行巻その⑨『浄土論註』の「作願門」について

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令和8年9月23日 秋彼岸会より  行巻の『論註』について

今回も『論註』からの引用文になります。今日で『論註』の引用文も4回目になりますが、おそらく次回が最後と思っていますので、佳境に入ってきたかなと思っています。今回も同じように聖典と「解読浄土論註」の両方を載せております。

それでは聖典から「天親いま「尽十方無碍光如来」と言(のたまえ)えり。すなわちこれ、かの如来の名(みな)に依って、かの如来の光明智相のごとく讃嘆するがゆえに、知りぬ、この句はこれ讃嘆門なりとは。「願生安楽国」は、この一句はこれ作願門なり、天親菩薩の帰命の意(こころ)なり。乃至」

「解読文」「天親菩薩がいま尽十方無碍光如来といわれるのは、とりもなおさず彼の名によって、彼の如来の光明のはたらきたる智慧の相のごとくに讃嘆するのである。だから、この句は讃嘆門であると知れるのである。願生安楽国とは、この一句は作願門である。天親菩薩の帰命の意をあらわしている。」

今日はこの文から読んで行くわけですが、その前に省略されている文があるので、まずはそこから見ていくことにしましょうか。

「舎衛国諸説の無量寿経によらば、仏阿弥陀如来の名号を解したまわく。何が故ぞ阿弥陀と号(なづ)けたてまつる。彼の仏の光明無量にして十方国を照らしたもうに障碍する所無し。是の故に阿弥陀と号けたてまつる。また彼の仏の寿命及び其の人民のも無量無辺阿僧祇なり。故に阿弥陀と名づけたてまつる。問うて曰く。若し無碍光如来の光明無量にして十方国土を照らしたもうに障碍する所無しと言わば、此の間の衆生何を以ってか光明を蒙らざらんや、光り照らさざる所有らば豈碍(さわ)り有るに非ずや。答えて曰く。碍(さまたげ)は衆生に属す、光の碍にあらざるなり。譬えば、日光四天下の周(あま)ねけれども亡者には見えざる如し。日光の周ねからざるなり。亦蜜雲の洪(おお)きにそそげども、頑石潤わざるが如し。雨のうるおわざるにあらざるなり。若し一仏三千大千世界を主領すと言わば、是れ声聞論の中の説なり。若し諸仏遍く十方無量無辺光を領すと言わば、是れ大乗論の中の説なり。」

「解読文」「釈迦が舎衛国でお説きになられた『無量寿経』(阿弥陀経)によれば、仏自ら阿弥陀如来の名号の心をあきらかにしておられる。即ち、なぜ阿弥陀と名づけたてまつるのか、それは彼の仏の光明が無量であって、十方の国々を照らすに少しのもさわりもない。だから阿弥陀と名づけたてまつるのである。また彼の仏をはじめ、そのみもとにある人々の寿命は無量であり永遠である。だから阿弥陀と名づけたてまつるのである、と。問う。もし無碍光如来が光明が無量であって、十方の国土を照らしたもうに少しもさわりがないというなら、この国の衆生はどうしてその光をこうむらないのか。光が照らさないところがあるのなら、どうしてさまたげがないといえようか。答う。さまたげは衆生の側にあるのである。光にさまたげがあるのではない。譬えば日の光は四天下にあまねくふりそそぐが、盲目の人には見えないようなものである。これは太陽の光がゆきわたらないのではない。またふかくたれこめた雲が大雨をふらせても、頑(かた)い石にはしみこまないようなものである。これは雨がうるおさないのではない。もし一仏が主となって三千大千世界をすべてつつんでいるというならば、これは声聞が論ずる中の説である。もし諸仏があまねく十方無量のほとりなき世界をつつんでいるというなら、これは大乗の中の説である。」

この省略されている文には「光明無量」を「仏の光明は無量であって十方の国々を普く照らしたもう」と、このように述べられています。また、「問う。」の方でもそのことが取り上げられていて、「答う。」もそのことについての説明です。この「光明無量」がなぜ省かたのか。そのことを考えながら本論に入っていきたいと思います。

