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二つの向こう岸

平成17年3月 彼岸会より

  お彼岸と言いますとまず思いつくのはご先祖さんが帰ってくる日です。お盆や正月もそうです。正月の方はもともとは村の氏神のお祭りだったそうです。産土神(うぶすながみ)と言って、村の小さな共同体の祭りであり、先祖神のお祭りだったと言って良いのでしょう。この正月の行事が全国に広がり、現在のように全国の神社仏閣に初詣をするようになったのは江戸時代からだと聞いています。

  大晦日の夜を除夜と言いますが、この除夜から元旦にかけて寝てはいけないと言われてきたそうです。理由は古くから正子(夜の12時)を過ぎると、村の鎮守に参詣して実り豊かな新年を祈願する習わしがあり、五穀豊穣を祈ったわけです。五穀とは米・麦・栗・豆・黍(きび)の事を言うそうですが、この五穀は当時は生活の基盤ですから、五穀豊穣は村の死活問題でありました。

  これが江戸時代になると、村の小さな共同体の枠から飛び出して、一般庶民が様々な寺や神社にこぞって初詣へ行くようになりました。そしてこの初詣が広がるとともに無病息災などの祈願が加わったと言われます。初詣が盛んになるにつれそれ以外にいろんな祈願が混ざり、次第に祈願の内容よりも、とにかく初詣をすると何か良いことがあるかもしれないと、本来の意味から初詣そのものが目的になり、新しい年を迎える新鮮さを感じ取るようになったと言わる方もおられます。いわばレジャー感覚に変わったということでしょう。

  しかし、レジャーと言えば響きが良くありませんが、その当時の初詣は時代のトレンドであったわけですから、娯楽感覚だったということも言えるのではないでしょうか。これは江戸時代の時代状況が安定してきたことでありますから、以前よりも生活全体に少し余裕が出たことでもあります。現在の正月の初詣にそういう江戸のパワーを観ることは出来ないようですが、少なくとも江戸時代の民衆パワーはそれまでの村の氏神のお祭りを、初詣という全国規模の一大行事にまで変えていったことになります。最近「心の豊かさ」という言葉が使われていますが、その江戸当時として見る「豊かさ」には何か次のものに繋げていくというような、そしてできればより良きものへと繋げようとしたパワーを内に秘めたものではなかったかと思う時があります。

  それではお彼岸はといいますと、この彼岸とは仏教の言葉です。向こう岸という事ですが、向こうの世界であり、覚りの世界です。この向こう岸に対してこちらを此岸といいます。娑婆(しゃば)世界とも言います。娑婆とは煩悩や苦しみが多い世界の事。そして同時にお釈迦様がお救いくださる教化の世界と言われます。言い換えれば、私たちの煩悩や苦しみを目当てにしてお釈迦様が救いとる世界。それを娑婆世界というふうに言っております。

  実はこのお彼岸が一般的な習慣として現れるのも江戸時代だと言われます。お彼岸は家族でお墓参りをしてご先祖様を敬う日です。江戸時代から始まり現在もしっかりと続いております。文化という言葉は、私たちは日常ではほとんど使いません。普段の生活が文化だと思って生活してますか。この文化という意味を辞書で調べてみると「社会を構成する人々によって習得、共有、伝達される行動様式の総体、世代を通じて伝承されていくもの」と書いてあります。そういう堅苦しく考えて生活しているわけじゃありませんから自覚はないけども、日本人の文化であることも事実です。だからお正月の初詣も、お彼岸のお墓参りも、江戸時代という時代安定期に始まり現在まで脈々と続く、日本人の立派な文化であると言えます。

  しかし、考えるとこの正月と彼岸会は少し違います。お彼岸には正月のようないろんな祈願が混ざっていない。亡くなった人や先祖を敬い、故人に出会い、思い起こす、こういう事が中心の行事です。私たちは楽しい時ばかりでお墓参りはしないでしょう。そういう面では自分が生きて行くということと関係させながらお参りをされています。今は亡き親や夫、妻、子供、近しい方々、そういう人達との関係を思いながらのお参りです。そういう人生の重さや人との繋がりを考える。こういう命のつながりを亡き人においても感じていくことは日本人として尊いことだと思っています。そしてまた、こういう私にとっての向こう岸への思いが、より私を超えたいのちの深さ、尊さ、広さという仏の世界に出会う場所にまでなれば、本当の意味での仏教を背景にした日本人の文化になったのだとも思います。

  仏教と言いますとインドが発祥の地です。現在のインドは仏教徒の人口は少ないそうです。大半がヒンズー教です。このヒンズーとは大雑把な地域の名称だそうで、西洋人がインダス川の向こう側に住んでいる人々をヒンズーと呼んだと言われています。インドに生れ住んでいる人の総称でしょう。そこには仏教徒もなくイスラム教徒もない。キリスト教もありません。そういう特定の宗教に属さない人々を称してヒンズーと呼んでいるそうです。だからヒンズー教とは永いインドの歴史に培われた生活様式や社会習慣全体ということで、開祖が誰という事なく経典もない。昔から受け継がれ言い続けられたインドにおける「インドのこころ」のことをヒンズー教と呼ばれているそうです。バーラト・マータ(母なるインド)寺院というヒンズー教の寺院の本尊は、大理石で造られたインド全土の立体地図だそうです。言うなればインド民族の総称を宗教とするものでしょうか。

  ガンジス川の沐浴はご存じだと思いますが、沐浴においてべナレス(バナーラス)という地は死ぬまでに一度は訪れたい聖地だそうで、毎年の沐浴者は百万人にのぼると言われます。この聖地の水で沐浴すれば今までの罪が清められる。またこのベナレスで死んで火葬された遺灰をガンジス川に流せば、苦しみの輪廻の世界から解脱すると信じられているそうです。ある日本人の記者が臨終を前にした親子を取材させてもらったそうですが、その取材の返答は誇らしげだったと書いています。親の天寿を全うさせるために10時間かけて家族一同でベナレスまで連れてきたのです。家族で天国に送り出すことが最上の親孝行であり誇りだそうです。

  このベナレスの沐浴が最も神聖だと言われる所以は、この地がガンジス川で唯一川の流れが南から北に向いている処だからだそうで、イメージとすれば天に上る場所なのでしょう。そして沐浴はガンジス川の西側だと決まっています。そして火葬は修行僧、妊婦、5歳以下の子供は出来ない。だから水葬にされるそうです。また、火葬はお金がかかるので費用がない人も出てきます。そういった人も水葬だそうです。それらの遺体は2~3日すると向こう岸に流れ着きます。だから向こう岸に住んでいる野良犬はよく太っているそうです。

  ここに天に上る向こう岸とガンジス川の向こう岸があります。近年の日本においては「死ねば死に切り」「死んだら終わり」というような言葉がありますが、そこに見えるのは命の切り捨てのような気がします。以前ある先生が、お父さんの葬式について、火葬での思いにこういうことを書かれています。

