行巻その④ 龍樹(十住毗婆沙論)Ⅲ

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令和7年9月23日 秋彼岸会より 「浄地品」

今回は『十住毘婆沙論』の「浄地品(ぼん)」です。短い引用なので全文を載せています。まず読んでみましょうか。

「また云わく、「信力増上」はいかん。聞見するところありて、必受して疑いなければ「増上」と名づく、「殊勝」と名づくと。問うて曰く、二種の増上あり、一つは多、二つは勝なり。今の説なにものぞ、と。答えて曰く、この中の二事ともに説かん。菩薩初地に入ればもろもろの功徳の味わいを得るがゆえに、信力転増す。この信力をもって諸仏の功徳無量深妙なるを籌量(ちゅうりょう)して、よく信受す。このゆえにこの心また多なり、また勝なり。深く大悲を行ずれば、衆生を愍念すること骨体に徹入するがゆえに、名づけて「深」とす。一切衆生のために仏道を求むるがゆえに、名づけて「大」とす。「慈心」は、常に利事を求めて衆生を安穏す。「慈」に三種あり。乃至」

まずこの「浄地品」の感想ですが、何がどうなっているのかサッパリ分かりませんでした。当然自分の至らなさでありますが、自分なりに悪戦苦闘していろいろと考えました。今日はその結果をここでお話しします。それでは始めます。

それではまず最初の「また云わく」から。これは前回の「地相品」を「また云わく」ということですね。じゃあその「地相品」には何が書かれていたかといいますと、「初歓喜地の菩薩」のことが書いてあります。だからこの場合の「また云わく」は、初歓喜地の菩薩について「また云わく」と、こういうことになります。

それからもうひとつ、この「浄地品」の途中に「今の説なにものぞ」というヵ所があるでしょう。この「今の説なにものぞ」に今回は焦点をあてて話を進めて行こうと思っています。つまりこの「今の説」が、この中の何処を指しているのだろうか。この観点から「浄地品」に入ることにします。

これは普通に読めば、この「今の説」は、その前の「問うて曰く、二種の増上あり、一つは多、二つは勝なり」のことだと思いますが、しかしながらそのつもりで読んでも、どうも前後の繋がりがないように思えまして、腑に落ちないわけですね。この「問うて曰く、二種の増上あり、一つは多、二つは勝なり」の方が、どちらかといえば唐突に出てくる気がするわけです。

そのことをふまえながら、最初のところから読んでみますと。「また云わく、信力増上はいかん、聞見するところありて、必受して疑いなければ「増上」と名づく、「殊勝」と名づくと。」これが初めのところですね。そして「問うて曰く、二種の増上あり、一つは多、二つは勝なり」ですね。そしてその次に「今の説なにものぞ」と、こういうふうに続いているわけですが、この「今の説」がこの中の何処を指しているのか。

それでまず「信力増上」ということですが、この「信力増上」には二つの顔があるということでしょう。そのひとつが「増上」です。そしてもうひとつが「殊勝」ですね。だから初歓喜地の菩薩のとき、「信力増上」は「増上」と「殊勝」というふたつの顔があるということになります。

そうすると、この文をもう少しかみ砕くと、初歓喜地の菩薩のとき、「信力増上」という徳がある。その徳をよく理解して、しっかり受け取り疑いがないなら、この「信力増上」は「増上」と名づけ、また「殊勝」と名づけるのだ、と、こういう事になるのではないかと思います。

「勝」というのは、これは仏の方のことで、仏の勝れたはたらきを言いますから、ここで言われている「殊勝」も同じく仏の方のはたらきのことをいいます。しかもそれは殊に勝れているということですね。そうするとこの「信力増上」とは、仏の方の、それも殊に勝れた「増上」であるということになります。

それから、次に「問うて曰く」です。ここに「二種の増上あり、一つは多、二つは勝なり」があります。ここでは「二種の増上」だと言われいて、そのひとつが「多」であり、もうひとつが「勝」ですね。

