行巻その③ 龍樹(十住毘婆沙論)Ⅱ

令和7年5月25日 永代経法要より 

(地相品)「問うて曰く、初歓喜地の菩薩、この地の中にありて「多歓喜」と名づけて、もろもろの功徳を得ることをなすがゆえに、歓喜を地とす。法を歓喜とすべし。何をもって歓喜するや。 答えて曰く、「常に諸仏および諸仏の大法を念ずれば、必定して稀有の行なり。このゆえに歓喜多し」と。かくのごとき等の歓喜の因縁のゆえに、菩薩、初地の中にありて心に歓喜多し。「諸仏を念ず」というは、然燈等の過去の諸仏・阿弥陀等の現在の諸仏・弥勒等の将来の諸仏を念ずるなり。常にかくのごときの諸仏世尊を念ずれば、現に前にましますがごとし。三界第一にして、よく勝れたる者ましまさず。このゆえに歓喜多し。」

今回のテーマは地相品です。ご覧のように引用されている地相品は問から始まります。それで、前の入初地品を受けての問だと思いますから、まず入初地品の最後のところを少し見ておきます。「この菩薩所有の余の苦は、二三渧のごとし。百千億劫に阿耨多羅三藐三菩提を得といえども、無始生死の苦においては、二三の水渧のごとし。滅すべきところの苦は大海のごとし。このゆえにこの地を名づけて「歓喜」とす。」

入初地品の最後のところですが、ここに「滅すべきところの苦は大海の水のごとし」とあります。この大海のことを前回は、これは家清浄の「この菩薩」のいのちのフィールドということではないかと言っておりました。フィールドというのは陸上競技場でいえばトラック内の競技場だそうで、走り幅跳びや高跳びなどの競技場のことだそうですね。

また学問の世界では、その学問における活動分野とか活動領域ということになります。それで「この菩薩」のフィールドといえば、「この菩薩」の活動領域ということになるかなと思います。だから、入初地品の「大海の水のごとし」の大海は「この菩薩」が活動する領域だと言っていることになります。それを大海という器に表現される。

では、この大海の水とは何か。これは凡夫の煩悩の量だと思います。この大海の水が初歓喜地の菩薩において無量のいのちとなり、その無量のいのちは諸仏の領域となる。こういうことかなと思っていますが、まずこの大海の水といわれる領域とは何かというと、過去をどこまで遡ろうとも、また未来をどこまで見渡そうとも、それは量り知ることができない時間と広大さであるということでしょうね。

この初歓喜地の菩薩において、大海の水は無量のいのちとなり現前し、その無量のいのちは、過去そして未来の諸仏が輝いている、と、こういう世界観を表現されているのではないでしょうか。

最近、年寄りになって、といっても、別に急に年寄りになったわけじゃありませんが、年を取るとフト考え込むことがありますね。普段、体力の衰えが気になるので運動もしたりするわけですよ。そんな中でも、体力が衰えなければ、ボケなければとかじぁなくて、何かこう、それでも時間は刻々と過ぎていくわけですから、そんな中に、この老ということについてフト思うわけです。その先の答えが見えない。

自分の老や死を認めたくないために、ただ先延ばしをしているに過ぎないのかなと、そんな気持ちがフトよぎるのですね。やっぱり、この年齢というのは自分を現実に戻しますね。そんなに時間は残っていないかなぁということですかね。そんな中で、何かこう、自分の命を貫いていくような仕事というか、そういう自分にも納得できるものがあれば、これはこれで救われるような気がするのですよ。

自分のいのちを貫き、そして超えていくもの、そういういのちの中に、自分のいのちもあるというのは、この老ということにおいてすごく有難いなぁと思うのですね。若いうちは老人なんて遠い先のことでした。皆さんも同じでしょうが、過ぎたらアッという間ですね。この一人のいのち、つまり煩悩の海に生きる無力な我が身が、そのまま「この菩薩」のフィールドとなり、そこに初歓喜地の菩薩の無量のいのちが展開する、そういうことかなと思う時があります。

それで、「地相品」のこの問ですが、まず初めに「初歓喜地の菩薩」とありますね。この初歓喜地の菩薩というのは、前回まで遡らなくてはなりませんが、端折って言えば、「家清浄のこの菩薩」が「かくのごとき人」の初果を地にするときに「初歓喜地の菩薩」である、と、このようになるのだろうと思っています。だから「初歓喜地の菩薩」とは、「この菩薩」と「かくのごとき人」の初果とに関係が生じていることを、「初歓喜地の菩薩」とこう表現されていると読んでいるわけです。

