『浄土論註』上巻 作願門

令和4年9月 秋彼岸会より

『浄土論註』上巻 作願門

「 願生安楽国とは、この一句は作願門である。天親菩薩の帰命の意をあらわしている。安楽の意味はあとの観察門の中にくわしくのべられている。

 問う。大乗の経論の中には、処々に衆生はつづまるところ無生(空)であって、虚空のようなものだと説いている、であるのに、どうして天親菩薩は願生といわれるのか。

 答う。衆生は無生であって虚空のようだと説くのに二種ある。

 一には、凡夫が思っているような実体的な衆生、凡夫が見ているような実体的な生死というもの、そのような事実はけっきょくあることないもので、ちょうど年老いた亀の甲に毛があると錯覚するようなものでしかないから、虚空のようだというのである。

 二には、諸々の存在は因縁によって生じているものであるから、とりもなおさず不生である。だからあることがないのは虚空のようだというのである。

 天親菩薩が願われる生は因縁の意味である。因縁の意味だから仮に生と名づけるのである。凡夫が、実の衆生あり実の生死ありというがごときものではない。

 問う。どのような意味で往生を説くのか。

 答う。この国の人々の中にあって、五念門を修するという場合、前念は後念に対して因となる。この娑婆世界の人間(因)と浄土の人間(果)とは、まったく同一ではない。しかしまったく異なるものでもない。五念門を修する場合の前心と後心も、またこのようである。

 どうしてかといえば、もし同一であれば、因果がないことになるし、さればとて異なるなら娑婆の世界の人間と浄土の人間とは連続していないことのなるからである。この意味は一異を観ずる論に中にくわしくのべてある。

第一行の三念門の解釈をおわる。」

ー 令和4年9月23日 秋彼岸会より ー

 今日は論註上巻の作願門をお話ししようかと思っております。前回の下巻の讃嘆門でかなり一杯いっぱいでしたので、はたしてうまく読むことができるか心配ですが、とにかく話すことに致します。相変わらずお聞き苦しいかとも思いますが、宜しくお願い致します。

 作願門をこうして読んでみると、相変わらず難解であります。また、年を取った亀の甲羅に毛があると思ったことがないし、甲羅に毛があるようなことも知らなかったし、それが錯覚だとも思ったことがないものですから、このたとえそのもがピンとこない。論註には様々なたとえが説かれてありまして、何のことか分からないものや戸惑うものもあります。国の違いや曇鸞大師の生きてこられた時代背景もあるでしょう。それも含めて言わんとされるのは何か、それが問題である、などと偉そうに言ってみてもですね、実際の器量もありますから察しようと思ってもそうは問屋が卸さないことも重々分かっているつもりです。でも、これが最近の法話のテーマでありますから、それも含めて話が出来ればと思います。で、すでにこの年寄りの亀の甲羅に毛があるか無いかで戸惑っているわけです。

 曇鸞大師が生きておられた時と処を同じように体験することは出来ないのでして、そういう面では親鸞聖人も鎌倉時代のお方ですから、現在の私たちの感じる感覚とはまた違うはずです。しかし、それでも人間としての芯が違うかと言えば同じだといっても差し支えないのではないでしょうか。

 この前、ご法事の中休みにご親族の方と世間話をしていました。「007シリーズの最新版、ノータイムダイ」が来ているから観に行きたいと話しておりました。そうしたらですね、二十代の男性が何やらニヤニヤされている。で、そう思いませんかと尋ねてみました。するとわりとキッパリそう思いませんと返事をされるのですよ。しかし、ああいう映画は大きいスクリーンで観た方が面白いでしょうと聞き直すと、またかすかに笑われる。要するに入場券を買ってまで観ようと思わないということでして、ビデオで観ればいいから、それはそれでそういうものかと思いました。それで、また聞き直して、では「鬼滅の刃 無限列車遍」なら観に行くかと尋ねると、それは行きたいと答えられる。こちらは「鬼滅の刃」こそそうまでして観に行こうとは思わない。映画館で館内を見渡すと大体が同じ世代の人が多いですね。世代が違うと映画の嗜好も変わってくるようで、自分はどう考えても「鬼滅の刃」より「007シリーズ」の方が観たい映画である。これ、世代を代表する意見といえるかどうかですが、けっこうそう言えるのではないですか。

 私が育った時代は科学の時代、今も科学の時代ですが、私が育った時代は科学信奉の時代で、科学がまず一番先にあった時代。科学的でないのは迷信である。科学の研究者はそうは言わなかったかもしれませんが、科学を何となく思っている程度の人は、科学的でないのは迷信であると思っていた。

 以前は、49日は三ヵ月かかるといけないのですかと、ご門徒さんが心配して聞かれると、それは迷信ですと答える。しかし、どうも受け答えがかみ合わないことも何となく分かっていました。すると、迷信とは雑草と同じような意味だと考えるようになる。雑草などという草はないのですから、迷信もまた何かの意味があるのではないかと、考える人が出てくる。そうすると、それは俗信ですと答えるようになる。俗信を、その地域に根付いた生活と密接に関係がある習俗だとすると、そこに何かの理由で禁句というのが出来て、そしてそれを禁ずることで周囲が調和することですね。この指とまれで、村社会や地域性に禁ずるものをもうけて、それによってその周辺が団結するということですが、これは生活の知恵ではありますが、また閉鎖性がつよくなることもある。現在でもよく聞きますいじめ問題もこういう深層的なものが何処かにあるのかもしれないでしょう。

 迷信をひとくくりにしないで、それぞれの成り立ちにスポットライトをあてていく、いわば迷信の細分化ですが、これを科学というのかといえば、これも科学的ではないでしょうか。で、今も科学の時代ですが、科学と魔法が同じ場所にあるような気がする時代、これが現在ではないかと思ったりしております。「ハリー・ポッター」のように魔法の杖ひとつでいろんな事が出来るなんて思わなくても、何となく科学が全てではないと何処かで思って入る時代。そんな気がしませんか。しかしこう言いましてもですね、おそらく私たちの世代はそれほどは強くはそう思わない、違いますか。これは若い方に聞いた方がいいと思いますが、どこか私たちの感覚と違うものがあるのではないかと思いますよ。「007」と「鬼滅の刃」の違いですね。

 私たちはしょせんマンガじゃないか、ということから「鬼滅の刃」を観る。そして内容はなかなかよく出来ていて、けっこうおもしろいと思う。では、若者はどう思うのか。若者でもないものが察しても仕方がないのですが、あえて言えば、科学信奉でないならば、しょせんマンガじゃないかという発想はなくて、内容が充実しているならそれでいいのですね。そしてこの科学信奉という偽りをどこかで気づいているのかもしれない。情報過多の時代に生きている中で、この盲目的な科学信奉は嘘っぽい、そういう空気をすいながら大きくなってきたのではないかと、もう若くないというか、年寄りがそう考えるわけです。年寄りは漫画だから嘘っぽいと思い、若者は科学信奉が嘘っぽいと感じている。で、この両方のどちらが正しいかといえば、どっちもどっちだというのが大体の答えになりそうですね。

 じゃあここに何があるのだろうかといいますと、空気の流れのような時代の変遷でしょう。その時々の時代に流されて生きているものだから、何処からどこまでが自分で、何処からが時代の空気なのかよく分からない。すると、オレがオレがと思っていたら何処までがこのオレなのか分からなくなる。こういう点では老人も若者も同じかもしれないでしょう。この『浄土論註』が顕された時代は、現在のような科学的な見識などほとんどなかったでしょうね。今の私たちの日常から科学を消してしまって、そのうえで生活しようとしたらどうなるでしょう。とうてい考えられないというのがほとんどの方の答えではないかと思います。

 しかし、それでは人間というものに何か芯というものがあって、その芯も時代の移り変わりと共に違っていくのかというなら、きっと変わらない芯があるはずだと答える自分がいます。だから曇鸞大師が気になるのだし、親鸞聖人が何を説こうとされてきたのか知りたいと思う。

 年を取った亀の甲には毛があるのは錯覚であるという話が長くなっていますが、たしかに亀の甲羅に毛があるなどとは考えたことがありませんが、年を取ることが時代の空気に染まり続けるということならば、その空気の色や臭いがしみこんだ私という年寄りの見識はまた、この私が自分だと思っている漠然とした、モヤモヤっとして、いわば年取った亀の甲羅に生えた毛のようなものかもしれないですね。

 この作願門は天親菩薩の帰命の意をあらわしている、というのがこの上巻の作願門の初めの言葉です。そこにふたつの問を出されています。その最初の問いが「大乗の経論の中には、処々に衆生はつづまるところ無生(空)であって、虚空のようなものだと説いている。であるのに。どうして天親菩薩は願生といわれるのか。」この願生の問いは、そこに願が生じることですから、衆生が無生(空)であるならば、それを願生するところの発露といいますか、そういう起点がはたして衆生にあるのかということではないかと思います。

 この問いに答えられるときに、この亀の甲に毛があると錯覚するという話が登場するわけですね。実体的な自分というものが分からないなら、外に見るものも実体性に欠けてくる。この衆生が無生であり虚空のようだということを自分なりに話した次第です。

 そしてもう一つの答えが因縁生ということですね。「諸々の存在は因縁によって生じているものであるから、とりもなおさず不生である。だからあることがないのは虚空のようだというのである。」この因縁生というのは、前回讃嘆門の下巻で話しました衆生性にける根性論をそのまま持ってくればいいかと思いますが、因縁生とは業の問題だと思います。亀の甲の毛は時代という空気の問題ですから、生活と環境とその流動性。これに対して因縁生は業の問題でしょう。