ではこの「多」は何かというと、おそらく「地相品」の、初歓喜地の菩薩の徳である「多歓喜」のことでしょう。その「多歓喜」がここでは「多」と省略されていることになりますが、この「多」が「二種の増上」の一つですね。そして二つめが「勝」です。「信力増上」の方は「増上」と「殊勝」で、「二種の増上」の方は「多」と「勝」です。

それではまず「二種の増上」から話すことにしますが、この「二種の増上」にはまず信力という字が抜けていますね。「地相品」の方には、初歓喜地の菩薩の徳を多歓喜と言われていましたが、ここでは「多」と言われていて、その「多」は「増上」すると言われているわけですね。そしてまた、そのとき「勝」の方も増上する。つまり仏のはたらきの方も増上している、と、こういうことになります。

「多歓喜」はより「多歓喜」へと増上し、その時に「勝」はより「勝」へと増上する。ではこの「多歓喜」を「地相品」でどのように説かれていたかということですが、要約すれば、まず多歓喜は初歓喜地の菩薩のときの徳であるということですね。そして、その徳とは何かといえば、諸仏の世界を顕していて、その地を歓喜地といい、その歓喜地に念ずる諸仏の全一人称の相を見る。このこともって多歓喜であるということだと思いますが、それに加えて、この「浄地品」には「多」は増上すると、このように多歓喜の増上する相を言われていることになります。

そのときもう一つの「勝」は、この「多歓喜」の増上する相を仏の方から顕したものだと思うわけですね。つまり初歓喜地の菩薩のとき、諸仏の徳である多歓喜は増上し、仏の慈悲もより増上し深くなる、と、あえてここに「深く」と付け加えておりますが、このようになるのではないでしょうか。つまり「多」はより増上し、「勝」はより深くなるということですね。そうするとこの「二種の増上」は動的であるということになります。

だから、ここで言われている「多」は「増上」する「多」ですから、初歓喜地の菩薩のときの「多歓喜」は増上するのであり、そのとき仏のはたらきもまた増上していると、このように言われるわけでしょう。さて、そこで疑問ですが、この「信力増上」の「殊勝」と、「二種の増上」の「勝」とではどちらが勝れているでしょうか。

「浄地品」のはじめのところに、「「信力増上」はいかん。聞見するところありて、必受して疑いなければ」と書いてあります。ここに「疑いなければ」とあるでしょう。そして今ここに「信力増上」の「殊勝」に疑問がある。つまり疑っているわけですね。するとここにちゃんと書いてあります。

もう一回言いますが、この「信力増上」に疑いがないなら、「信力増上」は「「増上」と名づけ、「殊勝」と名づく、です。そしてその次が「問うて曰く」ですから、ここに疑いがあると書いてある。それがこの「問うて曰く」ですね。こういうふうになると、「今の説」がこの文のいったい何処を指しているのかといえば、それは初めの「「信力増上」はいかん。聞見するところありて、必受して疑いなければ「増上」と名づく、「殊勝」と名づくと」のところですね。

そして今、ここにも疑いがある。その疑いが何かといえば、この場合は「二種の増上」の「勝」と、「信力増上」の「殊勝」の違いは何ですか、と、こういう疑問ですね。「信力増上」に疑いがないならいいが、この説に疑いが生じているわけですね。お分かりのように、こちらも無理やり「問い」をつくりました。

そこでまず「信力増上」に「聞見するところありて」と書いてありますね。「聞見」とはよく理解してと読むのだと思いますから、そのことをよく理解して、そしてしっかりと受け取り、疑いがないならば、それは「「増上」と名づく、「殊勝」と名づくと、このようになるわけです。

「浄地品」では、唐突に「問うて曰く、二種の増上あり、一つは多、二つは勝なり」です。こちらは「二種の増上」までを読んでみて、「問うて曰く」、「殊勝」と「勝」との差別化は何ですかといっていることになります。反対に、「信力増上」という「今の説」に何も疑問がないなら、初歓喜地の菩薩のとき、その「信力増上」を聞見し、必受して疑いがないからだ、と、こういうことにもなるでしょうか。

