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観経疏の発菩提心 そのⅡ

令和3年6月  永代経法要より

「また菩提というは、すなわちこれ仏果の名なり、また心というは、すなわちこれ衆生能求の心なり。ゆえに発菩提心というなり。」

  去年の報恩講で躓いたところです。半年前の話ですからもう忘れておられると思いますが、ホームページのブログでは「観経疏の発菩提心」の続きになっていますので続けて読んでいただければ何とか繋がっているかなとも思います。あの時は突然壁が現れたイメージになり先に行けなくなりました。それがこの発菩提心の処です。この「また菩提というは、すなわちこれ仏果の名なり」という言葉に何故躓いたのかといいますと、菩提はたしかに悟りという意味ですから、仏そのものの意味ではあります。しかし菩提心は単にそういう仏を現わす語と言うよりも、私達が何処かに思いえがく向上心のような上りゆくといったようなものが何処かにありませんか。それがここにおいては菩提心から菩提という語だけを取り出して、仏果であるとわざわざ言わなければならないのは何故なのか。すごく違和感があるのですね。

 そして「また心というは、すなわちこれ衆生能求の心なり。」ですから、心はあくまで衆生の心です。菩提は仏果、心は衆生、つまり菩提は仏そのものですから初めから仏であり、衆生は何処までも衆生です。言い方を変えるならば、菩提はずっと菩提であり続けるのであるし、衆生は何処までも凡夫であり続ける。菩提と衆生は何処までも平行線をたどるのであり交差しない。もし衆生能求の心が菩提心であるならばそれはすでに衆生能求の心ではなくて菩提そのものである。

 普通ならば菩提心がいつか成就することを願うのであり、まあ成就するかどうかは別問題としても、いつかどこかでひょっとすると叶うかもしれない、そういう先をイメージするような淡い期待感がありますね。しかし「菩提は仏果の名なり」といきなり言い切られた場合には、衆生においてそういう成就は無いのだと断言するのと同じではないですか。これを念頭において菩提心を発しなさいというのがこの「発菩提心」ですね。これね、普通考えると分からないですよ。でも、今回はこの訳が分からないところを中心にしてもがいて行ければと思い、躓いた処であるこの「発菩提心」を再びテーマにしました。御聞き苦しいかとも思いますが宜しくお願い致します。

 まず『観経疏』「序文義」の終わり辺りにこの「発菩提心」が登場します。お釈迦様の前で韋提希は阿弥陀仏の浄土を願います。その時の願いを「教我思惟、教我正受」と言いまして、この「教我思惟、教我正受」とは浄土への手立てである思惟の仕方を教えて下さい、またそれが正しく受けとれることがどういうことか教えて下さい、と言うような事かなと思いますが、で、この韋提希の願いによってお釈迦様がまず定善観を説かれます。ただ、韋提希はまだ阿弥陀仏の浄土を願いはするが、それを自ら受けとる準備が出来ていない。それで浄土への韋提希の基礎認識にあたる三福を説かれます。その最後にこの「発菩提心」が出て来ます。「発菩提心というは、これ欣心大に趣くことを明かす。浅く小因を発すべからず、広く弘心を発(おこ)すにあらざるよりは何ぞよく菩提と相会することを得ん。たゞ願わくは、我が身、身は虚空に同じく心は法界に斉しく、衆生の性を尽くさん。」と書かれています。今回はこの文章を解読することになりますが、まあ、とにかく先に進んで行きたいと思います。

 まず「欣心大」の欣心(ごんしん)とは願い求める心だと言います。「大」は私を超えているものですから仏のはたらきという事ですね、だからこの場合の「大」は阿弥陀仏でありまた阿弥陀仏の浄土という事でいいのでしょう。するとこの「欣心大に趣く」は阿弥陀仏の浄土を願い求める心に趣くという事になります。次に「浅く小因を発すべからず、広く弘心を発すにあらざるよりは何ぞよく菩提に相会することを得ん」ですから、阿弥陀仏の浄土を願い求める心に趣くとはどういうことか、この発菩提心においてこの「浅く小因を発す」と「広く弘心を発す」との違いを見るのですね。で、どこまでが浅く小因を発すことなのか、またどこからが広く弘心を発すというのか、この事についてまず解かなければなりません。

 以前、佐賀城後に行った時のことですが、いつも鉄道沿線に沿って南北ばかりを往来していたので、たまには違う処にも行ってみようということで佐賀方面に出かけて行ったのですね。佐賀市内は久しぶりで勝手もよく分からずとにかく有名なところへ行こうと佐賀城後の本丸御殿に行きました。佐賀市内は県庁所在地でもありそれなりに歴史と街並みがしっかりした処ですね。で、普通天守閣というのは城郭の中央部にあると思いますが、この佐賀城は天守閣が城郭部分に建ててあるようでした。変わった建て方だというのが印象です。ご存じのように佐賀藩は薩長土肥といいまして明治維新を推進した薩摩、長州、土佐、肥前(佐賀)の四藩の一つですね。大隈重信や江藤新平などを輩出した藩です。本丸御殿には藩校の弘道館の様子も沢山紹介してありました。西洋を見据えながら日本の将来に大志を抱く若者も沢山おられたでしょう。こういう世界に広く視野を向けるのをでは弘心というのだろうか。普通に考えたらそういうものを「広く弘心を発す」と言うのじゃないですか。

 それじゃあ、浅い小因とは何でしょう。この幕末当時においてこの地ではすでに石炭は採掘されています。石炭採掘はつねに水処理の問題が障害になっていたようで、炭坑工夫同士の水争いから、鉱山の水没まで水処理の問題は深刻だったと聞いています。明治以後西洋のポンプ導入でようやう収まったそうですが、では、こういう炭坑の話は「広く弘心を発す」内容にはならないだろうか。それとも「浅く小因を発す」ところの類だろうか。石炭産業は当時の日本の近代産業からすればけして浅く小さなものではないと思いますが。それでも時代の変換からすれば中途半端でもありますね。では、いったいどの辺りから広いと言うのだろうか、そしてまたどこからが浅い小因というのだろうか。私事は他人から見ればちっぽけな出来事ですね。だから浅い小因ですか。でも、私事は私自身からしたらこれほど大きい問題はありませんよ。では、この浅く小因というものと、広く弘心ということの違いは何かといいますと、ここでは「欣心大に趣く」ですから、阿弥陀仏の浄土を願っているかどうかです。すると佐賀藩の弘道館も炭坑の水処理もどちらも浄土を願ったものではありませんし、私事も阿弥陀仏の浄土を願った問題かといえばそうじゃない。するとここにある全部が広い弘心ではないのかもしれない。

 私たちは生きていると色んな事がありますから、毎日何かにつれ悩んだり、喜んだり、怒ったり、横着になったり、自分を卑下することもあります。そんな自分の心をよくよく見つめてみると、よろしくないものも結構あるようです。そんなこんなを本音として持っております。いやいやおれはそんなものは全然持っていないぞとおっしゃる方もおられるかもしれませんが、なるだけそういう方には近づかないようにしております。また、人間関係に悩んでおられる方も多いでしょう。そういう心の問題ですが、この菩提心とは仏になりたいと願う心ですね。ただ何となく願うのではない。強くそうなりたいと願うのでして、健康を願うとか、子供が幸せになってくれることを願う、宝くじが当たる事を願う、こういう願いなら強く願えますが、私は仏になりたいと強く願われる方がどれだけおられるのだろうか。今日の発菩提心はそういう話なのですが、現実的ではないといえばそれまでですが、また人間の深い処での話かとも思います。普段の我々ではあまり考えない事ではありますが、韋提希には人生において、いま、のっぴきならない事が起きているのですね。そこに私自身の耳を傾けて聞いていくのも大事なことだと思います。

 『観経疏』の冒頭に「帰三宝偈」という偈文が書かれています。この偈文の最初の処です。「道俗時衆等 各発無上心 生死甚難厭 仏法復難欣 共発金剛志 横超断四流 願入弥陀界 帰依合掌礼」

 この「道俗時衆等」の「道」は出家した人、「俗」は在家の人という意味です。だから「僧も在家も各々この上ない心を発しても、生まれ死んで行く私たちは、生きることへの執着は甚だ厭(いと)いがたく、仏法をよろこぶことも復困難である。共に金剛志を発(おこ)して、横さまに四流を超断せよ。弥陀界に願入して、帰依し合掌したてまつれ」多少アレンジが入ってますが、だいたいこういう内容かなと思います。で、この二句目の「各発無上心」ですが、これを次の文脈との関連で読むと二つの読み方があります。まず今読んだように「おのおの無上心をおこせども」という読み方です。もう一つが「おのおの無上心をおこしなさい」と読みます。初めの読み方では、それぞれが無上心をおこしても困難だから、共に金剛志をおこしてという意味ですね。次の読み方は「おのおの無上心をおこしなさい、なぜなら生きる事の執着は甚だ厭い難く、仏法をよろこぶことも復難しい。共に金剛志をもって」となります。どちらも一人じゃ困難なので共になっておこせとなりますから、両方とも同じ意味になります。ただこの読みでは「無上心」と「金剛志」は同じ意味ですね。