 讃嘆門では、衆生性の根性論という言葉を使って話しましたが、身口意の身とは身体のことですから、日常の具体的な振る舞いもはいるでしょう。口は言葉です。会話でいろんなことが起こります。意は心ですから何を思い、そして何を考えているか。こういうふうに言ってみると、どうも良い事のほうがあまり浮かばないのはじぶんだけでしょうか。何を考えているかといえば、不安だったり、心配したり、うらやましがったり、愚痴ったりで、だいたいろくなことは出てこない気がする。根性が悪いからでしょうか。そしてこの身口意をもって生活があるのですが、他人との関係でもこの身口意をもって関わりますから、そこに当然様々な関係が生じて行きます。これを業というのだろうと思います。

 ただ、そこに私として連続する同一のものは何かというと、そこに私の根性がある。もっといいものが出ればいいのですが、じっと考えると根本には私の得体の知れぬ根性がある。性格もそうだし、そういう根性というものが深く私の業を作っていることはよく分かるのですね。しかし、ではその根性というものが実体的に有るかといえば、あるようないような。こういうふうに考えていくと私という個としての存在が段々と不確かになってきませんか。当たり前と思っていた私というものが、状況次第で、風に吹かれれてふらふらとさまよう根無し草のように思えてくるなら、それは様々な因縁により生まれ、また因縁により変化するようなものである。それは、私という主体性があるとも言えないし無いとも言えない虚空のようなものである。

 この二つの虚空をまずあげられて、そして「天親菩薩が願われている生は因縁の意味である。」と言われますね。じゃあ、天親菩薩はこの二つめの虚空である因縁生を願われるのかいうと、そいうことではないですね。この場合は、おそらく因縁にみることろの人間の心のメカニズムでしょう。どこのだれかの因縁がどういうものかというのではなくて、どこの誰でもの生であるところの心のメカニズム、このメカニズムということが分かりにくいなら、その時々の心の在りようは、状況次第でおおよそ同じような動きをするということでしょうか。「みんな違ってだいたい同じ」、最近聞いた言葉ですが、これはアフリカ人の方が日本人と一緒に物を考えたりしたときに紹介された言葉ですが、様々な環境や状況の違いがあっても、そのアフリカ人と日本人の基本的な心の思考方法はおおよそ同じだったということですね。このような心のメカニズムは個人を超えて一般的ではありますが、その人がそこにどのような環境で具体的に生きて来たかということにおいては、その人ならではの心でありその人の個性でしょう。

 こういう心の在りようは、私の心といっても、どちらかといえば身体的な側面をいわれているのではないでしょうか。内臓機能を自分の気持ちで止めることができないように、心の在りようが身体に属しているなら、自分の心でありながら、把握しようとしてもとらえ切れることは出来ません。しかしまた、その機能としての心の在りようもまた自分であることに他ならない。では、この「天親菩薩が願われる生は因縁の意味である。」ということはどういうことでしょうか。私自身からしたら亀の甲羅に生えた毛こそが自分であり、こうして自らを生きてきた業こそが私の証であります。しかしながら、この心の在りようからすれば、それはたまたまそこに生えた毛のようなものであり、しかもそれが自分だと言い張っている私の姿がそこに有るだけです。しかし、だからといってそれ以外に何かある訳でもないですね。

 機能としての心の在りようがあるじゃないかといいましても、その心はこの私の思いが実有だと思いこんでいる、私という衆生の姿を映す鏡にはなれ、この私の思いに収まるものではないですね。この心の在りようの鏡とそこに写された衆生の姿との関係を、ここに因縁といわれているのだろうか。そしてそこに天親菩薩が願われる生の立ち位置があるのかなと、そう読ませていただいております。

 で、次に往生の問題が出てまいります。「問う、どのような意味で往生と説くのか。」この答えに、まず「この国の人々のなかにあって」と書いてありますが、この国とは、一応は浄土のことでしょうね。だから浄土の国の人々の中にあってと読むのだろうと思います。作願門は五念門の第三番目の門ですから、礼拝門からすでに浄土の門は始まっています。浄土の玄関まで来ているわけです。それが作願門でいよいよ浄土の玄関から奥に入る。私たちも便乗してここまで来ました。

 すると次に「五念門を修するという場合、前念は後念に対して因となる。」と書かれています。五念門の真ん中にあるのがこの作願門ですが、前念と後念をどこで分けるかといえばこの作願門である。この作願門の最初の問いが無生(空)がテーマになっています。この無生(空)であるところの虚空を立ち位置にして願生でありますから、礼拝門と讃嘆門がこの無生(空)の前念になりますね。それを「娑婆世界の人間(因)」と言われている。すると、後念は作願門を立ち位置にした第四門の観察門であり、それを「浄土の人間(果)」と言われていることになろうかと思います。しかしここに言われる「娑婆世界の人間」は、讃嘆門ですでに阿弥陀如来の名号の義(いわれ)を理解しているのだから、一応はこの浄土の国の人々である。しかしまだ虚空を実体と思いこんで生活しているから「娑婆世界の人間」だということでしょう。

 それでは「浄土の人間」とは何かといえば、この二つの虚空を実体と思いこむことでしか生きられない自らの姿を自覚していく人ではないですか。そしてその姿が名号の義(いわれ)とともに阿弥陀如来の光明に映されて、私に衆生の姿を賜るのでしょう。だから娑婆世界の人間であることが、そのまま浄土への人間を生んでいくということですね。門というのは出たり入ったりする場所ですから、行ったり来たりする。そして行ったり来たりしながら深まっていくのだろうと思います。

 五念門には前門と後門とにこの作願門という大きな門がある。そしてその作願門に「五念門を修する場合の前心と後心も、またこのようである」と述べられますが、この前心と後心といいますのも、この娑婆世界の人間の心と浄土の人間の心を、前心と後心とで言われているのではないでしょうか。その前心と後心が行ったり来たりする。それがそのまま、一ならず異ならずといった、不一不異を観じながら、少しずつ深まっていく世界であるといわれているのではないかと思っております。

 上巻の作願門をこういうふうに読ませていただく訳ですが、こういう読み方が的を射たものならば、この五念門は礼拝門から讃嘆門、そして作願門です。その次が本論の観察門で、最後が回向門です。本来ならばこの作願門は次の観察門の通路ですね。当然その観察門には入っていくのですが、この上巻の文を読みますと、作願門を行ったり来たりする。そして内容的には讃嘆門に納まるような気がするのですね。どういうことかなと、今後の課題にさせて頂くつもりです。で、今後の予定ですが、次の下巻の作願門をもってひとまず論註は終了しまして、その次からは親鸞聖人の御書物を中心にしてこの論註を訪ねて行きたいと思っております。

 

『浄土論註』下巻 礼拝門・讃嘆門

令和4年6月 永代経法要より

 礼拝門・讃嘆門から

 [ どのように礼拝するのか、身の業(わざ)をもって、阿弥陀如来・応・正遍知を礼拝したてまつるのである。諸仏如来の徳は無量だから、その徳をたたえる号(みな)もまた無量である。もし、それらについてことごとく語ろうとすれば、とても紙や筆でかきしるせるものではない。だから、いろいろの経典に、十名をあたり、三号をのせたりしているが、およそこれらは、最も重要なものだけであって、どうして(仏の徳が)それだけでつくせることがあろうか。ここでいわれている三号は、すなわち如来と応と正遍知とである。

 如来とは、ものの相(すがた)そのままに説いて、仏たちが安穏(さとり)の道より来られたように、この阿弥陀仏もまたそのように来られて、ふたたびまよいの世にもどることはない。だから「 如( より ) 来(る)」というのである。応は応共(おうぐ)である。仏は煩悩をことごとくのぞきつくして、あらゆるのもに通達した智慧をえて、一切の天地の生きとし生けるものの供養を(真実に)受けるに応(ふさわ)しい唯一のかたである。だから「応」というのである。

 正遍知とは、あらゆる諸法は(とこしえに)破壊されることがないのが実(相)であって、増えることも減ることもない、と知れるのである。どのように破壊されないかといえば、(諸法の実相は)心もおよばず、言語もたえたところであって、いわば諸法(の実相)は、涅槃の相の不動であるのと少しも変らないのである。だから「正遍知」というのである。(論に阿弥陀とかいてあるのは無碍光ということであるが)無碍光という意味は、前の偈のところで解釈したとおりである。

 その故は、彼の安楽国土に生れたいとの意(こころ)をなさんがためである。

 どうしてこういわれるかといえば、菩薩の法では、つねに昼三時夜三時に、十方のすべての仏たちに礼拝するが、これは必ずしも願生せんとの意(こころ)があるからではない。つねに願生の意(こころ)をなすべきであるからこそ、阿弥陀如来(一仏)を礼拝したてまつる、というのである。 

 どのように讃嘆するのか。口の業(わざ)をもって讃嘆したてまつるのである。讃はほめあげる、嘆ははうたいたたえることである。讃嘆は(人間においては)口でなければのべあらわされない。だから「口の業」というのである。彼の如来のみ名を称え、彼の如来のひかり明るい智慧の相のごとくに、彼のみ名の義(いわれ)のごとく、その実のごとくに修行して相応しようとおもうからである。「彼の如来のみ名を称える」とは、無碍光如来のみ名を称えることである。「彼の如来のひかり明るい智慧の相のごとくに」とは、仏のひかり明るいかがやきは智慧の相(すがた)である。この光明は、あらゆる世界を照らすにさまたげられることなく、よく生きとし生けるものの無明の(黒)闇をとりのぞくのである。それは、日や月や珠のひかりが、ただ空穴(へや)の中の闇を破るだけのような(小さな)ものではない。「彼の(如来の)み名の義(いわれ)のごとく、実(まこと)のごとくに修行して相応しようとおもうからである。」とは、彼の無碍光如来の名号は、よく生きとし生けるもののすべての無明を破り、よく生きとし生けるもののすべての志願を満足させるのである。