しかし今ここに疑いがある。だから「信力増上」の「今の説」にこちらも疑問が起きているわけです。で、その疑問とは何かといえば、それは「殊勝」と「勝」の差別化は何故かということですね。だから他にも疑問はあると思いますよ。しかし、少なくとも今、ぼくにはそういう疑問がある。そしてこの疑問について次に「答えて曰く」です。

きっと他にも疑問があるはず。この文の「二種の増上あり」もその疑問のひとつでしょう。しかしそれらについても「答えて曰く」ということになりますから、疑問はいろいろあるが、しかし「答えて曰く」からはみな同じだという、実に不思議な文章になります。そしてその答えが、次の「この二事ともに説かん」ですね。そうすると、ここにまた新たな問題が出てくるわけです。

「この二事ともに説かん」の二事とは何か。このどこにその「二事」があるのか、と、こういう問題ですね。普通に考えるなら、この二事とは「信力増上」と「二種の増上」の事になりますが、しかし、一応この「二事」については、しばらくそのままにして先に進みたいと思います。

「菩薩初地に入ればもろもろの功徳の味わいを得るがゆえに、信力転増す」。まずここでは「信力増上」が「信力転増」に変わっています。それで、この「菩薩初地に入れば」とは、初歓喜地菩薩のときをそう書いてあるのでしょう。すると、初歓喜地の菩薩のとき、「もろもろの功徳の味わいを得るがゆえに」とこのようになり、そのときの「もろもろの功徳の味わい」を、この「浄地品」には「信力増上」だと言われているわけですから、ここに言われているもろもろの功徳とは「信力増上」の「増上」と「殊勝」のことになるでしょう。

それでは、この初歓喜地の菩薩のときのもろもろの功徳を、今度は「地相品」の方に見てみると、まず初歓喜地の菩薩のとき、その菩薩の地は諸仏が現前する多歓喜の地であるということでしたね。それをここでは「多」と言われています。そして「多」はまた「勝」であると。この二種の増上する相(すがた)が、初歓喜地の菩薩の功徳の味わいであるとこのように言われています。

初歓喜地の菩薩のときの徳を、「浄地品」では「信力増上」だと言われていてますが、今話しているのは「地相品」の「二種の増上」のことを話しているわけですね。ここに「信力増上」と「二種の増上」が重なってしまいます。そこで、私たちがこれまで見てきたのは、そのどちらの方かと言えば、それは「地相品」の「二種の増上」の方ですね。それを「浄地品」では「多」と「勝」といわれていて、動的に顕されています。

「浄地品」では、まず「信力増上」です。そうすると考えられるのは、初めに「浄地品」とは何かが書いてある。で、それは「信力増上」ということだと、このように初めに措いてある。だから「「信力増上」はいかん」です。そしてこの「信力増上」を「聞見するところありて、必受して疑いなければ「増上」と名づく、「殊勝」と名づくと」このようになります。それでは唐突に現れた「問うて曰く、二種の増上あり」はいったい何処から来たのかといいますと、それは、前の「地相品」の、初歓喜地の菩薩のときを背景にしている。そして「問うて曰く」です。

「地相品」からすれば「二種の増上」は「多」と「勝」だと。だから「浄地品」の「信力増上」の「増上」と「殊勝」という「今の説」はなにものぞ、と、このように読むのだろうと思います。他にも「浄地品」についての読み方があるでしょうね。真偽はともかくとして、先を読みながら考えて行くことにします。

それで、次に「信力増上」が「信力転増」に変わっていますね。この「信力増上」は転増する「信力増上」だと、このように言われていますが、ここに「転増」という新しい言葉が登場するわけです。意味としては前の信力増上と違うということでしょうか。

「信力増上」の本質はそのまま、しかし前とは違うということですから、するとそれは前後の問題です。この前後の問題が次の文になります。「諸仏の功徳無量深妙なるを籌量(ちゅうりょう)して」のところです。ここに「深妙」という言葉が新しくあります。この「深妙」の意味は、妙なる仏力によってより深まっていくということでしょう。