  亡くなられたお父さんの遺骨は脆く頼りなげだった。その時に「要するに、こういう事だな」そんなセリフが頭にあふれていた。「しかしそのうち、次第に白骨の方が大変確かな存在として迫ってくるのを感じました。周囲に集まっている生者の方が、なんとも頼りなげなのです。」そこに白骨の姿を事実として受け止められない、うろたえる自分の姿に気づいたそうです。そうすると「ここから、この俺の白骨から、もう一度、お前のしてることを眺めなおしてみろ」とお父さんの声を聴いた思いがした。「そしてその声とともに、それまで一大事のごとく思っていた多くが、小さなものに思えてきた。」と言われています。

  私はこの先生の「要するに、こういうことだな」という言葉が、先ほどのガンジス川の向こう岸の情景と重なりました。それこそ命の切り捨てであります。そしてこの向こう岸から見たベナレスの沐浴は人生の最高の場所としてにぎわっています。その数百メートル離れた岸では野良犬が餌を探している。この二つの情景が重ならない。そして私たちの観る景色は、この向こう岸の野良犬の餌になった死体だけを観てしまっているのではないだろうかという思いです。しかしもう一度ベナレスの沐浴に思いを戻すと、また違う景色が浮かび上がります。それは修行僧、妊婦、5歳以下の幼児は火葬できないという事。中夭(ちゅうよう)と言いまして、中倒れ、辞書では「人生の途中で死ぬこと、思いがけない災難」とあります。修行僧はまだ僧になれない身です。妊婦は母になり切れない。五歳以下の幼児はインドでは人になり切らないということでしょうか。こういう中夭は火葬しない。つまりベナレスで臨終を迎え火葬されて遺灰をガンジス川に流すことは、苦しみの輪廻の世界から解脱することです。ですから、それは大いなるいのちに還ることです。つまり中夭はまだ還れません。だから出直してきなさいという事ですね。そういう思いが脳裏をかすめます。人生の区切り方が単純で分かりやすい。そう思って向こう岸を眺めれば、この沐浴の情景と野良犬の景色の両岸が次第に重なってきます。

  ずいぶん前になりますが、教育テレビの「宗教の時間」で仏像の彫り師が出演されました。その時の言葉を一つだけ覚えていますが、「仏像を眺めていると、この作者はここのところを苦労したなと会話ができる。」こんな感じの言葉です。仏像の彫り師だからできる彫り師同士の出会いと会話でしょう。こういう出会い方があるのだなと思いましたが、親鸞聖人も法然上人と本願の中で出会われた。そして法然上人において出会われた本願において、また様々な人とも出会われていきます。こういういのちの連続性を具体的な人間のつながりの中で見て行かれたのだろうとも思います。こういういのちのつながりがなければ「死ねば死に切り」だけで、それこそガンジス川の向こう岸の情景が、ただ不気味なものに見えるだけではないだろうか。

  親鸞聖人の教えとともにそこにある歴史観を私たちは学んでいくのですが、そこに何が見えるのかと言うならば、親鸞その人ということでしょう。親鸞その人としての歩みであります。「信不具足」といいまして「道あるを信じて、すべて得道の人あることを信ぜず」と、こういうお言葉があります。そこに道があることにうなずけても、その道を歩いている人と出会えなければ観念にすぎない。そこに具体的に生きた人間に出会っていくこと。そういう出会いの歴史観でありますが、親鸞聖人は法然上人はもちろんのこと、その出会いをインド、中国、そして日本の高僧とも出会って行かれた。その出会う場所が本願であります。この本願において親鸞聖人がどういう出会いをされたのか、これが私たち真宗門徒である者の最大の関心ごとではないかとも思っています。私たちの向こう岸は、この本願においての出会いであり、そしてそこを歩んだ人との出会い、そういう信心と伝承にあるのではないかと思っている次第です。

  

  

  

  

  

コロナに負けるな「不安」編

 2010年 その他の原稿から 

  気がついたら老人でした。気持ちは違いますが、年齢はすでに老人です。証拠もあります。よく老後の人生を考えています。老人になって老後を考えるのは手遅れ気味ではありますが、だいたいがそういうものではないでしょうか。後どのくらい生きるのだろうか。いい人生設計はあるか、できればいい人生でありたい、生きがいがある老後でありたい、などなど・・。

  新型コロナウイルスはこの定まっていない老後の人生設計に、新たな課題を、それも強引に付け加えました。それはいかに生き延びるかです。死に方ばかりが気になる老人に、いかに生き延びるかという意義をいやおうなしに押し付けてきたのでした。でも考えてみれば、昔々の人々はこのいかに生き延びるかは最初から生きる前提条件だったはずでした。そんなこんなでまだ老人になる少し前に書いた原稿を見つけだしてみました。もし老人自粛でお暇でしたら読んでいただければ幸いです。若い方も歓迎です。

  「不安」という不気味さ。面白い表現です。この不気味さは「居心地の悪さ」という意味でもあるそうです。「脅かし」という不気味さ。これについては様々な対応が考えられますが、こちらの力量が足りませんので一つひとつ取り上げて説明することが出来ません。ただ、人間が辿ってきた歴史は、この周囲からの「脅かし」を心配して、どのような対応が営まれてきたのかその結果でもある、ということは言えないだろうか。国家、民族、文化をそこに描くことが出来そうな気もします。人間の心の動きはそれぞれが違うものだと思われそうですが、こういう観点から観たら特定な方向性が見えてくる。これをハイデガーは気遣いという言葉で表現してます。そして私たちが普通に気遣うのと同質であるともいうのです。

  「不気味さ」を背景にして心が動いているのなら、どのような動きとして働くのか考えると思いつくものがあります。それは「集める」ということです。お化け屋敷に何人かで入ると、気づいたらみんなが密になっていた。ギャー、ワーと叫びながら同じ場所で密になる。誰が集めたわけじゃないのに集まる。それは怖さや「不気味さ」が集めるのです。人間関係もこういう「不気味さ」に対する心の動きによって私を動かす。そう考えると身近なものになります。そして私たちの生活現場である様々な関係においてもこの「不気味さ」がいつも顔を出している。こういったことを考えながら生活する人はあまりいないと思いますが、それでも普段とは違った風景がそこに現れることでもあります。皆さんがいろんなところで気遣う背景には、こういう「不気味さ」を背負っておられる。

  そういえば背後霊なども、こういう感覚を昔の人が何処かで感じていたからかもしれませんよ。外では蝉も泣き出したようですから、サービスで涼しくしました。で、ハイデガーはこの気遣いをとおして人間の心の動きやそこに現れる現象を分析した人です。

  「居心地の悪さ」は何処からくるのか。それはその場に対する不気味さであるという事になりますが、だからといってその場所が不気味で居心地が悪いということじゃありません。何故なら気遣いは居心地を良くしようと動くのですから、それではこの「居心地の悪さ」は居心地が良くなる前の状況になります。しかしそういう状況の前後を言っているのではありません。私がそこを居心地良くしようと気遣う時に常に同席するもの。同席と言えば誰か他に居るみたいですが、そうではない。気遣いがある時にいつも同席するということで、隣にいつも何かあるということですね。妖怪ウォッチみたいになってしまいますが、気にせず先に進みます。