しかし、み名を称え(阿弥陀仏を)おもいつづけることがあっても、無明がなおあって、願いが満たされることがないのはなぜかといえば、それは(如来の)実のごとくに修行しないのと、み名の義に相応しないことによるからである。どうして実のごとくに修行しないのと、み名の義に相応しないことになるかといえば、(この無碍光)如来こそは、実相の身であり、衆生のためにこそ(仏になられたところの)身である、ということを知らずにいるからである。

 また、三種の不相応がある。一には、信ずる心が純朴でない。信じたり疑ったりするからである。二には、信ずる心が(専)一でない。決定がないからである。三には、信ずる心が継続しない。ほかの念(おもい)がまじるからである。この三つは、たがいに展開しあってなりたっている。つまり、信ずる心が純朴でないから決定がなく、決定がないから念が継続しないのである。また念が継続しないから決定の信がえられず、決定の信がえられないから心が純朴でないのである。これと逆なのを「実(まこと)のごとくに修行し相応する」というのである。だからこそ、論主はまっさきに「我れ一心に」と宣言されたのである。]   

 

 長い引用文になりましたが、前回は、上巻の礼拝門と讃嘆門でしたので、今回は下巻の礼拝と讃嘆を話そうかと思っております。分けて話すことも考えましたが、内容的にあまりよろしくないと思い、両方一緒に話すことにしました。引用が長いぶん話も長くなりますが、勘弁していただいてお付き合い願えれば幸いです。

 で、まずこの下巻の概要を簡単に述べてみたいと思いますが、この礼拝門は、今読みましたように、三号を礼拝すると書かれております。で、その三号とは何かといいますと阿弥陀如来と応と正遍知とである、ということでした。これを身の業(わざ)をもって礼拝する。これが礼拝門の内容です。そして讃嘆門はその三号を讃嘆する。こういう事になっているようです。

 礼拝門では三号ということが説明されていて、讃嘆門においてはその三号を口業の念仏でどのようにとらえていくのかが、ここの問題になっているような気がします。礼拝門の終わりの処に「その故は、彼の安楽国土に生れたいとの意(こころ)をなさんがためである。」と書いてありますが、この文章が礼拝の終わりに措かれてありまして、そして次の讃嘆門が始まるわけです。おそらくですが、この文章は讃嘆門へのつなぎの役をしているのではないかと思っております。下巻の礼拝門は三号のそれぞれを説明するだけで終わっていますので、讃嘆門はその三号を口業の念仏において主体的にあらわそうとされている。簡単な概要でありますが、そういう事ではないかと思っております。

 それではまず、礼拝においての三号の最初であります阿弥陀如来から話をすることにします。この阿弥陀如来ということですが、こうして読んでみると「如来とは、ものの相(すがた)その如(まま)に説いて、仏たちが安穏(さとり)の道より来られたように、この阿弥陀如来もまたそのように来られて、ふたたびまよいの世にもどることはない。だから「如(より)来(る)」というのである。」と、こう書かれています。阿弥陀如来だと言いながら、内容は如来とは何かということが主であるわけです。ここでの阿弥陀如来をずっと考えていたわけですが、困ったことにこの阿弥陀如来も次の応もまだよく分からないのが正直なところでして、特に正遍知などはてんで分からない事になってしまうのですね。しかし、礼拝の内容がこの三号の説明でありますから、ただ分かりませんでは事がすまされない。それで至らぬ見解ではありすが、現時点における見解を少し述べさせていただいて、話に代えさせていただこうと思っております。宜しくお願い致します。

 それではこの阿弥陀如来ですが、ここでは「ものの相そのままに説いて、安穏の道より来られ、ふたたびまよいの世にもどることはない。だから如来というのである」と書かれています。で、ここにおける阿弥陀如来を話す前に、上巻の讃嘆門に「なぜ阿弥陀と名づけるのか」という処がありますのでまずそこを読んでいきたいと思います。資料をご覧ください。                                 

 讃嘆門上巻  [ なぜ尽十方無碍光如来が讃嘆門であると知れるかといえば、あとの長行(下巻の讃嘆門)にいわれている。どのようにするのが讃嘆門か。それは彼の阿弥陀如来の名をとなえ、彼の如来の光明の智慧の相のごとくに、彼の如来の名の意義のごとくに、真実のごとくに道をおさめ、如来の心にかないたいと思わしめられるからである、と。釈尊が舍衛国で、お説きになられた『無量寿経』(阿弥陀経)によれば、仏自ら阿弥陀如来の名号の心をあきらかにしておられる。即ち、なぜ阿弥陀となづけたてまつるのか、それは彼の仏の光明が無量であって、十方の国々を照らすに少しのさわりもない。だから阿弥陀と名づけたてまつるのである。また彼の仏たちをはじめ、そのみもとにある人々の寿命は無量であり永遠である。だから阿弥陀と名づけたてまつるのである、と ]      

 上巻では、阿弥陀如来とは名号であり、その名号の心をあきらかにしておられると言われています。ただし、礼拝門は身業におい礼拝するのですから、名号はまだ出てきません。また、名号というのは、南無阿弥陀仏の六字の名号のことでしょう。南無阿弥陀仏とは阿弥陀仏に南無するということ、南無と帰命とは同じ意味ですから、帰命尽十方無碍如来は、私たちが称えるところの口業の念仏になりますと南無阿弥陀仏を称えることになり、その南無阿弥陀仏を名号というわけですね。

 それでは、また下巻の礼拝にもどりますが、三号の阿弥陀如来とは何か。「如来とは、ものの相(すがた)その如(まま)に説いて、仏たちが安穏(さとり)の道より来られたとうに、この阿弥陀如来もまたそのように来られて、ふたたびまよいの世にもどることはない。だから「如(より)来(る)」というのである。」この如より来るの、如とは、言葉にあらわすことができない、言葉を超えているという意味があります。しかし、この言葉では表現できないものをあえてイメージすることはできないか。浦島太郎の話にある竜宮城が絵にも描けない美しさであるとしても、それぞれが竜宮城を何となくイメージしているでしょう。このイメージというのはそういう漠然としたものから、姿かたちがハッキリしたものまで幅が広いわけですが、三号におけるこの阿弥陀如来をあえてイメージするということで考えると、少しは話が出来るのではないかと思うのですね。では、阿弥陀如来をどのようにイメージするのか。それが今読んだ「なぜ、阿弥陀と名づけたてまつるのか」というところですね。その阿弥陀とは「彼の仏の光明が無量であって、十方の国々を照らすに少しのさわりもない」この光明無量の阿弥陀如来のひかりをイメージできるかということでしょう。別にイメージできなくてもいいのですよ。

 で、その光明は十方の国々を照らすに少しのさわりもなく、そして彼の仏たちをはじめ、そのみもとにある人々の寿命が永遠である。こういうイメージがそのままにして壊れることがなく、その相をそのままに顕すような手立てとは何かということですね。私たちの思慮分別では捉えることができない、言葉を超えている世界ですが、その世界である光明無量をあえてイメージして、そのイメージのままに光明無量という言葉に置き換える、そして、それを阿弥陀と名づけた。これを「なぜ、阿弥陀と名づけたてまつるのか、それは彼の仏の光明が無量であって、十方の国々を照らすに少しのさわりもない。だから阿弥陀と名づけたてまつるのである。」と、阿弥陀と名づけることによって、阿弥陀の光明無量の相がそのまま言葉の仏となってもどることがない。この言葉の仏を阿弥陀如来といわれる、こういう意味があるのではないかと思うのです。

 こちらの願い(南無)に応じて如より来る阿弥陀如来ですから、南無阿弥陀仏、この南無阿弥陀仏をもって如来の名号だというのでしょう。これすごく難しい問題を言っておりまして、このへんで無理に説明することはやめにしたいと思いますが、ひとまず、この三号の阿弥陀如来を説明するにおいては、こういう捉え方があるのではないかと思うわけです。ただし、礼拝は身業をもって礼拝するのですから、言葉の仏というよりも、どちらかといえばそれは阿弥陀如来像であり、その阿弥陀如来の姿とその光明無量なる世界観といったようなものが礼拝においての阿弥陀如来のイメージではないかと思います。

 では、次は応です。「応は応共(おうぐ)である。仏は煩悩をことごとくのぞきつくして、あらゆるものに通達した智慧をえて、一切の天地の生きとし生けるものの供養を(真実に)受けるに応(ふさわしい)唯一のかたである。だから「応」というのである。」この応もまた阿弥陀如来ですね。礼拝の阿弥陀如来は姿かたちの如来ですから、その阿弥陀如来像に人格的な徳を顕すのでしょう。だから、三号の阿弥陀如来と応はどちらも阿弥陀如来ですが、応は如来の姿にその徳を思いはかり、阿弥陀如来の姿に光明無量のひかりの徳をいただく、つまり礼拝の対象となる如来の姿に、その如来となられた背景をも観じていくということではないかと思います。

 それでは次は正遍知です。「正遍知とは、あらゆる諸法は(とこしえに)破壊されることがないのが実(相)であって、増えることも減ることもない、と知れるのである。どのように破壊されないかといえば、(諸法の実相)は心もおよばず、言語もたえたところであって、いわば諸法(の実相)は、涅槃の相の不動であるのと少しも変らないのである。だから「正遍知」というのである。」ここで諸法の実相ということをいわなければならないわけですが、どうしたらいいのでしょうか。これが分かればそれでいいわけですけど。ま、とにかく、この三号は阿弥陀如来と応であり、そしてこの正遍知であるということですね。阿弥陀如来と応は何となくでも分からなくはないでしょう。そんな気がしませんか。ところがこの正遍知が三号の阿弥陀如来と応とともに言われているわけですね、こうなると分からない。ただこの実相の問題は後程出て来ますので、ここではこのままにしておきたいと思います。