 で、初めの「道俗時衆等」には「時」の字が措かれていますね。するとこの出家と在家はその時の衆等でしょう。衆等は衆生等ですからその時の衆生等です。この観無量寿経の登場人物では僧は阿難尊者になります。お釈迦様の十大弟子の一人です。そしてこの観無量寿経で韋提希と共にお釈迦様から教えを頂くもう一人の人物です。だからこの時の衆生等は『観無量寿経』からすれば韋提希と阿難ということになります。では、この時とはどんな時でしょうか。先ほどから言っていますように、お釈迦様が韋提希に阿弥陀仏の浄土を説かれる時です。すると「阿難(道)韋提希(俗)もおのおの無上なる心をおこせども、生きる事への執着は甚だ厭い難くして、仏法をよろこぶことも復難しい。共に金剛志をおこして、横さまに四流を超断せよ。弥陀界に願入して、帰依し合掌したてまつれ」と、こういう読みになります。

 この「無上心」とはこの上ない心であり、またこの上ない願心であるという意味ですが、それ以上の事は分かりません。しかしこの無上心をこの二人に限定するならば、阿難の無上心はお釈迦様と同じ境地になる事です。韋提希にとっては阿弥陀仏の浄土への願いが叶うことでしょうか。二人はそれぞれ違う願いですが、お釈迦様からみたらおそらく同じ願いなのでしょう。そして、「共に金剛志をおこして、横さまに四流を超断せよ」です。

 さて、それではこの金剛志とは何でしょうか。サケは生まれ故郷の川に帰って産卵して、サケの一生を終えるでしょう。こういう習性がある生き物は他にも多くいると思います。では人間はどうでしょうか。人生の晩年に故郷の田舎に帰って過ごそうと思われる方はわりと多いかもしれません。そういう晩年の過ごし方もこの習性とどこか似たものがあるのでしょう。比較的奥さんの里に帰られるのが多いようですが。また、沖縄では、お墓の形が女性の子宮を模っていると言われます。毎年お墓で親族が集まり飲んだり食べたりする習慣があるそうですね。お墓が一族のコミュニケーションの場であり、最後はみんなが還っていく処でもある。これもお墓に故郷というワードがあるような気がします。

 また人間は心の生き物ですから、心の故郷もあるかもしれないでしょう。芥川龍之介の作品で『河童』は今度生まれる所を選べる世界だそうです。洒落た世界です。「おっ、予定通りの場所に出て来たぞ、しめしめ」選びの無い私たちの生を、芥川は皮肉を交えて描くのでしょうか。お腹の赤ちゃんがそんな事を考えているとは思えませんが、だからといって何か意識に似たものがないとも言えないですね。お腹の中で動く仕草にはそれぞれすでに個性があるかのように見えます。ではそれよりももっと前、それこそ生の始まりである、私と言うよりも生物的でありますが精子と卵子が結合する時ですが、その時に意識的なものはあるでしょうか。いくらなんでもある訳がないだろうと思うでしょう。しかし、では無いとしたら何故そこから意識が発祥するのだろうか。これは科学者の方にお聞きするしかないと思いますが、お聞きしても分からないかもしれない。ただ何もない所から何かが始まるというよりも、何かのきっかけで何かが始まらなければ説明は出来ませんね。生物学的にまた科学的にはどうだという事ですが、少なくともそこには何かの機能が始まっているという事ではないかと思います。「自の業識」ということを善導大師は言われますが、この自の業識にそれこそ私としての生が始まるその時を見られている。意味としては生きんとする意志と言われています。善導大師においてはこの自の業識が最初の場所であり、私の生の始めです。だからそこは私の心が始まる場所でもある。生きんとする意志は生への意志であり、また自の業識としては心の故郷である。

 「生死甚難厭」韋提希は世俗に生きることを嫌いながらも、生きることへの執着を厭い離れることが出来ない。「仏法復難欣」阿難は仏法に生きる僧でありながら、お釈迦様を拠り所にするあまり本来の仏法をよろこぶ身になれないでいる。そして「共発金剛志」ですね。この「共発金剛志」の金剛は迷いがない、揺るぎのない、変わらないというような意味でしょう。貴方は何事にも揺るぎのない心の持ち主ですかと聞かれたら、いいえそんな心は持ち合わせておりませんと即答致します。もう何事にも揺らぎっぱなしの自分でして、あっちふらふら、こっちふらふら。情けないですが小心者として胸をはってきっぱりと発言させてもらいます。だから自分にはそのような金剛なる心などありません。ただこの金剛志とは変わらず揺るぎのない意志ですから、私のこの心が揺らぐかどうかではなくて私の身にそのような金剛志があるかどうかでしょう。

 韋提希と阿難においてこの金剛志を発して「横さまに四流を超断せよ」です。「横超断四流」の四流は四暴流のことです。暴流とは氾濫した川のような激流の意味だと思いますが、欲暴、有暴、見暴、無明暴を四暴と言いまして、まず欲暴流は欲に激しく流されること、何かのきっかけで途端に暴走する。むさぼりや妬みものそうでして、なかなかこの激流は日常的です。分かりやすいのは瞋恚(しんに)だと言われます。怒りや憎しみ恨みなどがそうです。腹が立つとパッと顔に出るでしょう。生きて行く中でこの欲望流にどれだけ流されるでしょうか。

 そして有暴流です。この辺りから難しくなります。この有暴流からは、実は調べても思うような回答が見つかりませんので、とにかく自分の思う処を申し上げるしかないのですが、まず生物学的に言うと人体の細胞はおよそ半年で全てが入れ替わるのだそうですね。脳細胞からすべての細胞が入れ替わるのだから、半年後は今とは全くの別人なのだそうです。でも、そんなことを言われてもこうして自分はここに居るのだし実感などもありませんね。たとえ科学的に実証されようがこの自分は自分でしかないと普通は考えるじゃないですか。だけど生物学的に言えば無いものを有るものとしている訳でしょう。森羅万象すべて変化の中である。格好つけて言うとそういう事ですね。これ仏教でいう諸行無常という意味です。川の流れをそのまま握ることが出来ますか。川の水を手ですっくてみても、それはすでに川の流れではありません。そしてすくった水を見る私たちもまた諸行無常の存在です。私も変化の中であり捉えようとする対象も変化の中ですね。そういう状況で自分はここに有り、そして対象はそこに有るとする物の捉え方は、本来をそのままに捉えていない事になります。しかしそうは言ってみてもですよ、実際の処はこの私がいてそして貴方がいる。私が有りそしてそこに何かが有る。こういう事でしか物事を測れないでしょう。辞書で認識という語を調べると「物事を見分け、本質を理解し、正しく判断すること。またそうする心のはたらき」だと書いてあります。だから認識するとは、普通にまず考える私がいてそして見ている対象があり、それを私がどのように考えるかということです。

 すると仏教でいうところの本質を知るというのは、一般的にいう物を認識するのとは違うのでしょうね。この有暴の有とはそういう点からして私が普通に考えるところの認識作用の類になりますが、その有に暴流をつけて有暴流ですから、このような様々な有への執着が何かのきっかけで激流のごとくに暴走する様子でしょうか。こうなると思い当たる事がどんどんと出て来ませんか。細かいことはここでは申し上げませんが、いたる所で展開される様々なドラマがこの有暴流の出来事かなとも思います。これらは最初の欲望流とすごく近くて、欲望流が結果なら有暴流はその因となる心の作用なのでしょう。

 次が見暴流ですが、ここで言う見とはこのような有を促す発動のようなものではないかと思っています。有を認識作用とするなら、見はその認識作用へと促すはたらきといいますか、具体的に何かそういう器官が身体にありそれが促すと言うようなことじゃなくて、単に促すところのものということです。これは自分がそう考えているだけですが、自の業識でいう生きんとする意志は私が母親の胎内に宿る時、つまり具体的な生が始まる時を言うのですが、この見はそういう生命の領域に限らないところの促しという事そのもの。そういうふうに考えています。

 そして無明暴ですが、この欲望も有暴も私の心の中の出来事です。そして見暴が私の心そのものを促すものだとしても、これらのことを私は心で捉えようとするのですから、いくらこのような観察をしても私の心から私は出ることは無いのですね。私の心を見るには心の外を通してから見なければ私の心は見えません。『浄土論註』に「蟪蛄(けいこ)春秋を識らず、伊の虫,豈(あ)に朱陽之節を知らん乎、と言うが如し。」という有名な言葉があります。蟪蛄とはひぐらしの事だと言われます、蝉は夏に生れて夏に死んで行くから春秋を知らない、この虫がどうして夏という季節を知ることができるだろうか。私の心が私を測り、その心に私を見る。私の心は私の生きることと共にあります。生まれてから死ぬまでずっと心が私を考えるのですから、心から私は出ることはないのです。だから私の心は私が一番知っているつもりでいながら本来を知らないと言います。この事を無明と言うのですね。この無明であるがゆえに、あるちょっとしたはずみでバランスを崩し、見が暴走して、有にしがみつき、欲が濁流のごとくに貪りだす。こういうシステムになっております。そのままが私の生きて行くところの姿であります。四暴流を簡単ではありますが自分なりに説明してみました。また違う見解も当然あるはずです。

 そして「横超断四流」ですね。このように四暴流は心の産物でありますが、自の業識というのは先ほどからも言いますように、身体に属しながらも私の意識の外にある処の生きんとする意志ですね。言うなれば我が心の外に属しながら、なお且つ身体に備わる変わらない意志でしょう。金剛志を発せとは、この変わらない意志に帰れということではないでしょうか。もしそうならば、それは自の業識へと帰れという事でもあるのです。そして、金剛志が身体に備わるところの意志であるならば、心の産物である四暴流の外でありますから、この金剛志を発すことはすでに四流を横さまに超えているのだというのでしょう。

