、死ななくていいならと言っても、そんな人誰もいないし、何かに執着することでしか生きて行く術がない私と、一切に執着がない、変わることがない法が、どのように関りがあるのだろうか。そして南無阿弥陀仏は私と法との関りにまします仏ではないだろうか。そういう事を考えております。
信心について「二種深信」というお言葉があります。
・決定して、かの阿弥陀仏、四十八願をもって衆生を摂受したまふ、疑いなく慮りなく、かの願力に乗ずれば、さだんで往生を得と深信せよ。
・決定して、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと深信す。
上の文が「法の深信」。下の文が「機の深信」です。両方をもって二種深信といいます。今日はこのうち法の深信をもとに、念仏と「自灯明と法灯明」ということで話しました。
宗教観と信心について
2019年9月 彼岸会より
宗教において信心は大きな前提でして、信じなかったらその宗教といってもあまり意味がなくなります。しかし日本という国はその点で変わっていまして信心という言葉に何やら抵抗感がある。下手に信じたらえらい目に合うかもしれないぞというような感覚です。宗教にどこかいかがわしさや、危険性を感じている。
以前、オウム真理教での事件は記憶に深く残っておられると思いますが、宗教という場合に、まずそういうものがイメージされる。宗教を否定はしないが、のめり込むと危ない、皆さんもそういう気持ちはお有りではないでしょうか。
あなたに宗教が必要ですかと聞かれたら、必要だと言い切れる方がここに何人おられるでしょうか。それに宗教がなくても特別こまらないなら、必要だということにもならないですね。私が現にこうして生きている中で宗教が必要かと聞かれても、この人は何を言っているのかとかえって警戒するでしょう。宗教はぜひ必要ですなんてとても言い切れません。
真宗の教えを簡単に一言で言い表されている言葉があるでしょう。「おかげ様」という言葉ですね。これはどういうことかと言いますと、これはおれ一人で生きているぞと言い張っている言葉ではない。その反対に「生かされています」ということですから、この生かされていますということを、外に向かっていえば「おかげ様」ということになる。自分がもっと大きな中で生かされている感覚です。具体的にいえば私における環境です。周りの人たちや、その人たちによる様々なご縁を総称して、その中で生かされている。親もいれば、子供もいる。山に入れば自然の中に生かされている気がする。海に行っても、魚が泳いでいるし、うまそうな魚も入れば、海岸にはいろんな生き物がいる。そういう中で自分だけが特別に生きているという感覚でいるかと言えば、おそらくそうではないでしょう。何かよく分からないが、いろんな生き物の中で感じる「生かされている」という感覚は素直に受け入れられる気がします。だから「おかげ様」という言葉にはほとんど抵抗がない。
これを日本人がもつ宗教感覚であるといえば、すごく偉そうですが、この感覚と、あなたに宗教が必要ですかと問われた時に持たれる宗教のイメージとはずいぶん違うでしょう。どこがどういうふうに違うのか。年輪をイメージすると何となく分かりそうな気がします。年輪の中心が私だとするでしょう。そうすると私の環境はその年輪の模様のようなものですね。つまり、それぞれの皆さんが年輪の中心です。そして年輪の中心として生きている。自分がこうして生きているのも周囲の私の年輪の模様のおかげです。このように自分が年輪の中心から見ているわけですが、同時にこちらが外側を向いて見ている分、外側も私に向いているような、何層もの年輪がおぼろげに見える。それが私が感じる周囲の環境です。そうすると、ああ自分が今こうしているのもあの人やこの人、そういう周囲の人たちや環境があるからこそだと分かる。そうすると「ほんと、おかげ様でした」と、こういう言葉がすとんと入ってくる。
