証巻 正定聚について その②

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令和5年9月23日 秋彼岸会より

(付録)ー「淄澠の一味なるがごとし」の意味をみると、淄と澠は斉の国にある川の名であり、この二つの川が異なった味を持ちながら海に流れ込めばそのまま一味になるといわれます。しかし、この「淄澠の一味なるがごとし」に、親鸞聖人は(食陵の反)の文言を付けくわえられておりまして、「淄澠(食陵の反)の一味なるがごとし」と「大義門功徳」を読みかえられています。このことについて「正定聚その①」の不足分として、今回の「正定聚その②」の前に(付録)を付けておくことにしました。ー

陵はみささぎと読み、王の墓などを意味しますから、この食陵をそのまま読めば王の墓を食うというような意味になります。ここでの王とはもちろん阿弥陀仏のことになりますから、阿弥陀仏の墓を食うということになる訳です。では、その阿弥陀仏の墓とは何か。もしこの墓の意味するものを一言でいうならば、阿弥陀仏の浄土が成就するとき除外されているものということでしょう。すると、ここに言われている食陵とは、その除外されているものを食うという意味になります。そしてその反(かえし)がこの「淄澠の一味なるがごとし」に付け加えらた意味になります。これらのことを前回の最後に話しました。今回はその続きでもありますから、この「食陵の反」をもう少し見ていきます。

宇宙の壮大さとは、漆黒の宇宙における星群の共演です。様々な星や銀河がありますが、普段私たちは圧倒されるほどの銀河を夜空に見ることはできません。しかし、本来の夜空にはその圧倒されるほどの星が降り注いでいます。もしそれらを間近に観ることができたら、その満天の星に感動をも覚えるでしょう。しかし、その満天の星を彩るところの漆黒の闇までを観るものは少ないはずです。しかし満天の星はその深淵なる漆黒の闇に輝く星なのです。もし満天の星の共演を浄土の相(すがた)とすれば、阿弥陀仏の浄土が成就するとき、そこに除外されている深淵なる漆黒の闇を、王の墓、つまり陵(みささぎ)という意味にあたえることは出来ないでしょうか。

淄川をどす黒い漆黒の闇だとするならば、澠川は亀のような生き物が住む川です。この二つの川が混ざりあう時、漆黒の中に飲み込まれる澠川の生き物の姿に、闇に閉ざされていく私たちの業を連想します。親鸞聖人は「淄澠の一味なるがごとし」にこの(食陵の反)を付け加えられ、聖人独自の意味に変えられています。その(食陵の反)の意味とは何か、それは阿弥陀仏の浄土を浄土たらしめるところの漆黒の闇をも見据えて、そして、往生の光を得た自らも、また、この深淵なる漆黒に浮かぶ星の一つであると、自らの信心を述懐されているのだと思うのです。

証巻 正定聚について その②

(証巻の文)「また、『論』(論註)に曰く、「荘厳清浄功徳成就」は、「偈」に「観彼世界相 勝過三界道」のゆえにと言えり。これいかんぞ不思議なるや。凡夫人の煩悩成就せるにありて、またかの浄土に生るることを得ば、三界の繋業畢竟じて牽かず。すなわちこ煩悩を断ぜずして涅槃分を得、いずくんぞ思議すべきや。」

(論註下巻)「荘厳清浄功徳成就」の 解読文

(一点のにごりもない)清浄さとしてかざりあげる功徳の成就とは、偈に「彼の世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり」といわれているからである。これはどのように不思議(な功徳)なのであろうか。凡夫人の、煩悩にみちているものでも、彼の浄土に生れることができれば、三界につながれてはなれることができない業のきづなも、ついにはそのはたらきを失う。つまり、(法の徳のゆえに)煩悩を断じえないまま、しかも涅槃の分を得るのである。どうして(常なみの)思いのはからい及ぶことであろうか。