 それでは次は讃嘆門ですが、この讃嘆が始まる前、つまり礼拝の終わり部分ですね、「その故は、彼の安楽国土に生れたいとの意をなさんがためである。」と言われているところですが、礼拝は三号を説明されるだけで終わりますので、次の讃嘆へのつなぎがここで添えられているのではないかと思うヵ所です。そしてその礼拝での三号の説明に対して、今度は讃嘆において口業の念仏にその三号を主体的に説かれようとする、そういうことかなと思います。

 で、まず「彼の如来のみ名を称え、彼の如来のひかり明るい智慧の相のごとくに、彼のみ名の義(いわれ)のごとく、その実のごとく修行して相応しようとおもうからである」と言われます。この短い文章に先ほどの三号が述べられていると思います。で、そのどこが三号の阿弥陀如来であり、どこが応なのか、そして正遍知なのかということになりますが。

 まず、「彼の如来の名を称え」のところがおそらく阿弥陀如来でしょう。この「彼の如来のみ名」は、無碍光如来が阿弥陀如来という言葉の仏になられたみ名ですから、その阿弥陀如来のみ名を称えるとは、南無阿弥陀仏の名号を称えることですね。だからこの「彼の如来のみ名を称え」が三号の阿弥陀如来だと思うのです。

 すると、次の「彼の如来のひかり明るい智慧の相のごとくに、彼のみ名の義のごとくに、その実のごとく修行して相応しようとおもう」までが応ではないでしょうか。礼拝では阿弥陀如来の徳を思いはかるのですから、讃嘆の応は名号の徳を思いはかる。それではその南無阿弥陀仏の徳とは何かといいますと、次に書いてある「彼の如来のひかり明るい智慧の相」が阿弥陀如来の徳ですね。そして「彼のみ名を義(いわれ)のごとく修行して相応しようとおもう」までが、阿弥陀如来が南無阿弥陀仏の六字の名号になられた義(いわれ)を、私が念仏において主体的に思いはかり相応しようと思うと、そういうふうにも読めます。

 しかしこの両方の説明をその後に載せてありまして、そこには何と書いてあるかといえば、まず「彼の如来のひかり明るい智慧の相のごとくに」のところは、「あらゆる世界を照らすにさまたげられることなく、よく生きとし生けるものの無明の(黒)闇をとりのぞくのである。それは、日や月や珠のひかりが、ただ空穴の中の闇を破るだけのような(小さな)ものではない」と、言われますように、光明無量とは、まず普通考える照明のような物質的なひかりではなくて、私の心の無明の闇を破る智慧をひかりだといわれる。

 そして次が問題でありまして、次に何と書いてあるかといいますと、「彼の(如来の)み名の義のごとく、実のごとく修行して相応しようとおもうからである。」とあります。この名号の徳を思いはかりながら、その義のごとく実のごとく修行してと、私が思いはかりながら修行するのだと読んでいくと、読めなくなっていきます。

 それでは、その次はどういうふうに書いてあるかといえば、「彼の無碍光如来の名号は」と書いてある。だから、阿弥陀如来の智慧のひかりが言葉の仏になり、その言葉の仏であるところの「彼の無碍光如来の名号は、よく生きとし生けるものの無明を破り、よく生きとし生けるもののすべての志願を満足させるのである。」となっているでしょう。阿弥陀如来が南無阿弥陀仏の名号となられたときに、いつの間にか名号が主体であって、称えている私は、この無碍光如来の名号により、「よく生きとし生けるもののすべての無明を破り、よく生きとし生けるもののすべての志願を満足させる」ところの、その一人としての私である、というふうになるのではないですか。称える私が主体だったはずが、名号が主体となり、私が客体である。主客が逆転しているでしょう。

 讃嘆では、阿弥陀如来の徳を思いはかるとことが、名号において、阿弥陀如来の光明無量のひかりが私の方に入ってくる、そういうことを言われているのではないかと思うのですね。なかなかよう分からんようなことですが、この彼の(如来の)み名を義(いわれ)にはこういう主客の逆転が込められているのではないでしょうか。この讃嘆門の応による主体の逆転を通して後に正遍知というものがある、そういう事ではないかと思っております。

 それでは正遍知です。このみ名の義(いわれ)を知って念仏申す身になった。それで何がどうなったのか。「しかし、み名を称え(阿弥陀仏を)おもいつづけることがあっても、無明がなおあって、願いが満たされることがないのはなぜか」と、こういう疑問が出てきた。それが次の段です。

「しかし、み名を称え(阿弥陀仏を)おもいつづけることがあっても、無明がなおあって、願いが満たされることがないのはなぜかといえば、それは(如来の)実のごとく修行しないのと、み名の義に相応しないことによるからである。どうして実のごとくに修行しないのと、み名の義に相応しないことになるのかといえば、(この無碍光)如来こそは、実相の身であり、衆生のためにこそ(仏になられたところ)の身である、ということを知らずにいるからである。」

 私が称えるところの念仏は、たとえこの名号の義(いわれ)を理解して称えたとしても、無明はなおあり、願いは満たされない。それはなぜかということですね。それに対して如来の実(まこと)のごとく修行しないのと、み名の義(いわれ)に相応しないことによるからだと言われます。この「(如来の)実のごとく修行しない」というのは、さきほどの「彼の無碍光如来の名号は、よく生きとし生けるもののすべての無明を破り、よく生きとし生けるもののすべての志願を満足させる」はずが、実のごとくに修行しないから、そうならないのだということでしょう。彼の無碍光如来の名号が主体ですから、その主体が実のごとくに修行しない。そしてまた、「み名の義(いわれ)に相応しない」というのは、このみ名の義とは名号の義のことですから、その名号が主体となり、私が無碍光如来の智慧のひかりに入ることが分からないからだ、と。だから「(如来の)実(まこと)のごとく修行しないのと、み名の義(いわれ)に相応しないことによるからである。」といわれるのではないでしょうか。

 で、なぜこういう問題が起こるのかといえば、それは「(無碍光)如来こそは、実相の身であり、衆生にためにこそ(仏になられたところ)の身である、ということを知らずにいるからである。」とここに、三号の正遍知でいわれていた実相が出て来ます。そして実相の身であり、(為物)衆生のためにこそ(仏になられたところの)身であることを知らないからだと言われる訳です。「如来は是れ実相の身なり、是れ物の為の身なりと知らざるなり。」ここでいわれてる実相が正遍知でいわれる実相のことでしょう。困ったことにここでこの正遍知を自分なりにでも通らなければならないわけです。                      

 まずここにいわれている衆生ということですが、これを衆生性ということで話が出来ないかと思いますが、調べるとそんな言葉はありませんでした。だから造語になると思いますが、この性という言葉には根性という意味もありますね。だから衆生根性と言えばいいのかもしれませんが、とにかく衆生性という言葉を使って少し話そうかと思います。身口意(しんくい)という言い方がありますね、身は身体のことで私たちの日ごろの動作もそこに入るかと思います。口は言語であり言葉でしょうか。そして意は心ですね。すると、私の心が私の動作や振る舞いに現れ、私の心が言葉になって表現されていくのですね、そしてこの状態が私の生活になるわけでしょう。周りとの関係にこの身口意で関わることにより私の日々の生活がある。その積み重ねを業というのだろうと思うのですよ。だからそれを業というならば、私の生活基盤は、私が生れる前からすでに始まっているわけですから、私よりもこの業の方が古いことになりますね。で、この身口意というのは私の事でありますが、この身口意に先ほど言った衆生性を見るということです。単に身口意を生きているわけではないですから、当然その身口意なるものには何かの根性があるだろうと思ったりするのですね。その根性を衆生性という言葉で説明しようとしている訳です。

 今回はこの衆生性の根性論を通して、「衆生の為に仏になられたところの身である」といわれる為物身の問題を考えてみます。で、この身口意も私の心が思う処の身口意ですから、この身口意を思う私の心がどうしても入ってしまう。心が私ですから、私は心から出ることはありません。だから身口意といっても心が捉えた私の身口意であり、私の心はいつもそこから外れて行きます。衆生というのも同じことで、私の心で私を衆生だといくら思ってみたところで、私そのものの衆生性を自覚することは出来ないですね。私は根性が悪いですくらいは言えますよ。しかし、根性そのものが私なら、衆生性を自覚することなど出来ないでしょう。自覚しているという私がおるのだから、阿弥陀如来のひかりに入り私の闇が破られるといってもですね、そう思っている私もそこにいるのでして、そしてそう思っている私がこの衆生性という根性でもあるということですね。阿弥陀如来の名号の義を聞いて、私のこの根性の闇が破られることは分かった。そして、それに感動して念仏申す身にもなった。しかし、実際のところは、そう思っている私の衆生性という根性は残っている。そしてそれが私である。その私には念仏の実感もなければ満足感もない。

 するとこの(為物身である)衆生のためにこそ(仏になられたところ)の身とは何かというと、如来からたまわるということにおいてはじめて成立するところの衆生の相(すがた)だと思うのです。それが純粋な衆生の自覚ということになるのでしょう。如来の智慧のひかりに入ることで、私に衆生の身をたまわる、その衆生の相(すがた)がそのまま如来の智慧の相であるということではないでしょうか。「是れ如来は実相の身なり、是れ物(衆生)の為の身なりと知らざるなり。」をこういうふうい受け取らせていただいております。