これは仏様を見る時も同じだと思います。仏様を拝む時に、拝みながらどこか拝んでいる自分も見ているでしょう。こちらは仏様を拝みながらその拝んでいる自分を感じているのだけど、仏様もこちらを見ておられる気がする。こういう拝む時に仏様と仏様から拝まれている自分がうまく交流すると、不思議に落ち着くのですね。そんなこと言われても、仏様といっても木に彫られたものじゃないかと言われるかもしれない。しかし、先ほどいいました年輪の話のように、自分が見るところの外側への視点である何層もの年輪の層は、自分と何も関係がないのかといえばそうではない。私が見るところの、私に向っている視点の感覚は単なる幻覚だろうか。もし幻覚ならこうして私が生きていることは、誰の世話にもならず、私一人が頑張ってきたからだということかもしれないし、誰への恩もないということにもなります。
仏様を拝み、そして仏様から拝まれている感覚は、この年輪の中心と外とが交差するのと似ている気がします。「お前ねえ、肩ひじ張って自分だけで生きているぞと思っているだろうが、もっと自分に働きかけているものも見るべきじゃないかい」そんな言葉をふと感じたりすれば、そしてそれが仏様からの語りかけだとするならば、おかげさまを教えていただく有難い仏様です。他人から言われると腹が立つでしょう。嫌いな人ならなおさらですね。
この内からと外からの交流する感覚は、私たちが宗教と言われたときにパッと思いつくイメージではない。それはすでに持っている日本人の宗教感覚だと思います。だから、宗教というものを何か特別なこととして見たら、いかがわしいとか、危険だとか、近寄らない方がいいとなりますが、本来日本人の持つこの宗教感覚をより研ぎ澄ましていくことをその宗教とするならば、その宗教は必要ですかという問いに皆さんはどう答えられるでしょうか。
そして、「おかげ様」でこうして何とか生かされています。この言葉をもっと研ぎ澄ませていきませんかということが、この宗教は必要ですかという問いへの応えとすれば必要かどうかです。そこまでせんでもいいやでも、それはそれでいいのですね。しかし、これをもっと研ぎ澄ませようと思えば、その宗教における信心ということが問題になてくる。そうすると内側と外側が交流する感覚がすでに宗教感覚ですから、信心とはこの宗教感覚をもっと具体的に自分で握ることでもあります。信心を「信知」するともいいます。
信心を生活の中だけで考える時はわりと興味本位でもかまいませんが、宗教はやはり生き死の問題でもあります。生のところだけで考えるのではないのです。しかしまた、死の事だけで考えるのも偏っていますよね。生死ですから両方扱う。
今日は「自の業識」という言葉があります。善導大師のお言葉です。この「自の業識」の周囲を回りながら、この宗教感覚を研ぎ澄ますことがどういうものか少し見ていこうと思います。日本における仏教は大きく二つに分けることが出来ます。一つは自力聖道門、もう一つは他力浄土門です。善導大師は他力浄土門の方です。親鸞聖人も大きな影響を受けました。その善導大師の信心について「自の業識」があります。用意しましたプリントを見ていただくと書いてあります。
『観経疏』序文義
「たゞこれ相因(あいよ)って生ずればすなはち父母あり。すでに父母あればすなはち大恩あり。もし父なくんば能生の因欠けなん。もし母なくんば所生の縁すなはち乖(そむ)きなん。もし二人ともになくんばすなはち託生の地を失わん。かならず須(すべか)らく父母の縁具して、まさに受身の処あるべし。すでに身を受けんと欲(ほっ)するに、自の業識をもって内因となし、父母の精血をもって外縁となす。因縁和合するがゆえにこの身あり。」
この自の業識ですが、内容としては「生きんとする意志」と習っています。以前、ある会合がありまして、会食の席ですからお酒も出ます。担当になりましたので酒を買いに行くことになりました。お酒はしばらく飲まなかったので何を購入しようかいくつか店を物色しました。せっかくだからどうせ飲むなら美味い方がいい。今はいろいろあるんですねえ。分からんからお店の人に尋ねて決めようと思いました。獺祭って知ってますか。インターナショナルワイン&スピリッツコンペンションで金賞を受賞したお酒だそうです。福岡の岩田屋ではお酒のコーナーには並んではいませんで、その代わりに獺祭だけのブースがありました。せっかくだから幾つか飲み比べすることにして、獺祭も含めて小瓶の程よいやつを数本か買ってきました。おもに冷酒に合う酒ということです。個人的には楽しかったですが、盛り上がりはそれほどなかったですね。皆さん詳しいようです。