  パソコンで原稿を書くのですが、文章の入れ替えも簡単ですし、誤字の訂正もしてくれます。領域設定して文章ごと入れ替えることも簡単です。で、この領域設定をここでいう気遣いに当てはめてみることにしました。そうすると気遣いは何かの目的があるから気遣うのでしょう。だから気遣いはその人の目的に応じてその都度に領域設定がされ、それにともなうその人の目的を持った気遣い方になるのですが、こういう意図的な気遣いもそうですが、とっさの雰囲気での気遣いも同じだという事になります。その時に同席するものです。何か得体の知れないものがあるという訳です。これを「不安」という言葉で表して、それは「居心地の悪さ」だというのです。しかしそれにしても、この「不気味さ」というのは何だろうか。ハイデガーは、それは無だと言います。私が何かを気遣う時に無もそこにあると言うのです。

  そして気遣いは何かを目的にする時にあるもの。その気遣っているところの視点でありますから、言うなればそれを気遣おうとする主体です。これを現存在というのだと思っております。そうなりますと、その領域設定されるところのものは、現存在から領域設定された世界ですから現存在における世界内存在だということです。ハイデガーの現存在・世界内存在をこういうふうに考えていきます。

  現存在が無とともにあるという事ならば、無という足場のない場所が常に世界内存在の場所でもある。これを感覚的に表現されたときに、何か全体に得体の知れない「不気味さ」があるということになるのでしょう。ただ困ったことに、こういう「不気味さ」における対処法がないということです。私の意識がある時は常に現存在とその世界内存在なのですから。

  晩年にハイデガーはこの「不安」を「呼び求める促し」と説明しています。ぼくはまだ晩年だとは思っていませんので、横着にこれを単に「呼び戻し」と言っていますが、ではいったい何処から呼び戻されるのか、それは本来から呼び戻されるということです。それでは何処にその本来があるのか。しかしそれはただ漠然とした無の空き地状態があるだけなのです。

  この世界内存在から現存在は出ることは出来ませんが、しかし、ある特異な場所を設定することで一時的に出ることがあるのです。それはある場所へ「ずれる」ということですが、では何処へずれるのかと言えば無へずれるのですね。移行するとも言います。実際にこういう世界内存在や気遣いの世界がどういうものか知るには外から全体的を観ることが必要ですが、気遣っている自分そのものを観ることですから、現存在である限り観ることは出来ません。だから視点に何かのずれが生じないかぎりこの気遣いとしての現存在と世界内存在の関係全体を見ることは出来ないのです。それで、この現存在と世界内存在の関係自体を観るためにこのずれることを述べています。それをハイデガーは世界内存在が事物的存在に移行すると言っています。つまりここで言えば事物的存在にずれるということになります。

  「不安」というものは自分の存在に対するゆらぎなのでしょう。足場が抜け落ちるような不確かな状態です。だから確かなものへと呼び戻されるのです。しかしながら、その確かなものが何処にあるというのでしょうか。何処を探しても無いのです。ハイデガーはこの「気遣い」を頽落と言って、良い言葉では使っていません。何故でしょうか。この気遣いというのが「世人に没する」という言葉で示されているからですが、この気遣いは自分を表現するものであるにも関わらず、常に偽装されているというのです。装っているといえば分かりやすいでしょうか。もともと気遣いはその「不安」に対するものを背景にしていますから、いくら気遣う内容が変わっても「不安」に対する心の動き方としては同じなのですね。だから気遣う相手の対応は、心の動きを元にすると、現存在がその存在者(私)を通してその世界内存在に対する動きですから、その世界内存在におけるものは気遣うための道具としての存在になるのです。本質が不安に対するものですから、世界内存在は常にそのための道具の世界なのです。だから世界内存在の気遣いは本質のための二次的なものなので、そういう観点からすれば世界内存在の気遣いは常に偽装されていて、そしてこの見せかけからは離れられない。

  それではこの「不気味さ」から逃避するにはどうすればいいのか。いろんな人のその人なりの建設的な捉え方があるかもしれませんが、この不気味さから逃避することは出来ません。そして良いも悪いも全て現存在と世界内存在の出来事なのです。こういう感覚で捉えられると何もかもが偽装の五十歩百歩なのですね。気遣いをこの不気味さに対する態度だとすればそういう言い方になります。それでこれを頽落という言葉で表現します。

  次に「共現存在」という言葉が登場します。これは少し説明をつけ加えると分かります。その人の世界内存在は無機質ではないのですから、当然いろんな人がその世界内存在に関わっています。だからその場は幾重もの世界内存在になっているわけです。それぞれの世界内存在がそれぞれの人の現存在としての世界内存在なのです。  

  それでは、この世界内存在は何によっての世界内存在なのか。それは私の過去の経験がその世界内存在の内容なのです。言い換えれば、私の過去の経験がその世界内存在の内容を見せているのだから、この現存在が観る世界内存在は過去の経験が投影されたものだと言うのです。その世界内存在に現存在が可能性を見つけて、その世界内存在に自らを没入させるという言い方になります。可能性は当然未来を見つめたものですが、実際は何処に向かって可能性に没入するかと言えば、もちろん世界内存在ですから、私の過去の経験が投影されたものへと投げかけられたものであるのです。つまり過去に向かって未来に没入するという形になります。論理的に言えばすごく不自然でしょう。私たちは何かにつれよく行き詰まったりしますが、こういう不自然さに立っているのなら、何事もスムーズに進んでいかないことの方が当たり前な気がします。

  考えてみると、いろんな壁を乗り越えたり、壁から引返したり(これを挫折というのでしょうか)しながら年取っていくわけです。自分なりに歩こうとすればそれなりの壁が有ります。こういう普通に私たちが経験することを、現存在と世界内存在に吟味してみると、私の意識よりも先にすでに何か命の生成というものがあって、その生成する姿を元にすれば、すでに私の意識下において特定の動き方が備わっていたということだろうと思います。それを現存在と気遣いの仕方で表現したのでしょう。生きるという事をこういう観点から見つめるのです。

  さて「不安」に戻ります。「不安」は私たちには微妙な感覚ですが、それは「居心地の悪さ」であり足場の無いところからの呼び戻しである。こういうことは、おそらく、日常的には漠然としていて捉えどころがないでしょう。だから私たちがこの日常と思っている何気ない時間が崩れ落ちて、非日常的なものに出くわした時、この「不安」が一気に湧き上がってくる。この非日常な時こそ死だというのです。

  死をこういう観点で捉えるのはよく分かるのですね。しかしここでいう処の死は具体的に現前する死を前提にするのですが、よく考えると死ぬちょっと前の状態です。といっても死にかけて意識が朦朧とした状況ではありません。はっきりした意識でこの死の崖っぷちに立っている状態です。ハイデガーはこういう死のシチュエーションを強調します。つまり世界内存在は私の過去の経験が内容だから、死んだ経験がない私にとって没入しようがないのです。たしかに近しい人の死に接することはあります。しかしたとえ身近な人が亡くなってもそれはあくまでも外の経験であり、自らの経験にはなりえない。こういう世界内存在が成立できない死のがけっぷち状態をもって、日常が崩れ落ちる場所として究極であるとする。その場所こそが、気遣いそのものを浮き上がらせ頽落の全体像が現れてくるというのでしょう。これが「無」へずれるという事の説明ですが、ハイデガーの世界内存在が事物的存在に移行するといのはこういうことを言うのでしょう。