「荘厳清浄功徳成就」略して「清浄功徳」は、観察門の国土荘厳十七種の第一種目にありまして、国土荘厳の総相といわれます。本来なら、この「清浄功徳」が前回の三つの「功徳成就文」の前にあるはずですが、証巻では、国土荘厳の順番が逆になっていまして、「清浄功徳」がこの三つの「功徳成就文」の後に措かれてあります。これは、要するに十七種の中で、この「妙声功徳」「主功徳」「眷属功徳」の三種の功徳文をもって国土荘厳とされたということでしょう。そしてまた、この三種の後に「大義門功徳」の一部だけを付けくわえられております、それが、「淄澠(食陵の反)の一味なるがごとし」ですね、そしてその次に、この「清浄功徳」を顕しておられます。今回はこれらのことを含みながら読んでいけたらと思っております。

まずは、論註の下巻に気になることが書いてありますので、そちらの方から国土荘厳を見ることにしますが、そこに何が書いてあるのかといいますと、相似相対だと書いてある。相似というのは似ている形態ということで、姿形や性質が写したようによく似ているということですね。相対の方は向かい合う、または対立するとか、関係を持ち合って成立するという意味だそうです。で、この国土荘厳十七種は相似相対であると書いてあります。

そして、この国土荘厳の十七種は摩尼如意宝において相似相対すると書いてあります。これは何を言っているのかといいますと、まずこの摩尼如意宝ですが、まあ、よく分からんわけです。とにかく不思議な表現でありまして、でも、これをあえて現代風にアレンジして言えば、おそらくドラゴンボールのようなものでしょうか。この珠を得ればいかなる願いもかなえてくれるという、不思議な摩尼如意宝珠です。国土荘厳はこの如意宝珠が相似相対するといわれているのですね。つまり、国土荘厳十七種は、この摩尼如意宝のように不思議であり、それは相似相対する、と、このようになります。

こういう処はあまり関わらず通り過ぎても構わんのかなとも思いますし、これにこだわってどうするんだとも思いますよ。しかしですね、あえてこだわると、国土荘厳十七種のそれぞれが摩尼如意宝であり、その十七種は相似相対しているということであります。

「多盲のゾウ」という譬えがありまして、これは目が不自由な人たちが集まって、それぞれがゾウに触れてみる。すると、ひとりは足を触りゾウは大きな木のようだという。鼻を触ったひとは長い管のようだという。もうひとりは耳を触って大きな葉っぱのようだといい、もうひとりはお腹を触り山のようだという。それぞれが自分の触った感覚でゾウを表そうとしたが、結局は誰も本当のゾウの姿を知る者はいなかったという話ですが、このゾウを「真理」と言い換えればすごく哲学的になりますし、また「生死」と言い換えれば宗教的にもなります。で、お分かりのようにこの「ゾウ」とは何かということです。

国土荘厳の場合は十七種それぞれに摩尼如意宝というゾウがいる、摩尼如意宝とは何でも願いがかなうといわれる不思議な如意宝珠ですから、現代風にいえばドラゴンボールかなと思うのですね。ドラゴンボールは7個集めるとどんな願いでも一つだけかなう。このひとつだけというのがみそですが、摩尼如意宝はこの十七種がそれぞれ摩尼如意宝だから、十七の摩尼如意宝珠があるわけです。でも、摩尼如意宝は一つしかない。ここに理屈に合わんものがあるわけですね。また、この摩尼如意宝は十七種に分かれていながらも、それぞれが摩尼如意宝であると説かれているのですが、この摩尼如意宝をそれではだれが十七に分けたのかといえば、摩尼如意宝自身であるというわけですね。

国土荘厳が相似相対するというのは、この摩尼如意宝が自らを十七種に顕して、そしてその摩尼如意宝がそれぞれ相似相対するということだと思うのですよ。もうこの辺になるとよく分からんでしょう。不思議な表現ですね。