この日本酒には値段がいろいろあります。それぞれ銘酒ですから少し高いのは理解できますが、中にはすごく高いものもあります。で、お店の方に同じ銘柄なのにどうしてこんなに値段が違うのですかと聞きましたら、精米歩合だと言われました。この精米歩合というのは、お酒の原料である玄米の研ぎ方でして、その玄米を研いでどのくらい残るかということ。60%で吟醸酒。50%以下で大吟醸だそうです。研いだ残りのお米でお酒を造るのですからそれだけの原料が必要です。獺祭の一番いいので精米歩合は23%だそうです。受賞したのはこのお酒でしょうか。
この研ぎ澄ますということですが、一定量のお酒を造ろうとする場合に、原料である玄米の量もこの精米歩合で決まります。精米歩合が小さければ小さいほど原料は多くなります。しかしこれを信心ということに置き換えて考えてみると、私以外に付け足すものはないのですから、精米歩合が小さくなればなるほど残りは小さくなるだけです。これどんどん研ぎ澄まされると消えて無くなりますよ。
信心ということを宗教感覚を研ぎ澄ますことで説明するなら、何かが少しづつ無くなっていくことでもあります。お酒は一定量を作らなければなりませんが、こちらはそういう量の問題ではありません。そして信心という場合に何がいったい研ぎ澄まされていくのかというなら、すでにお気づきのかたも居られるかと思いますが、これは我執ということですね。自我が、我執が研ぎ澄まされていく。そしてだんだんと我執が小さくなっていく。これ最後はどうなりますか。我執が無くなったら何が残るでしょうか。精米歩合では少しは残らないとお酒も出来ませんが、仏教は最終的にこの精米歩合をゼロにすることが目的というか、そういう立場です。
この精米歩合ゼロを目指して自力聖道門と他力浄土門がある。こういう事だろうと思います。しかしこう言ってしまうとですね。そこまではしなくても適当なところで止めてもいいんじゃないかなんてことも考えられるでしょう。程よい中途半端でもいいかな、なんて冗談ではなく思うこともありますよ。この精米歩合ゼロということを浄土真宗の教えをとおして生きた方々がおられます。妙好人といわれる方々です。主に江戸時代末期において全国各地でその妙好人がおられたことが分かっています。自力聖道門でいうならば、数少ない禅宗の高僧たちが到達できるような境地だそうでして、それを普段の生活を通して生きて行かれた方々だと言われています。精米歩合がゼロだからといって半分死んだような生活だろうなんてことは全くないのです。
この妙好人を精米歩合でひとまず説明するなら、研ぎ澄まされた我執の分が阿弥陀如来の分量になっていることです。だから我執がゼロになることは阿弥陀如来だけになる。主が代わるということでしょう。そういうことが妙好人の方たちは感覚的に分かっておられる。
『妙好人 浅原才一のうた』
「わしが聞いたじゃありません、わしが聞いたじゃありません。こころにあたるなむあみだぶつ、いまあなたに打たれて取られて。なむあみだぶつ。わしが阿弥陀になるじゃない、阿弥陀の方からわしになる。なむあみだぶつ。」
「浮世はままならぬ。ままになったら浮世じゃないよ。それで慚愧で立つ浮世。あさまし、あさまし、あさましや。これが歓喜になる浮世。なむあみだぶつ。なむあみだぶつ。」
「才市や何が面白い。迷いの浮世が面白い。法をよろこぶ種となる。南無阿弥陀仏の花ざかり」
それで、この自の業識ですが、こういうふうに信心を精米歩合のように見ていきますと、この自の業識、つまり生きんとする意志は、普通私たちが考える自分の意識のような類ではないことが何となく分かります。もっと深いところからくるものでしょうか。現在では無意識などと言われていますが、この自の業識では意識と無意識といったものでなくて、私が生を受ける時を言われている。その時における意志は私が生を受ける以前からなるものか。私が生を受ける前に私に意志がありましょうか。この自の業識は内縁だと書かれています。そして父母の精血をもって外縁となす。因縁和合するがゆえにこの身あり。もし私が生を受ける前なら生きんとする意志は今の私から離れたことになりますが、内因と外因が和合するところに初めてこの生きんとする意志を言われます。なかなか面倒ですが、善導大師における信心へのゼロポイントをこの自の業識として現わされています。親鸞聖人はこの善導大師にすごく傾倒された方です。