 「願入弥陀界」はこの「横超断四流」をもって弥陀界に願入せよということです。しかしまた、この『観経疏』では「一切の往生を欲(ほっ)せん知識ら、善くみずから思量せよ。むしろ今世の錯(あやまり)を傷みて仏語を信ぜよ。」と言われています。「往生を欲せん知識ら」という表現が面白いですね。この往生を欲せん知識らとは、知識でこの弥陀界に入ろうとする者のことでしょう。錯はまちがえるということですから、まちがって自分の知識や裁量で弥陀界に入ろうとしても心の中でもがくだけだという事です。そして仏語を信ぜよとは、自らのその錯と傷みの中で帰って来いという阿弥陀仏の願いに気づくことでしょう。ここにおいて「願入弥陀界」「帰依合掌礼」です。そしてこの「帰依合掌礼」の姿がそのまま「横超断四流」の姿であるというのでしょうね。取り急ぎ『帰三宝偈』の「道俗時衆等」から「帰依合掌礼」までを話してみました。

 それでは発菩提心に戻ります。「発菩提心というは、これ衆生の欣心大に趣くことを明かす。」これはもういいでしょう。次の「浅く小因を発すべからず」は心の内なる世界で発すべからず。いくら広い視野でも自分の心から出ることは無いのです。だから「広く弘心を発す」とは私の心よりも広い、広大な外にそのままにしてつながる変わることがない意志に帰ることである。この金剛志を求める心が菩提、つまり仏と相会するのであると言われるのでしょう。「我が身、身は虚空に同じく、心は法界に斉しく、衆生の性を尽くさん」は、我が身は無限に広がる法界にあり、心は金剛志を求める心となり、その心もまた法界に斉しい。ここをもって、ただ願わくは、我ら衆生としてのこの一生を尽くしていこう。

 「また菩提というは、すなわちこれ仏果の名なり。また心というは、すなわちこれ衆生能求の心なり。ゆえに発菩提心というなり。」この菩提と心を何故わざわざ分けられて言われたのだろうか。消化不良は未だなお継続しますが少しはほぐれて来たかなあとも思います。

 

 

  

「帰去来」

令和3年3月 春の彼岸会より

今日は善導大師の『帰去来』を話そうと思います。

まずは北原白秋の『帰去来』から。

山門(やまと)は我が産土(うぶすな)

雲騰(あが)る南風(はえ)のまち、

飛ばまし、今一度(ひとたび)。

筑紫よ、かく呼べば戀しよ潮の落差、

日照沁む夕日の潟。

盲(し)ふるに、早やもこの眼、見ざらむ、

また葦かび、籠飼(ろうげ)や水かげろふ。

帰らなむ、いざ鵲(かささぎ)かの空や櫨(はじ)のたむろ、

待つらむぞ今一度(ひとたび)。

故郷やそのかの子ら、皆老いて遠きに、何ぞ寄る童ごころ。

【大意】大和柳川は私を生んだ大地だ。南風に吹かれて雲がひるがえる、美しい場所(まほろば)だ。ああ鳥となってもう一度飛んで帰りたい。筑紫よ、この名前を呼べば恋しく思い出される。干潟の差の激しいその海が夕日に赤く染まる海の景色、今や私の視力は衰え見えなくなってしまった。たとえ故郷に帰っても葦の群生や籠飼、水かげろうといった懐かしい風物を見ることはできないのだ。それでも帰りたい。カササギの舞う櫨の木が群生する懐かしい故郷柳川に。きっと私をまっているだろう。故郷も当時遊んだ友達も年老いて遠ざかってしまった。それなのに子供のようにこんなにも心がひかれるのはどういうわけだろう。

  

善導大師の『帰去来』

帰去来(いざいなん)、

魔郷には停まるべからず。

曠劫より来(このかた)、

六道に流転して、ことごとくみな経たり。

到る処に余の楽なし、

たゞ愁歎の声を聞く。

この生平を畢(お)えてのち、

かの涅槃の城(みやこ)に入らん。

  観経疏における「帰去来」の位置ですが、定善観第二の「水観」にあります。この「水観」は複雑な構成になっていまして、「水観」の中に「氷想観」があり、その「氷想観」が「瑠璃地の下」と「瑠璃地の上」に別れています。「水観」から「氷想観」へと連続するのではなくて、「水観」の中に「氷想観」があるという独特な様相です。そしてこの「水観」の全体に六首の讃が措かれています。まず「水観」には天親菩薩の『浄土論』から一首。そして「瑠璃地の下」に三首、「瑠璃地の上」に二首とそれぞれに措かれています。「帰去来」は「瑠璃地の下」の三首目にありまして、「瑠璃地の上」へとつながるような、ジョイントの役目をしてるかのように見えます。

  内容も少し変わっていますね。「帰去来」は本来ならば北原白秋のように故郷に帰る歌ですが、ここではその故郷は魔郷だという。そしてその理由が次に述べてあります。「曠劫より来、六道に流転して、ことごとくみな経たり」。六道とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の事ですが、詳しい説明はありません。ただ六道流転とだけ書かれています。そしてこれが魔郷には停るなという理由ですね。解説としたらすごく大雑把な表現です。また、この「曠劫より来、六道に流転して、ことごとくみな経たり」も奇妙な表現です。「みな経たり」ですから、すでに過ぎたという言い方です。いったいどこでそんなことが分かるのだろうか。そしてこの「到る処に余の楽なし、ただ愁歎の声を聞く。」まで、何気なく気分だけで読んでしまうとそんなものかと思いがちですが、気になりだすと何ともおかしい内容です。また、この「曠劫」は極めて長い時間を現わす単位ですが、では実際にどのくらいの時間なのかといえばはっきりしたものは無いようです。10年は一昔と言いますから、では100年は、1000年はというような、そういう時間の捉え方ではおそらくないのでしょう。

  永遠という言葉がありますが、この永遠というのは「あなたの永遠は後どのくらいで終わりますか」というパラドックスが含まれていると言われます。永遠なのだから終わらないはずですが、実際にどこまでかと聞かれるとよく分かりませんね。「曠劫」という時間の概念をこの永遠と同じように考えるとすると、「永遠」の対義語は「瞬間」でありますから、この永遠と瞬間の関係を考えるべきかもしれません。

  最近は宇宙開発が盛んに行われているそうです。そう言った事を時々耳にしますが、この宇宙を地球から見れば満天の星が宇宙の世界でしょう。まじかに見えるのはお月さんですね。金星や火星なども教えてもらうと、あゝあれかなと思ったりします。以前読んだ『宇宙からの帰還』(立花隆著)は、アポロ計画で月に行った宇宙飛行士にインタビューされたものでした。新鮮な感覚で宇宙を肌で感じた事などが取材されています。その時の宇宙と地球との狭間で神をも感じた飛行士もおられたそうです。宇宙から地球を見た時に、地球が単に一個の星にすぎず、自転を繰り返すだけの時間も存在しないような星ではなく、また天候などを観察するくらいの近距離でもない。地球全体が俯瞰されていて、なおかつ自転することに時間の経過を思い、人類の歴史をも感じるくらいの距離があるとするならばどのくらいのものだろうか。 この距離から俯瞰された地球は、一目で観た地球でもありますから、瞬間的な感覚がそういう地球を捉えたという事でしょう。そこには生きている人々の姿や自然の風景、そして過ぎていく時間の感覚もある。もしそう言う距離とその時があるのならば、その俯瞰の時は時間を超えているという事はないでしょうか。

  時間を長さで考えると過去・現在・未来。前・今・後。こういった連続性が前提にされますが、このような俯瞰された時間ならば、その時間は瞬間的に内包されていて始めもなく終わりもない。瞬間に永遠を観るといった場合には、このような内包された時間の永遠性を観るのであり、そう感じたのではないかと思います。永遠と瞬間の関係を何か言葉で表現しようとしたら宇宙の話になってしまいましたが、普通に私たちにも一瞬に何やら永遠なものを感じるような経験があるかとも思いますが、こういう瞬間と永遠の関係もあるのではないかと思うわけです。

  「曠劫」をこういう一瞬に収まる永遠性と読む場合。その曠劫に見た六道に流転する我が身は、そのまま我が身を超えていて、六道が流転する丸ごとの世界観でありますから、六道はことごとくみな経ていながらも、何処にも六道流転でないものは無い。愁歎の声が響いているだけである。と、そういうような意味になるのではないでしょうか。

  「瑠璃地の上」の初めの讃に「処々の光明十方を照らす」とあります。これも興味深い表現です。一瞬に収まる永遠性であるがゆえに、それは光と共に記憶されていくという事でしょう。そしてその光があちこちにあるということですね。だから今度はその光の彩を分析して「瑠璃地の上」を現わす。『帰去来』の「いざいなん」は、この「瑠璃地の上」の光の彩りへと歩き出す時のことを言うのだろうと思います。だからすぐさまこうなりましたと言ったものではなくて、何度も分析を繰り返しながら深まっていくところのものだという訳です。

  この「水観」の前が「日観」です。「日観」はまず真西に太陽が沈む光景を観想します。つまり、今日のように彼岸に中日の事です。その夕日が今まさに沈まんとする時を思い浮かべながら心を整えます。その心は静かに、そして心が身体の一部としてあり、心と身体に隔たりがないかのように整えていきます。そして次にその身体と自然とが一体になるように心をもっと整えます。このように心と身体そして自然が一体になるような観想を行う。この観想の方法をまず身に着ける。そしてこの観想を尺度にして、我が心をそこに映し出すようにする。すると自分が何を思って生活しているか、何を悩んでいるか、心の内面の在り方が見えてくる。この観想の鍛錬からできた尺度は、自分の心の在りようを映し出し、その心が知れる度に、いかに自分の心の在りようが観想から外れているのかが分かってくる。つまり自分の心の在りようをまるごとこの観想に浮き上がらせると言うのですね。