しかし、この摩尼如意宝とは国土荘厳を顕しているのですから、仏土つまり仏国土の不思議を顕す譬えですね。つまり、国土荘厳を不思議な摩尼如意宝の譬えで表現したということでしょう。で、この摩尼如意宝は何でも願いをかなえる不思議な珠です。そして、その珠を得ればどんな願いもかなう、こんなふうに聞けばまるでドラゴンボールのようじゃないですか。ところが、この摩尼如意宝は国土荘厳の譬えですから、じゃあこの国土荘厳とはドラゴンボールのようなものかといえば、違います。

国土荘厳は阿弥陀仏の浄土のことですから、完成された仏国土です。不足という字が無いのですね。しかし摩尼如意宝の譬えでは、あなたが不足しているものを与えましょうということですから、本来この国土荘厳と意味が違いのですよ。では、なぜ国土荘厳を摩尼如意宝に譬えるのか、それは自らこの国土荘厳を顕すためだということです。国土荘厳を十七種に分けて、それぞれの角度から国土荘厳を顕す。そういう仏国土として十七種の立場を造ったということでしょう。完成しているからこちらから見えないし、見られる必要もないけれど、観るこちら側に立って、あえて欠損させてそこを見せる。すると、欠損したところから見れば、その不足したものを満たす国土が荘厳されている。それはまるでその願いが満たされているかのようだから、摩尼如意宝のようであるという。それが十七種あり、そしてその十七種の国土荘厳はそれぞれが相似相対するといわれるわけです。相似相対しているというのは、似ているものが並んで見えるということでしょうか。

私たちはドラゴンボールの方はすぐ分かるし、そっちの方が魅力的ですね。しかしそれは現実的ではなくてファンタジーですね。私たちは足らないことばかりですから、あれがあればいいな、こうなればいいな、と、ずっと考えていませんか。だからドラゴンボールの方はすぐに分かるし、そちらがおもしろそうでしょう。それは私たちが完成していないからですが、とにかく足らないものがいっぱいある。これが私たち凡夫の姿ですね。

国土荘厳の「清浄功徳」とは、そういう私たち凡夫から見た仏国土です。「(一点のくもりもない)清浄さとしてかざりあげる功徳の成就とは、偈に「彼の世界の相を観ずるに、三界に道に勝過せり」といわれているからである。」と、まず、国土荘厳の総相として私たちに最初に顕された清浄の国です。

ところが、聖人はこの国土荘厳十七種から「妙声功徳」「主功徳」「眷属功徳」の三つを選んで「清浄功徳」の内容とした、つまり、この三つをもって「国土荘厳」だとしたということですが、その次にまた「大義門功徳」を一部とりあげて載せてあります、その中に、「淄澠(食陵の反)の一味なるがごとし」という言葉がある。この言葉を少し取り上げて前回が終わりましたので、冒頭に付録をつけてもう少し詳しくしております。

で、この証巻の「清浄功徳」の前に、「また、『論註』に曰く」と書いてあるでしょう。この「また」は、三種の功徳文と「淄澠(食陵の反)の一味なるがごとし」のどちらにもかかっているわけですが、どちらかといえば「淄澠(食陵の反)の一味なるがごとし」の方に重きを措かれていると思っているわけです。

『浄土論』での「清浄功徳」は、「偈に「観彼世界相 勝過三界道」と言えるがゆえに。」とこれだけです。これを曇鸞大師が開かれて、今回の「清浄功徳」の文になっています。そして、この国土荘厳十七種では、「清浄功徳」の次にあるのが「量功徳」です。『浄土論』では、この「量功徳」もまた「偈に、「究竟如虚空 広大無辺際」と言えるがゆえに」とこれだけでして、「清浄功徳」と同じような表現になっています。聖人はこちらの「量功徳」の方は引用されていませんが、この「量功徳」を曇鸞大師がどのように開かれたかを見たいと思いますので、上下巻の両方とも読むことにします。

