行巻その⑥ 龍樹(十住毘婆沙論)Ⅳ(後)

令和7年12月 御正忌報恩講より 「易行品」 (後)

前回に引き続き「易行品」を読んでいきます。

「もし人疾く不退転地に至らんと欲わば、恭敬心をもって執持して名号を称すべし。もし菩薩この身において阿惟越致地に至ることを得、阿耨多羅三藐三菩提を成らんと欲わば、当にこの十方諸仏を念ずべし。名号を称すること『宝月童子所問経』の「阿惟越致品」の中に説くがごとしと。乃至」

  ここは再三考えた処です。そこでひとつの確認をしておこうと思います。「不退転」と「阿惟越致」という言葉がありますね。この二つの使い分けがここのテーマではないかということです。当然、自分がそう思っているだけですが、考えた末のことですので、ご意見は後程お聞きすることにして、そうことで話を進めていくことにします。

まず「不退転」も「阿惟越致」も意味は同じです。屈することなく退かない意志ということです。そこで、この二つをどのように使い分けておられるのかと言うことですが、不退転は「人」について言われているということ。そして「阿惟越致」は菩薩について使われているということです。このようにして読んでいくことになります。

「もし人疾く不退転地に至らんと欲わば」の「もし人」とは、文字通り「人」について述べられていて、ここには不退転地と書いてあります。しかし、この不退転地には、その前に不退転があるはずで、その不退転が地に着くことによって不退転地であると、こうなると思いますが、ここではそうはなっていません。いきなり不退転地から始っているので不退転のことは書いてありません。

だから、この文に不退転を付け加えてみます。そうすると「もし(不退転のその)人(が)疾く不退転地に至らんと欲わば、恭敬心を持って執持して名号を称すべし。」と読みやすくなります。その次の「もし菩薩」の方もこれと同じようにして、「もし菩薩(その人の)この身において阿惟越致地に至ることを得、阿耨多羅三藐三菩提を成らんと欲わば、当に十方諸仏を念ずべし」と、ここでは(その人の)を加えると読みやすくなります。

恭敬心というのはつつしみ敬う心ですね。執持とは心にとめて忘れないということですから、この「疾く不退転地に至らんと欲わば、恭敬心をもって執持して名号を称すべし」のことろも、もう少し柔らかくします。そうするとどうなるでしょうか。「もし(不退転のその)人(が)疾く不退転地に至らんと願うなら、(そのことを)つつしみ敬い心にしっかりたもち名号を称えなさい」と、このようになりますね。ここにも(そのことを)を付け加えて読みやすくしました。単に読みやすくなれば正解だということではありませんが、まずは意味が通るように読んでみたらこのようになるのかなということですね。

それでは、ここにある(そのことを)とはいったい何を言っているのだ、と、疑問がでてくるわけですね。これを結論から先にいうことになる訳ですが、ぼくはこの(そのことを)とは(初歓喜地の菩薩のことを)だと考えています。それでこの(そのことを)というのを、この「易行品」には何と書いてあるのかといえば、これは「易の菩薩」の「信方便の易行をもって疾く阿惟越致に至る者あり」のところになるので、まずは、そういうことにしておいて、この辺りを読んでみます。

「もし(不退転のその)人(が)疾く不退転地に至らんと欲わば、(信方便の易行をもって疾く阿惟越致に至る者ありという、この初歓喜地の菩薩のことを)恭敬心をもって執持して名号を称すべし」と、多少ゴチャゴチャとしますが、全部を書くとこうなる訳です。

それでは、ここに登場する「もし人」というのは、いったい誰のことを指しているのかいえば、この「易行品」の場合では、「菩薩の道」の「易の菩薩」のところですから、つまりは初歓喜地の菩薩のことですね。その初歓喜地の菩薩のときの「その人」が、ここで言われている「もし人」のことですから、「その人」とは「信方便の易行をもって疾く阿惟越致に至る者あり」と言われている「その人」のことですね。