で、その次に「地相品」には「法を歓喜すべし」と書いてありますね。ではこの法というのは何でしょうか。ぼくには正直言って分りませんが、とにかくこれは私の意識では捉えることが出来ないものだということではないでしょうか。その法というのを、ここでは初歓喜地の菩薩は歓喜すべきであると、このように言われているのかなと思います。だから、歓喜地というのもまた、本来、法が歓喜されるべき地なのでしょうね。

でも、このように初歓喜地の菩薩は法を歓喜すべきだといわれても、そのこと自体がよく分からないわけです。だから、そのことをつべこべ言いう事は出来ませんが、それでもあえて推測したらどうなるか。それでこれはおそらく、本来この法は私の意識では捉えることはできないけれど、そこに歓喜地という地をもって、そしてその歓喜すべき法を現わす。そこに捉えることが出来ない法を直感する。仏教の言葉を使うと、法を感得する、とまあ、そういうことかなと思います。

それで話を戻しますが、この初歓喜地の菩薩のとき、この煩悩の大海に、現在・過去・未来の三界があるわけです。それは初歓喜地の菩薩が見る煩悩の大海であるから、そこには初歓喜地の菩薩が見る現在・過去・未来の諸仏の相(すがた)をも顕しているということでしょう。

そこで、ここにまた問があります。「「諸仏を念ず」というは」というところですね。そしてこの答えが「然燈等の過去の諸仏・阿弥陀等の現在の諸仏・弥勒等の将来の諸仏を念ずるなり」と、このように書かれています。しかしこれ、すごく不思議な表現ですね。

そこでまず、ここで注目すべきなのは「等」という字でしょう。この「等」の字の使い方がいったい何を指しているのか。これはもう独断と偏見で述べるしかありませんが、この「等」の字を中心にしてこの「諸仏を念ず」のところを見ていくと、次の「常にかくのごときの諸仏世尊を念ずれば、現に前にましますがごとし」と書いてありまして、どうもこの辺りにそのヒントあるような気ましますね。まずこの文には「等」の字は付いていません。以後も出てきません。

そこでまず結論から言いますと、この「等」の字は何かということですが、これは、つまりは全一人称のことだと思うわけです。全一人称なんて言葉があるか知りませんが、そういうことかなと思います。で、この「等」とは、全初歓喜地の菩薩の全一人称の主観を見たてた表現だと思いますが、この場合は「現に前にましますがごとし」と書いてありますから、主観というよりも現象といった方がいい当てた表現ではないでしょうか。

そうすると、まずこの一人称とは何かということですが、それはそれぞれの初歓喜地の菩薩が見る、それぞれの現在・過去・未来ということでしょう。だから、この「諸仏を念ず」に少し言葉を加えてみます。すると、初歓喜地の全菩薩が「「諸仏を念ず」というは」という言葉になります。

そして、そのとき三界は「然燈等の過去の諸仏・阿弥陀等の現在の諸仏・弥勒等の将来の諸仏を念ずるなり」ですから、ここにはそれぞれの初歓喜地の菩薩が見る無量のいのちに、過去・現在・未来の諸仏の相(すがた)を見るということでしょう。その中でも注目するのは「阿弥陀等の現在の諸仏」です。

この阿弥陀等の等は、そのまま阿弥陀仏が複数述べられていることになりますが、要は、それぞれの初歓喜地の菩薩の阿弥陀仏ですから、つまりは初歓喜地の菩薩の分の阿弥陀仏です。そしてここに言われている現在の諸仏こそ、初歓喜地の菩薩の見る阿弥陀仏の浄土であり、その浄土の相(すがた)である諸仏の世界だということでしょうか。

初歓喜地の菩薩のとき、過去に浄土の諸仏を見る。これが然燈等の諸仏である。然燈等ですから、それぞれの諸仏がしっかりと輝いている。そして将来には、それぞれの弥勒がこの然燈等の諸仏を担ている。このような現在・過去・未来の諸仏を、初歓喜地の菩薩はそれぞれに念ずるのだということではないでしょうか。

だから、初歓喜地の菩薩の分だけの阿弥陀仏となるわけで、初歓喜地の全菩薩は、無量のいのちにおいて、その何処においても、過去・現在・未来の諸仏の相を見るということになり、このように「「諸仏を念ず」というは」のような、不思議な表現になっているのだと解釈しております。