「信力増上」の本質は同じです。しかし深さが違う。その深さに諸仏の無量功徳の深妙さを見るということ。この深妙なる功徳無量を、殊勝なる仏力である、つまり殊に勝れた阿弥陀仏の力によるのだと籌量する。籌量とは数え思い計るということだそうです。だから、この諸仏の功徳無量の深妙を、初歓喜地の菩薩のとき、その時々に思い計るということですね。「ますます深まっていくなぁ」と諸仏の功徳無量を思い計るということになります。この殊勝なる仏力である阿弥陀仏のはたらきを、初歓喜地の菩薩のときに信受する。このことを「諸仏の功徳無量深妙なるを籌量して、よく信受す」とこう述べておられるのではないでしょうか。

さて、ここでまた問題です。どうもこの「浄地品」は問題だらけでありまして、よく問題が出てきます。それで、問題です。この「もろもろの功徳無量」を信受するのは誰ですか。

初歓喜地の菩薩のとき、諸仏の功徳無量を、殊に勝れた阿弥陀仏の力だと信受する人がそこにいることになりますね。それがその次の「このゆえにこの心また多なり、また勝なり」のところになりますから、この文は「このゆえにこの(人の)心また多なり、また勝なり」となって、「この心」に(人の)を入れます。そうすると信受する人がそこにいることになります。この(人の)心とは、つまりは人の心ですから、人の心であるがゆえに、その心は煩悩の心です。しかし「信力増上」は初歓喜地の菩薩のときを言うのであり、これは仏の方の出来事なのですね。

それでおさらいをします。「家清浄」のこの菩薩、この人の初果を地にするとき、この菩薩を初歓喜地の菩薩だとこのように言われます。この初歓喜地の菩薩のとき、そのとき「この人」の心は煩悩の心でありながら、初歓喜地の菩薩の「信力増上」である功徳無量深妙を籌量する。その(人の)心もまた「多なり、また勝なり」です。

だからこのときの「多」と「勝」は、初歓喜地の菩薩のときに、この(人の)心も同時に含んでいることになります。まあ、これでいいのかどうか分かりませんが、今のところそういうことだと思っている次第です。それで、この功徳無量深妙を籌量するとは、この(人の)心においても、その時々の深さが違うということですね。そしてまた「地相品」では、初歓喜地の菩薩のとき、諸仏の功徳無量は、そのまま諸仏全一人称の心でありましたが、「浄地品」では、この功徳無量深妙の阿弥陀仏の宇宙観を、さらに動的に述べられようとしていると、そういう事ではないでしょうか。

そして、ぼくはこの事が「信力増上」の一事だと思っていまして、そうするともう一事が残っていることになります。それでは次に「深く大悲を行ずれば、衆生を愍念すること骨体に徹入するがゆえに、名づけて「深」とす。」に入ります。

ここに「深」という字があります。愍念(みんねん)はより深い慈しみという意味だそうです。すると、この「深く大悲を行ずれば、衆生を愍念すること骨体に徹入するがゆえに」というのはどういうことになるでしょうか。ぼくはこの「骨体に徹入する」というヵ所に注目しています。骨体ですから骨の問題です。骨体と身体とでは表現は似ていますが、何故骨体なのかに拘っています。骨体に対しては身心ではないか。つまり身体において身心と骨体です。その中の「骨体に徹入す」と、このようになります。

私たちは普段、頭が良いとか悪いとか言っていますが、これは要するに脳の良し悪しを言っているわけですね。頭が良いからといって、性格も良いとは限りません。頭が良くてもずる賢い人もいます。頭は回転次第で良くもなり悪くもなる。そして私たちの生活は、そのまま人間の集合体ですから、さまざまな人間関係の中で生きているわけですね。まあ、それでも頭が良いにこしたことはありませんが、ここで言いたいのは頭の良し悪しではなくて、骨である頭蓋骨の問題です。