まず上巻の方から。解読文より、上巻は長いので(その一)と(その二)とに分けてあります。

「「荘厳量功徳成就」究竟して虚空の如く、広大にして辺際無し」この二句は荘厳量功徳と名づける。(その一) 仏がもと、この荘厳量功徳を起こされた所以は、三界を見られるに、狭く小さく、土地がくぼんだところや裂けたようなところがあるかと思えば、小高いところや水面に土が盛り上がったところがある。あるいは宮殿の高どのは迫くきゅうくつであり、土地田畑はせばまってせまくるしい。また、どこかへ行こうとしても路はせまく、あるいは山や河が行く手をはばみさえぎり、あるいは国境にへだてられて行くことができない。このようにさまざまのせわしなさで息ぐるしく、うろたえるようなことがある。だから菩薩はこの荘厳量功徳の願いを興され、我が国土は虚空の如く広大で辺際ないように願われたのである。

(その二) 虚空の如しとは、この国に来生する者がいかに衆(おお)くても、なお一人もいないように感じられるほどだという意味である。広大にして辺際なしとは、上の虚空の如しという意味を全うするものである。つまり、どうして虚空のようかといえば、広大で際限がないからである。量功徳の成就とは、十方衆生の中の往生する者ーすでに往生したもの、これから往生すべきものーは量りなく、はてしなくあっても、つづまるところ常に虚空のように広大で際限なく、終に満ちてしまうときがないということである。だから「究竟にして虚空の如く、広大にして辺際無し」といわれているのである。

問う。維摩居士などは、小さな部屋に、高さ八万四千由旬の獅子座を三万二千つつみ入れて、なお余りがあったという。どうして国の界のはかりないところにかぎって広大と称するのか。答う。ここにいう広大は、必ずしも五十畝を畦といい、三十畝を畹というような場所の広さを喩えにしているのではない。ただ空のようだというのである。そのうえどうして部屋の広さなどのたとえにかかずらう必要があろうか。また維摩の部屋がつつみいれるのは、狭いところにあって広いのである。厳密に結果の優劣を論ずれば、どうして広いところにあって広いというのに及ぼうか」

次に下巻から。解読文より。

「これはどのように不思議(な功徳)なのであろうか。彼の安楽国の人天(ひとびと)は、もしこころに宮殿楼閣の広さを、あるいは一由旬あるいは百由旬あるいは千由旬にしたいとおもい。(またその部屋数を)千間、万間にしたいとおもえば、心のままにそうなり、人それぞれにおもいどおりになるのである。また、十方世界の衆生が往生を願うに、すでに生じたもの、今生じたもの、これから生じるもの、一時一日の頃(あいだ)の数をかぞえても、それがどれくらいの数になるか知ることができないほどである。にもかかわらず、彼の世界はつねに虚空のごとくであって、せまっくるしさがまったくないのである。彼の安楽国土の中の衆生は、このような量(ひろさ)の中に住んで、自ずとその志願が広大になることもまた虚空のようで、まったく限りがないのである。(つまり)彼の国土の量(ひろさ)になっているのであるから、どうして(われわれが)思いはからうことができるであろうか。」

この論註上下の「量功徳」を比べると、一応上巻では(その一)と(その二)に分けましたが、下巻では(その二)の方を主に述べられていると思うのですね。読んでいただければいいのでして、間違いなら指摘してください。

で、下巻の方を読むとわりと分かりやすく、例えば「彼の安楽国土の中の衆生は、このような量(ひろさ)の中に住んで、自ずとその志願(ねがい)が広大になることもまた虚空のようで、まったく限りがないのである」と、このような文章になっているでしょう。志願にしたがって世界の広さは虚空のようにもなる、と、その志願が広大な世界を見せていくというような、いわば、心象的な世界観が窺われます。

このことについて、善導大師が述べられているところが観経疏にありますので、そこのところを紹介することにします。この「清浄功徳」は観経疏では水想観に登場しますが、国土荘厳第二の「量功徳」もこの「清浄功徳」と一緒に書いてあります。