「問うて曰く、凡夫人の未だ無上道心を発せざるあり。あるいは発心する者あり、未だ歓喜地を得ざらん。この人、諸仏および諸仏の大法を念ぜんと、必定の菩薩および稀有の行を念じて、また歓喜せん、と。初地を得ん菩薩の歓喜と、この人と、何の差別あるや。答えて曰く、菩薩初地を得ば、その心歓喜多し。諸仏無量の徳、我また定んで当に得べし。初地を得ん必定の菩薩は、諸仏を念ずるに無量の功徳有す。我当に必ずかくのごとき事を得べし。何をもってのゆえに。我すでにこの初地を得、必定の中に入れり。余はこの心あることなけん。このゆえに初地の菩薩、多くの歓喜を生ず。」

「地相品」の二番目の問と答えです。

この問いに「この人」とありますが、「この人」とはいったい誰のことでしょうか。前回の「入初地品」では「ある人」のことでした。今回は「この人」の問題です。

それで、この問いでは、「この人」と初地を得ん菩薩の歓喜の違いは何かということになっています。それでまず、「この人」の前にある「未だ無上道心を発(おこ)せざるあり」のところですが、それをここでは凡夫人だと言われています。そして次に「あるいは発心する者(ひと)あり」ですね。この「発心する者あり」が「この人」のことだと思います。そしてその「この人」は、「未だ歓喜地を得ざらん」という「この人」のことですね。

そうすると「この人」とは誰かいえば、無上道心を発心しているが、未だ歓喜地を得ていない「この人」ですね。そして「この人」は「諸仏および諸仏の大法を念ぜんと、必定の菩薩および稀有の行を念じて、また歓喜せん、と。」願う「この人」のことです。そこでまず、「凡夫人」と「この人」の違いは何かとうことがありますね。そして「この人」と「初地を得ん菩薩の歓喜」の違いは何かということです。

家清浄の「この菩薩」が「かくのごとき人」の初果を地にしたとき、初歓喜地の菩薩といい、その地を歓喜地という。このことをここでは「初地を得ん菩薩の歓喜」と簡潔に述べられていることになりますが、そうすると、「この人」とは、未だ歓喜地を得ないが、諸仏および諸仏の大法をすでに知っているということになりまして、そしてまた必定の菩薩や稀有の行を念じて、歓喜を得ようと願う「この人」です。

その「この人」と「初地を得ん菩薩の歓喜」に何の差別があるかというのがここの問だと思います。そして答えが「菩薩初地を得ば、その心歓喜多し」です。

ここでおさらいですが、家清浄の「この菩薩」が「かくのごとき人」の初果を地にするとき、初歓喜地の菩薩といい、そしてそれは多歓喜であるということでしたね。そして何故この地が多歓喜であるかといえば、菩薩のいのちは無量であり、その無量のいのちには諸仏を念ずる歓喜と功徳があるということでした。

ここにある初果を前回では菩薩ではないと言っていましたが、菩薩の十位にはないということだと思います。もっと下位にあります。要するに菩薩としては未熟だということですが。しかし何故未熟だとするのでしょうか。これはおそらくですが、初果ということが基になっていて、そこに菩薩が登場する。つまり菩薩はこの初果に常に立っていて、その初果を未熟として、より完成度の高いものへと行ずる人のことを菩薩と、このように言われるのではないかと思うわけです。まぁ、ぼくがそう思っているだけですから、これも独断と偏見です。

するとつまり、「この人」というのは、初果に立っていて、そして必定の菩薩および稀有の行を念じて歓喜を得んとする「この人」のことになります。しかし、もしこういう事なら、これは考えようによっては、「この人」とは仏教でいう菩薩のことですから、その必定の菩薩や稀有の行を念ずとは、これはそのまま菩薩が歩む仏道のことでしょう。

話は変わりますけど、この初果ということですが、仏教ではそう名付けているわけですね。でもこれは仏教に限ったものではなくて、本来は人間の深い部分をいい当てたものだと思うのですよ。

最近はずっと原典読みに明け暮れていますが、聖典も含めて行間を読むことに始終しています。ここにいったい何が表現されているのか、じっと目を凝らしてその行間を眺めるわけです。悪戦苦闘のすえ、何か知らんが少しずつそこに文字が浮かんでくる。この試行錯誤の連続です。それでこの初果ということも、おそらく行間に散りばめられているだろうと探すわけですが、なかなか読み取れないのが実情です。

しかし、その初果を端的に現したところがあります。『観経』の「光台現国」のところです。『観経疏』ではここのところを「まさしく世尊、夫人の広く浄土を求むることをもって、如来すなわち眉間の光をを放ちて十方の国を照らし、光をもって国を摂し、頂上に還来して化して金台となる、須弥山の如(ごと)し。如の言は似たり、須弥山に似たり、この山腰は細く上は闊(ひろ)し。所有仏国並びに中において現ず。種々不同にして荘厳異あり。仏の神力のゆえに了々分明なり。韋提に加備して、ことごとくみな見ることを得しむることを明かす。」と、善導大師は言われています。

