令和7年12月 御正忌報恩講より 「易行品」 (後)
前回に引き続き「易行品」を読んでいきます。
「もし人疾く不退転地に至らんと欲わば、恭敬心をもって執持して名号を称すべし。もし菩薩この身において阿惟越致地に至ることを得、阿耨多羅三藐三菩提を成らんと欲わば、当にこの十方諸仏を念ずべし。名号を称すること『宝月童子所問経』の「阿惟越致品」の中に説くがごとしと。乃至」
ここは再三考えた処です。そこでひとつの確認をしておこうと思います。「不退転」と「阿惟越致」という言葉がありますね。この二つの使い分けがここのテーマではないかということです。当然、自分がそう思っているだけですが、考えた末のことですので、ご意見は後程お聞きすることにして、そうことで話を進めていくことにします。
まず「不退転」も「阿惟越致」も意味は同じです。屈することなく退かない意志ということです。そこで、この二つをどのように使い分けておられるのかと言うことですが、不退転は「人」について言われているということ。そして「阿惟越致」は菩薩について使われているということです。このようにして読んでいくことになります。
「もし人疾く不退転地に至らんと欲わば」の「もし人」とは、文字通り「人」について述べられていて、ここには不退転地と書いてあります。しかし、この不退転地には、その前に不退転があるはずで、その不退転が地に着くことによって不退転地であると、こうなると思いますが、ここではそうはなっていません。いきなり不退転地から始っているので不退転のことは書いてありません。
だから、この文に不退転を付け加えてみます。そうすると「もし(不退転のその)人(が)疾く不退転地に至らんと欲わば、恭敬心を持って執持して名号を称すべし。」と読みやすくなります。その次の「もし菩薩」の方もこれと同じようにして、「もし菩薩(その人の)この身において阿惟越致地に至ることを得、阿耨多羅三藐三菩提を成らんと欲わば、当に十方諸仏を念ずべし」と、ここでは(その人の)を加えると読みやすくなります。
恭敬心というのはつつしみ敬う心ですね。執持とは心にとめて忘れないということですから、この「疾く不退転地に至らんと欲わば、恭敬心をもって執持して名号を称すべし」のことろも、もう少し柔らかくします。そうするとどうなるでしょうか。「もし(不退転のその)人(が)疾く不退転地に至らんと願うなら、(そのことを)つつしみ敬い心にしっかりたもち名号を称えなさい」と、このようになりますね。ここにも(そのことを)を付け加えて読みやすくしました。単に読みやすくなれば正解だということではありませんが、まずは意味が通るように読んでみたらこのようになるのかなということですね。
それでは、ここにある(そのことを)とはいったい何を言っているのだ、と、疑問がでてくるわけですね。これを結論から先にいうことになる訳ですが、ぼくはこの(そのことを)とは(初歓喜地の菩薩のことを)だと考えています。それでこの(そのことを)というのを、この「易行品」には何と書いてあるのかといえば、これは「易の菩薩」の「信方便の易行をもって疾く阿惟越致に至る者あり」のところになるので、まずは、そういうことにしておいて、この辺りを読んでみます。
「もし(不退転のその)人(が)疾く不退転地に至らんと欲わば、(信方便の易行をもって疾く阿惟越致に至る者ありという、この初歓喜地の菩薩のことを)恭敬心をもって執持して名号を称すべし」と、多少ゴチャゴチャとしますが、全部を書くとこうなる訳です。
それでは、ここに登場する「もし人」というのは、いったい誰のことを指しているのかいえば、この「易行品」の場合では、「菩薩の道」の「易の菩薩」のところですから、つまりは初歓喜地の菩薩のことですね。その初歓喜地の菩薩のときの「その人」が、ここで言われている「もし人」のことですから、「その人」とは「信方便の易行をもって疾く阿惟越致に至る者あり」と言われている「その人」のことですね。
ところが、ここには「阿惟越致に至る者あり」と書いてあります。前に言いましたように「人」は不退転であり、「菩薩」は阿惟越致です。しかしここではそうなっていません。そうすると、ここもまた見直さなければならなくなります。それでは、これをどのように見直せばいいのかといいますと、「信方便の易行をもって(菩薩の)疾く阿惟越致に至る(ことにより不退転の)者あり。」と、ここに菩薩と不退転を加えることで、人は不退転、菩薩は阿惟越致が成立するわけです。勿論これはぼくの独断でありますが、このような読み方になると思っています。