 そしてまた、此れがあるとき彼があり、此れがないとき彼はない。この龍樹菩薩の不二の論理は以前話しましたが、この不二の論理であります不一不異を、この実相身為物身の問題に置き換えますと、実相の身あるとき為物の身あり、実相の身がないとき為物の身はない。実相身為物身は是れ、一ならず異ならず、この不一不異の論理が実相身為物身において展開されているのではないかと思います。

 三号の正遍知は「正遍知とは、あらゆる諸法は(とこしえに)破壊されることがないのが実(相)であって、増えることも減ることもない、と知れるのである。どのように破壊されないかといえば、(諸法の実相は)心もおよばず、言語もたえたところであって、いわば諸法(実相)は、涅槃の相の不動であるのと少しも変わらないのである。だから「正遍知」というのである。」と、この正遍知にたいして、奥行のない薄っぺらな自分なりの実相についての感想ですが、現時点で精一杯背伸びしてみて、こういうことかなと思っている次第です。

 そして、最後になりますが、もう一つ付け加えられています、それが三種の不相応ですね。

[  一には、信ずる心が純朴でない。信じたり疑ったりするからである。二には、信ずる心が(専)一でない。決定がないからである。三には、信ずる心が継続しない。ほかの念(おもい)がまじるからである。この三つは、たがいに展開しあってなりたっている。つまり、信ずる心が純朴でないから決定がなく、決定がないから念が継続しないのである。また念が継続しないから決定の信がえられず、決定の信がえられないから心が純朴でないのである。これと逆なのを「実のごとくに修行し相応する」というのである。」

 この三信三不信を実相身為物身の次に言われているのですが、これもまた、正遍知での疑問である、「しかし、み名を称え(阿弥陀仏を)おもいつづけることがあっても、無明がなおあって、願いが満たされることがないのはなぜかといえば、それは」、という問いに対して、この三信三不信を述べられていると思います。

 この実相身為物身のみではまだ不足分があったのではなかろうかと思う処ですね。この為物身であるところの衆生の相を、ここでは信ずる心が純朴でないから決定がなく、決定がないから念が継続しない、念が継続しないから決定の信がえられず、決定の信がえられないから心が純朴でない。この展開に衆生の相をいわれていると思うわけですが、この衆生の展開こそが為物身の相であり、それと「逆なのを実のごとくに修行し相応する」という処に、先ほどの実相身を見て行かれるのであれば、その実のごとくに修行し相応する相が、信じたり疑ったりせず、他の思いがまじらず、そして継続して止まない心であるとするならば、それは我一心で言われている「無碍光如来を念じて、安楽国土に生れたいと願われ、その願う心がかぎりなく続き、雑念が少しもまざらない」願心である、この願心をもって実のごとく修行し相応するといわれている処ではないでしょうか。

 [「彼の(如来の)み名の義のごとく、実のごとくに修行して相応しようとおもうからである」とは、彼の無碍光如来のみ名は、よく生きとし生けるもののすべての無明を破り、よく生きとし生けるもののすべての志願を満足させるのである。] と言われている、無碍光如来の智慧のひかりに映る衆生の相において、この三信三不信における願心をも見ておられるのでしょうから、この 讃嘆門の最後に [ だからこそ論主(天親菩薩)はまっさきに「我れ一心に」と宣言されたのである。] と、述べられたのではないかと読ませていただく訳です。

「浄土論註」上巻 礼拝門・讃嘆門

令和4年3月 春彼岸会より

「浄土論註」上巻 礼拝門・讃嘆門

「帰命尽十方無碍光如来というのは、帰命は礼拝門、尽十方無碍光如来は即ち讃嘆門である。                    

 なぜ帰命が礼拝であると知れるかといえば、龍樹菩薩が阿弥陀如来を讃嘆する文をお造りになった中で、あるいは「稽首礼」といい、あるいは「我帰命」といい、あるいは「帰命礼」といわれている。この論の長行の中にもまた五念門を修するといわれているが、五念門の中で礼拝が一ばんにある。天親菩薩はすでに往生を願われている。どうして礼拝せずにいられようか。だから帰命は即ち礼拝であると知れるのである。しかし礼拝はただうやうやしく拝したてまつることであって、必ずしも帰命を意味しない。しかし帰命は必ず礼拝のすがたをとる。もしこれによって帰命をおもえば、礼拝より意味は重い。偈は自らの心を表白するのだからよろしく帰命というべきである。論は偈の意味を解釈するのだから、ひろく礼拝について語っている。偈と論とが互いに呼応して、意義をいよいよ顕かにしているのである。                              

 なぜ尽十方無碍光如来が讃嘆門であるかといえば、あとの長行にいわれている。どのようにするのが讃嘆門か。それは彼の阿弥陀如来の名をとなえ、彼の光明の智慧の相のごとくに、彼の如来の名の意義のごとくに、真実のごとくに道をおさめ、如来の心にかないたいと思わしめられるからである、と。

 釈尊が舍衛国でお説きになられた『無量寿経』(阿弥陀経)によれば、仏自ら阿弥陀如来の名号の心をあきらかにしておられる。即ち,なぜ阿弥陀と名づけたてまつるのか、それは彼の仏の光明が無量であって、十方の国々を照らすに少しもさわりもない。だから阿弥陀と名づけたてまつるのである。また彼の仏をはじめ、そのみもとにある人々の壽命は無量であり永遠である。だから阿弥陀と名づけたてまつるのである、と。

 問う。無碍光如来の光明が無量であって、十方の国土を照らしたもうに少しもさわりがないというのなら、この国の衆生はどうしてその光をこうむらないのか。光が照らさないところがあるのなら、どうしてさまたげがないといえようか。                                  答う。さまたげは衆生の側にあるのである。光にさまたげがあるのではない。譬えば日の光が四天下にあまねくふりそそぐが、盲目の人には見えないようなものである。これは太陽の光がゆきわたらないのではない。またふかくたれこめた雲が大雨をふらせても、かたい石にはしみこまないようなものである。これは雨がうるおさないのではない。

 もし一仏が主となって三千大千世界をすべてつつんでいるというならば、これは声聞が論ずる中の説である。もし諸仏があまねく十方無量のほとりなき世界をつつんでいるというなら、これは大乗の中の説である。

 天親菩薩がいま尽十方無碍光如来といわれるのは、とりもなおさず彼の如来の名によって、彼も如来の光明のはたらきたる智慧の相のごとくに讃嘆するのである。だから、この句は讃嘆門であると知れるのである。」  

 前回は「我一心」について話しましたので、今回は「帰命尽十方無碍光如来」をテーマにした話ということになります。礼拝門・讃嘆門・作願門・観察門・回向門を五念門と言いますが、この五念門は天親菩薩が『浄土論』に顕されました。その中から、今回は礼拝門と讃嘆門を話すことになります。

 前回の我一心から今回の帰命までが礼拝門になるかと思います。そして尽十方無碍光如来が讃嘆門になりますから、ここでは「帰命尽十方無碍光如来の帰命はすなはち礼拝門、尽十方無碍光如来は即ち讃嘆門である。」と書かれてあります。

 この上巻の初めのところに「天親菩薩はすでに往生を願われている。どうして礼拝せずにいられようか。だから帰命は即ち礼拝であると知れるのである。」とありますが、これは「我一心」をうけて言われているわけですから、前回も「我一心」の観点から考えなければなりませんので、それをふまえて聞いていただければいいかなと思います。

 で、前回の「我一心」には「我一心とは、天親菩薩が自らをすすめ、ひきい、正されたことばである。これは、無碍光如来を念じて、安楽国土に生れたいと願われ、その願う心がかぎりなく続き、雑念が少しもまざらないことをいう。」と書かれていまますが、この「無碍光如来を念じて、安楽国土に生れたいと願われ、その願う心がかぎりなく続き、雑念が少しもまざらない」というヵ所が、この礼拝門の「天親菩薩はすでに往生を願われている。」と同じ意味になりますので、「我一心」からの帰命が礼拝門となるのではないでしょうか。そして、「我一心」は「無我」のことだろうというのが前回までの内容でした。

 そして「なぜ尽十方無碍光如来が讃嘆門であると知れるかといえば、」から讃嘆門になります。礼拝讃嘆をとおした帰命尽十方無碍光如来と南無阿弥陀仏とは同じ意味になりますから、帰命は南無のことであり、尽十方無碍光如来は阿弥陀仏ということになります。私たちが普段に称える南無阿弥陀仏は、この論註においては南無が礼拝で、阿弥陀仏が讃嘆であるということになります。

 しかし、私たちは普通こういうふうに分けて念仏を称えることはないと思いますが、ここでははっきり分けておられるようです。そしてこの帰命を礼拝門とするのは何らかの意味があるのでしょうね。通常は合掌礼拝ですから、私たちは手を合わせ礼拝します。別に言われなくても誰でもがする仕草でしょう。

 ところが「世尊我一心」の「我一心」を受けて礼拝するのですから、私たちの普段の合掌礼拝とは次元が違うのでしょうね。で、この礼拝門の初めにあります「なぜ帰命が礼拝であると知れるかといえば、龍樹菩薩が阿弥陀如来を讃嘆する文をお造りになった中で、あるいは「稽首礼」といいあるいは「我帰命」といい、あるいは「帰命礼」といわれている。」と、こういう文で礼拝を説明されています。この「稽首礼」ですが、おそらく礼拝作法を言われているのではないでしょうか。例えば膝をつき手のひらを上にして深く額づきながら礼拝する五体投地のような作法だと思うのですね。つまり身業としての礼拝ですね。