「須弥山の如(ごと)し」のところですが、「如の言は似たり、須弥山に似たり、この山腰は細く上は闊(ひろ)し」と書いてありますね。深い意味は分かりませんが、光台現国の須弥山の表現が何となく中途半端でしょう。「如来すなわち眉間の光を放ちて十方の国を照らし、光をもって国を摂し、頂上に還来して化して金台となる、須弥山の如(ごと)し」のこの須弥山の如(ごと)しが、すごく中途半端だと思いませんか。

お釈迦様が眉間から光を放たれて、韋提希に諸仏の国土を現わされたところですね。ここのところを善導大師は『観経疏』にこのように書いておられます。それでまず初果というのを、どこでそう思うのかというと、まず「仏の神力のゆえに了々分明なり」のところです。韋提希自らが見たとは言わずに、如来が「加備して、ことごとくみな見ることを得しむる」と書いてあります。そして「ことごとくみな見ることを得しむる」ですね。

この、ことごとくみな見るというのは、ときどき出てきますね。覩見という言葉もこの意味になると思いますが、『無量寿経』では、法蔵菩薩が世自在王仏のみ前で諸仏の国を覩見したとあります。韋提希の場合は「須弥山のごとし」です。この如しを「如の言は似たり、須弥山の似たり」ですから、それは須弥山とちょっと違うぞということでしょう。この本物じゃないぞという感覚は何か分かりませんが、ここに初果ということを見るのかなと思っています。

西洋哲学などでは、このように行間を読むようなことは、おそらく無いと思いますが、その代わりに論理がすごくて、これでもかというぐらいに言葉を構築する。だから行間を読む難解さはないにしろ、論理そのものが難解である。どちらがどうだということではありませんが、そういう苦労話もありますよと言いたかったわけです。

それで、初果というのが、人間の深い部分を言い当てたものだとすると、それは仏教に限ったものではなくて、西洋哲学などでも深く関わっているのだと考えられるわけです。このブログでもそのことを少し述べたものがあります。また、現代の科学の領域では、量子力学の分野で、龍樹(ナーガル・ジュナ)その人が注目されています。論理物理学者カルロ・ロヴェッリは、彼の著書「世界は関係でできている」の中に、龍樹(ナーガル・ジュナ)を次のように言っています。

「西洋哲学のかなにも、これと似た方法をおずおずと目指す直観がないわけではない。しかしナーガル・ジュナの視点は徹底している。ありきたりな日常の存在を否定せず、むしろ逆に、複雑なそれらをまるごと、さまざまな階層や側面も含めて考えに入れる。日常的な存在を研究することも、探求することも、分析することも、より基本的な項に帰することも可能だ。しかし、とナーガル・ジュナは主張する。究極の基層を探すことに意味はない。ナーガル・ジュナと、たとえば現代の構造的実在論との違いは明白だ。現在流通している自著に「すべての構造は空である」と題する短い章を付け加えるナーガル・ジュナの姿を、簡単に思いうかべることができる。構造は、ほかのものを組織化しようと考えたときに限って存在する。ナーガル・ジュナに倣っていえば、構造は対象に先立つのではなく、対象に先立たないわけでもない。先立ちかつ先立たないわけでもなく、最後に、どちらでもないわけではない。

(中略)

ナーガル・ジュナのおかげで、関係抜きでは語れない量子について考察するための圧倒的な概念装置が手に入った今、わたしたちは、自立的な本質という要素が存在しない相互依存を考えることができる。じつは、互いに依存しているからには ― ここがナーガル・ジュナの主張の鍵なのだが ― 自立的な本質のことはいっさい忘れなければならないのだ。」

で、また話を戻します。「この人」と「かくのごとき人」に違いですが、「この人」は、つまりは菩薩を行ずる人ですね。これに対して「かくのごとき人」は、家清浄の「この菩薩」が「かくのごとき人」の初果を地にするとき、つまり初歓喜地の菩薩のとき、「この菩薩」と「かくのごとき人」の関係にある「かくのごとき人」の方です。

お分かりのように、「この人」のことを説明した菩薩と、家清浄の「この菩薩」との使い方が違いますね。家清浄の「この菩薩」のことはいずれ分かってくるのかなと思いますがまだ分かりませんので、このまま「この菩薩」という名にしています。それで、ここに二つの事柄があることになります。一つは「この人」の菩薩の行ずる道です。もう一つは「この菩薩」が「かくのごとき人」の初果を地にするときの初歓喜地の菩薩です。