  この「日」を観ずるというのは、私の心の在りようがちょうど鏡に映し出されるように見えるという事です。と、そこに今まで見えなかった、気がつかなかった私の心がそのまま見えることで、光が差すと言います。そしてこの心の在りようが事細かく明らかにされるほどにその光は大きくなり、ついには何千倍もの日輪となる。この日輪が真西に沈む夕日と重なり、「その日正東より出でて直西に没す。弥陀仏国は、日没の処にあたって、直西に十万億の刹を超過する」と、弥陀の浄土の方向が示されて行きます。

  ところで、この「日観」には、「浄心の境を障蔽(しょうへい)して、心をして明照ならしむること能わず」という文言がありまして、この浄心の境を覆い遮るものがこの心の在りようであるという、つまり、心の在りようを映す鏡をここでは浄心の境というのだろうと思いますので、どちらかと言うならば、この浄心の境を明らかにすることを持って「日観」の意義としている。で、この「日観」をもって、次の「水観」に続く訳ですから、この鏡に映る心の在りようの永遠性が「瑠璃地の下」に表現されたのではないでしょうか。そしてそれは瞬間に収まるからこそ、その永遠性に六道流転の世界観を観た。それが「ことごとくみな経たり」であり、「到る処に余の楽なし、たゞ愁歎の声を聞く。」と善導大師に言わしめるのでしょう。そしてその「瑠璃地の下」から「瑠璃地の上」へと「帰去来」いざいなん、です。

  これはお釈迦様が韋提希の願いに立って、阿弥陀仏の浄土を明らかにされる最初の処で、浄土の入り口になります。普段何気なく暮らしている私たちにとって、この「帰去来」に何か意味があるのかよく分かりませんが、どこか胸にしみるのは、生きることの足元にある命の深さをどこかで感じるからだろうかと思います。今日は善導大師の『帰去来』を話しました。親鸞聖人もこの「帰去来」を引用されています。親鸞聖人独自な引用の仕方でもあります。いつか話すことが出来ればいいなと思っています。

  

  

「観経疏の発菩提心」に関する(付録)として

2013年3月 『風俗史学』51号「あるひとつのパターンについて」より

  「これ夫人、婉転涕哭することやゝ久しくて、少しき醒めてはじめて身の威儀を正しくして、合掌して仏に白すことを明かす。」観経疏、序文義に登場することばですが、経典においては「時に韋提希、仏世尊を見たてまつりて、みずから瓔珞を絶ち、身を挙げて地に投げ、号泣して仏に向かひてまうさく、世尊、・・」となります。

  経典においては「号泣して仏に向かひてまうさく」ですが、観経疏には「久しくして、少し醒めてはじめて身の威儀を正しくして」と慟哭から仏に白すまでの間に時間の経過が示されて内容としてはかなりの違いがあります。通常の意味においてはこの時間の経過はないのだから、感情の高ぶりのままに韋提希が釈尊への愚痴を述べる段階だけということですが、ここに時間の経過を現わした時に感情の高まりは抑えられて、冷静さを装ったなかで釈尊に文句をいいはじめるという状況が想像できるわけです。感情の高まりから愚痴を言い出すのは感情が興奮状態であるためのものであることが予想されますが、ここにさめる時間をおいたのは、次に仏に愚痴を告げることが意識の高揚のために告げたのではないことを言わんがためのものではないでしょうか。

  その後に韋提希は釈尊の沈黙により自らの愚かさを自覚するのですが、その自覚の対象が興奮状態による自らの愚かさを自覚するのか、それとも牢獄で命の危うさを感じながらも冷静さを装う姿を見せて、事の原因の責任を釈尊にまで押しつけるような言葉を発していくこと全体から自らの愚かさを自覚させるのか。王妃として過ごしてきた時間に経過が、この慟哭から愚痴までの間に行われたほんの短い時間と重なり、その一瞬に王妃韋提希として生活した時間全体が愚かであったことを自覚したと強調したかったのではないでしょうか。

  意識のある一面の興奮した状態ではなくて、生活そのものの時間であるならば、それは釈尊の沈黙によりその自らの愚かさが露呈されて韋提希の意識全体が崩れたのであり、単に意識のある一面が否定されたのではないのでしょう。このような心的な状況を善導は何故わざわざここに措かなければならなかったのか。この疑問が後の観経疏を読んでいくときの大きな視点になるのですが、勿論善導が用いた経典が現在のものと違いそういう文言が入っていたことも可能性として出て来ます。しかしもしそうであるなら何故その文言が消されたのかを問題視しなければならないでしょう。韋提希はこの後阿弥陀の浄土を釈尊に請い願うのですが、その起点となるものとしてこれを観ていくことが現在の研究の課題のひとつとしてあります。しかしこの問題は観経疏にとどまらず幾つかに同じような形態が描かれていることに目が向けられるのです。

  例えば、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』においても韋提希の心的な一連の状態が現れているように思われます。この『カラマーゾフの兄弟』におけるアリョーシャの宗教体験が「ガリラヤのカナ」で描かれています。しかしその前に「腐臭」に長老ゾシマの死によるアリョーシャの挫折があり、そこから「ガリラヤのカナ」での宗教体験へと続いていきます。この韋提希の愚かさの自覚(意識の崩壊)とアリョーシャの挫折に観るものはいったい何なのか。

  意識が否定された状態は見かたを変えれば、意識が始まる前の状態だともいえるでしょう。何故ならまたそこから見ている自分が感じられて意識が始まるからです。そういう点では意識よりも前であり、何かを見るということはその意識の前を見るということにもなるのかもしれません。それは見ているものと見られているものとの間には差別はなく、ただそうした状態があるということだけなのでしょう。こうした状態が韋提希の愚かさの自覚やアリョーシャの挫折のなかに窺えます。

  ヘーゲルの『精神現象学』における「1、感覚的確信ー(目の前のこれ)と(思いこみ)」においてこういう文章が書かれています。

  「まっさきにわたしたちの目に飛び込んでくる知は、直接の知、直接目の前にあるものを知ること以外にはありえない。この知を前にして、わたしたちは、目の前の事態をそのまま受けとる以外にはなく、示された対象になんの変更も加えず、そこに概念をもちこんだりしてはならない。感覚的確信の具体的内容を見ると、感覚的確信こそ掛け値なしにもっともゆたかな認識、いや、無限のゆたかさをもつ認識に思える。内容が外へと広がる際の空間と時間に限界はないし、充実した内容からその一部をとりだしてきて、それをこまかく分割していっても、限界にぶつかることはないように思える。その上、もっとも正しい認識であるようにも思える。対象からいまだなに一つとりさることもなく、対象をまるごと目の前に見ているのだから。だが、実際は、感覚的確信が真理だとすると称するものは、もっとも抽象的で、もっともまずしいものである。感覚的確信が、自分の知る対象についていうことは、「それがある」ということだけで、その心理にふくまれるのは、事柄があるということだけである。意識のほうも、なにかを感覚的に確信するかぎりでは、純粋な自我としてあるにすぎず、そこでは、自我は純粋な「この人」という以上のものではなく、対象も純粋な「このもの」以上ではない。」長谷川宏訳『精神現象学』

  韋提希の浄土を願うときに釈尊から見せられた浄土の姿を一種の宗教体験とするなら、『カラマーゾフの兄弟』による「ガリラヤのカナ」でのアリョーシャの宗教体験と一致するものがあるでしょう。そしてその前段階にある意識の前の経験は、ヘーゲルにおいては感覚的確信として示されています。またヘーゲルにおいは宗教体験としてではなくて『精神現象学』の中枢部へと進んでいく始めのものとして現わされているのでしょう。この一連の事柄はキルケゴールにおいても見られます。それぞれの後のあつかわれていく内容は統一的ではないかもしれませんが、こういう一人ひとりのその後の内容を編纂することが目下の目的になっています。その人の思考内容が重なったり反発したりしながら、ある一つのものに向かっているような気がしてならないからです。その人の描く図形がある円を描いていたとしたら、また違う円を描く人がそこに登場した時、それぞれの円は違う形をしていますが微妙にどこか重なる部分がある。現在においてはこういう自分なりの研究をしているつもりです。

  観経疏の話に戻りますが、そういう視点で少しずつですが読んでいきますと善導その人が気になってきます。ある面少し気を使って書いているのではないかと勝手にですが詮索することもあります。そしてそれは西洋の哲学とも深く重なっているように見えるのです。

  「観経疏の発菩提心」は予定外の内容でしたが、だからといってその先に何か予定するものがあったわけではなく、着地点が予想外だったという事でした。以前同じ形態とした善導の独自性を『風俗史学』の「あるひとつのパターンについて」で書いていたので付録として掲載しました。

観経疏の発菩提心

令和2年12月 御正忌報恩講より

  親鸞聖人の御命日を記して、こうして報恩講が全国で執り行われます。親鸞聖人が日本の代表的な高僧であることは間違いありません。しかし日本の仏教において高僧だと認められたのはつい最近のことではないでしょうか。聖人が修業をされた比叡山は様々な高僧たちを輩出してきました。聖人もその一人です。ただ日本仏教を代表とする高僧だと認められていたかといえば定かではありませんでした。