 それが讃嘆門の方では「どのようにするのが讃嘆門か。それは彼の阿弥陀如来の名をとなえ、彼の如来の光明の智慧の相のごとくに、彼の如来の名のごとくに、真実のごとくに道をおさめ、如来の心にかないたいと思わしめるからである、と。」というような、不思議な文章になっています。この讃嘆門における礼拝は、身業の作法というよりも「彼の阿弥陀如来の名をとなえ」といわれるように、口業としての念仏になっています。

 「我一心」を背景にした礼拝は、讃嘆門において身業の礼拝から口業になり、その口業の念仏において「彼の如来の光明の智慧の相のごとくに、彼の如来の名のごとくに、真実のごとくに道をおさめ、」られている、と、いうような意味になっています。

 啐硺同時という言葉がありまして、ヒナが自らの殻を破って孵っていくときに親鳥が同じ処をつついてやる。そういう意味で使われていますが、「我一心」の「無碍光如来を念じて、安楽国土に生れたいと願われ、その願う心がかぎりなく続き、雑念が少しもまざらない」このヒナの願いである「我一心」に応ずるがごとくに、親鳥の阿弥陀如来が光明の智慧の相として顕れている姿。その啐硺同時を口業の念仏に収められているというのがこの讃嘆門の内容ではないでしょうか。

 その阿弥陀仏の智慧の相が、次の「なぜ阿弥陀如来と名づけたてまつるのか、それは彼の仏の光明が無量であって、十方の国々を照らすに少しもさわりもない。だから阿弥陀と名づけたてまつるのである。また彼の仏をはじめ、そのみもとにある人々の壽命は無量であり永遠である。だから阿弥陀と名づけたてまつるのである、と。」ありますね。これは、まずは稽修礼としての儀礼的な礼拝が、讃嘆門では口業の念仏にすっと代えられていることになる。この礼拝門と讃嘆門の解釈は下巻に書かれていまして、上巻にはほとんど書いてありません。

 しかし、上巻のこの阿弥陀如来と我一心の関係が口業に収まることを、今度は下巻で詳しく展開されるのではないと思うわけです。で、この上巻で私たちがとにもかくにも関われるのは、この口業の念仏だけなんですが、なぜなら阿弥陀如来も我一心もこの私の心を超えたものでしょう。私は私の心から出ることは出来ないのですから、もしも無我を私の心に留めたとしたらその時はすでに無我ではないのですね。そして、無我である「我一心」に応じて阿弥陀如来が真実の相を顕すとするならば、私が具体的に関われるのはこの口業の念仏だけなんでしょう。

 そして、曇鸞大師がなぜ上巻において、礼拝についてわざわざ礼拝作法から述べられているのか。それは具体的な身業ということではないかと思うのですね。たとえ礼拝と讃嘆が阿弥陀如来の光明の智慧の相であっても、そこに具体的な「身業」がなければ観念の域から出ることはない。この具体的な身の事実に立つということをまず礼拝門で顕されようとされたのではないかと思います。そしてこの礼拝が讃嘆において口業の念仏になる、つまり称名念仏であるときに、今度はその称名念仏する私たちの問題にまで広がるのですね。この念仏によって私たちそれぞれが十方の国土を照らす阿弥陀如来の光明に入っていくのです。そんな実感はないと思いますが、それは私たちの衆生としての方に問題があるからなんでしょう。

 この文の最後にあります「もし諸仏があまねく十方無量のほとりなき世界をつつんでいるというなら、これは大乗の論の中の説である。」という言葉が、無我である「我一心」のときに、その「無碍光如来を念じて、安楽国土に生れたいと願われ、その願いう心がかぎりなく続き、雑念が少しもまざらない」願心は、今、この私たちの最も深い場所における「我一心」と呼応しているのでしょう。ただ、それが私たちには見えないし分からないのであります。しかし、天親菩薩はそれを「我一心」として顕し、自らをすすめ、ひきい、正されて「帰命尽十方無碍光如来」と礼拝・讃嘆されているというのが今回お読みしました処だと思います。

 今回の『論註』上巻の礼拝門・讃嘆門について話をさせていただきまして、自分なりに思う処は、曇鸞大師の身業の捉え方でありました。親鸞聖人の身業の見方とは少し違っているのかなというのが正直な感想ですが、それでは親鸞聖人の身業とは何かと言われましても返答は出来ないわけですが、共々に今後の課題にさせていただこうと思っております。

「我一心」について

令和3年12月 御正忌報恩講

 真宗の教義は三経一論といいまして、教行信証の教の巻きに「真実の教を顕さば、すなわち『大無量壽経』これなり。この経の大意は、弥陀、誓いを超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れみて、選びて功徳の宝を施することをいたす。」と書かれてあります『大無量寿経』を始め、『阿弥陀経』そして『観無量寿経』を三経とします。一論とは『大無量寿経』を釈された天親菩薩の『浄土論』のことをいいます。また、この『浄土論』を曇鸞大師が註釈を施された『浄土論註』と、善導大師の『観無量寿経』を訳された『観経疏』は、親鸞聖人のご信心に大きく影響を与えたものだとも言われています。

 今日は「我一心」ということで話そうかと思っていますが、「我一心」を少し説明する程度でおそらく終わるのかなとも思います。とにかくこの原稿を書き始めてからずいぶんと時間がかかりました。とうとうこの御正忌報恩講まで執筆を繰り返した始末です。だからといってたいした話も出来ませんが、まずは『浄土論註』の最初を読むことから始めたいと思っております。資料を一緒に読んでいきますのでよろしくお願いいたします。   

「謹んで龍樹菩薩の造られた『十住毗婆沙論』をひもといてみるに、次のようにいわれている。菩薩が不退転を求めるのに二種の道がある。一には難行道、二には易行道である。難行道とは、濁乱の世、仏ましまさぬ時に不退転をもとめることを難という。この難であるということの相にはいろいろあるが、今は略してそのいくつかをあげて、難といわれるわけを説明することにする。     

一には、外道の見せかけの善行は、菩薩の法を乱す。二には、自分だけさとって、それで足れりと執することが、仏の大きな慈悲を障げる。三には、自らの悪を反省しない人は、他の人の勝れた徳をも破壊する。四には、目前の利益にまどわされて、まじめに努力してきた効果をうしなってしまう。五には、道を求めてもただ自力ばかりをたのんで、他力にもたれることがない。

 このようなことなど、目に見えるものすべて難というべきものである。この難行道は、たとえば陸路の歩行が苦しいようなものである。易行道は仏を信ずることのみをよすがとして浄土に生れんと願えば、仏の願力に乗じて、容易に彼の清浄の国土に往生することができ、仏の本願の力に支えられて、大乗の正定をえた人々の仲間に入ることができる。この正定とは即ち不退転のことである。この易行道をたとえれば、水路を船に乗って行けば楽しいようなものである。この『無量寿経優婆提舎』(浄土論)は、およそ大乗の極致であり、順風を帆にうけて航海する大船にもたとえられるべきものである。」

 まず、「仏ましまさぬ時」ですが、仏教では釈迦滅後に次第に教えが衰えていくという思想がありまして、これを正法の時と像法の時、そして末法の時に分けて言われております。釈迦滅後から500年を仏の教えがそのまま生きている正法の時、次の500年を仏の教えを実践修業する者はいても真の証果に達成する者のない像法の時、その後を教法だけは存在するが、修業する者も悟りを開く者もいない末法の時。こういった区分をされるのですが、この500年を1000年だとする説もあるようで、詳しいところは分かりません。日本では1052年に末法時代に入ったと最澄が「末法灯明記」に記しています。

 『論註』ではこの「仏ましまさぬ時」を正像末のどこに位置付けられているかといいますと、像法の菩薩として天親菩薩を言われています。また、「不退転」ということですが、簡単にいってしまえばへこたれないということ、菩薩も七地において仏道を求める意志が消えていくと言われます。「十方諸仏の求むべきを見ず、下に衆生を度すべきを見ず」といわれ、これを七地沈空の難などともいわれます。ここでは七地の菩薩がこの難所を超えて八地以上の菩薩として真の証果をもたらす仏果へと趣くことを「不退転」と表されているわけです。菩薩には十地の階位があるといわれておりまして、それがこの七地において危機に陥る。この難所を超えるのに難行道と易行道があるというのが『論註』の初めに書かれてあります。

 ところで、他力本願という言葉は今でもよく言われます。主に他人まかせとか他人のふんどしで相撲を取るなどと言った意味で使われているようですね。それは他力本願本来の意味としては間違っておりますが、この自力他力という言葉をもって仏教の教えを説かれたのが曇鸞大師だと言われております。ちなみにこの他力本願とは自力の執心に対していわれるのでして、自力の執心の姿が他力本願により顕かになるということ。自力とは自分の思慮分別をもって自らの力とするものでしょう。しかしこの思慮分別は、わたし(我)という処から始まる思いですから、その我心に執着してしまい、ついには自らの執着心でがんじがらめになっていくといわれます。ちょうど蚕が自らを守るために糸を巻き付けて、その糸が作った繭が完成した時、熱湯につけられて自らは滅ぼしていくように。おれがおれがと、また、おれがああしたのに、おれがそうしたのにとか、おれがこういわれたと、我心の執着を重ねて続けてついにはどの自分が本来の自分なのかも分からなくなってしまう。私たちそれぞれどこか身に覚えがあるようなものではなですか。大きい小さい出来事を含めてみれば、これまで生きてきた時間がこういうことだったということはなかったですか。それでもこうやってひとまずは元気で生きておるわけですから、それだけでも感謝しなければならないのかもしれないですね。こういう自力の執心の心が次第に見えてくる、お念仏しながら少しずつ見えてくるのですね。するとおかげさまでこうして静かな自分を頂いていますとお念仏の続きを称える。一回だけ称えるのも念仏、乃至十念も念仏です。こういうお念仏から頂いた私を、他(阿弥陀仏)力本願により自力の執心が見える私になりましたというのだと思います。他人まかせとは違います。