それでまず、「この人」と初地を得ん菩薩の歓喜に何の差別があるのかということですね。その答えが「菩薩初地を得ば、その心歓喜多し」ですから、つまりは「この人」はまだ初地を得ていないということです。

最後にここまでの感想を少し述べようと思いますが、この初歓喜地の菩薩は初果において二面性があるということでした。初果を地にした「この菩薩」と「かくのごとき人」の関係が初歓喜地の菩薩を生みながらも、「この菩薩」と「かくのごとき人」の関係はそのままである。これを自己流に表現すれば、まず初歓喜地の菩薩は、仏の方で家清浄の「この菩薩」であり、凡夫の方で「かくのごとき人」である。この仏の方と凡夫の方が、初果において表裏一体でありながら交わらない。このような関係ではないかと思っているわけです。そして、凡夫の方で「かくのごとき人」は大海の水のごとき煩悩の海となり、仏の方で、家清浄の「この菩薩」は、無量のいのちに三界の諸仏を現前する。未消化のままですがこのようになるのだろうかと思います。

行巻その② 龍樹(十住毘婆沙論)Ⅰ

令和7年3月20日 春彼岸会より

「しかれば、「南無」の言は帰命なり。「帰」の言は、至なり。、また帰説(よりたのむ)なり、設の字、税の音(こえ)、また帰設(よりかかる)なり、説の字は、税の音(こえ)、悦税二つの音は告ぐるなり、述なり、人の意(こころ)を宣述(のぶ)るなり。「命」の言は、業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計(はからう)なり、召(めす)なり。ここをもって、「帰命」は本願召喚の勅命なり。「発願回向」と言うは、如来はすでに発願して、衆生の行を回施したまうの心なり。「即是其行」と言うは、すなわち選択本願これなり。「必得往生」と言うは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。『経』(大経)には「即得」と言えり、『釈』(易行品)には「必定」と云えり。「即」の言は、願力を聞くに由って、報土の真因決定する時剋の極促を光闡せるなり。「必」の言は、審(あきらか)なり。然(しからしむ)なり、分極なり、金剛心成就の貌(かおばせ)なり。」

これは、教行信証の行巻途中にある御自釈です。予定としてはまだ先になります。でも、ここまでを一つの区切りにしているので、無事にたどり着くかどうか分かりませんが、とにかくこの御自釈を目指して読んでいくことになります。

それでまず、この御自釈の感想を少しだけ述べてみたいと思いますが、まず、南無阿弥陀仏の「南無」は音写ですから、意味は「帰命」ということである。その「帰命」を、「帰」と「命」とに分けてあります。もうすでにこの辺りからよく分からない訳ですね。それでこれをもっと立体的に出来ないものかと考えていまして、この文から少しだけ抜き出して、視野を広げてみたいと思います。

「「帰」の言は、至なり。また帰説(よりたのむ)なり、説の字、悦の音、また帰説(よりかかる)なり、説の字は、税の音、悦税二つの音は告ぐるなり、述なり、人の意を宣述(のぶ)るなり。」

この文には、まず「「帰」の言は、至なり。」と書かれています。そして「帰」は帰説(よりたのむ)であり、説の字は悦の音(こえ)で、帰説(よりかかる)ということであり、これらは人の意(こころ)をしっかりと述べたものである、と、まあ、これでいいのでしょうか。

そこで、まずこの「至」が、その意(こころ)よりも深く、それこそ何か根本的なものを指しているとするなら、帰説の帰は、その根本(よりたのむ)のだということになるでしょうか。そして帰説の説は悦であり、(よりかかる)ということである、と、このようになるかなと思います。

「帰」をこのように言われていることになりますが、しかし普通に考えてみても、この帰命の帰も命も称えるこちらの問題でありますから、それ以上に何かあるのかということですね。しかし、ここでは帰はまず至であると言われます。すると、この至は何かということから考えなければならない訳です。

それで、この「至」を、さきほど私の存在よりも深く、それこそ何か根本的なものではないかと言いました。するとこの「帰説(きえつ)の帰」は、称える私の意よりも深く、何かその根本に至るところ(よりたのむ)ということになり、「帰説(きさい)の説」は、悦であり、その根本に(よりかかる)ことへの表現だということになるでしょうか。

このように読んでいくと、まず帰は至であるということ。そして、それは私たちが普通に考えているよりも何か深い意義があるということですね。そしてこの帰は帰説であり、よりたのむと、よりかかるの二つのことを言われている。