  師である法然上人は比叡におられた頃から智慧第一の法然房と言われ、比叡を降りてもなおその名声は日本を代表するものでした。しかし親鸞聖人は違います。何百年もの間、比叡山の高僧とはなっていません。理由は妻帯をされたからです。仏教には妻帯の概念が無いのですね。高野山にケーブルカーで登りますと、途中で女人禁制の場所が残っています。昔女性はそこから先に入れなかったのです。現在はおかまいなしに入れます。禅の道元は、京の伏見の興聖寺で男女ともに禅の修業をしたと聞いていますが、後程福井の山中に永平寺を建立して厳しい修行場を開かれました。親鸞聖人はこの道元と同時代の方ですが、法然上人のもとに行かれる頃には、すでにこの妻帯の問題をどこかで背負っておられています。親鸞聖人が生きられた鎌倉時代は仏教が民衆に入っていく転換期でありますから、こういう民衆的であり、人間的な課題が登場したのではないかと思います。

  また、社会的な見方からすれば、聖人は知識人や文化人から人間親鸞と称されて、非常に人間味ある高僧だと言われ続けております。若き青年親鸞の悩みは何だったのか。よくこういうストーリーが描かれたのではないでしょうか。形ばかりを聖人ぶるより真正直に一人の人間として悩む姿、そしてその現実を生きる姿勢をそのまま仏教にぶつけられた魅力が聖人にはあります。29歳の時に法然上人の元へ行かれた後も変わらずにご自身の問題をひっさげて生きて行かれました。妻の恵信尼との間には沢山のお子さんもおられます。この人間味が親鸞聖人の魅力なのですが、しかしこういった聖人への捉え方はおそらく明治から大正、昭和とその時代の知識人や文化人が描いた親鸞像でもあったのでしょう。

  親鸞聖人が生きた鎌倉時代にはそういう知識人や文化人はいないのですから、青年親鸞、親鸞と名乗られたのはもっと後の話ですが、とにかく親鸞の悩みがいかに人間味があると言っても親鸞一人だけが悩んだのではないはずですね。時代背景に沿って同じような悩みがそこらじゅうにあったはずです。その頃、民衆仏教の先駆けである法然上人はすでに70歳近いお年でした。20年ほど前にすでに比叡を降り専修念仏を京で開かれておりましたので、法然上人の名声は日本全国に広まっていたことでしょう。当然、当時の親鸞聖人にも聞こえたはずです。ご存じにように法然上人に遇いに行かれる時はかなり悩んでおられます。六角堂の百日間の参籠が有名ですが、恵信尼文書にも晩年の思い出としてこの六角堂の参籠の話が書かれていますので、日常の会話にもよく出ていたのでしょう。

  法然上人と親鸞聖人とのご信心について、歎異抄の後序に書かれています。「善信(親鸞)が信心も聖人(法然)の御信心も一つ」と親鸞聖人が言われるのについて、お弟子の勢観房・念仏房が「いかでか聖人の御信心に善信房の信心、一つにはあるべきぞ」と文句をつけられます。親鸞聖人は「聖人の(法然)の御智慧・才覚ひろくおはしますに、一つならんと申さばひがごとならめ。往生の信心においは、まったく異なることなし、ただ一つなり」法然上人の智慧や才覚が親鸞と同じだというならば、自分のいうことは間違いである、しかし往生の信心においてはただ一つだと返答をされる。勢観房・念仏房はその答えになお納得がいかいものだから、法然上人にその旨をお聞きすることになります。すると法然上人は「源空(法然)が信心も、如来からたまはりたる信心なり、善信房の信心も、如来からたまはりたる信心なり。されば、ただ一つなり。別の信心にておはしまさんひとは、源空がまゐらんずる浄土へは、よもまゐらせたまひ候はじ」と弟子たちの論争を収められたことが書かれてあります。 

  この「如来よりたまはりたる信心」という表現はよく耳にして聴きなれているから別に何とも感じませんが、しかし普通なら信心と言えば私が何かを信じることですから、まず私がありそして何かを信じる事ですね。たとえば私が神の存在を信じるとか、ご加護を信じる。何ゝ仏の御利益を信じるというような類になるでしょう。しかし、ここで言われている「如来からたまはりたる信心」は、如来が私に信心をくださるということですね。じゃあどういう信心をくださるのか。考えるとよく分からなくなる。

  これは自分の受け取りでありますけども、この「如来からたまはりたる信心」というのは、この私をたまわることで成立する信心である、そういう事かなと思っております。では、その私をたまわるとはどういう事でしょうか。

  私たちは、普段何事もなく暮らしていると、自分というものがさもを分かったかのように暮らしていますが、いざ自分の思慮分別を超えるくらいのごたごたが生じたら、泣いたり、わめいたり、妬んだり、と変化に富んだ自分が現れます。その時心は何かに振り回されるがごとくに変わっていく。場合によっては取り返しのつかないことまで仕出かしてしまいます。あの時ああすればよかった、こうしたらよかったと、振り返りながら後悔先に立たずの現実です。何事もなく全て順調に過ごしてこられた方もおらるでしょうが、概ねこういうものじゃないですか。誤魔化しが利くものなら知らんふりで過ごせますが、この取り返しがつかない事実の積み重ねはどうしようもない。どれが本当の私なのかと改めて考えても、どれもこれも自分に変わりはないし、だからといってどの自分が私だとさっと出せる答もない。あるのは自分が気に入ったものは私として認めたいし、都合が悪い自分は認めたくないという心である。若い時はそういう認めたくない自分の姿を自分で責めて、自己嫌悪に落ちる人もけっこうおられるでしょう。年取ると老化現象か何か知りませんが、そういう感覚が薄れてきますね。だからといって心が深く広くなったのかといえば、一概にそういう事じゃない。ボケてるか、誤魔化し方が上手くなったのか、そういう事かなとも思います。

  ただ、老いは時間経過の加速する感覚が強いですから、これからどうなるんだろうって、何がどうなるか分からないのにせかされているみたいで、外見よりかなり焦った様子がある気がしますね。老後の心配は勿論あるし、子供が大きくなれば心配の内容が変わるだけで、より心配が増す気がする。身体的にも誤魔化しが利かない。そしていよいよ死が具体的に近づいてくる。それに伴いかえって死にたくない気持ちが増す。問題は山積みです。ずっと前に読んだ夏目漱石の、たしか『門』だと思いますが、その最後辺りに、主人公が門の前にたたずみ、そこから前にも帰ることもできないまま、門の前でただ茫然と日が暮れるのを待つだけだった。そのような内容だったと思いますが、ふと思い出しました。

  若い時は若い時の悩みがありますが、老人には漠然としたそして深刻な悩みがありますよね。この死が漠然としすぎて自分の器量をはみ出しますから考えようがないだけです。しかしこういう周囲や年齢による変化においても変わらずに、この私としていつも還れるような、私本来のこの私自身をいただく。それを「如来からたまはりたる信心」と、こう言われるのだろうと思う訳です。

  観経疏の序文義に「たゞこれ相因って生ずればすなはち父母あり、すでに父母あればすなはち大恩あり。もし父なくんば能生(のうしょう)の因すなはち欠けなん。もし母なくんば所生の縁すなはち乖(そむ)きなん。もし二人ともになくんばすなはち託生の地失わん。かならず須からず父母の縁具して、まさに受身の処あるべし。すでに身を受けんと欲(ほっ)するに、自の業識(ごっしき)をもって内因なし、父母の精血(しょうけつ)をもって外縁(げえん)となす。因縁和合するがゆえにこの身あり。・・・」観経疏は序文義、定善観、散善義 と別れていまして、この文章はその中の序文義の最後辺りのものですが、韋提希がいよいよ阿弥陀仏の浄土をお釈迦様から享受される前段階のところになります。

  韋提希が阿弥陀仏の浄土を求める意義は正しいのですが、その心の根といいますか、浄土を求めるところの心の発する場所がまだ明らかでない。そこで定善観に入る前に、韋提希の心根を正すために設けられた場所ではないかと思っています。普通いうところの本論に入る前の基礎認識ですね。ここを散善顕行縁と言いますが、その初めの文になります。そして次に韋提希の発菩提心が明らかになる。

  この発菩提心に入るまえに、善導大師はひとつの物語を載せています。飢饉で苦しんでいる町にお釈迦様が托鉢に出かけられる場面ですね。町中が飢饉に苦しんでいる状態ですから、誰もお釈迦様に食を施すものはいませんでした。三日たってもひと鉢の食もないまま次第に体が衰えていくお釈迦様に、一人の比丘が心配して何かお召し上がりになりましたかと尋ねます。お釈迦様は衰弱がひどく話す力さえ無くなりつつありました。お釈迦様のその姿を見た比丘は悲しみ泣いて、自分の三衣を売りお釈迦様に食事を施そうとします。するとお釈迦様は「貴方の三衣は、三世諸仏の幢相なり、この衣の因縁極めて重く、極めて恩あり」(あなたの着られている三衣はあなただけにとどまらず、過去・現在・未来に極めて重い因縁があるのです。それは極めて恩があります。)と言われ、私はそれをいただく事は出来ませんと、その食を断ります。