「「①かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。②究竟して虚空のごとし広大にして辺際なし」と、これすなわち総じて彼の国の国の地の分量を明かす」。②の文が「量功徳」です。このように、「清浄功徳」と「量功徳」はセットになっています。そして、この両方において「これ彼の国の地の分量を明かす」です。観経疏の玄義分ではここのところを「仮というはすなわち日想・水想・氷想等、これその仮依なり」と言われておりまして、ここに水想観も入っているでしょう。だからこの水想観も仮依であると善導大師は述べていることになりますね。この仮依については、次の文で「これこの界の中の相似の可見の境相なるによるがゆえに。」と説明されています。

まず、これはどういう意味なのかということですね。難しくてよう分からん。こういう文を見ると論註の解読がほんとうに有難いなぁと思いますよ。しかし、それで終わるわけにはいかないので、あえて自己流に解釈すれば、この仮依とは仏教でいうところの悟りといいますか、無分別智の境界というものではなくて、この界の中の相似の可見であるところの境相だということです。

で、「この界の中」とは、今見ているものはということでしょうか。すると、今見ているもの、それは、相似の可見である、可見とは今見えているものはということですから、今見ていることで見えているものはということですね。それは、実は、写したように似ているが、それそのものではないということです。だから相似しているが本質そのものではないということですね。だからそれは「仮依なり」と善導大師は言われているのだと思うのですよ。

境を分かりやすくすると鏡と考えればいいのかなと思います。つまり、それは鏡に映っているようなものだということですね。デコボコしたものを鏡に映すと、その映ったデコボコがくっきりと映れば映るほど、その鏡のクオリティーは高いことになるでしょう。同じように、水面に映るデコボコがくっきりと映しだされるほど水面には波が立ってなくて穏やかであり、水面は平らである。つまり私の心を水面の如くに表現される。境というのはその水面自体のことであり、界とはそこに写し出されているものということでしょう。

つまり、私の心について水面のごとくと表現され、それを境といわれている。これまでこの境のことを身体的心の領域とずっと言ってきました。知覚という言葉もありますが、これは感覚器官のはたらきで外界の事物・事象を認識することだということでして、視覚のほかにも聴覚・味覚・嗅覚・触覚がふくまるそうですね。哲学ではこのようなものを知覚より以前のもとして、直接の知といったり、感覚的確信という言葉で表現されたりしています。とにかくすごく分かりにくい所であることは間違いない。

この相似の可見の境相をもって「清浄功徳」と「量功徳」を顕している、そういうことかなと思います。つまり、善導大師の「量功徳」の「広大にして辺際なし」に言われる広大さとは、心象的なものではなくて身体的なもの、身体に属する物質的な広がりですね。身体を物質的な観点から観れば成層圏をこえて宇宙にもつながっていきますから、心象的な広大さとはまた違うのです。

善導大師が「清浄功徳」と「量功徳」をセットにしていわれる場合はこういう広大さがある。だからといって心象世界の広がりとどちらが正しいかと言っているのではありませんよ。「清浄功徳」にはこういう二つの見解があるということですね。そして善導大師の場合はどちらかといえば身体的な側面を強調されています。

曇鸞大師は「清浄功徳」に自性清浄の浄土を見られた。善導大師は、たしかにそれが自性清浄の浄土であれ、やはり、心に映る世界であるとした。自性というのは本質とか本性という意味で、本来的な不変の性質だといわれております。法身は色もなく形もないし、見ることもできない。だから善導大師は心に見る世界ならば、たとえそれが自性清浄の浄土であれ、本来の真如法海ではなくて、自性清浄の浄土を示すところの心象世界であるとした。つまり重力で再び身体の領域の押し戻した、と、こういうことかなと思っております。

こういうえらい大変な問題をかかえているのですが、この問題を親鸞聖人はどのように捉えなおされたのかということですね、それが、この三種の功徳文の後にある「淄澠(食陵の反)の一味なるがごとし」であります。歎異抄13条に、親鸞聖人が宿業ということを述べておられますので、そこを読んでみます。