そのためには、まず、これまで見てきた「真実功徳相」のおさらいしなければなりませんので、難解ではありますが、とにかく要約しながらこの「真実功徳相」を見ていきます。

龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』から。まず「入初地品」で「家清浄」が現わされました。この「家清浄」において「この菩薩」という表現で菩薩が登場します。そして、この「家清浄のこの菩薩」が「初果を究竟して涅槃に至ることを得るがごとし。心常に歓喜多し。自然に諸仏如来の種を増長することを得。このゆえに、かくのごとき人を「賢善者」と名づくることを得。」と、このように述べられているわけですが、ではこの「家清浄のこの菩薩」とはいかなるものかということが、ここにまずあるわけですね。

で、そのことについて見ていくと、「この菩薩」には「究竟して涅槃に至るがごとし」という意味と、「歓喜」ということ、そして「諸仏如来の種の増長」が述べられています。これらの事が「この菩薩」と「かくのごとき人」との関係に展開するとき、「家清浄のこの菩薩」は「初歓喜地の菩薩」という名で登場しています。

そしてこの「初歓喜地の菩薩」については、また、これら一連の事柄が一定でなく、それは究竟するものであり、歓喜し、増長するものです。この動的な表現が特徴として顕されていると思いますが、「初果」も例外ではなくて、「初果」も究竟していくのであり、そのことによって「初果」といいながらも前後があるということでしょう。

「家清浄のこの菩薩」には、このように初果が究竟するさまと、諸仏如来の増長するさまがある。そして「かくのごとき人」もまたそれに応じて増長していくわけですね。しかし、まあ、この「かくのごとき人」が増長するというのは、意味がどうもあやふやにも思えるので、心が深まっていくとか熟するいう言い方が良いのではないかとも思います。

しかしながら、このように言ってはみても、「初果」をはじめ「諸仏如来」や「かくのごとき人」なども同じですが、確かなものはなにもないわけです。で、ここのところはとても難しいので、これを「家清浄のこの菩薩、その人の初果を地にして初歓喜地の菩薩となる」と、このように要約してきたことになります。

そこで、ここに「初果の究竟して涅槃に至ることを得るがごとし」と言われていますが、「涅槃に至る」ではなくて「涅槃に至ることを得るがごとし」となっていますね。微妙な表現ですが、おそらく初歓喜地の菩薩が「かくのごとき人」との関係にある菩薩だからではないでしょうか。

そしてその次に、「家清浄のこの菩薩、(かくのごとき人の)この(身に)地を得れば、」「心常に歓喜多し。自然に諸仏如来の種を増長することを得」です。( )を付け加えていますが、まとめですからこのようになると思います。そして、このときの「家清浄のこの菩薩、この地を得れば」というのが「初果」のことだと思うので、この「初果」の究竟するさまが「心常に歓喜多し」であり、その究竟に応じて諸仏如来の増長がある、と、このようになるのでしょうか。

「地相品」では、この「諸仏如来の増長」を多歓喜と言われています。では、この多歓喜とは何か。まず、初歓喜地の菩薩の世界が諸仏如来の世界観だということですね。ではその諸仏如来の世界とはどのような処なのか。それは諸仏が相念じる世界だということでしょう。この諸仏が念じ相い開かれていく世界に、諸仏如来の増長を見るのであり、その増長するさまは、諸仏世界の過去・現在・未来を貫いているとも言われいます。これを初歓喜地の菩薩の多歓喜だと顕されている。

「浄地品」では、この開かれていく諸仏如来の世界に、その外に「深」という増長が説かれています。「深く大悲を行ずれば、衆生を愍念すること骨体に徹入するがゆえに」と、骨体をもって「深」を顕かにされて一切衆生の仏道を求める根拠を示されました。

「易行品」では、これら「入初地品」「地相品」「浄地品」を修して、諸仏如来の世界の増長とともに一切衆生を開かれて、そこに「信方便の易行」の道を示されました。そしてついには「一心」を顕かにされていきます。

そのとき、初歓喜地の菩薩はかの阿弥陀如来のみ名とともに、「かくのごとき人」は阿惟越致(不退転)に至り、この菩薩は「かくのごとき人」のこの身において阿惟越致地(不退転地)に至る。そしてこの菩薩は「無量寿の門」へと入り再び「一心」へと還るという、動的であり循環する相をここに顕かにされていくことになります。この「循環するいのちの相」を「真実功徳相」と顕されたわけです。