 『論註』の冒頭でいわれるのは、こういう凡夫としての私たちの姿をいわれているのではなくて、七地の菩薩であってもこういう執心に陥るのだということですね。「十方諸仏の求べきを見ず」この十方諸仏という言葉がよく出て来ますが、菩薩とこの十方諸仏とは深い関係があるのでしょうね。とにかくこの十方諸仏に甘んじるのをここでは「十方諸仏の求むべきを見ず」と言われるようです。そして「下に衆生を度すべきを見ず」です。つまり現在に甘んじてなすことが見えない。厳しい修行があればこそ菩薩も七地まできた。その七地まで来てやれやれと、これ以上やる気もないし、これでいいやとそこに座り込めば、これまでのこともなくなる。菩薩の死だといいいます。そこに易行道である『浄土論』の「願生偈」をもって「仏の願力に乗じて、容易に彼の清浄の国土に往生することができ、仏の本願の力に支えられて、大乗の正定をえた人々の仲間に入ることができる。」と仏の本願力を顕かにされて、七地沈空を超えた八地以上の菩薩に入るのでしょう。

 それでは、この「願生偈」の初めの四句ですが、ここに今日のテーマであります「我一心」が出て来ます。「世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国」読み方は「世尊、我一心に、尽十方 無碍光如来に帰命して 安楽国に生れんと願ず」この「世尊」とはお釈迦様ですね。そして今日のテーマの「我一心」ですが、この「我一心」が大きな問題になって行きます。この「我一心」のところを『論註』に書かれていますので読んでみましょうか。

「世尊とは諸仏に共通の呼び名である。その智慧についていえば、あわゆる道理に通達し、迷いを断つという点では、煩悩の余習(なごり)さえとどめていない。このように智と断とが完全にそなわって、よく衆生を利益し、世のために尊重すべきものとして尊ばれる。だから世尊というのである。ここで世尊といわれるのは釈迦如来に帰命する意味である。どうしてそうわかるかというと、下の句に「我れ修多羅に依る」といわれているからである。天親菩薩は釈迦如来の像法の余にあって、釈迦如来の経の教えにしたがえばこそ、往生を願われた。その往生の願いにはもとづくところがあるのである。だからこそ世尊ということばは、釈迦如来に帰依する意味だとわかるのである。              (中略)                                 我一心とは、天親菩薩が自らをすすめ、ひきい、正されたことばである。これは無碍光如来を念じて、安楽国土に生れたいと願われ、その願う心がかぎりなく続き、雑念が少しもまざらないことをいう。                  問う。仏法の中には我がない。ここではどうして我というのか。       答う。我ということばには三つの根本的な用例がある。一には邪見によっていう我、二には自分を他よりすぐれたものと主張する我、三には普通一般に他と区別していう我である。今ここで我といわれたのは、天親菩薩が自分をさしていわれたことばであって、普通一般の用例で我といわれたので、邪見や自分を主張して我といわれたのではない。」

 まずはじめの「我一心とは、天親菩薩が自らをすすめ、ひきい、正されたことばである。」の「ひきい」ですが、原文は「率」と書かれています。この「率」はいくつかの訳がありまして、ひきいる、したがえる、あるがままなどです。ここではひきいですから、ひきいる(率いる)の意味で使われたのでしょう。意味としまして、大勢を引き連れる、指揮をとるなどがあります。また退く、引きこもるなどにも使われるようです。

 その次が「無碍光如来を念じて、安楽国土に生れたいと願われ、その心がかぎりなく続き、雑念が少しもまざらない」ですね。ここまでさっと読むとそのままなんとなくそういうことかなと思うだけで聞き流すところです。しかし私たちはこの「無碍光如来を念じる」ことも、「安楽国土に生れたい」ことも、「願う心ががかぎりなく続く」ということも、「雑念が少しもあざらない」ということも、どこもかしこも分からないのですね。

 それでいきなり例をあてはめるのも何だとは思いますが、壽命という言葉があるでしょう。これは「壽」が限りの無いいのちを意味して、「命」は私たちの限りある命を意味するといわれるようです。私たちはこのふたつのいのちを生きているということでしょうね。いつ死ぬか分からない私の命と、私を超えて続いていくいのち。こういう二重のいのちを生きる感覚は現代の日本にはあまりないかもしれませんが、昔はこの「壽命」の感覚がしっかりと生きていたのではないですか。

 で、まず「我一心」の「一心」ですが、普通なら私の心が「一心」になってと読む訳です。しかしよく読んでいきますと「壽命」の「壽」の意味ではないかと思うのですね。するとこの限りないいのちを「無碍光如来を念じて、安楽国土に生れたいと願われ、その願う心がかぎりなく続き、雑念が少しもまざらない」ところのいのちだといわれていることになります。これは文脈として無理な読み方ですが、とにかくそういうことにしておきたいと思います。

 今度は「我」の方はといいますと、ここには「普通一般の用例で我といわれた」と書いてあります。比較も無く、優劣も無い、自分の主張も無い「我」とはいったいどんな我でしょうか。そんな我が自分にありますか。何も考えないでぼーっとしている時や、うたた寝をするちょっと前がそんな我でしょうか。でもね、ここでは「我一心」ですから何かしらの気持ちが入ってるわけでしょう。単にぼーっとしているわけではないですね。仏教では「無我」だといいます。しかしここでは無我ではないといわれて「普通一般の用例で我といわれた」と書かれています。つまり「無我」ではなくて単なる「我」だということですね。で、この「無我」ではない「我」と、まだ文脈が整わない「一心」ですが、これをあわせて「我一心」です。

 ぼくはこの「我一心」を「我」と「一心」の相関関係だと考えています。相関関係とは「一方が変化すればそれにつれて他方も変化する」関係だと言われ、二つの物事が深く関わり合う関係だとも言われています。「一心」において「我」は邪見も主張もない、その「我」を拠り所に「一心」はみずからの一心を明かにしている。こういう関係だと思うのですね。だから『論註』では「我」を無我とは言わないで「一般の用例で我といわれた」というのは、「我」と「一心」の相関関係において「無我」であるからだということだと思うのです。

 例えるなら「誰か風を見たことがあるか」という言葉がありますが、風なんてそこらじゅうに吹いているじゃないか、木の葉が揺れたり、風が肌にあたり風が吹いていると感じるから、どこにも風がある事ぐらい誰でも分かるのです。たしかに風に影響される風景はどこにもあります。しかし風は空気の動きですから、空気の動きが様々なものをとおして風を表現するのであって、風そのものは見たのかという意味です。同じように誰か「一心」を見たことがあるか。「一心」は本来見えるものではない。その見えない「一心」が、ここでいう「我」に依ることで「一心」の相を顕している。だからここでいう「我一心」は、比較も無いし主張もしない「我」に「無碍光如来を念じて、安楽国土に生れたいと願われ、その願う心がかぎりなく続き、雑念が少しもまざらない」ところの「一心」の相が顕れていると言われているのではないかと思います。そしてこの「我一心」をして無我であるといわれるのでしょう。

 すると問題が二つあります。まずこの「一心」に「その願う心がかぎりなく続き」とありますが、ここでいう「我」はその時における「我」ですから、「一心」にいう永遠といったような継続性はないでしょう。だから「我一心」は継続的なものではなくて断片的なものです。しかしその断片的な時間に「我一心」として安楽国土に生れたいと願わう心がかぎりなく続き、雑念が少しもまざらないいのちが収まっていることになります。「一心」に「無碍光如来を念じて、安楽国土に生れたいと願われ、その願う心がかぎりなく続き、雑念が少しもまざらないことをいう」いのちを述べながら、それが「我」に顕された時間の短さを言われる。こういうのを昔は「不連続の連続」といわれていたと思いますが、最近はあまり使われなくなりました。

 次に、この「我一心」は「我一心とは、天親菩薩が自らをすすめ、ひきい、正されたことばである」と初めに読みましたが、この「ひきい」か退くという意味もありますから、天親菩薩自らを退き「一心」を正しく率いるところに「我一心」の意味を措かれています。こういう天親菩薩と「我一心」の前後の関係を正しく顕すのだということです。この正しくというのが大事なのでしょうね。

 この二つをまとめると、「無碍光如来を念じて、安楽国土に生れたいと願われ、その願う心がかぎりなく続き、雑念が少しもまざらないことをいう」「一心」は、天親菩薩自らが退いたところの普通一般の用例である「我」に顕現して「我一心」を成就する。このことを「無我」だと言われるのではないかと思います。そしてまた天親菩薩自らが退かれてもなお、天親菩薩の人格的なイメージが残像として残されて「我一心」が表現されているという事だと思うのです。これが「我一心とは、天親菩薩が自らをすすめ、ひきい、正されたことばである。これは無碍光如来を念じて、安楽国土に生れたいと願われ、その願う心がかぎりなく続き、雑念が少しもまざらないことをいう」「我一心」の意味になっている。この解釈が的を射たものかどうかは分かりませんが、こういう読み方をさせていただいております。不思議な書だといえばそうかもしれませんが、この「我一心」は親鸞聖人のご信心に深く関わりますので今後も留意しながら読んでいくつもりです。