しかし、この「至」を、私の存在よりもっと深く、何か根本的なものだと言いましたが、それが何なのかも分からない訳ですし、またそれでいいのかどうかも定かではないのですね。だからこの時点では「至」とは何か分からないままですが、とにかくこのことを念頭におきながら読んで行かなければなりません。

今回から、この御自釈へ向かって歩きだすことになりますが、親鸞聖人はここに七高僧から龍樹菩薩、天親菩薩、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師の五人の高僧を挙げておられます。だからこれらを通らなければたどり着けないのですね。出発ぐらいは元気に行きたいものですが、はたして無事にたどり着くかどうか。とにかく始めたいと思います。

それでは今回から龍樹菩薩を見ていきます。龍樹菩薩は西暦二世紀から三世紀に活躍された方です。詳細はよく分かっていないと言われています。それでも八宗の祖であり、日本仏教のすべての宗派の祖だとも言われます。多くの論書が残されていながらも、龍樹菩薩ご自身のものか不明なものも多とのことです。その中で今回の「十住毗婆論」は龍樹本人の論だと言われているものです。

聖人はこの「十住毘婆沙論」から四ヵ所を引かれておられまして、それが「入初地品」「地相品」「浄地品」「易行品」です。この四品をもって聖人は何を言われよとされるのか、そのお心は何かということです。

それではまず「入初地品」から始めます。「この菩薩、この諸法をもって家とするがゆえに、過咎あることなけん。世間道を転じて出世上道に入るものなり。「世間道」をすなわち「凡夫所行の道」と名づく。転じて「休息(くそく)」と名づく。凡夫道は究竟して涅槃に至ることあたわず、常に生死(まよい)に往来す。これを「凡夫道」と名づく。「世間道」は、この道に因って三界を出ずることを得るがゆえに、「出世間道」と名づく。「上」は、妙なるがゆえに、名づけて「上」とす。「入」は、正しく道を行ずるがゆえに、名づけて「入」とす。この心をもって初地に入るを「歓喜地」と名づく、と。」

文のはじめに「この菩薩、この諸法をもって家とするがゆえに」とありますね。この「家」は「家清浄」のことです。この文の前に書いてあります。

「「入初地品」に曰く、ある人の言わく、「般舟三昧および大悲を諸法の家と名づく、この二法よりもろもろの如来を生ず。」この中の般舟三昧を父とす、また大悲を母とす。(中略) 家に過咎なければ家清浄なり。 (中略) 般舟三昧・大悲・諸忍・この諸法清浄にして過(とが)あることなし。かるがゆえに「家清浄」と名づく。」

この続きが「この菩薩、この諸法をもって家とするがゆえに、過咎あることなけれん。世間道を転じて出世上道にいる・・」になります。

この「家清浄」ですが、これについては後程考えることにしまして、まずは「この菩薩、この諸法をもって家とするがゆえに、過咎あることなけん。世間道を転じて出世上道に入るものなり。「世間道」をすなわち「凡夫所行の道」と名づく。転じて「休息」と名づく。」のところから考えてみましょう。

そこでまず、この「家清浄」の菩薩が世間道を転じて出世上道に入る。そのとき「世間道」は「凡夫所行の道」に転じられる。それを「休息」と名づく、と、このように読んでいきます。

この菩薩、世間道を転じて出世上道に入るですから、まずは世間道がここにあることになります。一般論でもかまいませんが、何処の誰々の世間道だということの方が分かりやすくなるでしょか。それで、その誰かの世間道が転じられるということ。では、どのように転じられるかといえば、出世上道に入るということだ。

「凡夫道は究竟して涅槃に至ることあたわず、常に生死(まよい)に往来する。」要約すれば、凡夫道はつまるところ涅槃には至ることはない。何故ならまよいから出られないからである。これが「世間道」ですね。これに対して「出世上道」に入るとは、この「世間道」が「凡夫所行の道」に転じられるということであり、そしてこれを「休息」とも言う。

それでは、この菩薩とはどのような菩薩か。世間道を転じて出世上道に入る菩薩である。そのとき「世間道」は「凡夫所行の道」となり、これを「休息」とも言う。この菩薩が出世上道に入ることに因って「世間道」は生死(まよい)を出ることを得る、だから「出世間道」と名づける。

