法性のみやこを、時間で読む場合と場所で読む場合の違いについて。

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  『唯信鈔文意』{「来」はかへるといふ、きたらしむといふ、法性のみやこへむかえ率てきたらしめ、かへらしむといふ。法性のみやこより衆生利益のためにこの娑婆世界にきたるゆゑに、「来」をきたるといふなり。法性のさとりをひらくゆゑに、「来」をかえるといふなり。}この文は「来」の読み方がきたるとかえるとに分けて書かれているが、時間の前後で読むと、いったん法性のみやこにかえり「来」。そして衆生利益のためにかえる「来」という時間差で読むことになる。しかし本来この「来」はかえると読むのだろうか。法性のみやこにかえるならかえるといえばいいのではないかと考えるのが自然だと思うのだ。しかしこの「来」の文字にこだわりをもって書かなければならないのなら違う考え方もあると思う。それが場所である。場所として考えれば、そのある場所へは法性のみやこにかえってからその場所に「来」たのだということが言える。たんに法性のみやこから来たといってもいいのだろうが、その場所に「来」るまでの過程で法性のみやこにかえることが前提にされたことが書かれているのだから、時間の前後ではない。そして何のために「来」たのかといえば衆生利益のためである。すると、その場所が法性のさとりをひらいているがゆえに「来」をかえるともいう事も出来そうだ。
  
  次に{『論』(浄土論)には「蓮華蔵世界」ともいへり、「無為」ともいへり。「涅槃界」といふは無明のまどひをひるがへして、無上涅槃のさとりをひらくなり。「界」はさかひといふ、さとりをひらくさかひなり。}さとりをひらく「界」もまた場所として現わすなら、無上涅槃がその場所に「来」ることで同じ意味になるだろう。この「界」については次に、{「涅槃」をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法性といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心に誓願を信楽するがゆゑに、この信すなはち仏性なり。}この常楽から一如までが涅槃を表した名称であり、その涅槃がその場所に「来」ることにおいてその場所がどのようなものかを表現されている。それが微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり、だろう。そしてこの一切群生海の心に法蔵菩薩の誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、である。そしてこの一切衆生群生海の心がその場所なのだ。そしてその場所は、一切群生海の心であり、その一切群生海の心に法蔵菩薩の誓願を信楽することをもって信心はすなはち仏性なりが成立するというのだろう。
 
 『唯信鈔文意』{法身はいろもなし、かたちもましまざず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたへたり。}この法身が形として現れることにおいてはじめて法身が無為であることを証明するような場所である。いろもなくかたちもないものは捉えられないということだから、いくらいろもなしかたちもなしといったところで、言葉で表していることには変わりがない。「いろもなく、かたちもない」ものだという形を表現するのであって、形からは逃れられない。

  

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