ところが、ここには「阿惟越致に至る者あり」と書いてあります。前に言いましたように「人」は不退転であり、「菩薩」は阿惟越致です。しかしここではそうなっていません。そうすると、ここもまた見直さなければならなくなります。それでは、これをどのように見直せばいいのかといいますと、「信方便の易行をもって(菩薩の)疾く阿惟越致に至る(ことにより不退転の)者あり。」と、ここに菩薩と不退転を加えることで、人は不退転、菩薩は阿惟越致が成立するわけです。勿論これはぼくの独断でありますが、このような読み方になると思っています。

なかなか面倒なところに入っていきます。それで、これを角度を変えると、まず「名号を称すべし」という、この称名念仏の前に少しの時間のズレがあるわけですね。それが「疾く」です。そのズレに「菩薩」は阿惟越致に至り、「その人」は不退転であるということですから、名号を称すべしの前に「疾く」という時間のズレがあり、そのズレに菩薩は阿惟越致に至っていて、(その人)は不退転であるということになります。

そうすると、その次が「もし人疾く不退転地に至らんと欲わば、この身において(菩薩の疾く阿惟越致に至ることにより不退転の者ありという、この初歓喜地の菩薩のことを)恭敬心をもって執持して名号を称すべし」と、文脈としたらこのようになるかなと思います。しかしここにも不退転地の前に「疾く」という字が付いています。そうすると、ここもまたひとつの特異点があるのではないかということですね。

前の「信方便の易行をもって疾く阿惟越致に至る者あり」の場合では、「疾く阿惟越致に至る」だから、この「疾く」は菩薩についているわけです。だから「菩薩」が疾く阿惟越致に至るとき「その人」は不退転であると、このようになります。それで、こちらもそれと同じようにすると「菩薩が(その人の)この身において阿惟越致地に至ることを得」たとき、その人も疾く不退転地であると、こういうことですから、菩薩が阿惟越致地に至ることで、(その人も)疾く不退転地に至っていると、一応はこれで納まるわけです。

しかし、菩薩の方は(その人の)この身において阿惟越致地に至ることを得、「阿耨多羅三藐三菩提を成らんと欲わば、当に十方諸仏を念ずべし」と続いていますので、この「もし人疾く不退転地に至らんと欲わば」のところは、この菩薩が阿惟越致地に至ることで(その人が)不退転地に至るのではなくて、この菩薩が「阿耨多羅三藐三菩提を成らんと欲わば、当にこの十方諸仏を念ずべし」までをもって(その人の)不退転地であると述べられていることになります。

そしてこの「疾く不退転地」の「疾く」は、不退転だから(その人)に付いていて、この「(菩薩の)阿耨多羅三藐三菩提を成らんと欲わば、当にこの十方諸仏を念ずべし」のところまでをもって(その人の)不退転地であるということになっているので、そのときの時間の短さをここで「疾く」と言われていることになるでしょうか。つまり「名号を称すべし」の前後に、菩薩と人に「疾く」という時間のズレを顕されていることになります。これがどういうことなのか面倒な話になっていきますが、ここのところはひとまずこの辺で終了することにします。

「西方の善世界の仏を無量明ろ号す。身光智慧明らかにして、照らすところ辺際なし。それ名を聞くことある者は、すなわち不退転を得と。乃至」

  啐硺同時という言葉があります。ヒナが殻から生れ出るときに、親鳥がそこを突いてヒナのいのちを生み出す。こういういのちの誕生をいいますが、初歓喜地の菩薩において、「人」は「不退転地に至らんと欲わば、恭敬心をもって執持して名号を称すべし」です。「菩薩」はその人の「この身において阿惟越致地に至ることを得、阿耨多羅三藐三菩提を成らんと欲わば、当にこの十方諸仏を念ずべし」です。この「不退転地に至らんと欲わば、恭敬心をもって執持して名号を称すべし」の(その人)と、「阿惟越致地に至ることを得、阿耨多羅三藐三菩提を成らんと欲わば、当にこの十方諸仏を念ずべし」の(この菩薩)に、「西方の善世界の仏を無量明と号す」と「無量寿の門」は開いているということでしょうか。

「過去無数劫に仏まします、海徳と号す。このもろもろの現在の仏、みな彼に従って願を発せり。寿命量りあることなし。光明照らして極りなし。国土はなはだ清浄なり。名を聞きて定んで仏に作らん、と。乃至」