もうすぐ東京オリンピックですが、世界中のアスリートが集結するのでしょう。単なる才能だけでは出られませんよね。怪我をして挫折された方もたくさんおられるでしょう。いいコーチが付くかどうかも大きく左右されるかもしれません。本人の努力が一番でしょうが、運も関係しますよね。偉そうに言ってしまいますが、やはりそれぞれがそれぞれのおかげ様をもっておられると思います。
この生きんとする意志を自分がこの世に生を受けたと同時に頂いているのだと感じられれば、この私の生活の場がそれこそ私のオリンピックのフィールドであり、そのアスリートの人と何ら変わらない顔になっていくのではないかと、そんな気もしています。自らの環境を自分なりに精一杯生きて、そしてそれこそ才市さんじゃありませんが、無事浄土へ生還できたらいいな、そう思うこともあります。言うのは簡単ですがそう簡単なものではありませんね。しかしあなたに宗教が必要ですかと問われたときに、こういう生き方をしたいと思うなら、必要ですと答えていきたいと思っております。
ブログに関するご質問
「教巻への一考察」についての感想
「教巻への一考察」をブログに載せてしばらくが経った。書いた直後はあまり見たくないのでそのままにしておいた。読み返すと(いつものことだが)表現の至らなさと内容の乏しさを痛感する。いまさらではあるが、少しばかりこの「教巻への一考察」についての経緯を述べてみようと思う。まず、この「大」と「無量寿」の関係を、それもやや無理やりであったが、ア・プリオリの概念と結び付けた。これは証巻にときにカント(ドイツ観念論)を意識していたので、それならばと、教巻においても同じことが言えるだろうということでア・プリオリの思考を用いた。結果意外なことに変換が必要になる。そしてその変換が観経における浄土と阿弥陀仏の関係を思い起こさせたのは意外だった。カントが親鸞を知っていたとは考えにくいし、もし知っていたならこの変換も必要がなかっただろう。そして親鸞がカントを知っているはずはない。親鸞とカントとの関連は謎のままである。
次に親鸞の語句の読み変えである。意図的な読み変えなのは間違いない。後程この問題は現れてくる気がするが、釈尊その人という具体性がおそらくキーワードではないかと思っている。ブログにもそれを思わせぶりに書いたつもりである。
証巻 正定聚について その② 曇鸞における自性清浄浄土の定義としての考察
エトムント・フッサール著『イデーン』Ⅰ―1 純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想
第一巻 純粋現象への全般的序論  渡辺二郎訳
第三章「純粋意識の領域」
第四十八節 「われわれの世界を離れてその外にある世界というものの、論理的可能性と事象的背理」
『浄土論註』下巻 礼拝門・讃嘆門の編集後記
『論註』に興味のない人にはつまらないものになったかもしれません。引用文が長いのでそれだけで目を通したくなくなりそうなものでもあります。法話としてかなり無理な試みではありますが、この讃嘆門は以前からクリアしたいところでした。当の本人はというと、けっこう満足しております(笑)。問題点は多々ありそうですが、目下のところはこの程度だろうと一息付けた感じです。しかし、少し時間が過ぎて改めて見直した時に、のっぺらぼうな文章が羅列されているだけのようにも感じました。解読としたら、現時点ではこれ以上のものは自分にはありませんが、法話としたら及第点にも至っていないでしょう。ここで一点だけこの讃嘆門を説明したいと思います。三信三不信の問題でありますが、このヵ所は前日まで書けなかったところです。原稿を構成する暇もなくて、法要の当日に加筆し訂正したところもあります。意味そのものが分からずに戸惑っていたときに、これは付け加えられたものだという思いが飛び込んできました。実感としたらそういったものです。実相身為物身の問題はわりと早くから想像はついておりましたが、三信三不信はそこに付け加えられたものだという発想そのものがなかったのです。考えて見れば、「我一心について」で述べたものがここに出てきただけですが、当の本人はそれにぜんぜん気づかずに悪戦苦闘していたわけです。『論註』はすごく難しくていったいどこまで行けるのか分かりませんが、もう少しだけなら行けるかもしれない、そういう感覚で次回も考えております。のっぺらぼうの文章も悪戦苦闘の末にできた荒れ地の跡である、と想像していただければ幸いです。
観経疏の発菩提心に思う事