なかなか面倒なところに入っていきます。それで、これを角度を変えると、まず「名号を称すべし」という、この称名念仏の前に少しの時間のズレがあるわけですね。それが「疾く」です。そのズレに「菩薩」は阿惟越致に至り、「その人」は不退転であるということですから、名号を称すべしの前に「疾く」という時間のズレがあり、そのズレに菩薩は阿惟越致に至っていて、(その人)は不退転であるということになります。
そうすると、その次が「もし人疾く不退転地に至らんと欲わば、この身において(菩薩の疾く阿惟越致に至ることにより不退転の者ありという、この初歓喜地の菩薩のことを)恭敬心をもって執持して名号を称すべし」と、文脈としたらこのようになるかなと思います。しかしここにも不退転地の前に「疾く」という字が付いています。そうすると、ここもまたひとつの特異点があるのではないかということですね。
前の「信方便の易行をもって疾く阿惟越致に至る者あり」の場合では、「疾く阿惟越致に至る」だから、この「疾く」は菩薩についているわけです。だから「菩薩」が疾く阿惟越致に至るとき「その人」は不退転であると、このようになります。それで、こちらもそれと同じようにすると「菩薩が(その人の)この身において阿惟越致地に至ることを得」たとき、その人も疾く不退転地であると、こういうことですから、菩薩が阿惟越致地に至ることで、(その人も)疾く不退転地に至っていると、一応はこれで納まるわけです。
しかし、菩薩の方は(その人の)この身において阿惟越致地に至ることを得、「阿耨多羅三藐三菩提を成らんと欲わば、当に十方諸仏を念ずべし」と続いていますので、この「もし人疾く不退転地に至らんと欲わば」のところは、この菩薩が阿惟越致地に至ることで(その人が)不退転地に至るのではなくて、この菩薩が「阿耨多羅三藐三菩提を成らんと欲わば、当にこの十方諸仏を念ずべし」までをもって(その人の)不退転地であると述べられていることになります。
そしてこの「疾く不退転地」の「疾く」は、不退転だから(その人)に付いていて、この「(菩薩の)阿耨多羅三藐三菩提を成らんと欲わば、当にこの十方諸仏を念ずべし」のところまでをもって(その人の)不退転地であるということになっているので、そのときの時間の短さをここで「疾く」と言われていることになるでしょうか。つまり「名号を称すべし」の前後に、菩薩と人に「疾く」という時間のズレを顕されていることになります。これがどういうことなのか面倒な話になっていきますが、ここのところはひとまずこの辺で終了することにします。
「西方の善世界の仏を無量明ろ号す。身光智慧明らかにして、照らすところ辺際なし。それ名を聞くことある者は、すなわち不退転を得と。乃至」
啐硺同時という言葉があります。ヒナが殻から生れ出るときに、親鳥がそこを突いてヒナのいのちを生み出す。こういういのちの誕生をいいますが、初歓喜地の菩薩において、「人」は「不退転地に至らんと欲わば、恭敬心をもって執持して名号を称すべし」です。「菩薩」はその人の「この身において阿惟越致地に至ることを得、阿耨多羅三藐三菩提を成らんと欲わば、当にこの十方諸仏を念ずべし」です。この「不退転地に至らんと欲わば、恭敬心をもって執持して名号を称すべし」の(その人)と、「阿惟越致地に至ることを得、阿耨多羅三藐三菩提を成らんと欲わば、当にこの十方諸仏を念ずべし」の(この菩薩)に、「西方の善世界の仏を無量明と号す」と「無量寿の門」は開いているということでしょうか。
「過去無数劫に仏まします、海徳と号す。このもろもろの現在の仏、みな彼に従って願を発せり。寿命量りあることなし。光明照らして極りなし。国土はなはだ清浄なり。名を聞きて定んで仏に作らん、と。乃至」
― 私という存在がどこか底が抜けていて、深く暗い海に漂っている感じがある。しかし、この得体の知れない不安が、実は自らの身体からだと知ったとき、私の心の全てが、この身体に浮かぶ小島のようなものだと分かった。今このことを想い、この心が何処から来たのか、自らの心を静かにして身体にそれを感じてみる。すると、私の身体には、過去からの無数の人たちがいて、その人たちは、この深い闇の中で、それぞれに自らを輝かせ、まるで仏のごときであった。―