自己流の解釈ですが、おおよそ、こういうことかなと考えています。そして、この心をもって初地に入るを「歓喜地」と名づくですね。だからここまでの内容は初めからずっと「家清浄」の菩薩が書かれていることになります。そしてまた同時に「休息」は単に休むということではなくて、凡夫所行の道を見出すということであり、それを「休息」と言われている。そして休息には時間の短さを表現されているような気がする。この時間の短さはあえて付け足しています。

簡単にまとめると、「家清浄」の菩薩、「世間道」を転じて「出世上道」に入る。そのとき「世間道」は「凡夫所行の道」となり、この心をもって初地に入るを歓喜地という。

それで、次は問になっています。「初地、何がゆえぞ名づけて「歓喜」とするや、答えて曰く、初果の究竟して涅槃に至ことを得るがごとし。菩薩この地を得れば、心常に歓喜多し、自然に諸仏如来の種を増長することを得。このゆえに、かくのごとき人を「賢善者」と名づくることを得」。これが「歓喜」の答えです。

それでまず、ここは初地がなぜ歓喜なのかという問いですね。答えは「初果の究竟して涅槃に至ることを得るがごとし」です。すると、「菩薩この地を得れば」ですから、まず、この菩薩は「家清浄」の菩薩のことですね。この菩薩がこの地を得れば、初果はきわめて優れ涅槃に至を得るがごとしである。「ごとし」とは「何々のようだ」ということでしょう。涅槃に至るとは書いてないのですよ。面白いですね、しかしこれどういうことでしょうか。

そしてまた、後の文では「初果を得るがごとし」と書いてあります。しかしここは、「初果の究竟して」ですから、初果のことです。そして次が初果を得るがごとしです。では、初めも初果のごとしかといえば、初果と書いてあります。不思議な文ですね。

そこでまず、この文言の間にあるのが「心常に歓喜多し。自然に諸仏如来の種を増長することを得」になりますが、ここはごとしではありません。

つまり初めは初果であり、次が諸仏如来の種の増長です。しかしその次は「初果を得るがごとし」となっているようですね。つまり初果はこの諸仏如来の種の増長と何か関わっていて、その増長とは何かといえば「初果の究竟して涅槃に至ことを得るがごとし」である。この増長は、その度ごとに「諸仏如来の種を増長することを得」である。ただ、この増長は、時間の延長に観た場合と、断片的であり、なおその度に増長しているという場合があると思うのですよ。

断片的とは、結果としたら増長していることになるが、それは断片的であるということ。つまり不連続の連続であるということになるでしょか。そうしたら、まず初果であり、その次もまた初果である。そのそれぞれの初果に「心常に歓喜多し、自然に諸仏如来の種を増長することを得」ということである。その時は「心常に歓喜多し、諸仏如来の種の増長することを得」のである、と、このようになるかもしれません。

では、この後の「初果を得るがごとし」は何でしょうか。まず初果は断片的であり、時間の短さであるということなら、この「初果の究竟して涅槃に至を得るがごとし」の時と、次のその時に間があります。この間こそがその人の「世間道」であり「凡夫所行の道」だということではないでしょうか。だからこれは初果というよりも凡夫所行の道でありますから、この道は初果を得るがごとき道であるということでしょう。

そこで、「入初地品」の初めですが、「ある人の言わく」とありました。次が「家清浄」の菩薩です。そしてこの菩薩、「世間道」を転じて「出世上道」に入るですね。この心をもって初地に入るを「歓喜地」と名づく、です。そして、菩薩この地を得れば、かくのごとき人を「賢善者」と名づく、と、こういうことになっています。

で、この心をもって初地に入るを「歓喜地」と名づくですから、この心の主語は、「家清浄」の菩薩でしょう。すると普通なら初地の菩薩、世間道を転じて出世上道に入る、そのとき世間道は転じられて出世間道の地を得る。これが初地の菩薩の心である。この菩薩の地を歓喜地と名づく。このような言い方が出来るかも知れませんね。しかしこれ、これまでの全体を見たら変わってきます。

まず、初果というのは難しくて説明が出来ませんが、次の初地を何故歓喜と名づけるのかというところです。この答えが「初果の究竟して涅槃に至ことを得るがごとし」ですので、この場合、初果の究竟して涅槃に至るとは、いったい何を指しているのかということすね。

仏教では、初果はまだ未熟であり菩薩の位ではありません。この初果が究竟して涅槃に至ることを得るがごとしですから、つまりは、初果でありながらも、それはきわめて優れていて、涅槃に至ることを得るがごとしだと書いてあることになります。