  その時、比丘は「仏(お釈迦様)はこれ三界の福田、聖の中の極みなり、それでも頂いてもらえないなら、他の誰かに施します。」(お釈迦様のような聖の極みのお方においても御召し上がていただけないなら、誰かに施すしかありません)。するとその時、お釈迦様はあなたの親は居られますかと尋ねます、そしてあなたの両親にこの食を与えなさいと言われる。比丘はお釈迦様がお食べにならないのに、どうして私の親が食べることが出来るでしょうか、と返答しました。お釈迦様は、「あなたの両親は食べて良いのです。あなたの両親はあなた自身をこの世に生んだのです。あなたにとってそれは大きな重い恩です。これがためにあなたの両親は食べてよいのです。」と告げられ、そしてまた「あなたの両親は信心がありますか」と尋ねます。比丘は両方とも信心はないと答える。その時にまたお釈迦様は「だからこそあなたの両親に与えなさい、いまそこに信心があるのです。」「あなたの両親もまた親がいます。いままでの経緯を教えてこの食を与えなさい。そうすればあなたの両親はこの食を得ることが出来ます。」

  比丘が言うところの「仏はこれ三界の福田。聖の極みなり」に対して、お釈迦様が比丘に言われた福田とは何だったでしょうか。それはこの三界(過去・現在・未来)において、あなたとして生を受けたことによる両親への恩だということでしょう。この文の最初の処ですが「すでに父母あればすなはち大恩あり」という言葉は、この私のいのちは、過去・現在・未来を貫いている福田であり、大きな恩があると言われるのです。その私のいのちの初めを、次の文に「すでに身を受けんと欲(ほっす)るに、自の業識をもって内因となし、父母の精血をもって外縁となす。因縁和合するがゆえにこの身あり。この義をもってのゆえに父母の恩重し」と、こういう言葉で続けられます。「自の業識をもって内因となし、父母の精血を外縁となす。因縁和合するがゆえにこの身あり」です。だからこそ父母の恩重しですね。

  この自の業識は生きんとする意志だと言われます。生の初めが父母の精血であることは分かりますが、その精血が生きんとする意志と因縁和合することによってという言い方です。自らのいのちが始まる時をこういうふうに表現されのですね。この生きんとする意志を、私が生きようと思うということなら、親の恩を決めるのも私の思い次第です。しかし、この生きんとする意志は、いのちが始まる時を言うのですから、今の私の気持ちがどうであれ否応なしにこの身として始まっているという事実ですね。ここに気づけば父母の恩重しです。私の思いよりも深く、私の意識よりも前に、生きんとする意志が私の生の初めとしてすでに始まっている。そういう私を頂くのでしょう。こういう生の根源を韋提希に享受して、そして発菩提心へと続いていきます。

  で、この発菩提心なのですが、正直困っております。なかなか難しい。当初はそう気にしてなかったのですけど、いざそこを通り過ぎようとした時に大きな壁みたいになってしまいました。

  この発菩提心は最後に「また菩提というは、すなはちこれ仏果の名なり。また心というは、すなはちこれ衆生能求の心なり。ゆえに発菩提心というなり。」の言葉で終わります。これも難しいですが、その前の菩提心の説明もなかなか難しい。「我が身、虚空に同じく心は法界に斉しく、衆生の性を尽くさん。」これをどう解釈するのだろうか。

  とにかく、この「菩提というは仏果の名なり」ですから、ここで言う菩提とは仏果の名前だということですね。仏果の名前なら他にもあります。法、法性法身がある。涅槃もそうでしょうか。まだ他にもあると思いますが、ここで言う菩提はその名の一つであるということです。また、衆生能求の心は衆生自らが求める心でしょう。これは仏果ではありません。あくまでも衆生という人間の心です。だからこの「菩提は仏果の名なり、また心は」というのは、菩提は仏果であり、また韋提希の菩提心は衆生が浄土を求める心である、とこうなるわけです。

  衆生を超える仏果と、韋提希の菩提心は違います。しかし、ここではある関係としてこの両方が生まれている。こういうふうにも読めるのですね。「我が身、虚空に同じく心は法界に斉しく」我が身をどこの我が身と捉えるかですが、この場合はやはり生の初めとしての我が身でしょうね。そしてその身は虚空に同じです。そして心は法界に斉しですね。するとこの心は韋提希の衆生能求の心というよりも、自の業識である生きんとする意志になるでしょう。ここでの法界も虚空も同じことだと思います。だからこの生の初めの我が身と心は法界に斉しい。その我が身と心を基礎認識としている韋提希の衆生能求心が発菩提心である。こういう言い方ではないかと思うのですね。

  そしてこの韋提希の発菩提心を私の信心としていただく時が、今この私を頂くという信心である。「如来よりたまはりたる信心」をこういうふうに思うのです。なかなか難しい所で、かなり消化不良な処になっています。ただこれは善導大師の念仏における信心ということで話しておりまして、法然上人は偏依善導と言われますように、善導大師の御信心を自らの信心だと言われるわけですから、こういう内容が法然上人の専修念仏の背景にもあるということかなと思う訳です。今日は「如来よりたまはりたる信心」を自分なりに探りながらここまで来ましたが、まだまだぼやけたところが多いようです。

  また、一般的に法然上人の専修念仏で、こういった信心が言われているとは聞ききませんが、当時の民衆に進められた専修念仏にこういった背景があったのではないかと考えるところのものです。そして思うのは、親鸞聖人は比叡の時にすでにこの観経疏を読破されていたのではないかという事ですね。

歎異抄第3条

令和2年9月 秋彼岸会より

  今日は歎異抄第3条を話すことにしております。この条の「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉はすごく有名です。今回どのような話をしようか考えていたら、昔の原稿に面白い言葉がありまして、それを取り上げながら話すことにしました。で、それは誰の言葉かといいますと立松和平氏の言葉だと書いてあります。自分で書いて忘れておりますが、原稿が平成19年のものですから覚えてないのも仕方がないかなと思います。

  「強力な先祖に縛られているのも苦しいが、祖先の物語を忘れて神話を喪失してしまったら、自分が何者であり、何故ここにいるのか分からなくなってしまう。」

  この言葉はイースター島のモアイ像について書かれたものです。イースター島はかって島民が滅んでしまったという説がありまして、その島民が滅ぶ原因とモアイ像の関係をイメージして書かれた時の言葉です。今はインターネットでモアイ像と検索すると最新情報が出ますので、興味がある方は検索していただく事にして、立松和平氏のこの言葉だけを引用して、歎異抄第3条を考えることにしました。

  ところで、私たちは立松氏が言われるような強力な先祖を持っているでしょうか。現在はなくても以前はそういう強力な先祖に縛られていたことがあったでしょうか。もしかってはあったとすれば、それはいつ頃なのか、そしてどのような様子でそれは存在しただろうか。

  現在の日本では無宗教が常識のように言われますが、実はこの何となくでも無宗教的だと言われているのは戦後からでして、それ以前はかなりの宗教の国だったと思っています。たしかに戦前・戦中における国家神道を例に挙げればそうなるわけですが、しかし突然降って湧いたように文化がガラッと変わることはないのですから、そういう国家的な宗教観もまた、庶民の宗教的な素地がなければ簡単には染まらないものだとも思います。そういう面では日本においての宗教観が習俗化していくのはもっと以前ではないでしょうか。少なくとも江戸時代頃までに定着していったのじゃないかと思っています。そういう日本において、またこの近年の日本において、先祖とすごく近い時期があったなら、それはいつ頃まであっただろうか。そして何故今はないのか。

  まず、戦後教育があるでしょう。まさしく自分が受けた授業そのものですが、先祖についての授業を受けた記憶はありません。家では両親や祖父母あたりまでが生活の現場ですから、当然、両親やおじいちゃんおばあちゃんを大事にしましょうなどといった話はあったでしょう。しかし、それよりも以前、それも何処まで遡るか分からないほどの祖先をどうしろと言った話はなかったように思います。

  昭和20年、1945年が終戦の年です。それから2年後、昭和22年に家長制度が廃止されました。それまでは家の長を戸主と言うそうですが、それ以外を家族と言ったそうです。戸主と家族という形ですね。代々長男が戸主になり一家を統率する習わしが家長制度です。そこには全財産の相続権もその戸主にありました。次男や三男には相続権はなかった。娘にいたっては嫁入りの費用がかさむのでいろいろと制約もあったそうです。また女子の家長も認められたそうですが、暫定的であり、あくまでも男子家長が原則だったようです。

  家長制度ですから家が中心の制度ですね。家族と言っても今の家族構成などとはイメージが違うものでしょう。そしてその家の家督相続で戸主が全てを受け継ぐのですから、戸主はその家の歴史も一手に担うことになります。それはそのまま家の祖先を受け継ぐことでもあったでしょう。この家長制度が廃止されたのが終戦から2年後1947年です。

  日本において強力な先祖に縛られている姿が、この家長制度の戸主と家族に見えるといえば大げさかもしれませんが、案外そういうことかもしれないなと思います。この家長制度は明治に始まったそうですが、もともとそれまでの習わしが制度化されたのでしょうから、それまで先祖代々受け継がれた日本の風土を明治時代に制度化したといってもいいと思います。当然かなりの弊害があったことも想像できますね。

  昭和22年にこの家長制度が廃止されて祖先との呪縛も無くなり、遺産相続などは様変わりして現在にまで至っているわけですが、では、この文にある「祖先の物語を忘れて(祖先の)神話を喪失してしまったら、自分が何者であり、何故ここにいるのか分からなくなってしまう。」という言葉はどうなったでしょうか。