そして、この「真実功徳相」において、「究竟して涅槃に至ことを得るがごとし」と「歓喜多し」と「諸仏如来の増長」が極まるそのときを、天親菩薩の「我一心」と述べられていることになります。しかしながら、そうすると、この天親菩薩の「我一心」とは「真実功徳相」を俯瞰している姿に他ならないのではないのかという問題がでてきます。

そこでまず、天親菩薩の「我一心」が見るところの「真実功徳相」とは、この循環する「いのちの相」のことですから、その「いのちの相」がいま天親菩薩の「我一心」に顕かにされた。そのときを「光」と言われていることになるので、この「真実功徳相」とは「いのちと光の相」をいうのであり、その「いのちと光の相」において「天親いま「尽十方無碍光如来」と言えり」と、こいうことですから、省略された「光明無量」とはすでに意味が違っています。

そして、今回のテーマですが、「天親いま「尽十方無碍光如来」と言(のたま)えり。すなわちこれ、かの如来の名に依って、かの如来の光明智相のごとく讃嘆するがゆえに、知りぬ、この句は讃嘆門なりとは。」の「光明智相」が「いのちと光の相」になるので、つまりは「天親いま「尽十方無碍光如来」と言えり。すなわちこれ、かの如来のいのちと光の相のごとく讃嘆するがゆえに、知りぬ、この句は讃嘆門なりとは」と、こういうことになります。

また『論註』では、「天親菩薩、今尽十方無碍光如来と言(のたま)えり」となっていますが、聖典では「天親いま「尽十方無碍光如来」と言(のたま)えり。」となっていて、天親に菩薩の文字がありません。つまり親鸞聖人はここでは天親(人)と菩薩を離しておられることになるのですが、これはどういうことなのか。

そして問題です。この「真実功徳相」が俯瞰されるとき、その天親菩薩の「我一心」の眼(まなこ)は諸仏の域を超えていないかということですね。そして、その「我一心」には何が背景にされていたのかということです。

そこで今度は、省略されている部分の後半を見ていきますが、そこには何とかいてあるか「解読文」の方で見ていきましょうか。「もし一仏が主となって三千大千世界をすべてつつんでいるというならば、これは声聞が論ずる説である。もし諸仏があまねく十方無量のほとりなき世界をつつんでいるというなら、これは大乗の中の説である。」と、ここまでが省略されています。

まず、ここには声聞と大乗の違いが書いてあります。声聞の世界は、阿弥陀仏一仏が三千大千世界を包んでいる世界ですね。それに対して大乗の世界は、諸仏が十方世界にあまねく住するという世界です。そしてこの大乗の世界観が諸仏の世界のことになります。

もう少しこの諸仏の世界を開いてみます。すると、諸仏世界とは十方諸仏のそれぞれが自らを輝かせ、その諸仏の輝きとともにかの如来の光明も普く照らしているという、この諸仏と如来の光の関係に、阿弥陀如来の智慧と慈悲を見るという、これは『観経』「真身観の仏」の世界ですが、この「真身観の仏」をもって「仏荘厳」であると、つまり阿弥陀如来だと『論註』にも書いてあります。

だからこの「真身観の仏」が初歓喜地の菩薩における諸仏如来の世界であり、また『論註』の「仏荘厳」で示された「光明無量」だということになりますが、その「光明無量」が行巻では省略されたことになるわけです。

これに対して、天親菩薩の「我一心」は「一心」が主体である。そして「我一心」の眼もまた如来の「いのち光の相」を背景にしているならば、この「我一心」の眼はすでに諸仏ではなく阿弥陀如来の眼に他ならないのではないかと、こういうことになります。

そしてここからが今回のテーマになります。「天親いま「尽十方無碍光如来」と言えり。すなわちこれ、かの光明智相(いのちと光の相)のごとく讃嘆するがゆえに、知りぬ、この句は讃嘆門なりとは。「願生安楽国」は、この一句はこれ作願門なり、天親菩薩帰命の意(こころ)なり。」