  このあたりの個所を『存在と時間』から引用してみましょう。(第69節世界内存在の時間性と、世界の超越の問題)

「(おのれの外へ抜け出している脱自)の統一は、おのれの「現」として実存する或る存在者が存在しうることのための可能性の条件なのである。現にそこに開示されている現存在という名称を担っている存在者は、明るくされている。現存在がこのように明るくされていることを構成している光は、この存在者が時おり出来(しゅったい)して照射する明るさの、存在的に事物的に存在する力や源泉ではない。現存在というこの存在者を本質上明るくするもの、言い換えれば、この存在者をそれ自身にとって「開いた」ものにするとともに「明るい」ものにもするものは、すべての「時間的な」学的解釈に先立って、気遣いとして規定されていた。この気遣いのうちに現に完全な開示性がもとづいている。こうした明るくされていることが、すべての照明や開明を、また、何ものかを承認し、「見てとり」、所有したりするあらゆるはたらきを、はじめて可能にするのである。この明るくされていることの光をわれわれが了解するのは、われわれが、植えこまれている、事物的に存在しているなんらかの力を探し求めずに、むしろ、現存在の全体的な存在機構である気遣いを問題にして、この気遣いの実存論的な可能性の統一的根拠いかんを問い求めるときだけである。脱自的な時間性が現を根拠的に明るくする。」

  この難解な文章を、こうして申し訳ないぐらいかいつまんでいますが、この「脱自」が無にずれた状態です。そして「頽落の全体が現れてくる」がこの引用文の全体になります。特徴的なのはこの「明るくされている」ということですが、説明では「照射されるような明るさや、物質的な明るさの根源ではない」という事です。この(無にずれた)脱自は何かを統一しているのですが、それは私を含めた現存在が世界内存在で頽落する姿そのものであり、また共現存在のそれぞれの世界内存在が幾重にも重なる世界そのものなのでしょう。この頽落の全体が開示されて、そのことで明るくされているということになります。そしてこの気遣いそのものが私をして動く心のあり様ですから、この時間性は私よりももっと以前から続いている時間ですが、その時間性がこの「現」というある特定の場所において一時的に収まっているというのでしょう。ハイデガーはこの小タイトルにあるように、この現存在と世界内存在の開示における時間性を世界の超越の問題に繋げようとしたのです。

  

宝樹観

平成26年3月  彼岸会より

  観経疏の定善観第四の宝樹観です。宝の樹ということですが、まずこの樹は一本の木ではありません。イメージすれば林や森の類になると思っております。森に入って森を観ずということもありますが、皆さんも樹といいますかそこら辺りにもありますので木といったり樹というものはご覧になるわけですが、ここで言われる宝樹というのはそういうものではありません。阿弥陀仏の浄土の特徴を樹というものに例えてある。その宝樹を観想することで浄土を知らしめようとされる個所です。

  浄土を樹木として感想するのかということですが、皆さんが思われる樹木はどんなイメージをお持ちでしょうか。大きな寺や神社にはご神木がありますね。寺はご神木という訳にはいきませんが、境内に大きな木があるお寺さんもあります。パワースポットなどと言って触ったりする人も多いでしょう。また小学校の校庭にも木が立っていた。自分が大きくなるので思い出の木や校庭が意外に狭く思えることも経験します。

  自分はずっと心に残っているものがあります。いろいろと樹は観ましたが、その中でも結構印象的だったのでしょう。比叡山の根本中堂を下りまして、そこからどういうふうに行ったのか覚えていませんが、もっと下ります。おそらく阿弥陀堂だろうと思います。とにかく山の中へと歩いていくと、その山道の脇に大きな樹木が現れてきました。その木々の大きさがずっと印象に残っています。比叡山という事で親鸞聖人もそこでご修行されたのだなという感覚もありました。京都におりました頃は比叡山はそれほど遠いものではなかったので、こういう処にこんな樹々がと、人の出入りがない山中にそびえ立つ様子を観たものですから、宗教的な感覚とその意外性が混ざり合い印象深くなったのだろうと思っています。校庭の懐かしい樹もあるし、そういう何か得体の知れない場所で出会う樹木もあるのでしょう。

  この樹を観るというのは、その樹の歴史を観るようなものがあると思うのですね。では花はどうだろうか。花の歴史を観る人はあまりいないでしょう。ああこの花はここで何代も咲き続けたのかと感慨深く思ったりはあまりしない。可憐に咲く花に感情移入して慰めらる人はおられるでしょうが、樹への感情移入とは少し違うでしょう。樹に対しての感情移入はやはりその樹にまつわる時間性ではないでしょうか。その樹の歴史を映し鏡にして、何かの時間性といいますか、たとえば自分の生きてきた時間とその樹の時間とがタイアップしていくような感覚のようなものです。

  この宝樹といいますのは仏様の樹ということですが、仏様のいのちをそして仏様の国をこの宝樹として感ぜよというのが宝樹観であります。特徴としては樹を観る時にその樹を観る私をも映しているということです。つまりその樹を観ずることにおいて私の姿も観ているのだということを気づかされて行く。そういうことを込められています。花をよく育てられる方は、花は裏切らないとよく言わる。すればちゃんとそれに花が応えようとする。花が好きな人からよくこういう事を聞きます。そこにも花を観ながら自分の生活や生き方が映し出されている。

  壽命という言葉がありますが、この壽はおめでたい時に使いますが、いのちという意味です。壽命というといのちいのちという意味になります。で、この壽と命との違いはといいますと、まず命は私のいのちです。いつまで生きるか分からんいのち。いつかお別れしなければならないいのちです。限られたいのちである。命が限られたいのちなら壽は限られていないいのち。つまりあり続けるいのちということになりますでしょうか。この壽と樹の問題。洒落みたいですがこの壽がここでいう樹であります。

  この壽なるいのちですが、なかなか捉えようがない。しかしこの壽をいのちと言いそして壽を樹として感じろというのは、何となくでもうなずけるのではないでしょうか。昔からずっと流れているようなもの、続いているようなもの。そういうのを何処か思うことはないですか。最近は聞きませんが昔は大和魂と言われたのでしょうね。こういう魂という言葉にある時間的な感覚は私個人の魂というものではなくて、日本人として流れている、民族が歩いて来た時間性といいますか、そういうもを言うのかもしれません。これをもっと身近に言えばご先祖様もそうです。血筋というのもあります。国の歴史もあるし地域の歴史もある。

  では、仏教でいうところの壽とはどのようなものか。この宝樹観にあります樹を観るということは、先ほどいいましたが、観るこちらの方への映し鏡が説かれています。仏教の特徴だと思っているのですが、この「観」るという字がある。また「見」るもあります。観るという場合は観る側と観ているものとの距離があるときに使われる。それに対して見るは距離がない状態です。距離がないのにどうして見るというのかという疑問が当然出てきますね。目を寄せてひんがらにしても対象との距離はあります。でもこの見るは距離がない状態を見る場合なのです。