― 私という存在がどこか底が抜けていて、深く暗い海に漂っている感じがある。しかし、この得体の知れない不安が、実は自らの身体からだと知ったとき、私の心の全てが、この身体に浮かぶ小島のようなものだと分かった。今このことを想い、この心が何処から来たのか、自らの心を静かにして身体にそれを感じてみる。すると、私の身体には、過去からの無数の人たちがいて、その人たちは、この深い闇の中で、それぞれに自らを輝かせ、まるで仏のごときであった。―

「過去無数劫に仏まします、海徳と号す」を、善導大師の『観経疏』「水想観」と「瑠璃地の下」をもって、自分なりにアレンジしました。前回でも言ったように、不純物がかなり混ざっておりますので、確かな内容かどうかは疑わしいわけですが、それでも何とかそれなりにはなっているかなとは思っています。勉強の途中でありますので、いろいろと教えていただければ幸いです。

それで「瑠璃地の下」は私の身体の過去の意味ですね。つまり我が身体に見た深い過去です。この身体の海徳から発するもの、これを「海徳と号す」と言われていることになりますが、この「号す」ということ、これはその「海徳」に見る「いのちの願い」だと、そういうことだと思っています。これを善導大師は「生きんとする意志」だと言われます。

そして今、この深い闇に漂うその他の小島もまた、実はそれぞれの海徳に漂よう現在の仏たちであると気づいたとき、無量寿の門はその全てに開かれていた。そしてその全ての海徳から、彼の「無量寿の門」に従って願いを発しているのだ、と、このような解釈になります。

「問うて曰く、ただこの十方の名号を聞きて執事して心に在けば、すなわち阿耨多羅三藐三菩提を退せざることを得。また余仏・余菩薩の名ましまして阿惟越致に至ることを得とやせん。」

  「十方」とは、東西南北で四方、その四方の間を足して八方。それに上下を合わせて十方。私の全方位ということでしょう。「この十方の名号を聞きて」は、私の全方位の仏が名号を聞く姿を、心にとめて忘れないなら、それが阿耨多羅三藐三菩提を退かないことを得、また余仏・余菩薩が阿惟越致に至ることになるのだろうか。表現が難しいので自分なりに訳していますが、こういうことかなと思います。

「答えて曰く、阿弥陀等の仏および諸大菩薩、名を称し一心に念ずれば、また不退転を得ることかくのごとし。阿弥陀等の諸仏、また恭敬礼拝し、その名号を称すべし」

  ここでは「一心」について話すことにします。この「一心」とは何ぞや、ということですね。海徳から私をして無量寿の門に従い、凡夫がこの不退転地に至らんと願う心を、こうして「一心」と言われています。この「一心」が、もし心身から発せられるのであれば、それは私一人の問題であります。しかし、心身から骨体へと徹入するとき、この「一心」は心身から外へととき放たれ、無量寿の門はその全てに開かれていることになるわけです。そのとき「一心」は、その全ての海徳から発せられているのだということでしょう。

してみれば、この「一心」とは私の心身以前のことであり、身心からとき放たれた「菩薩」の心だということになるでしょうか。この「菩薩」の心は、その人の初果を地にするとき初歓喜地の菩薩となり、その「人」の不退転地とともに阿耨多羅三藐三菩提を成らんと、十方諸仏を念ずる心です。このことを「恭敬心をもって執持して名号を称すべし」と言われているのではないでしょうか。

  この「易行品」については、「信方便」が常にテーマにありました。自分なりの予測も一応ありましたが、どうも当てはまらなかったようです。こういうことはよくあるわけですが、しかしそれも聖典を読むときの醍醐味でもあります。そこで、この「易行品」を終了するにあたり、改めてこの「信方便」について少し感想を述べてみることにしました。

この「信方便の易行」とは、それは、「仏法に無量の門あり」から「乃至」で連なりながら、「もし人疾く不退転地に至らんと欲わば」へ、そして「菩薩の阿惟越致地に至ること得、阿耨多羅三藐三菩提を成らんと欲わば、当に十方諸仏を念ずべし」となり、「西方に善世界の仏を無量明と号す」が、「過去無数劫に仏まします、海徳と号す」と続いていくこの一連が、初歓喜地の菩薩とともに循環される「信方便の易行」の道であったということです。そして「問うて曰く」から始まる問答は、その菩薩の心である「一心」を顕かにし、その「一心」が心身からとき放たれたとき、菩薩の心は、全ての凡夫の「世間の道」に満ちていて、その全てに無量寿の門は開かれているのだと、そういうことではなかったかということでした。