前回も讃嘆門でした。今回もそのほとんどが讃嘆門です。だから二つの讃嘆門と、「願生安楽国」の「作願門」が「天親菩薩帰命の意」だと述べられていることになります。で、それでは前回の讃嘆門には何が書いてあるかというと、「いかんが讃嘆する。いわく、かの如来の名(みな)を称す。かの如来の光明智相(いのちと光の相)のごとく、かの名義のごとく、実のごとく修行し相応せんと欲(おも)うがゆえに」と、このようになっています。で、まずこの場合の「かの如来の名を称す」とは称名念仏のことですね。

それでは、今回の「かの如来の名に依って」も同じように称名念仏のことでしょうか。それとも「かの如来の名(阿弥陀如来)に依って、かの阿弥陀如来の光明智相(いのちと光の相)のごとく讃嘆するがゆえに」と読むのでしょうか。

ここに二つの「讃嘆門」がありますが、まず一つ目が称名念仏ですね。二つ目はその阿弥陀如来の名に依って、かの如来の「いのちと光の相」を讃嘆すると、こういうことになると思います。そしてこの二つを「願生安楽国」と言われ「作願門」だとされています。そして「天親菩薩帰命の意」だと顕されたことになるわけです。

『浄土論』でも、また『論註』においても、帰命とは「礼拝門」ですから「讃嘆門」の前に措かれています。しかしここでは二つの「讃嘆門」があり、そのときの「願生安楽国」が「作願門」だと言われていて、そしてこのことが「天親菩薩帰命の意」だと、こういうことになるので、この「天親菩薩帰命の意」には「礼拝門」と二つの「讃嘆門」と「作願門」が同時にあり、そして今回の「讃嘆門」では阿弥陀如来が阿弥陀如来の「いのちと光の相」を讃嘆するということになります。そうすると今回の「讃嘆門」のところは、「天親菩薩の帰命の意」だと言われながらも阿弥陀如来のことをいわれていることにもなるわけです。これはいったいどういうことでしょうか。

そこで、このことを考えるのに、「『浄土論』に曰く」のところまで再び帰らなくてはなりません。「『浄土論』に曰く、➀我修多羅(大無量寿経) 真実功徳相(いのちと光の相)に依って、願偈摠持を説きて、仏教と相応せり、と。②仏(阿弥陀如来)の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者なし。よく速やかに 功徳の大宝海を満足せしむ、と。」

『浄土論』は「礼拝門」「讃嘆門」「作願門」「観察門(国土荘厳・仏荘厳・菩薩荘厳)」「回向門」の五念門で出来ています。➀は「作願門」の終わりにあります。ここが今回の「天親菩薩帰命の意」であり、(国土荘厳)の「いのちと光の相」つまり阿弥陀如来の浄土に入るときです。②は(仏荘厳)の終わりの部分ですから、阿弥陀仏が菩薩へと出ていこうとするときになるでしょうか。

さて、そういうことになると、今日の話では「天親菩薩帰命の意」とは、阿弥陀如来が「いのちと光の相」へ入の意(こころ)でもあります。で、②の方は、阿弥陀如来が菩薩へ出のときですね。これを菩薩の立場で言えば阿弥陀如来が菩薩へ入のときです。

要は天親菩薩の「我一心」には、天親菩薩において阿弥陀如来から菩薩への入出があるということですね。そうすると、天親菩薩の「我一心」とは、「いのちと光の相」へ入るときに、この阿弥陀如来の菩薩への入があり、このことが「天親いま「尽十方無碍光如来」と言えり」ということである。そしてそれが「天親菩薩帰命の意(こころ)」であり、そのときがまた、この菩薩の「いのちと光の相」へ入のときです。ややっこしいですがこういうことでしょうか。そしてもう一つあります。それは「いのちと光の相」から再び「一心」へと還る出です。では何故、天親菩薩ではなくて天親その人なのか。それはこの菩薩の「いのちと光の相」への入が、ここの主題だらかではないでしょうか。

つまり「一心」は、天親菩薩の「我一心」において、如来の「いのちと光の相」と現じ、そのとき阿弥陀仏は天親の「この身」において如来と菩薩の入出を成就する。そしてこの菩薩は「いのちと光の相」に入り阿弥陀如来を成就して、「一心」は再び普遍のいのちを貫いていくという、これらの入出をもって天親菩薩の「我一心」を顕そうとされたのではないでしょうか。