  現在は祖先という言葉はほとんど死語になっています。誰も考えていないでしょう。優しくしてくれたおじいちゃんやおばあちゃんくらいまでではないですか。しかし、それだけでは自分が何者でありどこから来たのかといったような、アイデンティティーというものは出てこない。ところが、私が気がつかないまでも、そういった日本の風土や歴史を自分の血や肉として、何がしら背負っていることも間違いないのでしょう。そうじゃなかったらここに居ませんから。

  今日お参り下さっている皆さんも全くの偶然でここにお参りされているわけじゃありません。何かの縁がこうしてお参りされている背景にあるのでしょう。背負っていても自分では気がつかない。それほど近いもの、見えないもの。そういうものとして祖先がある。見たこともないし、肌で感じる訳でもない。あるのかどうかも分からないが、だからといって無いのではない。その人その人が持っている感じ方や考え方に癖があるように、そのくらい近いものとして祖先がある。

  これが歎異抄の「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」の言葉ににある善悪の問題だろうと思います。でもね、いきなりこれが歎異抄の善悪の問題だと言っても何のことか分からないですね。しかし、善悪とは、あなたにとっての善悪であり、私にとっての善悪ですから、私にとっての善は善きもの、私にとっての悪は悪きものです。当たり前のようですが、善い悪いは自分の都合できまる。

  もうひとつ、客観的な善いもの悪いものとされるものがある。法律や社会性で善いとされるものや悪とされるものがあるでしょう。戦前の家長制度は長男が家督相続する法律ですね。女の子が先に生まれても長男が継ぎます。では、女の子しか出来なかった場合はどうなるでしょうか。その時はおそらくですが、長女が継ぎます。ただし婿養子が来たらその時点で婿養子が戸主だそうです。女子はそれまでのつなぎですね。

  じゃあ、男も女もいない場合はどうだといえば、戸主は親族会議で決めるようです。親せきからそこの家に戸主が来たのでしょうか。家同士のつながりが現在とかなり違っているようです。長男は生まれた時から家督相続の対象で、その家の歴史もろとも全部担う。その代わりに次男や三男は何も継げません。詳しい財産分与の仕方は調べないとよく分かりませんが、今とはかなり違ったものだったでしょう。

  これは想像ですが、戦前にこの炭坑の地に地方から働きに来た人たちはおそらく次男や三男でしょうね。で、この家長制度を考えると、その人たちは稼いだ賃金はどうしたと思いますか。自分で使ってしまったでしょうか。酒飲んで博打してその日暮らしで暮らしたでしょうか。男の場合はそういう想像もたやすく出来ますが、炭坑には女子もかなり就労しています。これはどう思いますか。里の家に仕送りをしていなかっただろうか。田舎には戸主が家族を養っています。その子供たちがこの炭坑に働きに来ているとしたらどう思われます。

  家長制度の時代に生きた人々は、家のために懸命に働き、その賃金のほとんどを里の家に仕送りするのが当たり前だったかもしれないでしょう。今私たちが生きている世界など知らないのですから、そこに生きた人はそれが当たり前だと思い、それが善だと思った。しかし、今生きる人から見てそれはやりすぎだと思うなら、それは善ではない事になる。まして自分の体がぼろぼろになるまで働いて、その賃金の全てを仕送りするなら、それは社会的においてもおかしいと思う。そうするとそれは悪になる。

  時代において善と悪が変化するでしょう。家長制度に何も異議を感じない人は善人だったのか悪人だったのか。考えていくとなかなか難しい問題です。それぞれの時代には何がしらの善悪があって、そしてその時代状況に生きた人たちがいたということですね。そしてそれを今の自分が外から見て善や悪だという。また、当時の法律や社会性においても、善いとされるものが一個人においては必ずしもそうはならない事があったはずです。まして戦時中ならめまぐるしく善悪の価値観が変わるのではないですか。

  こういう時代状況の違いや社会性の違いの中でもずっと変わらずに続いているものは何だろうか。それは、あれが善だとか悪だと自分の都合で見たり決めたりしてきた、それぞれの時代を通して繰り返されたそれぞれの人のこころの在りようである。そのこころを分別心というのですが、その繰り返される分別心の歴史に、自らの姿を見る。そういう人を歎異抄では悪人と言っています。だから他人を悪人だとかとやかく言うのではなくて、そういう自らの姿を言っているのですね。

  そして善人とは自力作善の人です。自らの分別心を頼りにする人でしょうか。考えてみると、この分別心を頼りに生きるというのは、自分の経験値を生かすことでしょう。状況を読み、何をなすべきか。今日の話の家長制度で言うならば、戸主が家族のためにある状況下で何をするべきか考えて行動する。言い方を変えたら、自分の力で自分が思う処の善をなすです。まさしく善人じゃないですか。じゃあこの善人である自力作善は何故いけないのでしょうか。

  それでは、この辺りで歎異抄第3条を読んでみましょうか。歎異抄第3条全文になります。 

 【 善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや。」この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころのかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからずを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。】

  歎異抄は悪人が善人より優れているぞとは言っていません。善人は本願の意趣に背いていると言っています。何故本願の意趣に背いているのかここに書いてあります。他力をたのむこころがかけているからだ、という訳です。

  自分の人生の経験値が自分の全てだとする方もおられるでしょう。しかし、生まれた環境や血筋などもありますから、一概に自分の経験値だけが全てだと思わないまでも、自分の努力を考慮したらやはり自分の経験値がものをいうのだというのが、だいたいにして普通の見解じゃないですか。

  そこまでは理解できますが、その自分の経験値を描くこころのキャンバスの素地においても、すでに祖先の血の模様が描かれているというような表現はなかなかしない。私にまでなった祖先の歴史とは、私が思い感じるところのこころの背景にまでおよぶということですから、私が何かを見て考えるとして、その私が何をどういうふうに考えるか、その癖においても祖先の歴史が関わっているという事ですね。その全てに祖先の分別心が繰り返され続けた歴史模様がある。

  例えばここに黒板がありますね。今日の話を黒板にいろいろと書いていますが、この書いている文字が現在までの自分の経験値だとするでしょう。今話しているのはこの文字を書いている黒板自体のことを言っていることになります。黒板と言いながら実際の色は深緑ですが、その黒板にチョークで経験値を描いていくとする。するとその黒板自体は無色であるという約束事がどこかにあるでしょう。しかし実際は色はちゃんと付いています。この黒板の色の事を言っているのでして、無色であるという約束は勝手に自分がそう決めているだけであって、黒板そのものにすでに模様が描かれている。その模様が祖先の歴史という模様です。自分の経験値はそこに上書きされているという事ですから、そこに描かれた文字は黒板の模様とのコントラストでありながら、その全体がそのまま自らであるといった表現になると思います。

  この黒板は私のこころの領域なのか、それともこころの領域を超えたものなのか。こころには無意識の領域があるといえばそれがこころの領域にも聞こえますし、また無意識は身体的な領域にあるといえばそれもそれなりに聞こえます。総じて専門の学者じゃありませんから分からないのですね。ただ意識が何かを素地にして現れるのなら、たとえ意識が無になっても素地はそのままです。

  このこころの領域を、私の血となり肉となった分別心の永い歴史として見て、それをここでは生死といっているのではないでしょうか。第3条のこの「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからず」という言葉は、そのことを言っているようにも思えます。それでは、何故それを悪とおさえるのかという問題がありますね。これは分別心の捉え方によるものですが、また別の機会に話したいと思います。

  仏教では善因善果・悪因悪果です。しかし善悪がどのような状況でも同じかと言えば変わってくるでしょう。親鸞聖人は善因善果・悪因悪果というよりも、「因浄なるがゆゑに果また浄なり」と言われますように浄因浄果です。因が浄であるからこそ果もまた浄である。親鸞聖人は浄土往生を問題にされますので、それについての善悪ですから、悪というのは浄土の因に非ずという事ですね。何故なら悪は浄ではないからでしょう。だから私において往生浄土の因がないということは浄にあらずであって、それは悪人としての自覚がそういわせているのです。しかしその悪人の自覚こそが浄土往生の正因に他ならない。何故なら本願の本意は悪人成仏にためだからだということになります。

  今日このように歎異抄第3条を読んでみて感じることは、この善人悪人は二人を並べ比べたものじゃなくて、一人の人間が生きることにおいての生と死の問題だと思いました。精一杯に生きてもそれが自分が納得するものになるかといえばそういうわけではない。また、さぼれば身になるというような都合のいいものでもない。そういう中でのいうなれば人生の謳歌と躓きじゃないかと思います。自力作善と書いてありますが、自分の力で出来ると思っている人は自分を謳歌しているのでしょう。

  また、朝起きて顔を洗いに行くでしょう。鏡の前でまず躓きます。みなさんはまだ大丈夫ですか。老というのは何やかや言っても躓きじゃないだろうか。そしてもうすぐ死です。人生の謳歌は振り返ればけっこうあったような気がしますが、その最中はなかなか気づかいないものですね。しかし躓きはその瞬間で分かります。往生浄土はこの瞬間の問題かなとふと思ったりします。

  今日の話は歎異抄の善悪の問題がまだ不十分だということは分かっていますが、今日話したところの善悪もまた歎異抄の中のものであります。

  で、最後に話をまた立松氏の言葉に戻しますが、「祖先の物語を忘れて、神話を喪失してしまったら自分が何者であり、何故ここにいるのか分からなくなってしまう。」この言葉に自分の考えを添えて終わろうかなと思います。この立松氏の言葉が何故気になったのかというと、この神話を喪失すると自分が分からなくなるということですが、この神話の喪失と自己の喪失がどういうものなのか。