  樹を観る場合は、大和魂でもご先祖様でもいい。そういう私と共にあるのでですがまだ距離があるもの。感じるけど一つという事ではない。やはり壽であるが壽命の壽でしょう。二つ並んでるのですね。しかしこれが見るになるとそこには距離はないのですから、いったいどうなっているのでしょうか。月を観るというのはお月さんを観ていることでしょう。じゃあお月さんを見るという場合はどうでしょうか。お月さんが自分の心にどう映っているかではないでしょうか。対象とされたお月さんではなくて、自分の心にそのお月さんがどのように映りそれをどう感じているか。そこには具体的な距離はないでしょう。お月さんと私との距離は無くなっています。

  仏教はそういう癖があるのではないかと思うわけです。常に自分というものとの関係を外さない。花を見て、その花が自分にどう話しかけているか。心に捉えた花と会話をしているのだとしたら、それも心に映る花との関係でしょう。樹にしてもですね、そこに樹の時間性を見るなら、それは見ている私の心にその樹の時間を感じているのでしょう。

  良寛に「なにものが苦しきことと 問うならば ひとをへだつる心と答えよ」という歌があります。ひとを隔てる心とは、私とあなた。いつも「と」がある。その「と」にはいろんなものが含まれています。あれがいいぞ。これがだめ。妬み、そしり、高慢。こういうものが「と」にいっぱい詰まってますね。こういう良い悪いで生きる心を仏教では分別心といいます。これはかなり手ごわいんです。植木等さんがすーだら節で歌ってました。わかっちゃいるけどやめられない。ああまたこういう心で過ごしてしまったと反省することもあれば、そんな反省じゃあ止まらない憤懣やむことなしの時もある。こういう怒る、謗る、愚痴る心の根にあるものが分別心だというわけです。だからその分別心を取り除いて素直に物事を見れたら充実した日々が送れるだろうなと思いますね。そういう立派な人になれたらこしたことはないですね。

  ところが、そういう自分の失態を見て、ああ自分はダメな人間だなあと思うのも分別心です。分別心は良い悪いの心ですから、良いほうも分別心なのですね。悪い方を除いても良い方の分別心があります。自己満足などもこちらの類でしょうか。オレはこうまでしてきたぞという自負心もそうだという事です。これら総じてもって分別心といいます。つまり私の心そのものです。これは分からないでしょう。自分で自分の心そのものは見えないです。

  この分別心と阿弥陀仏の本国とを対比して説かれたのが宝樹観ですが、この宝樹観で説かれるところの樹のいのちが、こちらのどのような心との関りの中にあるべきかを説かれてあるのです。まず結論を申しあげますと、宝というのは無分別ということでしょう。宝樹は宝(無分別)樹だから、無分別/樹で宝樹ですね。分別心のない心において初めて阿弥陀仏の本国である浄土が映るということです。この無分別と樹の関係を観ぜよというのが宝樹観になります。樹だけなら何となくでも分かるが、こうなるとかなり難しい。そして弥陀の浄土はこの宝樹観で次第に立体感をもって説かれていきます。

  その弥陀の本国を表されている最初のあり様を樹といい、そして壽といういのちの時間性、いのちの歴史として現わされております。しかし時間性といいましても阿弥陀仏の本国の時間ですから、私たちが持っております時間的な感覚でとらえるようなのもではなくて、私たちの思慮分別を超えたものであるということです。阿弥陀仏の本国である浄土においてはこの思慮分別を超えた時間性を量という字で現わされています。分別心のない心だけが量としての弥陀の本国を映すのですから、この宝樹観に説かれる内容は難しいし深いといいますか、そういう内容になっております。そしてまたこの分別心がないということと弥陀の本国のいのちのあり様の関係が説かれながら、同時に分別心と無分別の関係も説かれる。無分別にける宝樹の関係および分別心と無分別の関係、双方の関係と両方を宝樹観で現わされる。複雑ではありますが宝樹観はこういう浄土の取扱書的な役割をもったものではないでしょうか。

  ところで私たちの分別心はある面分かりやすいでのすが、また奥も深いのでしょう。自分の心が深いとは思いませんが、大きく言えば日本国という歴史や世界の歴史もそれぞれの人たちがそれぞれの時間の中で試行錯誤されたのだから、それは裏を返せば分別心が繰り返された出来事でしょう。そして私たち一人ひとりもまた限られた時間で分別心に生きる者です。しかし分別心がなければ無分別もないのです。無分別だけがぽつんとあるわけではない。弥陀の浄土が無分別と樹の関係なら、分別心も弥陀本国で言われるところの樹の時間性や深さとともにあるのですね。だから分別心を中心にして言うならば、限られた時間に生きる私の人生はその歴史を背負っていまこうして生きているのだという事でもあるでしょう。これを衆生としての歴史と言っていいのか分かりませんが、個人的にはそういうふうに考えております。

  ところで宝樹観の初めに七重行樹という言葉がありますが、それぞれの樹には根、茎、枝、小枝、葉、華、菓(このみ)の七層の輝きがあると書かれています。行樹はそれぞれが乱雑なく整然としている状態です。分別心を負として捉えらるしかない衆生の歴史は、この宝樹観においては七重行樹の輝きを観るとも言われています。

  

  

  

  

宝池観

平成26年9月 彼岸会より   

  前回の宝樹観は浄土を感ずるところでしたが、宝池観はその奥へと入る過程を述べています。つまり阿弥陀仏の浄土に入ったところです。お釈迦様は韋提希に十方国土の諸仏の浄土をお見せになりましたが、韋提希はその諸仏の浄土を自らが望む浄土ではないとして、阿弥陀仏の浄土に生まれることを望んだのでした。宝池観はその阿弥陀仏の浄土にまさしく入るところになります。韋提希が諸仏の浄土ではなくて阿弥陀仏の浄土を選び望んだ理由を、善導大師はお釈迦様があえて韋提希に選ばせるためであると言われているようです。親鸞聖人もまた「釈迦韋提をして安養(阿弥陀仏の浄土)を選ばしめたまへり」と書かれてありますから、善導大師と同じ意味になるのではないでしょうか。

  しかし、よく比較すると若干の違いがある。善導大師はお釈迦様が韋提希に選ばせたのだといわれるのに対して、親鸞聖人はお釈迦様のお導きによって韋提希自らが選んだといわれる。つまり親鸞聖人の場合は韋提希の主体を見ておられるわけです。これは教行信証に「斉(ひさ)しく苦悩の群萌(ぐんもう)を救済し」と書かれていますが、この群萌というのは萌え出るところのものですから、苦悩にあえぎながら萌え出でようとする衆生をいうのでしょう。自らの願いで阿弥陀仏の浄土を願った韋提希の姿を通してその群萌を見ている。そういう違いがうかがえると思います。これは今日申し上げる内容ではありませんから、後の課題にさせていだきます。

  で、宝樹観は阿弥陀仏の浄土を観察するにおいて樹木を観ぜよいわれます。この樹木は壽木であり、阿弥陀仏の壽(いのち)木です。つまり私の命を超えた阿弥陀仏のいのちの時間です。そしてその奥に今回の宝池観があります。宝樹観ではそれぞれの樹木の枝は空中で重なり合いまるで天蓋のようであると記されます。そして宝池観ではその樹木の下に八の功徳の池がある。八功徳水といわれる池です。この功徳の水がそれぞれの樹木に流れいり、天蓋まで遍満する世界を宝池観に表現されます。そしてその八功徳水が木々に遍満する水のせせらぎは、浄土全体を覆いつくすかのように仏法の徳を行き渡らせている。つまり八功徳水が行きわたって一切の仏法の功徳ではないものはない。そういう世界として言われます。混じりっけのない功徳そのものの世界を表現されている。