話が込み入ってきましたので、深読みはこれくらいにして、とにかく先を読んで行きます。

「問うて曰、大乗論経の中に処々に「衆生、畢竟にして虚空のごとし」と説きたまえり。いかんぞ天親菩薩、願生と言(のたま)うや。答えて曰く、「衆生無生にして虚空のごとし」と説くに、二種あり。一つには、凡夫の実の衆生と謂(おも)うところのごとく、凡夫の所見の実の生死のごとし。この所見の事、畢竟じて有らゆることなけん、亀毛のごとし、虚空のごとしと。二つには、いわく、諸法は因縁生のゆえに、すなわちこれ不生にして有らゆることなきこと、虚空のごとしと。天親菩薩、願生するところはこれ因縁の義なり。因縁の義なるがゆえに、仮に生と名づく。凡夫の、実の衆生・実の生死ありと謂うがごときにはあらざるなり。問うて曰く、何の義に依って往生と説くぞや。答えて曰く、この間の仮名の人の中において、五念門を修せしむ。前念と後念と因と作(な)る。穢土の仮名の人・浄土の仮名の人、決定して一を得ず、決定して異を得ず。前心・後心またかくのごとし。何をもってのゆえに。もし一ならばすなわち因果なけん。もし異ならばすなわち相続にあらず。この義一異を観ずる門なり、『論』の中に委曲なり。第一行の三念門を釈し竟(おわ)りぬと。乃至」

「解読文」「問う。大乗の経論の中には、処々に衆生はつづまるところ無生(空)であって、虚空のようなものだと説いている。であるのに、どうして天親菩薩は願生といわれるのか。答う。衆生が無生であって虚空のようだと説くのに二種ある。一には、凡夫が思っているような実体的な衆生、凡夫が見ているような実体的な生死というもの、そのような事実はけっきょくあることないもので、ちょうど年老いた亀の甲に毛があると錯覚するようなものでしかないから、虚空のようだというのである。二には、諸々の存在は因縁によって生じているものであるから、とりもなおさず不生である。だからあることがないのは虚空のようだというのである。天親菩薩が願われる生は因縁の意味である。因縁の意味だから仮に生と名づけるのである。凡夫が、実の衆生あり生死ありというがごときものではない。問う。どのような意味で往生を説くのか。答う。この国の人びとの中にあって、五念門を修するという場合、前念は後念に対して因となる、この娑婆世界の人間(因)と浄土の人間(果)とは、まったく同一ではない。しかしまったく異なるものでもない。五念門を修する場合の前心と後心も、またこのようである。どうしてかといえば、もし同一であれば、因果がないことになるし、さればとて異なるなら娑婆の人間と浄土の人間とは連続していないことになるからである。この意味は一異を観ずる論の中にくわしく述べてある。第一行の三念門の解釈をおわる。」

で、この文との間に「解読文」「安楽の意味はあとの観察門の中にくわしく述べられている」が抜けています。そしてこの文が引用されているわけですが、この省かれた短い文言に何が書かれているのかといえば、文字通り、「『浄土論』に曰く」の➀、「作願門」の終わり「天親菩薩帰命の意」で「観察門」の解釈が終わっているということですが、まだ終わるのには続きがあるということでしょうか。

そして「問うて曰、大乗経論の中に処々に「衆生、畢竟無生にして虚空のごとし」と説きたまえり。いかんが天親菩薩、願生と言(のたま)うや。」のところです。天親菩薩の願生とは何か。やはりここは厄介なところでしょうね。阿弥陀仏の眼をもって阿弥陀如来の浄土へ願生する。これはいったいどういうことなのか。

しかしながら、ここではそういう問いにはなっていませんね。それが「衆生、畢竟無生にして虚空のごとし」です。要するに、無生にして虚空のごとき衆生に、どうしてこのような願生の意(こころ)があるだろうか、と、こういう問いでしょう。

それについて「答えて曰く、「衆生無生にして虚空のごとし」と説くに、二種あり。一つには、凡夫の実の衆生と謂(おも)うところのごとく、凡夫の所見の実の生死のごとし。この所見の事、畢竟じて有らゆることなけん、亀毛のごとし、虚空のごとしと。二つには、いわく、諸法は因縁生のゆえに、すなわちこれ不生にして有らゆることなきこと、虚空のごとしと。天親菩薩、願生するところはこれ因縁の義なり。因縁の義なるがゆえに、仮に生と名づく。実の生死ありと謂うがごときにはあらざるなり。」と、このようになっています。引用はまだ続きますが、まずはここまで。