  ご存じのように、真宗にも法蔵菩薩という神話があります。神話と言っていいのか分かりませんが、神話だといえばそうかもしれない。そういう神話だとか違うとかいうのではないけれど、この言葉にある神話の喪失とアイデンティティーの喪失、つまり自己の喪失ということを、立松氏はどのような意味で言われたかなと気になったものですから取り上げました。

  イースター島においてこの神話とは何だったのか、まだ謎のままです。しかし地図で眺めてみると、イースター島は南太平洋の絶海の孤島ですから、逃げ場のない海に囲まれた小さな範囲での神話です。そこにある神話は天と地が垂直に関係した神話ではないだろうか。それこそ垂直に先祖・祖先がそのまま神話化している。自らがそこにいることにおいての垂直的なものを神話と言われているのかなと感じた次第です。だからこういうのを垂直型と言わせてもらいますが、こういうタイプはおそらく東洋的じゃないかもしれない。

  じゃあ東洋的とは何だといいますと、あやかるといいますか、そこに行けばパワーを貰えるというようなパワースポット。神社仏閣のご神木に触れたり側にいたりすると、自分までいい風が当たってくるというような、あやかり型じゃないかと思うのですね。だから東洋的な神話というのは、直接自分に関わりはないけど、しかしその神話は日本の国造りの物語だったりする。だからお伊勢参りをすれば何やら神話のパワーも頂く気がするというようなものじゃないでしょうか。専門的な見解ではないですから、そんな感じじゃないかなと思いますが、それに対して西洋哲学は自分をとことん掘り下げて、ついにはそこに神までを見出そうする垂直型ではないかと思います。

  そういう中で、法蔵菩薩はどちらだろうかと考えるのですね。そういうことを常々考えていますのでこういう言葉が気になったのだろうと思います。まだ答えはありませんが、真宗のご信心には法蔵菩薩がおられます。そういうことも気に留めていただければと思い、ついでと言っては何ですが最後に少しばかり話した次第です。

  

  

  

ブログに関するご質問

「教巻への一考察」についての感想

「教巻への一考察」をブログに載せてしばらくが経った。書いた直後はあまり見たくないのでそのままにしておいた。読み返すと(いつものことだが)表現の至らなさと内容の乏しさを痛感する。いまさらではあるが、少しばかりこの「教巻への一考察」についての経緯を述べてみようと思う。まず、この「大」と「無量寿」の関係を、それもやや無理やりであったが、ア・プリオリの概念と結び付けた。これは証巻にときにカント(ドイツ観念論)を意識していたので、それならばと、教巻においても同じことが言えるだろうということでア・プリオリの思考を用いた。結果意外なことに変換が必要になる。そしてその変換が観経における浄土と阿弥陀仏の関係を思い起こさせたのは意外だった。カントが親鸞を知っていたとは考えにくいし、もし知っていたならこの変換も必要がなかっただろう。そして親鸞がカントを知っているはずはない。親鸞とカントとの関連は謎のままである。
次に親鸞の語句の読み変えである。意図的な読み変えなのは間違いない。後程この問題は現れてくる気がするが、釈尊その人という具体性がおそらくキーワードではないかと思っている。ブログにもそれを思わせぶりに書いたつもりである。

証巻 正定聚について その② 曇鸞における自性清浄浄土の定義としての考察

エトムント・フッサール著『イデーン』Ⅰ―1 純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想
第一巻 純粋現象への全般的序論  渡辺二郎訳
第三章「純粋意識の領域」
第四十八節 「われわれの世界を離れてその外にある世界というものの、論理的可能性と事象的背理」

『浄土論註』下巻 礼拝門・讃嘆門の編集後記

『論註』に興味のない人にはつまらないものになったかもしれません。引用文が長いのでそれだけで目を通したくなくなりそうなものでもあります。法話としてかなり無理な試みではありますが、この讃嘆門は以前からクリアしたいところでした。当の本人はというと、けっこう満足しております(笑)。問題点は多々ありそうですが、目下のところはこの程度だろうと一息付けた感じです。しかし、少し時間が過ぎて改めて見直した時に、のっぺらぼうな文章が羅列されているだけのようにも感じました。解読としたら、現時点ではこれ以上のものは自分にはありませんが、法話としたら及第点にも至っていないでしょう。ここで一点だけこの讃嘆門を説明したいと思います。三信三不信の問題でありますが、このヵ所は前日まで書けなかったところです。原稿を構成する暇もなくて、法要の当日に加筆し訂正したところもあります。意味そのものが分からずに戸惑っていたときに、これは付け加えられたものだという思いが飛び込んできました。実感としたらそういったものです。実相身為物身の問題はわりと早くから想像はついておりましたが、三信三不信はそこに付け加えられたものだという発想そのものがなかったのです。考えて見れば、「我一心について」で述べたものがここに出てきただけですが、当の本人はそれにぜんぜん気づかずに悪戦苦闘していたわけです。『論註』はすごく難しくていったいどこまで行けるのか分かりませんが、もう少しだけなら行けるかもしれない、そういう感覚で次回も考えております。のっぺらぼうの文章も悪戦苦闘の末にできた荒れ地の跡である、と想像していただければ幸いです。

観経疏の発菩提心に思う事

本来はこういう発菩提心を話す予定ではなかった。この散善顕行縁はどこか素通りしていたので、こういう壁が有ったことが自分としては驚きだった。分かったつもりで過ぎた処にかなり苦しめられて、結局この発菩提心が主題の原稿となった次第である。最後のヵ所は何回も書き直した場所だ。まだ消化不良の多い所であるがひとまず結論的に置くことにした。親鸞聖人が比叡に居られるころに観経疏はすでに読破されていたと考えるのはかなり前からである。ただ、この原稿が法話として成立するかどうかと考えた時に、ずいぶんと乱暴な原稿だなと思う。もっとざっくばらんに書きたかったなあ。

(自灯明・法灯明)と念仏についての考察

この「(自灯明・法灯明)と念仏」は、聖覚法印の『唯信鈔』を意識して、曽我量深選集の歎異抄聴記の第二条を述べたものである。選集第二条における法の引用文をもとに『唯信鈔』を現代タッチに表現しようと思った。理由は、歎異抄第一条と第三条を続けて構成しようとしたら失敗した経緯があり、この第二条は別の角度からのアプローチが必要だと考えたからである。法の深信とは自己規定を法から示されるものなのかもしれない。また規定として示すとは、法との関係において示すのであり、いうなれば関係性という形である。それに対して機の深信は、法との関係によって現れる自己の深まりである。深まりは動詞であり、深まりつつある自己の姿を現すのだろう。第一条からいきなり第三条へと飛べない理由が、この法との関係を前提にしなければ困難だからだと思ったからである。それを『唯信鈔』をもって表そうとしたわけはまだ自分でもよく分からないところであるが『唯信鈔』が元来そういうものだということなのだろうか。しかしながら当初からそいう事を考えて原稿を作成したわけではない。後から考えたらそういうことじゃないだろうかと思っているだけだが、布石という理由で、ひとまず初めに措いておこうとしたのは確かである。

歎異抄第3条の編集語録

彼岸会での原稿を纏めていたら後半が煩雑になっていることに気がついた。意識とこころ、こころと無意識、身体と無意識。不明なことが多い中で話を進めるのが難しかった。なんとか自分なりに纏めたつもりである。法蔵菩薩の問題は第3条から登場するのはある面必然的だと思うので付け加えている。

「気遣い」と「よしあしの文字もしらぬひとはみな まことのこころなりけるを」

「不安」編ではハイデガーの『存在と時間』について自分の所見を書いてみた。そこにおける気遣いは、親鸞における善悪の問題と共通点が多い。正像末和讃で「よしあしの文字もしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがほは おおそらごとのかたちなり」と親鸞は述べている。この「よしあしの文字」だが、これを「気遣い」と「不安」の関係に見るなら、それは「気遣い」における意識関係の前後になる。無に対して「不安」「居心地の悪さ」から発して何かを気遣うまでの過程を気遣いの前後とするなら、親鸞における「よしあしの文字もしらぬひとはみな」は気遣う前の段階である。それはハイデガーにおいては、そこにあるのは「不安」における心の動きだけであって、気遣う処の具体的な内容は無い。これをもしこの和讃に当てはめるなら、それが「まことのこころ」であり、ハイデガーでは身体的な機能に属する意識のあり様ということになる。そして「善悪の字」は気遣う内容を言葉にしたものだろうから、それは何かを意識するということであり、「善悪の字」は「気遣い」として見ても「おおそらごとのかたちなり」なのだ。共通するものは他にも多く見ることが出来るかもしれない。だからと言って全てが同じだということでもないだろうが。そしてすでに十数年たっているのでかなり忘れしまった。こういう論理的な構築は様々な所見の取り扱いに対して目安になる事があるのでとりあえず書いておくことにした。

宝樹観について

数年ぶりに宝樹観を読み直し編集してみたが、迷路に入ったりでとりとめがなくなった気がする。当時の法話原稿とはかなり違ったものになったが、まずはこんな話を黙って聴いていただいた申し訳なさが感想である。これは宝樹観本文全体をまとめた感想を構成としているので、意味内容よりもその関係の仕方が中心になっている。課題の多いヵ所だったことを肝に銘じてひとまず宝樹観を終了することにした。

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