行巻その⑤ 龍樹(十住毘婆沙論)Ⅳ(前)

令和7年12月 御正忌報恩講より 「易行品」 (前)

「また曰く、仏法に無量の門あり。世間の道に難あり、易あり。陸路の歩行はすなわち苦しく、水道の乗船はすなわち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便の易行をもって疾く阿惟越致に至る者あり。乃至

もし人疾く不退転地に至らんと欲わば、恭敬心をもって執持して名号を称すべし。もし菩薩この身において阿惟越致地に至ることを得、阿耨多羅三藐三菩提を成らんと欲わば、当にこの十方諸仏を念ずべし。名号を称すること、『宝月童子所問経』の「阿惟越致品」の中に説くがごとしと。乃至

西方に善世界の仏を無量明と号す。身光智慧明らかにして、照らすところ辺際なし。それ名を聞くことある者は、すなわち不退転を得と。乃至

過去無数劫に仏まします、海徳と号す。このもろもろの現在の仏、みな彼に従って願を発せり。寿命量りあることなし。光明照らして極りなし。国土はなはだ清浄なり。名を聞きて定んで仏に作らん、と。乃至

問うて曰く、ただこの十仏の名号を聞きて執事して心に在けば、すなわち阿耨多羅三藐三菩提を退せざることを得、また余仏・余菩薩の名ましまして阿惟越致に至ることを得とやせん。答えて曰く、阿弥陀等の仏および諸大菩薩、名を称し一心に念ずれば、また不退転を得ることかくのごとし。阿弥陀等の諸仏、また恭敬礼拝し、その名号を称べし。

いま当につぶさに無量寿仏を説くべし。世自在王(乃至その余の仏まします)、この諸仏世尊、現在十方の清浄世界に、みな名を称し阿弥陀仏の本願を憶念することかくのごとし。もし人、我を念じ名を称して自ら帰すれば、すなわち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得、このゆえに常に憶念すべしと。偈をもって称讃せん。」

  龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』はこの「易行品」で最後になります。全文載せていますが、少しだけ手を加えています。お分かりのように「乃至」という字が多くありますね。数えたら五カ所ありました。まぁ最後の「乃至」は少し角度が違うかなと思いますが、それでも、それ以外は同じ使い方だと思いましたので、本来は連読している文脈ですが、ここでは「乃至」のごとに行を区切っています。番号も付けようかとも考えましたが、そこまで拘っても仕方がないので、単に区切っているだけです。今回はなるだけその区切りごとに見て行こうと思っています。そしてまた、この「易行品」については、この行巻の「入初地品」「地相品」「浄地品」を含めながら読んで行きたいと思っていますのでよろしくお願い致します。

それではまず「また曰く、仏法に無量の門あり。世間の道に難あり、易あり。陸路の歩行はすなわち苦しく、水道の乗船はすなわち楽しきがごとし。菩薩の道もかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便の易行をもって疾く阿惟越致に至る者あり。乃至」から。

最初の「また曰く」は、おそらく前の「浄地品」の続きの意味だと思うので、そのことを念頭におきながら、まず「仏法に無量の門あり」から始めます。それでこの「仏法に無量の門あり」を「仏法に無量(寿)の門あり。」とこう読んでみます。すると、ここの所は「仏法に無量寿(阿弥陀仏)の門あり。世間の道に難あり、易あり」となりますから、無量寿つまり阿弥陀仏の門において「世間の道」となり、その世間の道において「難の道」と「易の道」があると、こういうことになります。そして「難の道」は「陸路の歩行はすなわち苦しく」、「易の道」は「水道の乗船はすなわち楽しきがごとし」だと、こうなるでしょうか。