実は、この文はすでにブログ『浄土論註』「作願門上巻」で通ったところです。他にも「教巻における一考察」でも扱っています。ブログでは2022年9月と2024年の9月のアーカイブにあります。よければご一読下さい。そして、これで三回目です。

同じことを何回も話すのはどうしたものかと考えながら読み返してみたところ、へえ、めずらしく上手いことを言っておるではないかと感心しました。ただ困ったことに、そういうことになると、もっと上手に話してやろうかとそわそわしてくるわけですね。

こうなると、もう受け狙いが先になってろくなことがないのは再三経験しております。はてさてどうしたものかと考え込んでいましたが、アーカイブを読んでいただければそれでよいということでもないので、どうなるか分かりませんが、とにかく違う角度から考えて行きたいと思っております。

参考にしたのは2024年9月の「教巻における一考察」の方です。それでは「一つには、凡夫の実の衆生と謂うところのごとく、凡夫の所見の実の生死のごとし。この所見の事、畢竟じて有らゆることなけん、亀毛のごとし、虚空のごとしと。二つには、いわく、諸法は因縁生のゆえに、すなわちこれ不生にして有らゆることなきこと、虚空のごとしと。」から。

畢竟とは「要するに」とか「つまるところ」という意味ですから、凡夫がそれを見ているとき、自分というものがまずあり、その自分がそれを見ているということが起きているということですね。このことが、つまるところ、私が有るということでもなくて、見られているもの(所見)自体もあるということではないと、難しく言えばこういうことかなと思うわけです。

つまり、そこに自分というものがいて、そしてそれを見ていると思うとき、その見ている自分という私は、はたして確かなのか。当たり前すぎて、考えてもいないことが、実はよく見ると分からなくなる。ここで言われているのは、この見ているものと見られているものの関係ですね。見るものとは私です。その私が実際の私自身だと、無意識にそう思いこんでいるということですが、これが「凡夫の実の衆生と謂うところのごとく」でしょう。

そしてダメ押しです。このようなものの見方、つまり今言った「凡夫の実の衆生と謂うところのごとく・・」というようなものの見方もまた、自分がそう考えているのだから、不確かな私が発したものに他ならないと、だからつまるところ、そのような考えも有るというのではない。これが「亀毛のごとし、虚空のごとしと。」です。

何を根拠にこの私なのかはっきりしない。だからよく見ると、見るものと見られているものの関係も何となくそういうふうなだけで、見ている自分が有り、見られているものがあるというふうになっているだけである。こう言われるとよく分からなくなるでしょう。これは私たちの生活で普通に思っていることですよ。それがこのように表現されていることになります。

年取った亀の甲羅に生えているかのごとくあるのは、亀毛ではなくて錯覚である。ではその亀の甲羅に生えたごとき錯覚の正体とは何か。それが実は私だということですから、まぁ納得はされないと思いますが、この「亀毛のごとし」をけっこう上手く言ったなと思ったのが2022年の方のアーカイブでした。

そこで、もう少しこのことを深堀すると、「アプリオリ」という哲学の言葉があります。これはエマニエル・カントの言葉ですが、この「アプリオリ」を自分なりに解釈して話すことになりますから、その点はご了承いただくことにして、話を進めて行きたいと思います。

で、これは「先験的」という意味だと言われます。また「より先のものから」とも言います。現在いろいろと解釈されていると思いますが、まずこの言葉に(そのことにおいて)を付け加えます。すると「(そのことにおいて)より先のものから」とこのようになりますね。そして、この(そのことにおいて)ということが何かということです。

では、この(そのことにおいて)とはいったい何かというと、それは「私のことにおいて」ということですね。つまり「私のことにおいてより先のものから」と、こういうことになります。この「私のことにおいて」がさっき話した「亀毛のごとき」ものですね。そこでこの「亀毛のごとき」私というものがいったい何であり、何処から始まるのかというのがこのテーマになります。