  幻想的な世界でありますが、宝池観の内容をいうならばこのような表現になるかと思います。こういう八功徳水の世界観は阿弥陀経にも説かれています。阿弥陀経にはこの八功徳水は阿弥陀仏の浄土の一部として説かれていますので、浄土の全部をとらえたものではないのでしょう。観経においてもその次が宝楼観でありますから、まだ途中であるということです。玄関に立ったところが宝樹観なら、玄関から奥に入る過程を宝池観ということになるではないでしょうか。

  阿弥陀経には「一心不乱」という言葉が出てきますが、これは阿弥陀仏の浄土にどうしたら行けるかということにおいて、一心不乱に念仏せよと説かれるところです。舎利弗は知恵第一の弟子だと言われた人ですが、その舎利弗に一心不乱に念仏せよといわれるのはどういう事だろうか。次にその意味が書かれています。「一心に乱れざればその人(舎利弗)命終のときに臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と現じてその前にましまさん」この命が終わるときですから死ぬときです。仏教ではよくこういう臨終という言葉を聞きますが、ではこの臨終は死んだ後なのか、死ぬ寸前なのか。こだわるとこういう死の前後も考えなければなりません。医者からご臨終です言われるのは亡くなられたということですが、まだ死後という訳ではないでしょう。お通夜の時に親族にご臨終されまして残念なことでしたとは言わない。お亡くなりになってお寂しいことでしょうが正しい言葉です。何を言いたいのかというと、臨終は死の前後ではなくて死ぬ時の刹那的なものですね。まさしく死に臨むその状況を臨終というのではないでしょうか。阿弥陀経の「命終のときに臨みて」も同じ意味でしょう。その命終のときに臨みて阿弥陀仏がもろもろの聖衆とともに現れると説かれている。聖衆は浄土の住人だと思いますが、その聖衆を連れて阿弥陀仏が現れる。この一心不乱の念仏を知恵第一舎利弗に説かれるのです。

  これは阿弥陀仏の浄土がまじりっけがない徳そのものの世界であり、どんなに舎利弗が知恵第一であろうとも、その知恵を浄土は一切受け付けない。阿弥陀仏の浄土には人間の知恵はないのだということでして、人間の知恵では浄土の門は開かないのです。それを教えるのがこの一心不乱に念仏するという事だろうと思うのですね。この一心不乱ということは簡単なようでありますが、そういう事でもない。オレは今一心不乱だと思えばすでに一心不乱ではないわけです。たとえ少し前に一心不乱になったとしてもですね、すでにその一瞬は過ぎたものです。あ、今一心不乱になったかもしれないじゃ一心不乱じゃないでしょう。これは無心といわれたり無我の境地と言われるものですからそう簡単ではない。つまり無我の境地で念仏せよということでしょう。そうすればその念仏が浄土の門を開いていくのだということではないでしょうか。

  宝樹観もこの無我のまなこで観ぜよと言われます。また宝池観においても無我の境地で八功徳水を観ぜよと言われる。矛盾しているといえば矛盾しています。観察するまなこが無いのですから観察しようがないですね。そういう状態の臨終であります。こういう刹那的な臨終と広大な阿弥陀仏の浄土が重なっている。次の宝楼観も同じです。宝樹観から宝楼観までの宝はこの無我を表しています。無分別とも言いますが、この無分別による浄土の樹木であり池である、そして浄土の家と住人の宝楼観に進むのです。

  この宝池観の初めに「極楽荘厳安養国」と書かれています。ここからが阿弥陀仏の浄土であるということです。浄土の玄関から奥に入るところであるという事でもあります。そして宝池観の最後には「だたちに闇を破し昏を除くのみにあらず、到ところに能く仏事を施す」とあります。阿弥陀の浄土は闇を破ると書かれているのですが、舎利弗ほど知恵があるとは思わないでも人間の知恵によりながら生きている生活が私たちの姿です。しかし一度阿弥陀仏の浄土に入ればその生きる姿そのものが照らし出されるのでしょう。そしてその姿がどのようなものかというならば、人間の知恵の中でしか生きられない姿そのものです。闇で暗いから見えないのではない。自分の姿そのものが見えないという闇ですね。照らされることで初めて見えるその姿は、闇でしか生きられない姿であるということでしょう。そして「到ところに能く仏事を施す」は、そういう気づきの世界がこれから始まるのだという意味ではないでしょうか。こういう仏事のちえを智慧とかいて、普段使うところの私たちの知恵と区別します。

  

  

  

  

時の変化に立って

令和2年6月 永代経法要から

  新型コロナウイルスの影響で中止になってから最初の法要になります。よろしくお願いします。まずは歎異抄を少しお話してみたいと思います。お手元の経本にも現代語訳が載っています。この歎異抄は真宗の教義というよりも親鸞語録のようなものでして、親鸞聖人の言葉の響きを聴くことも大事な書ではないかと思っています。歎異抄は明治から大正、昭和、そして戦中戦後をとおして読まれてきたと聞いております。ではまず第一条を読んでみましょうか。

「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもいたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心をようとすとしるべし。そのゆゑは、罪業深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるほどの悪なきゆゑにと云々」

  この歎異抄は作家の司馬遼太郎さんも戦地に持っていかれたそうです。同じように戦地に持っていかれた方々もおられるのでしょうね。そういうことを考えるとこの第一条の最後の文ですが「他の善も要にあらず、念仏にまさるほどの悪なきゆゑに」とあります言葉に、すべては念仏にまかせて生きろ、と感じた人もいたかもしれないですね。こういう究極な場面で読まれる歎異抄があったのではないかということですが、しかしさっき申し上げた明治からずっと読まれてきた歎異抄の意義というのは、それとはまた違う角度からのものっだたのではかったか。今日はそういったところからの話になろうかと思いますのでよろしくお願いいたします。

  まずこの歎異抄の信心という言葉ですが、ここには「ただ信心を要とすとしるべし」と書かれてあります。普通、信じる時は何かを信じるわけですから、信じる対象があります。対象も何もないのにですね、漠然とただ信心だというだけでは宗教という点では少し腑に落ちないわけです。でも親鸞聖人が使われる信は一概に私たちが思うところの信というものでもなくて、違った意味でこの信の字をあてられているとも思うのです。そしてまたこの歎異抄の後序には「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」と書かれていますが、この「一人」という言葉を個人とも言いかえることが出来るでしょう。明治における文化人や知識人は西洋化して行く日本の対応をこの歎異抄の「一人」に見ようとしたのじゃないかという気がするのですね。

  明治の文豪であります夏目漱石の『草枕』に有名な書き出しがあります。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世はすみにくい。」漱石の生きた時代は西洋から個人主義が津波のように押し寄せてくると思われたそうです。漱石もこれから来る西洋化の波にどのように対応ができるか思いに駆られたのではないでしょうか。