そこでまず、ここに言われている「世間」ということですが、これはどういう事かと調べたら幾つか出てきました。意味としたら「人々が互いにかかわりあって生活している場」だと言うことで大体納まるようです。この「世間」を「世界」と言い換えても差し支えないとは思いますが、世界ではちょっと広すぎる感じがある。要は、私の視野に納まるぐらいの世界だと、このようになるのかなと思っています。私たちが聞きなれている世間とは向こう三軒両隣両隣のことで、これはご近所さんのことですね。

しかしここでは、この世間を、今この私の視野に納まるくらいの世界だとする。言い換えれば、この私の観点から見る生活範囲ということになるでしょうか。現在のようなネット社会では、情報過多や人間関係の遠近化で、昔とずいぶん違っているかもしれませんが、この私をして見ているところの私の小世界という意味では今も昔も変わりはないと思います。

子供のころにも当然私の生活範囲はありました。小学校や中学校の生活。親と旅行したり、親せきの家に遊びに行ったりした。これらは子供のときの私の生活範囲でしょう。そして大人になれば生活範囲は変わっていきますね。仕事関係や家族構成、またご近所さんとの付き合い。老後になれば介護の方とのお付き合い始まるでしょう。たとえずっと同じ場所にいたとしても、私の生活範囲というのは変わっていきます。

仏教にも「世間」という表現があります。「世間」に対する概念みたいなものは同じだと思いますが、仏教で言う「世間」とは、仏教の教理を中心にすえた視野ですから、さっき言ったような、この私という視点を中心におきながらも、なをそこを超えている「いのち」という大きなテーマを持っています。この「大いなるいのちの世界」において、仏教で言う「世間」をどのように見るのか、このような問題があるわけです。

すると、仏教で言う「世間」とは、この私の小世界にとどまらず、私を超えた「いのちの世界」を視野にして、そこにいのちの広がりや深さをおさえていくのだということになります。この「易行品」で言われている「世間」もまた、このような仏教の教理にそって言われているわけですから、当然ここにも仏教的視野をもって「世間」と言われていることになりますが、しかし同時にこの私の見る「世間」もそこにあるわけですね。この同時性において「仏法に無量寿の門あり。世間の道に難あり、易あり」と、このように言われているのだと思います。

昔テレビで「ひょっこりひょうたん島」という番組がありましたね。「ひょうたん島」というちっちゃい島の物語でした。なぜかこの島は海を漂流しています。その島には村長もいて、トラひげという怪しげな海賊もいました。子供たちもいて、その中には博士という名の子もいた。そしてこの島にいろんな事件が巻き起こるわけですね。

この小島のような世界を、私の小世界である「世間」に例えた場合、ここには他の住人もいて、それぞれがこの島の中で、それも多層的にこの私に関わってくるわけです。それが私の生活範囲ということですから、人間関係が多ければそれだけ物事も複雑になるでしょう。このような観点から見る生活範囲を、私の「世間」だとしたらどうなるかなということですね。

そうすると、この「世間の道に難あり」で言われている「陸路の歩行」とは、実は、私の「世間」内を陸路で歩行しているという、私の「世間」の中の出来事になってしまいます。それ以外に私の「世間」は何処にもないのだから、「陸路」と言ってみたところで、私の「世間」の中をうろうろと歩き回っている姿にしかなりません。

それでは、今度は「易あり」の「水道の乗船」の方はどうなるでしょうか。するとこちらも同じで、「水道の乗船はすなわち楽しきがごとし」と書いてありますが、これもまた私の「世間」の中の出来事です。あるのは「陸路の歩行」と「水道の乗船」の違いだけで、どちらも私の「世間」に中の経験です。では、この「易行品」で言われている難と易の違いとは、いったいこのどこにあると考えるべきでしょうか。

こういうふうに考えると、それはこの「世間」に対するその人の感覚の違いだと、こういう事になるのだろうと思います。それでは、その感覚とはどういうことであり、そしてその違いとは何かということになりますね。ある人は、この私の「世間」が何となく浮いた感じだと、さっき話しました、海に漂流するひょうたん島のように、何か浮いた感じがある。言い方をかえれば、私のこの「世間」というものに不安定さを感じているということ。こういう表現が適切かどうか分かりませんが、なにかしら地に足が着いてないような気分ですね。