そこで、この「アプリオリ」という言葉がある。つまり「より先のものから」とは、この「私のことにおいてより先のものから」ですから、この私のことにおいて、より先に何かなければならないわけです。そして、この「より先のものから」を位置付けるためには、この「私のことにおいて」と「より先のものから」との関係が明らかにならなければならないと、このようになるわけです。それがこの「そのことにおいてより先のものから」という意味だと思います。

面倒くさいですが、では、この私というものがいたい何かということになるわけですね。もういろんな方がおられるわけですよ。みんな違ってみんないい、なんてことも言われましたね。確かにみんな違うと思う。しかし脳の思考回路としては、そのメカニズムは同じである。ものの捉え方で内容はそれぞれでも、思考回路が同じなら、ではその違いはどこからくるのかということですね。

その人それぞれの心の内容を「 」でひとくくりにして、それを概念として捉える。これを「悟性」と言います。そうすると、人はそれぞれであっても、それは人それぞれの「悟性」であるということですね。だからこの「悟性」には、その人ならではの生い立ちや様々な経験、そしてその人の生活環境などがすべて集約されていることになります。そしてまた、「悟性」には、その人の無意識の領域までもが含まれていることになるので、これまでを「悟性概念」とする。こういうふうに思って入りるわけですが、だから、それは私の心の始まりから今この私までが全部集約されたものです。

しかしながら、この「悟性概念」にも初期段階がなければならないでしょう。イメージすれば白紙のような状態ですが、「悟性概念」に書きこまれる瞬間のようなものでしょうか。これを「純粋悟性概念」と言います。この「純粋悟性概念」において「より先のものから」ということですね。これを「アプリオリ」といいます。簡単に言えば「純粋悟性概念」までが「私ということ」になります。この「純粋悟性概念」までの「私ということ」において、より先のものから何の関係があるのか、と、こういうことです。

お気づきのことと思いますが、「亀毛のごとし」がこの「悟性概念」になるので、仏教ではこの「悟性概念」を有ることなしというのがその立場でしょうか。自己流に解釈すればそのようになりますが、だからこの「悟性概念」を仏教的に表現したら「ただ凡夫」ということになるでしょう。

普通凡夫というのは煩悩が多い者をさして言われますね。大晦日に、百八つの煩悩を清めるための除夜の鐘を突くことになっております。百八つの煩悩で人が出来ているわけではないが、とにかくたくさんありますよということでしょう。それでもたまには良いこともするから煩悩だけで生きているわけではないとも考えたりする。これはこれでそんなものかなとも思いますが、今話しているのはそれとは質が違います。

では、そのときの「ただ凡夫」とは何か。要は私というのものがあるかのごとくしてそれを見ているということ、つまりここでは「ただ凡夫」の意味を意識のメカニズムとして言っているわけです。そして私たちはこの意識のメカニズムから出ることは出来ません。それが私ですから。

だから、私がそれを見ているということに何も不自然さはないでしょう。しかしその私が何かもしらないし、見ているものと見られているものの区別も、私の心の領域内でそういうふうに見ているにすぎないということも知らないし気づかない。しかしそれは私たちにとっては当たり前なのであって、これが普通なんですね。でも、これを「亀毛ごとし」と言うわけです。

そして問題はその次にあります。それが「二つには、いわく、諸法は因縁生のゆえに、すなわちこれ不生にして有らゆることなきこと、虚空のごとしと。」のところになります。ここが2022年の「作願門の上巻」と違います。このときの『浄土論註』の因縁生については、業をもとにして話しております。この私だと思っていても、それは私の業という、生前からこの身に受けた過去を背負った私である。だから今の私からすべてが始まっているのではなくて、自らの業にこの私がいるということ、この業と私の関係を因縁生として話したと思います。

しかしながら、ここで言ってきました「悟性概念」には、このような業という言葉はありませんが、「悟性概念」が無意識の領域も含んでいるので、業における因縁生もまた「悟性概念」になるのだと思うわけです。そこで、この「悟性概念」の初期に「純粋悟性概念」というものがある。では、これはいったい何であるか。カントは直観であると言います。まず真っ先に私に入って来るもの、この直観がある。この直観に「悟性」が働き私の思いが発していくということですね。こういったメカニズムを「悟性」というのかなと思いますが、問題はこの「純粋悟性概念」が私の真っ先にある直観だとしても、この直観を示す場所があるのかということですね。カントは「概念」を通して追及していくので、そういった具体的な場所については述べていないと思いますが、それを勝手にこちらが場所設定しようというのが今日の話です。