でもね、頭を単に頭蓋骨と見て、それを自分の人生に直結される人はそうはおられないでしょう。頭蓋骨が小さかったら小顔になるわけです。それで生き方が多少変わるかもしれませんが、だからといってそれを頭蓋骨のせいだとは言わないわけですね。考えてみれば、頭蓋骨と脳は触接に繋がっているでしょう。直接といっても間に間膜はありますが、脳は内臓であり頭蓋骨は骨です。この脳と頭蓋骨の関係をもっと広げると、私たちの身体は、片方では身心として心に繋がりながら、同時に骨と繋がっているわけでしょう。そしてその身体がまるごと周囲の環境にあり、私たちの生活、そして人生になっています。

私のこの身体は体脂肪や内臓の調子によっても心に関わりますよね。体調が悪ければ気持ちも悪くなる。同じように骨が折れたら大変です。要は私の身体は身心にも骨体にも関わりながら、周囲の環境に身をおいている。そして、心はその中でいろいろと動きながら、今こうしてそれぞれが生きていることになります。

話は変わりますけど、臓器移植の問題はかなり前からありますね。ノーベル文学賞を受賞されたカズオ・イシグロ氏の作品「わたしを離さないで」は、臓器移植のために英才教育されたクローン人間の物語でした。クローン人間として生まれ、臓器移植という宿命を背負わされながら、人間として恋愛し、そして臓器移植の現実を突きつけられていくという問題作品でした。この臓器移植の問題は形を変えて今でも多く問題視されています。反面、IPS細胞のような万能細胞の時代にも入ってきました。人間の尊厳と生命は一丁目一番地の問題であることは変わらないと思います。

それで、この臓器ということですが、臓器にも人の心はあるのか。不慮の事故で夫を亡くした妻が、夫の臓器が他人に移植されていくときに、その臓器に夫のいのちを見ていく。このようなことをささやかれたことがあったでしょう。脳が心の全てだと考える人の方が少ないかもしれない。どこか身心という、内臓や肉体にも心は宿ると考えておられる方も多いのではないでしょうか。身体における身心が、このように心と肉体の関係をいうならば、それでは身体における骨はどうだろうということですね。

骨は確かに肉体の一部です。しかし身心のように、心が骨にも関わっていると考える人はそんなにはいないでしょう。最近は膝の手術がすごくよくなったと聞きます。人工関節ですね。骨は内臓と違い、どこか物として見ている。しかし骨もまた幼児から青年へと成長して、老人へと脆くなっていきます。それでもなお心と内臓の関係とはどこか違う。骨もまたその人としての身体でありながらも、どこか物との関係があるのではないですか。

それでは、心を意識とした場合にはどうなるでしょうか。これすごく難しいですね。意識といっても、無意識をも範囲に入れた意識ですから、これだけでも難しいわけですが、とにかく心を意識とした場合、まず直観をいいます。この直観という言葉を意識の一番初めとして使います。目でいえば網膜にそれが映っているとき、つまり脳に伝達するとき、と、このようになるかなと思いますが、ただそれだけのことです。このときを直観といいます。これ、五感の目・耳・舌・鼻・皮膚すべて同じですが、目はそれをそのまま映しているから、直観はこの視覚において言われていると思います。

だから、ただそこにある映像感覚のときということですね。これを直観と言い、この直観から意識が生れていくようすを見ていく。哲学にはこういう思考方法があります。カントはこの直観のところに悟性という概念を持ってきます。そして悟性に意識が生れる根源を見ていきます。仏教の場合にもこのような直観はありますが、カントのような意識のはじめに悟性という概念はなくて、この直観を、映すものと映されるものとの関係として見ます。そして映す方を身体に措き、映されている方を心とする。このとき映す方を器や鏡に例えたりします。