そうすると、私のこの「世間」をもっと良くして安心できるようにしたいと思うでしょう。しかし私たちの目は外へ向いていますから、それを他人と比較して安心しようとします。当然どちらが良いか比べる訳ですね。放っておくとそうなっていきますよ。よく出てくるでしょう、優越感と劣等感です。しかしもうひとつある。それが私の心のもっと深いところ、そこにこの私であるというありようが、不確かな、地に足が着いてないような不安定な感覚、そういうものは感じていないか。

こんなことは、言われなければ、あぁそうかも知れんなとはなかなか思わないわけですが、それでも何処かでみんなが感じているものではないかなとも思いますよ。そしていのちの問題は、どちらかと言えばこちらの方に重きがあるのではないでしょうか。そうすると「世間の道に難あり、易あり」の中の「易あり」の人とは、この私の居場所である、私の「世間」において地に足が着いてないような、漠然とした不安を持っている人だということになりますから、こういう感覚を持っているかいないかが「難」と「易」の違いであるということになります。

そしてその次に「菩薩の道もかくのごとし」と書いてあります。菩薩もこれと同じだということですね。しかし菩薩と書いてありますように、菩薩はこの心の深い部分から一歩踏み出そうとしている人でしょうね。しかしながら、たとえそこから踏み出したとしてもまた、その道には難と易があるということです。

この「菩薩の道」の難を、ここでは「勤行精進のもの」だと、こういうふうに言われています。この「勤行精進のもの」を、先ほどの延長線で言えば、つまりはこの違和感に対して何か意義を持っている人であり、そのことについて「勤行精進のもの」だとこう言われていることになるわけですが、それでは、その次の「菩薩の道」の易についてはどのように書いてあるでしょうか。それが「信方便の易行をもって疾く阿惟越致に至る者あり」ですね。これはいったいどういうことでしょうか。とにかく阿惟越致の前の「疾く」という字はすごく短い間にという意味です。一応このことは覚えておいてください。

で、この菩薩については、「地相品」にも書いてあります。「凡夫人の未だ無上道心を発せざるあり、あるいは発心する者あり、未だ歓喜地を得ざらん。この人諸仏および諸仏の大法を念ぜんと、必定の菩薩および希有の行を念じて、また歓喜を得ん」内容が難しくて詳細は説明できませんが、まず初めの「未だ無上道心を発せざるあり」のところは、この人は凡夫人ということですね。だから未だ無上道心を発していないものだと書いてあります。

次に「あるいは発心する者あり」と書いてあるでしょう。この人が菩薩のことですから、菩薩として「無上道心を発する者あり」です。しかし「未だ歓喜地を得ざらん」人ですね。この菩薩のことを「菩薩の道」の難だと言われていることになります。「地相品」にはもうひとつあります。それが「菩薩初地を得ば、その心歓喜多し」です。このことが「易行品」では「菩薩の道」の易のところになるので、つまりは、この「菩薩の道」の易とは初歓喜地の菩薩のことです。

そして「地相品」で言われている無上道心を発心するものが、「易行品」の「勤行精進のもの」ですから、初歓喜地の菩薩のことを、「易行品」では「信方便の易行をもって疾く阿惟越致に至る者」だと、このように言われていることになります。この初歓喜地の菩薩のことは『十住毘婆沙論』の中で、菩薩とその人の特定な関係をもって表現されていますので、「易行品」でその関係性をこのように顕されたことになるでしょうか。

それで一応ここまでにしておいて、ぼくはこれまでに一つ問題があると思っていまして、先ほどから言っております「世間の道に難あり、易あり」で、ひょうたん島の譬えを出しました。そしてこの「世間の道」の「難」とは、この私の「世間」である小島しか知らずに、その中をぐるぐると歩きまわっている人だと言いました。それに対して「易」とは、この私の「世間」について、たとえそれが意識にまで上がらないとしても、何処かで言い知れない不安感を持っている人のことだと言いました。