(意訳 歎異抄13条から)

「 弥陀の本願不思議にまかせて悪をおそれないのは、本願ぼこりであるということで往生はできないということ、この条は本願を疑うことであり、善悪の宿業をこころえていないからなのである。よいこころがおこるのも宿善がもよおしているからである。また悪業をおもってしまうのも、悪業のはからいがそうさせるのである。故(親鸞)聖人がいわれていたことに「ウサギの毛や羊の毛の先にあるちりのような小さな罪も、宿業に依らないものは無い。」といわれていた。またあるときに「唯円房は私のいうことを信じるか」と聞かれたので、「もちろんでございます」と、お答えしたところ、「そうであれば、私のいうことに従うのか」と重ねて聞かれたので、つつしんで承知しましたと答えました。「たとえば、人を千人殺してみなさい、そうすれば往生は決まる」と、聖人からいわれたときに「おおせではありますが、一人でさえも自分の器量では殺すことは出来ないと思います。」と、お答えしたところ、「ではどうして親鸞のいうことを疑わないといったのか」といわれ、「これで(唯円房も)知ることができるだろう。何事も心にまかせて決められるなら、往生のために千人殺せといわれたらそのとき殺すはずである。しかしながら、(自分に)一人として殺すような業縁がないからそうしないのである。自分のこころがよくて殺さないのではない。また殺すまいと思っても、百人千人を殺すこともあるのだ」と、(聖人が)おおせられたのは、私たちは、(自分の)こころがよいと思うことをよいと思い、悪いと思うことを悪いと思って、(弥陀の)本願不思議においてすくわれることを知らないでいるからであるといわれた。」

この13条にある宿業ということですが、いろんな見解もあるかと思います、で、今回話しております身体的心の領域ですが、これはまだ分別心が起きない状態の心ということですから、分別心が起きる前であり、邪心のない状態だと考えるのですね。しかし、この身体は社会的そして歴史的領域の身でもあります。この社会的そして歴史的領域とは、そのままこの私の身にまでなった煩悩の歴史です。ここに歎異抄でいわれる宿業を見るのだろうと思うのですね。

こういう業の深さを背負っている身ですから、たとえ身体的な心の領域として鏡が澄んでいても、その鏡もまた宿業という底の抜けた漆黒の世界を背負ってるのだということではないか。そして、ここに煩悩凡夫の姿を成就させる。

この「清浄功徳」の文の後半ですが、「凡夫人の、煩悩にみちみちているものでも、彼の浄土に生れることができれば、三界につながれてはなれることのできない業のきづなも、ついにはそのはたらきを失う。つまり(法の徳のゆえに)煩悩を断じえないまま、しかも涅槃の分を得るのである。どうして(常なみの)思いのはからい及ぶことであろうか。」とありますね。この「凡夫人の煩悩にみちみちているものでも、彼の浄土に生れることができる」と、ここに凡夫の煩悩が成就する時、その凡夫を成就する姿をいただくことが、そのまま浄土に生れる姿であるといわれたのではないでしょうか。

親鸞聖人は、正定聚の世界を、夜空に輝きあう星群に見た、そして、この本願海で往生の光をいただいた自らもまた、この深淵なる漆黒の世界に浮かぶ星の一つであった、と、この深淵なる業の世界を我が身をもって述懐される。

三界とは三つの迷いの世界といわれております。少し難しくてよう説明できませんが、要するに生死を繰り返す凡夫の世界です。その繰り返す煩悩の歴史に繋がれてはなれることができないきづなも、つづまるところ、ずるずると引っ張られない。つまり、その法の徳で煩悩を断じえないままに、しかも涅槃の分を得るのであるといわれるのでしょう。

今回は、この「淄澠(食陵の反)の一味なるがごとし」を自分なりに纏めました。いろんな見解もあるかと思いますが、現在、こういうふうに受け取らせて頂いています。

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