この関係の外に私がいて、そしてそれを見ているという関係ではありません。そういうことではなくて、突き詰めればということですね。そのとき心は、ただ「映すものと映されるもの」の関係であるということです。この関係のとき、鏡に映されているのは、その人の心そのものですから、その心は煩悩だといいます。しかしこの場合の煩悩は、普段私たちが考えるような煩悩とは違います。では何故同じように煩悩という言葉を使うのかといいますと関係があるからです。

それで鏡が澄んでいれば、映る煩悩もはっきりと映るというわけですね。「明鏡止水」をよく言われますが、調べるといろいろと書いてありますね。例としては「何の邪念もなく、静かに落ち着いている心の状態」。また「一つの心境」などと書いてあります。このような鏡と心の関係を見ていくのが仏教の基本だと思いますが、この『十住毘婆沙論』に出てくる初果というのも、この鏡と心の関係だと思いますね。つまり心と身体の問題です。

この心と身体の関係は、『観経』の「定善観」によく顕れていて、善導大師は「水想観」にこの鏡と心の関係を顕しますが、もともと『観経』は心と身体の関係を深く見ていくもので、そこに阿弥陀仏の浄土を顕していきます。

『観経』は、まず韋提希にまつわる事件から始まるわけですね。お釈迦様が「定善観」をお説きになるきっかけが、韋提希の「光台現国」のところです。そのとき、韋提希はお釈迦様の眉間から放たれた光の中に、諸々の諸仏の国土を見せられます。そして韋提希はお釈迦様に懇願します。この辺りを「光台現国」といいます。そして「世尊、このもろもろの仏土は、また清浄にしてみな光明ありといえども、我いま極楽世界の阿弥陀仏の所(みもと)に生れんと楽(ねが)う。唯(やや)願わくは世尊、我に思惟を教えたまえ、我に正受を教えたまえ」と『観経』は続きますが、「定善観」の発端にこの韋提希の「光台現国」がある。この「光台現国」と初歓喜地の菩薩とが深く関係していると、親鸞聖人はそう見ておられるのではないかと、ずっと考えているわけです。

それで、この初歓喜地の菩薩のときとは、これは(家清浄)の「この菩薩、その人の初果を地にしたとき」ということですから、この場合の初果もまた、鏡と心の関係によるのだということでしょう。ただ初歓喜地の菩薩にはこの「映すものと映されるもの」の関係に納まりきれないものがある。この「浄地品」で言われている「増上」の動的もそのひとつですね。

善導大師は「定善観」の「水想観」で、この鏡と心の関係を顕しておられますが、初歓喜地の菩薩という名称はありません。また「水想観」は「定善観」のまだ初歩的なところです。しかしまあ、このことは今後の展開にまた出てくると思いますのでこのくらいにして、とにかくこれらは心と身体の関係である、と、そういう事だと思います。

しかし、身体にはもうひとつ骨体の関係を持っているということですね。じゃあこの骨体とは何か。それが身体における骨と物の関係だということですね。ここで言う物とは、哲学的に言えば「物自体」という言い方になると思いますが、心は身心にあるから、それぞれの心にあります。しかし骨体は骨と物との関係でもあります。心はそれぞれの心の問題ですから、その人の心から出ることはありません。だから、心と身体といった分け方では心と身体は離れません。しかし骨と物との関係は、私という個体に限定されない。だから骨体というのは、心と身体の関係を超えていて、物へと深く、そして広く関係しているということではないでしょうか。

この骨と物の関係をもって、初歓喜地の菩薩のとき、阿弥陀仏は「深く大悲を行ずれば、衆生を愍念すること骨体に徹入するがゆえに、名づけて「深」とす。一切衆生のために仏道を求むるがゆえに、名づけて「大」とす。」と、このように言われるのですから、この「骨体に徹入する」とは、初歓喜地の菩薩のとき、阿弥陀仏は浄土に凡夫と諸仏の関係を開きながら、その凡夫と諸仏の関係とともに、一切衆生をも包みいれるという、阿弥陀仏の深い大悲を、この「浄地品」で顕そうとされているのではないでしょうか。そして、このことが二事のもう一つの事であると思っています。

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