「過去無数劫に仏まします、海徳と号す」を、善導大師の『観経疏』「水想観」と「瑠璃地の下」をもって、自分なりにアレンジしました。前回でも言ったように、不純物がかなり混ざっておりますので、確かな内容かどうかは疑わしいわけですが、それでも何とかそれなりにはなっているかなとは思っています。勉強の途中でありますので、いろいろと教えていただければ幸いです。
それで「瑠璃地の下」は私の身体の過去の意味ですね。つまり我が身体に見た深い過去です。この身体の海徳から発するもの、これを「海徳と号す」と言われていることになりますが、この「号す」ということ、これはその「海徳」に見る「いのちの願い」だと、そういうことだと思っています。これを善導大師は「生きんとする意志」だと言われます。
そして今、この深い闇に漂うその他の小島もまた、実はそれぞれの海徳に漂よう現在の仏たちであると気づいたとき、無量寿の門はその全てに開かれていた。そしてその全ての海徳から、彼の「無量寿の門」に従って願いを発しているのだ、と、このような解釈になります。
「問うて曰く、ただこの十方の名号を聞きて執事して心に在けば、すなわち阿耨多羅三藐三菩提を退せざることを得。また余仏・余菩薩の名ましまして阿惟越致に至ることを得とやせん。」
「十方」とは、東西南北で四方、その四方の間を足して八方。それに上下を合わせて十方。私の全方位ということでしょう。「この十方の名号を聞きて」は、私の全方位の仏が名号を聞く姿を、心にとめて忘れないなら、それが阿耨多羅三藐三菩提を退かないことを得、また余仏・余菩薩が阿惟越致に至ることになるのだろうか。表現が難しいので自分なりに訳していますが、こういうことかなと思います。
「答えて曰く、阿弥陀等の仏および諸大菩薩、名を称し一心に念ずれば、また不退転を得ることかくのごとし。阿弥陀等の諸仏、また恭敬礼拝し、その名号を称すべし」
ここでは「一心」について話すことにします。この「一心」とは何ぞや、ということですね。海徳から私をして無量寿の門に従い、凡夫がこの不退転地に至らんと願う心を、こうして「一心」と言われています。この「一心」が、もし心身から発せられるのであれば、それは私一人の問題であります。しかし、心身から骨体へと徹入するとき、この「一心」は心身から外へととき放たれ、無量寿の門はその全てに開かれていることになるわけです。そのとき「一心」は、その全ての海徳から発せられているのだということでしょう。
してみれば、この「一心」とは私の心身以前のことであり、身心からとき放たれた「菩薩」の心だということになるでしょうか。この「菩薩」の心は、その人の初果を地にするとき初歓喜地の菩薩となり、その「人」の不退転地とともに阿耨多羅三藐三菩提を成らんと、十方諸仏を念ずる心です。このことを「恭敬心をもって執持して名号を称すべし」と言われているのではないでしょうか。
この「易行品」については、「信方便」が常にテーマにありました。自分なりの予測も一応ありましたが、どうも当てはまらなかったようです。こういうことはよくあるわけですが、しかしそれも聖典を読むときの醍醐味でもあります。そこで、この「易行品」を終了するにあたり、改めてこの「信方便」について少し感想を述べてみることにしました。
この「信方便の易行」とは、それは、「仏法に無量の門あり」から「乃至」で連なりながら、「もし人疾く不退転地に至らんと欲わば」へ、そして「菩薩の阿惟越致地に至ること得、阿耨多羅三藐三菩提を成らんと欲わば、当に十方諸仏を念ずべし」となり、「西方に善世界の仏を無量明と号す」が、「過去無数劫に仏まします、海徳と号す」と続いていくこの一連が、初歓喜地の菩薩とともに循環される「信方便の易行」の道であったということです。そして「問うて曰く」から始まる問答は、その菩薩の心である「一心」を顕かにし、その「一心」が心身からとき放たれたとき、菩薩の心は、全ての凡夫の「世間の道」に満ちていて、その全てに無量寿の門は開かれているのだと、そういうことではなかったかということでした。