  そういう思いでこの書出しを見て、自分なりに解釈してみることにしました。まず、漱石がこの『草枕』に書いた「人の世は」とは一般的な社会といったものではなくて、もっと身近なところで言う世間という事でしょうから、この「人の世」を向こう三軒両隣とも言っています。すごく狭い範囲ですね。漱石はヨーロッパに住んだことがありますから、この世間というものがよく見えたはずです。その西洋という外からの目を持って世間を見た時に思わずにはおれない様々なことがあったでしょう。

  そういう思いで解釈してみると「だけどもそれをその世間においてああだこうだと言い出してみても角が立つ。だからといって、周りに合わせてしまうと自分という個人的なものが消えて流されそうだ。しかし、また自分にこだわってしまえば周りからあんたは違うと言われてしまい閉じこまざるを得なくなる。とかくに人の世はすみにくい。」こういう解釈でいいか分かりませんが、世間というものを中心にすえたらこういう解釈も出来ないではない。

  ご存じのように明治における西洋化はキリスト教を背景にしています。別に詳しいわけではありませんが、キリスト教では神との契約においてそれぞれが一人ですから、夫婦や家族であっても神に対してはそれぞれの個人が対象になります。クリスチャンの友人がいまして、昔彼の結婚式に行ったときに牧師さんがそう言われていたのを思い出しますが、神と私個人との関係があり、その上で夫婦・家族をはじめ社会そして国家がある。こういう個人と社会・国家のバックボーンをキリスト教が支えている。やがて日本に押し寄せ来る西洋化の津波はそういう個人主義の波である。その時に日本人としてあるべき個とは何か。明治のころの知識人にはこういう危機感や国家観についてのテーマみたいのものがあったのでしょう。明治において歎異抄がもてはやされたわけもこういうところにあったのではないかと思うのです。

  例えば、自分が死ぬ時に「神を信じなさい。そうすればあなたは救われますよ」とキリスト教で言われたとするでしょう。その時に「信じられないオレはどうなるのだ」と返答をするようなものでして、こういう問題を取り上げた人は当時わりといたと思いますよ。吉本隆明が『信の構造』で「親鸞は早くから人間の無意識の構造に眼を注いだようだ」と言っています。神の存在を信じて、その神に対する信仰心を信心というのではなくて、無意識という意識の深層に信心の通路を見出し、そこに歎異抄の信をとらえようとした。そういった信のとらえ方が明治から昭和にかけて文化人や知識人に共通するものだったのではなかろうかと思います。そして平成においてもまだ歎異抄を通して親鸞ブームは続いていくわけです。親鸞とタイトルのついた書籍は常に売れ筋のものでもありました。しかしですね、フト気がつけばそれがどうも書店から無くなりつつある。そんな気がするのですが、何か潮目が変わろうとしているのだろうか。それとも自分だけの思い違いでしょうか。

  それでは、漱石が悩んだ向こう三軒両隣はどうなったでしょうか。江戸時代にはすでにあったであろう向こう三軒両隣ですが、これは戦後に公民館活動や隣組として行政が復活させます。そして戦後日本の地域づくりの礎になったといっても過言ではない。自分より年配の方はまさにそこを生きて行かれた方々でしょう。ぼくはまだ幼くて町内公民館で幻燈会をしたり、海水浴に行ったりした事ぐらいしか憶えていませんが、この日本における世間が戦後の地域復興を支えていったことは事実だろうと思います。

  この前、葬祭場でそこの人と話したのですが、「何故忌中の張り紙をしないのか」と。そうしたら防犯だそうです。情報漏洩。あそこに死人が出たと教えることになる。なるほど確かに周りに教えるわけですね。だから防犯だそうです。ホントですかね。最近は家族葬が多くなりましたが大阪からだそうです。この辺りは大阪から流行りだすそうですよ。

  で、これは持論なのですが、以前は地域での葬式はそこそこで少し違っていました。葬式に地域の風習が混ざっていたのでしょうね。こういう地域色のある葬式は次第になくなり全国的に画一化して行きますが、これは葬祭場での葬式が普及するのと同時期だと思います。そして現在は自宅葬はありません。

  ご存じのように隣組のお世話はご婦人方のお世話です。お母さんたちのお仕事でした。だいたいですね、裏方で炊事や何やらをしてると、いろいろとその辺の世間話に困らないじゃないですか。「あそこの誰だれはこうだそうよ。あらまあ、」世間話に花が咲くでしょう。そういう世間話をしながら裏方でとして葬式に関わります。表では坊さんたちがお経をあげている。寺の品評会も話題の一つでしょう。そういう表も裏も見ながらがやがやと見送るわけです。騒がしいと言えばそれまでですが、どこか映画のワンシーンにも出るような光景ですよね。

  先ほどは近代の日本において、世間と個人主義はどうあるべきか、と、歎異抄の信心に注目して、その真相を手繰り寄せようとした歴史があると言いましたが、そのもう一方ではそんなこととは関係なく、明治・大正・昭和と暮らしてきたそれぞれの小さな世間というものがった。それは文化人や知識人が探し求めた信心というものではないが、今度は自分の番だからあんたよろしく頼んどくよと言える、バトンタッチのような連続性であり、その連続に安心感すら持てた時代があったのではないだろうか。そして明治から大正と続く隣組は戦後新たな形で復興に一役を担って行きますが、この小さないのちの連続性もその中でかろうじて昭和・平成と保たれていったのではないだろうかというのが持論になります。

   しかし今はもう隣組はないでしょう。向こう三軒両隣の地域は家族だけに単位が変わりはじめ、近所に誰が亡くなったのかも分からなくなってきた。周りに知らせないから何やらこそこそと葬式するようにも見えてしまう。でもね、本来人間の死はもっとおおらかだったはずです。遺跡が発掘されるときはたいてい祭祀や葬式の後じゃないですか。極端に言ってしまえば葬式をしながら人類は歩いて来たんでしょう。日本も弔いながら国が出来たのです。今現在進行中の事ですから何やらぼやけて見えずらいかもしれませんが、歴史の芯がどこかほどけかけているのじゃないかとも思うのですね。

  僕はこの歎異抄を改めて見た時に、先ほど言いましたような明治から平成までこの信心について歩んできた時間を、今度は「ただ念仏して」という中で見ていくことが大事なのではないかと思っています。

第二条の「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるたねにやはんべらん。また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じて存知せざるなり。・・・」

  今回のような新型コロナウイルスの影響においてもそうですが、こういう先の見えない理不尽さに「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」という親鸞聖人の言葉が響いてくる気がします。戦地で称えた念仏が、何故オレがこんな目にと、運命の理不尽さをかき消す念仏だったのなら、今日の念仏はこの何やらぼやっとした不安のなかで、本来の自分に戻れるような、一点の安息場所として「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」という、親鸞聖人の響きを聴いていく時ではないかと思っています。

  

 

  

 

 

  