ここに少し言葉を付け加えてみます。すると、この菩薩、この地を得れば(かくのごとき人)、心常に歓喜多し、(その歓喜は)自然に諸仏如来の種を増長す、と、まず、このように読みます。すると、この地とはかくのごとき人の初果です。菩薩がかくのごとき人の初果に地を得ればとなりますから、菩薩が得る地はかくのごとき人の初果ですね。そのときかくのごとき人、心常に歓喜多しとなるでしょう。

しかし、ここでは菩薩この地を得ればとなっていますので、菩薩の心常に歓喜多しですね。そして、かくのごとき人の方は菩薩ではなくて「賢善者と名づく」です。

そこで、ここまでを簡単にまてめると、まず初めが、「ある人の言わく」です。そして「家清浄」の菩薩、その次が「かくのごとき人」ですね。それで「ある人」と「かくのごとき人」にそれぞれ固有名詞を入れてみます。教巻の沿っていくと、この「ある人」はお釈迦様、つまり釈尊のことになります。だから「ある人の言わく」は「釈尊の言わく」です。

釈尊はこう言われた。「家清浄」の菩薩が、かくのごとき人の初果を地にするとき、この菩薩とかくのごとき人は「心常に歓喜多し、自然に諸仏如来の種を増長することを得」。このときの、かくのごとき人を賢善者と名づく。こういうふうに読んで行くと、この「かくのごとき人」とは阿難尊者になります。教巻は釈尊と阿難の出遇いです。

「釈尊はこう言われた。阿難よ、汝は未熟である。しかしこの菩薩が汝の初果を地にしたとき、初果は究竟して涅槃に至ることを得るがごとくである。と、そのとき、この菩薩と阿難は心常に歓喜多くして、自然に諸仏如来の種を増長することを得た」と、まあ、このようになるのではないかと思いますが、どんなものでしょうか。

次に、この初地を得己(おわる)を「「如来の家に生る」と名づく」と、このように書かれています。この己(おわる)ですが、これはどういうことでしょうか。これはおそらくいのちが終わるのでしょうね。つまり一生を終えたとき、この菩薩もまた初地を得己(おわる)のですね。しかし、これまで観てきたのは、このようないのちの終わりではなかったと思います。それは断片的な連続の増長でありました。だからこの得己とは、その一つひとつの断片が己(おわる)のことであり、その一つひとつにおいて、この菩薩とかくのごとき人は初地を得己(おわり)「如来の家に生る」と解するべきではないでしょうか。しかしまた、「凡夫所行の道」においては、その人の一生のいのちが終わるときに「如来の家に生る」ことを成就するということも含まれているわけです。

そこでこの「入初地品」の終わりのところに興味深いことが書いてありまして、「この菩薩所有の余の苦は、二三の水渧のごとし。百千億劫に阿耨多羅三藐三菩提を得といえども、無始生死の苦においては、二三の水渧のごとし。滅すべきところの苦は大海の水のごとし。このゆえにこの地を名づけて「歓喜」とす。」これをどう読めばいいのですかね。

この前文にそのヒントがあります。「一毛をもって百分となして、一分の毛をもって大海の水を分かち取るがごときは、二三渧の苦すでに滅せんがごとし。大海の水は余の未だ滅せざる者のごとし。二三渧のごとき心、大きに歓喜せん。」

この一毛をもって百分となすは何か。百分を百回としたら、一毛の百回分、一生かけて百回、大海の水を取ったとしても、それはほんの少しだけであり、大海の水は未だ滅することがないこのと同じである。この二三渧ような心、大きに歓喜せん。

これに対して、この菩薩です。この菩薩はかくのごとき人と同じ場所にいながらも、また、菩薩のフィールドがある。このフィールドこそ無始生死の苦であり、たとえ菩薩が百千億劫に阿耨多羅三藐三菩提を得といえども、菩薩の滅すべき苦は大海の水のようなものである。「このゆえにこの地を名づけて「歓喜」とす。」

意味内容を詳しく述べることは出来ませんが、文脈とすればこのように読めるかもしれませんね。で、この文脈を見たら、まず一人のいのち、そして菩薩のいのち、この二つが言われていることになります。するとまず、一人の生身の人間がいるでしょう。その人は生身の人間でありながら、同時に菩薩のいのちも生きていることになります。そしてこの大海の水のごとき苦は、菩薩にとってそのまま歓喜多きいのちの量である。

だから、この大海の水のごとき苦とは、おそらく凡夫の量でしょう。煩悩に苦しむ凡夫の量、つまり過去現在未来の全ての凡夫の量であり、凡夫の煩悩の量ではないかと思ったりします。この凡夫の煩悩の量は、そのままが菩薩の歓喜である。このようになるのではないでしょうか。これで「入初地品」を終わります。