本来はこういう発菩提心を話す予定ではなかった。この散善顕行縁はどこか素通りしていたので、こういう壁が有ったことが自分としては驚きだった。分かったつもりで過ぎた処にかなり苦しめられて、結局この発菩提心が主題の原稿となった次第である。最後のヵ所は何回も書き直した場所だ。まだ消化不良の多い所であるがひとまず結論的に置くことにした。親鸞聖人が比叡に居られるころに観経疏はすでに読破されていたと考えるのはかなり前からである。ただ、この原稿が法話として成立するかどうかと考えた時に、ずいぶんと乱暴な原稿だなと思う。もっとざっくばらんに書きたかったなあ。
(自灯明・法灯明)と念仏についての考察
この「(自灯明・法灯明)と念仏」は、聖覚法印の『唯信鈔』を意識して、曽我量深選集の歎異抄聴記の第二条を述べたものである。選集第二条における法の引用文をもとに『唯信鈔』を現代タッチに表現しようと思った。理由は、歎異抄第一条と第三条を続けて構成しようとしたら失敗した経緯があり、この第二条は別の角度からのアプローチが必要だと考えたからである。法の深信とは自己規定を法から示されるものなのかもしれない。また規定として示すとは、法との関係において示すのであり、いうなれば関係性という形である。それに対して機の深信は、法との関係によって現れる自己の深まりである。深まりは動詞であり、深まりつつある自己の姿を現すのだろう。第一条からいきなり第三条へと飛べない理由が、この法との関係を前提にしなければ困難だからだと思ったからである。それを『唯信鈔』をもって表そうとしたわけはまだ自分でもよく分からないところであるが『唯信鈔』が元来そういうものだということなのだろうか。しかしながら当初からそいう事を考えて原稿を作成したわけではない。後から考えたらそういうことじゃないだろうかと思っているだけだが、布石という理由で、ひとまず初めに措いておこうとしたのは確かである。
歎異抄第3条の編集語録
彼岸会での原稿を纏めていたら後半が煩雑になっていることに気がついた。意識とこころ、こころと無意識、身体と無意識。不明なことが多い中で話を進めるのが難しかった。なんとか自分なりに纏めたつもりである。法蔵菩薩の問題は第3条から登場するのはある面必然的だと思うので付け加えている。
「気遣い」と「よしあしの文字もしらぬひとはみな まことのこころなりけるを」
「不安」編ではハイデガーの『存在と時間』について自分の所見を書いてみた。そこにおける気遣いは、親鸞における善悪の問題と共通点が多い。正像末和讃で「よしあしの文字もしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがほは おおそらごとのかたちなり」と親鸞は述べている。この「よしあしの文字」だが、これを「気遣い」と「不安」の関係に見るなら、それは「気遣い」における意識関係の前後になる。無に対して「不安」「居心地の悪さ」から発して何かを気遣うまでの過程を気遣いの前後とするなら、親鸞における「よしあしの文字もしらぬひとはみな」は気遣う前の段階である。それはハイデガーにおいては、そこにあるのは「不安」における心の動きだけであって、気遣う処の具体的な内容は無い。これをもしこの和讃に当てはめるなら、それが「まことのこころ」であり、ハイデガーでは身体的な機能に属する意識のあり様ということになる。そして「善悪の字」は気遣う内容を言葉にしたものだろうから、それは何かを意識するということであり、「善悪の字」は「気遣い」として見ても「おおそらごとのかたちなり」なのだ。共通するものは他にも多く見ることが出来るかもしれない。だからと言って全てが同じだということでもないだろうが。そしてすでに十数年たっているのでかなり忘れしまった。こういう論理的な構築は様々な所見の取り扱いに対して目安になる事があるのでとりあえず書いておくことにした。
宝樹観について
数年ぶりに宝樹観を読み直し編集してみたが、迷路に入ったりでとりとめがなくなった気がする。当時の法話原稿とはかなり違ったものになったが、まずはこんな話を黙って聴いていただいた申し訳なさが感想である。これは宝樹観本文全体をまとめた感想を構成としているので、意味内容よりもその関係の仕方が中心になっている。課題の多いヵ所だったことを肝に銘じてひとまず宝樹観を終了することにした。