そこで、心身にそういう場所があるのかということになりますが、この「純粋悟性概念」とは「アプリオリ」の観点からして、心と言うよりも、心と身体の境界であり、そのどちらかといえば身体の方に属するものではないでしょうか。そしてそこは直観を映す場所でもあります。

この心と身体の境界である「純粋悟性概念」までを、この「私のこといおいて」にするわけですね。だから「アプリオリ」に見た「そのことにおいて、より先のものから」というのは、この「私のことにおいて」の「純粋悟性概念」より先のものからということになります。では、その先のものからに、この「私のことにおいて」以外の何があるのか。カントはそこに「純粋理性」を持ってくるわけです。

「理性」は一般的には「本能や一時的な感情に流されず、物事の道理を考えて正しく論理的に判断する能力のこと」だと、このようになっています。お気づきと思いますが、これは私が思っているところの本能であり、私の感情です。物事の道理を考えるのもこの私です。そしてそれを判断するのも私が判断するわけですね。これ全て私の心の中の出来事ですよ。

その私が不確かである。では何が確かなのか。カントはそこにこのような「私のことおいて」より先に「純粋理性」を現わして、私本来のあるべき姿を追求していったと、このように理解しているわけですが、天親菩薩の願生の立ち位置が、カントでいうところの、この「私のことにおいて」と「純粋理性」の関係に似ているなと考えております。まぁ真偽はともかくとして、続けていくことにしますが。

で、この「天親菩薩、願生するところはこれ因縁の義なり。因縁の義なるがゆえに、仮に生と名づく。凡夫の、実の衆生・実の生死ありと謂うがごときにはあらざるなり。」に言われた「天親菩薩、願生するところ」が、これまで見てきた「天親菩薩帰命の意」でありますあら「我一心」のことですね。その「我一心」がここでは「因縁の義」だといわれていることになります。

「問うて曰く、何の義に依って往生と説くぞや。答えて曰く、この間の仮名の人の中において、五念門を修せしむ。前念と後念と因と作(な)る。穢土の仮名の人(にん)・浄土の仮名の人、決定して一を得ず。決定して異を得ず。前心・後心またかくのごとし。何をもってのゆえに。もし一ならばすなわち因果なけん。もし異ならばすなわち相続にあらず。この一異を観ずる門なり、『論」の中に委曲なり。第一行の三念門を釈し竟(おわ)りぬと。乃至」

「解読文」「問う。どのような意味で往生と説くのか。答う。この国の人々の中にあって、五念門を修するという場合、前念は後念に対して因となる。この娑婆世界の人間(因)と浄土の人間(果)とは、まったく同一ではない。しかしまったく異なるものでもない。五念門を修する場合の前心と後心も、またこのようである。どうしてかといえば、もし同一であれば、因果がないことになるし、さればとて異なるなら娑婆世界の人間と浄土の人間とは連続していないことになるからである。この意味は一異を観ずる論に中にくわしくのべてある。第一行の三念門の解釈をおわる。」

込み入った話は出来ないので二点だけ話すことにします。一つは「往生」ということ。唐突に「往生」が登場します。ここで往生を得るということですね。つまり天親菩薩の願生とは往生のことだと言われています。二つは何故そうなのかということですが、それは五念門を修しているからだということです。

『十住毘婆沙論』で五念門を見てきました。そして初歓喜地の菩薩の「真身観の仏」から天親菩薩の「いのちと光の相」へと、これが初歓喜地の菩薩の前念であり天親菩薩の後念でしょうか。そして「天親菩薩帰命の意(こころ)」とは、前心の娑婆世界の人間(因)と後心の浄土の人間(果)の不異の関係であるから、天親菩薩の願生は「往生」であると、こういう意味になると思います。

そして「第一の行の三念門の解釈をおわる」とは、天親菩薩の「我一心」がいま、「いのちと光の相」へ入るそのときを言われているのではないでしょうか。

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