ブログに関するご質問

「教巻への一考察」についての感想

「教巻への一考察」をブログに載せてしばらくが経った。書いた直後はあまり見たくないのでそのままにしておいた。読み返すと(いつものことだが)表現の至らなさと内容の乏しさを痛感する。いまさらではあるが、少しばかりこの「教巻への一考察」についての経緯を述べてみようと思う。まず、この「大」と「無量寿」の関係を、それもやや無理やりであったが、ア・プリオリの概念と結び付けた。これは証巻にときにカント(ドイツ観念論)を意識していたので、それならばと、教巻においても同じことが言えるだろうということでア・プリオリの思考を用いた。結果意外なことに変換が必要になる。そしてその変換が観経における浄土と阿弥陀仏の関係を思い起こさせたのは意外だった。カントが親鸞を知っていたとは考えにくいし、もし知っていたならこの変換も必要がなかっただろう。そして親鸞がカントを知っているはずはない。親鸞とカントとの関連は謎のままである。
次に親鸞の語句の読み変えである。意図的な読み変えなのは間違いない。後程この問題は現れてくる気がするが、釈尊その人という具体性がおそらくキーワードではないかと思っている。ブログにもそれを思わせぶりに書いたつもりである。

証巻 正定聚について その② 曇鸞における自性清浄浄土の定義としての考察

エトムント・フッサール著『イデーン』Ⅰ―1 純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想
第一巻 純粋現象への全般的序論  渡辺二郎訳
第三章「純粋意識の領域」
第四十八節 「われわれの世界を離れてその外にある世界というものの、論理的可能性と事象的背理」

『浄土論註』下巻 礼拝門・讃嘆門の編集後記

『論註』に興味のない人にはつまらないものになったかもしれません。引用文が長いのでそれだけで目を通したくなくなりそうなものでもあります。法話としてかなり無理な試みではありますが、この讃嘆門は以前からクリアしたいところでした。当の本人はというと、けっこう満足しております(笑)。問題点は多々ありそうですが、目下のところはこの程度だろうと一息付けた感じです。しかし、少し時間が過ぎて改めて見直した時に、のっぺらぼうな文章が羅列されているだけのようにも感じました。解読としたら、現時点ではこれ以上のものは自分にはありませんが、法話としたら及第点にも至っていないでしょう。ここで一点だけこの讃嘆門を説明したいと思います。三信三不信の問題でありますが、このヵ所は前日まで書けなかったところです。原稿を構成する暇もなくて、法要の当日に加筆し訂正したところもあります。意味そのものが分からずに戸惑っていたときに、これは付け加えられたものだという思いが飛び込んできました。実感としたらそういったものです。実相身為物身の問題はわりと早くから想像はついておりましたが、三信三不信はそこに付け加えられたものだという発想そのものがなかったのです。考えて見れば、「我一心について」で述べたものがここに出てきただけですが、当の本人はそれにぜんぜん気づかずに悪戦苦闘していたわけです。『論註』はすごく難しくていったいどこまで行けるのか分かりませんが、もう少しだけなら行けるかもしれない、そういう感覚で次回も考えております。のっぺらぼうの文章も悪戦苦闘の末にできた荒れ地の跡である、と想像していただければ幸いです。

観経疏の発菩提心に思う事

本来はこういう発菩提心を話す予定ではなかった。この散善顕行縁はどこか素通りしていたので、こういう壁が有ったことが自分としては驚きだった。分かったつもりで過ぎた処にかなり苦しめられて、結局この発菩提心が主題の原稿となった次第である。最後のヵ所は何回も書き直した場所だ。まだ消化不良の多い所であるがひとまず結論的に置くことにした。親鸞聖人が比叡に居られるころに観経疏はすでに読破されていたと考えるのはかなり前からである。ただ、この原稿が法話として成立するかどうかと考えた時に、ずいぶんと乱暴な原稿だなと思う。もっとざっくばらんに書きたかったなあ。

(自灯明・法灯明)と念仏についての考察

この「(自灯明・法灯明)と念仏」は、聖覚法印の『唯信鈔』を意識して、曽我量深選集の歎異抄聴記の第二条を述べたものである。選集第二条における法の引用文をもとに『唯信鈔』を現代タッチに表現しようと思った。理由は、歎異抄第一条と第三条を続けて構成しようとしたら失敗した経緯があり、この第二条は別の角度からのアプローチが必要だと考えたからである。法の深信とは自己規定を法から示されるものなのかもしれない。また規定として示すとは、法との関係において示すのであり、いうなれば関係性という形である。それに対して機の深信は、法との関係によって現れる自己の深まりである。深まりは動詞であり、深まりつつある自己の姿を現すのだろう。第一条からいきなり第三条へと飛べない理由が、この法との関係を前提にしなければ困難だからだと思ったからである。それを『唯信鈔』をもって表そうとしたわけはまだ自分でもよく分からないところであるが『唯信鈔』が元来そういうものだということなのだろうか。しかしながら当初からそいう事を考えて原稿を作成したわけではない。後から考えたらそういうことじゃないだろうかと思っているだけだが、布石という理由で、ひとまず初めに措いておこうとしたのは確かである。

歎異抄第3条の編集語録

彼岸会での原稿を纏めていたら後半が煩雑になっていることに気がついた。意識とこころ、こころと無意識、身体と無意識。不明なことが多い中で話を進めるのが難しかった。なんとか自分なりに纏めたつもりである。法蔵菩薩の問題は第3条から登場するのはある面必然的だと思うので付け加えている。

「気遣い」と「よしあしの文字もしらぬひとはみな まことのこころなりけるを」

「不安」編ではハイデガーの『存在と時間』について自分の所見を書いてみた。そこにおける気遣いは、親鸞における善悪の問題と共通点が多い。正像末和讃で「よしあしの文字もしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがほは おおそらごとのかたちなり」と親鸞は述べている。この「よしあしの文字」だが、これを「気遣い」と「不安」の関係に見るなら、それは「気遣い」における意識関係の前後になる。無に対して「不安」「居心地の悪さ」から発して何かを気遣うまでの過程を気遣いの前後とするなら、親鸞における「よしあしの文字もしらぬひとはみな」は気遣う前の段階である。それはハイデガーにおいては、そこにあるのは「不安」における心の動きだけであって、気遣う処の具体的な内容は無い。これをもしこの和讃に当てはめるなら、それが「まことのこころ」であり、ハイデガーでは身体的な機能に属する意識のあり様ということになる。そして「善悪の字」は気遣う内容を言葉にしたものだろうから、それは何かを意識するということであり、「善悪の字」は「気遣い」として見ても「おおそらごとのかたちなり」なのだ。共通するものは他にも多く見ることが出来るかもしれない。だからと言って全てが同じだということでもないだろうが。そしてすでに十数年たっているのでかなり忘れしまった。こういう論理的な構築は様々な所見の取り扱いに対して目安になる事があるのでとりあえず書いておくことにした。

宝樹観について

数年ぶりに宝樹観を読み直し編集してみたが、迷路に入ったりでとりとめがなくなった気がする。当時の法話原稿とはかなり違ったものになったが、まずはこんな話を黙って聴いていただいた申し訳なさが感想である。これは宝樹観本文全体をまとめた感想を構成としているので、意味内容よりもその関係の仕方が中心になっている。課題の多いヵ所だったことを肝に銘じてひとまず宝樹観を終了することにした。

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