しかし、もしも、このことが「易行品」の「易」について的を射ているのなら、その次の「菩薩の道もかくのごとし」にすっと繋がらないと思うわけです。この「世間の道」の「易」の説明が、何やらボヤっとして中途半端なんですね。そう思いませんか。なら、それは的外れではないか、と、こういうことになるのですが、これ、どういうことかと言いますと、「地相品」では「菩薩の難」とは「発心するもの」ですから、発心する動機がそこにある訳です。曇鸞大師の『論註』にこの『十住毘婆沙論』が載っています。おそらく同じ処だと思います。

「謹んで龍樹菩薩の造られた『十住毘婆沙論』をひもといてみるに、次のようにいわれている。菩薩が不退転を求めるのに二種の道がある。一つには難行道、二つには易行道である。」『論註』では「菩薩が不退転を求めるのに」と、いきなり菩薩の難行道易行道から始まりますが、「易行品」の初めでは「仏法に無量の門あり」です。ぼくはこれを「仏法に無量寿の門あり」と読みました。そしてその次が「世間の道に難あり、易あり」となっています。『論註」にはここがないわけですね。だから『論註』の「陸路の歩行」は菩薩の難行道のとこであり、「水道の乗船」は菩薩の易行道のことだとすっきりしています。

ところが「易行品」では、ここのところが「世間の道に難あり、易あり」となっているので、それをこうして説明しようとすればすごく中途半端になるのですね。そうするとこの「世間の道」の「易」のところが宙に浮いているわけです。「陸路の歩行」は何とか理解できるが「水道の乗船」との違いが分からない、と、こういう事だろうと思いますが、実はこの宙に浮いている場所にこそ、この「易行品」の始めの、「仏法に無量寿の門あり」の言葉があるのではないかと考えています。

でも、親鸞聖人はこの行巻で、「入初地品」「地相品」「浄地品」を通されて、そのままこの「易行品」を顕そうとされているわけですから、ぼくのような訳の分からないことは考えておられないと思いますよ。すっきりと「易行品」までを通されているはずです。しかし、ひょっとしたら、わざとそういうふうにされているかもしれない。

問題はこちらの方です。これは純度の問題であって、こちらの純度が粗悪だから、そこにさまざまに不純物が混ざっているわけですね。だからすっとそこが通らない。それでも、ここで言われている「世間の道に難あり」は何とか理解はできる。しかしこの私という存在が、どこか底が抜けていて、地に足が着いてないような、漠然とした不安があるということ。つまり自分の存在のありように自信がないということですが、実はそこに不純物がいっぱい混ざっているのではないかということですね。

私たちは物心ついてから今日まで何をしてきたかといいますと、いろんな経験をしてきましたね。しかしそれは考えてみれば、他人との比較ではなかったですか。そうしないと自分の経験がどのくらいのものか分からないでしょう。当然そこには優劣が生れます。優越感と劣等感ですね。しかし優越感や劣等感といってもひとそれぞれ千差万別です。強い人もいればさほど感じない人もいるでしょう。しかし全くない人はいないのではないでしょうか。

私たちの生きている社会がこういう優劣の世界だから、そこを生きて行くには、この優劣の思いからは逃げられないですよ。そういう私たちに、生きて行くための気持ちの持ちようが何かあるなら、それは自分に自信を持つということでしょう。そのために一生懸命になっているのかもしれないですね。そういう中においてもなお、今、この私の生活範囲に、どこか地に足が着いてないような不安なものを感じているということ。それは私のこの優劣の感情よりももっと深い、心の底から来るものですから、たとえどんなに生活が充実しているとしても付いてくる感覚ですね。いま生活が充実しておられる方がここにどのくらいおられるのか知りませんが、そうでない方ならなおさらではないでしょうか。

それで話を戻しますと、「菩薩の道」の難の菩薩を「発心する者」と言われていますから、その菩薩は、そこに発心する動機があるわけです。しかし「未だ歓喜地を得ざらん」菩薩であると言われています。これを「易行品」には「勤行精進のもの」だと端的に表現されていることになります。それでは今度は、私たちの立ち位置ですが、いったいその何処にあるのかということですね。そうするとやはり、それは今のこの私の「世間の道」にあり、その「易」においてであると、こういうことになるのではないかと思うのです。そしてその私の「世間の道」の「易」において、ここに「仏法に無量寿の門あり」と述べられている、と、そういうことかなと受け取っています。