 ところで、私たちが普通何となく思っている「無我」のイメージですが、どんなものでしょうか。よく分からんが「無我」というくらいだから姿かたちはないだろう、とその程度は思うのですね。ではこの「無我」とは何か。この仏教の根本である「無我」を「空」の思想として論理的に表された方が龍樹菩薩です。で、自分の許容範囲内で話すことしか出来ませんが、簡単にでも少しこの論理を話してみます。私たちは普通に物を考えたりする時には、何かを考えるというわけです。当たり前といえばそうですが、しかしその何かを考える時には、自ずと考えている私がある訳です。考えるとそうだなと思う。しかしこれは人が考える様子を言っているのですから、ものを考えるとはそういうことだと言っているだけです。ここに私が有りそして考えるところの何かが有る。私と何か、私と貴方、私とみんな、私とそれぞれの事柄。この「と」があり、その私「と」何かに考える関係が起こっている。私とあなたに友情がうまれる、または喧嘩する。私とみんなに和ができる、またはいがみ合う。私と何か、私とあなた、私とみんあ。これずっと広がります。私と国家、私と世界もある。

 私たちの思考回路はそういうふうに出来ているようで、これ気づかないとずっとこういう物の考え方しかありませんが、龍樹のいう「空」の思想では、不二の論理といいましてこれらを覆していきます。まず私というものが存在し、そしてそこに何か問題が生じている。こういう物の捉え方は本来ではないというのです。本来とは、何かを考えるときに私とその何かも同時に起こっているのだというのですね。此れがあるとき彼があり、此れがないとき彼もない。こういう言い方をするのですが、ちょうどマキが燃えている状態を例にされます。マキと火の関係ですね。まずマキがあって、そして火が燃えている、これは違うでしょう。マキと燃えている火は別々ではないですね。同じように心もそうだというわけです。

 私の心がまず有って、そして何かを考えている対象が有るのではなくて、私が何かを考えている状態がそこにあるだけで、その他に独立した私とする存在は無いというのが不二の論理だと思います。哲学的な思考方法だと思いますが、こういう思考方法をもって様々な事柄を論破されるのです。龍樹の「空」の思想をこのような不二の論理で言い表されているのだと思いますが、この不二の論理が、ここで言われるところの不連続の連続という時間の概念をも言い表したものかどうかは、まだよく分かっていないと思います。この不連続の連続という概念も龍樹の論理にあるという説もあります。しかし仏教における発展経過においてこのような時間的な無我を継承したのは、天親菩薩をはじめとする唯識につよく表れているという説もあります。曇鸞大師は四論宗に学ばれたお方ですので、龍樹を専門に学ばれたことになりますが、天親菩薩の『浄土論』を註釈されたわけがこういう処に見られる気がします。また、この「我一心」ですが、善導大師も別の角度から述べられています。いつかそのことも話ができればいいなと思います。

 

 

 

ただ念仏して

令和3年度 秋彼岸会      令和3年9月23日

 歎異抄第二条に「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」というお言葉があります。この「ただ念仏して」ということですが、簡単な事ですね。皆さんもすぐに出来るし、誰でも出来ます。でもね、この「ただ」というニュアンスが曲者ですね。ボケっとしてとは書いていない。どちらかといえば脇目もふらずにということだとは思いますが、でもその脇目をふらずといってもまた、そうかなあと、違うような気がする。どうもこの「ただ」という言葉は分かったようでいてもはっきりしない。

 で、この「ただ念仏して」をもっと難しくいえば「乃至十念」ということだと思います。こうなると回数の問題にもなります。乃至十念だから10回程度の念仏だということです。乃至なら5~6回でもいいんじゃないか、とアホなこともいいたくなりますが、実はこの「乃至十念」が歎異抄14条で問題になっているところがあります。「一念に八十億劫の重罪を滅すると信ずべしということ。この条は十悪五逆の罪人、日ごろ念仏を申さずして命終のとき、はじめて善知識のおしえにて、一念もうせば八十億劫の重罪を滅し、十念もうせば、十八十億劫の重罪を滅して往生すといへり。これは十悪五逆の軽重をしらせんがために、一念十念といえるか、滅罪の利益なり。」

 一念に八十億劫の十悪五逆の罪が滅するなら、十念は十八十億劫の重罪が滅するのだといわれています。で、このような念仏は我が罪の軽重を知らせんがための念仏だといわれる。歎異抄ではこのような滅罪の念仏は親鸞聖人がいわれるところの念仏ではないといわれています。ましては、一念に八十億劫の罪が滅するから、十念で十八十億劫の罪が滅するという勘定したような念仏ならなおさらでしょう。

 この歎異抄14条でいわれている滅罪の十念は『観無量寿経』の「下品下生」に書かれています。今日はこの「下品下生」の念仏を通して少しばかり話をしようと思いますので宜しくお願い致します。ではまず『観無量寿経』の「下品下生」のところを読んでみましょうか。

「仏阿難におよび韋提希に告げたまわく、下品下生というは、あるいは衆生ありて、不善業たる五逆・十悪を作る。もろもろの不善を具せるかくのごときの悪人、悪業をもってのゆえに悪道に堕すべし。多劫を経歴して、苦を受くること窮まりなからん。(かくのごときの悪人、命終の時に臨みて、善知識の、種々に安慰して、ために妙法を説き、教えて念仏せしむるに遇わん。)この人、苦にせめられて念仏するに遑あらず。

〔善友告げて言わく、汝もし念ずるに能わずは、無量寿仏と称すべしと、かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆえに、念念の中において八十億劫の生死の罪を除く。〕

命終の時、金蓮華を見る。猶し日輪のごとくしてその人の前に住す。一念の頃のごとくに、すなわち極楽世界に往生することを得ん。蓮華の中において十二大劫を満てて、蓮華方に開く。観世音・大勢至、大悲の音声をもって、それがために広く諸法実相・除滅罪の方を説く。聞き己りて歓喜す。時に応じてすなわち菩提の心を発す。これを下品下生の者と名づく。これを下輩生想と名づく、第十六観と名づく。」

「下品下生」のヵ所の全文になります。これを一つひとつ押さえて説明できるようなものは持ち合わせておりませんが、ここに〔善友告げて言わく、汝もし念ずるに能わずは、無量寿仏と称すべしと、かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆえに、念念の中において八十億劫の生死の罪を除く。〕とあるでしょう。これが先ほどの十念のことですね。で、その前に(かくのごときの悪人、・・・)と、善知識から進められる念仏があるでしょう。その念仏は心に仏を念じて念仏することを言う訳です。ところが臨終間際で苦しくてその遑さえない。そこで〔汝もし念ずるに能わざるは、無量寿仏と称すべし〕です。これが今日話すところの「下品下生」の口称念仏です。

 この称名念仏を「かくのごとく心を至して、声を絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。かくのごとく念念の中において八十億劫の生死の罪を除く」とあります。この念念の中にそれぞれ八十億劫の罪を除くのだから、十念で十八十億劫の罪が除かれるのだということになる。歎異抄ではここのところをいわれていることになりますが、そしてそれを親鸞聖人のお念仏はこのような臨終の際のお救いではなくて、今生きるこの身のお救けでありますから、聖人の教えというわけにはいかないのだというのが、この14条に書かれているのでしょう。

 この「下品下生」の十念と滅罪のことを、曇鸞大師も『浄土論註』の上巻末尾にのせられていますので、こちらの方も紹介します。まず、十念から。

「問。どれほどの時間を一念というのか。答え。百一の生滅を一刹那といい、六十刹那を一念という。しかし、この『観経』の中に「一念」というのは、このような時間についていうのではない。ただ(ここに一念と)いわれているのは、阿弥陀仏の全体の相なり、各部の相なりを憶念して、そこに感じられてくるままにまかせて、心にほかの想いをいれず、十念が相続するのを、名づけて十念とするのである。ただ口に仏の名号を称えるのも、このようにいえるのである。

問。(十念する)心に、もし他のことを思いうかべれば、これをもとにかえらしめて、仏を念ずる数の多い少ないを知ることができる。(しかし)ただ数の多い少ないを知るだけでも、雑念がまじっていないとはいえない。(かといって)もし心を集中させて、想いを仏にそそげば、こんどはどうやって念ずる数の多い少ないを心にきざむことができるのか。答。『観経』にいうのは、十念とは往生の業が全うしたことを明かすのみで、たとえば、夏ぜみは、春や秋を知らない。してみればこの虫は、いまは夏の季節だということを知るはずもない、というようなものである。春秋を知る者が、いまは夏の季節であるというだけである。十念の業が全うしたというのも、これと同じで(人間の)はかりしれぬ境地に到達したもののみが、十念というのである。(われわれのほうは)ただひとえに念(おもい)を積みつづけ、他のことをおもいうかべないなら、それで充分なのである。そのうえどうして、かりそめにも念ずる数を知る必要があろうか」

 この『浄土論註』にある『観経』(観無量寿経)の「下品下生」の段ですが、ここにある十念も数の問題ではないですね。心が一杯になりオーバーフローして念仏が口から溢れだす様子でしょうか。それがこの「阿弥陀仏の全体の相なり、各部の相なりを憶念して、そこに観じられてくるままにまかせて、心のほかに想いをいれず、十念が相続するのを名づけて十念とするのである。」と書いてある訳ですが、このようにあふれ出るような念仏も回数ではなくて心が満ちて雑念が入りようがないということでしょうね。しかし、それはまた、はかりしれない境地に到達したもののみが十念というのであり、われわれはもっとハードルを低くして、余計なことを考えないで阿弥陀仏を想いつづけてただ念仏していくことでも充分なのだといわれます。

 それではこの「下品下生」の十念を、善導大師は『観経疏』ではどのように言われているか。「念数の多少、声々間なきことを明かす」とこれだけです。この十念はただひたすら念仏することで、念仏の合間がないことだとあっさりしています。 それでは、今度は滅罪の方です。まずお手元の資料に「十悪五逆」を載せていますのでそこを見て下さい。

十悪とは、殺生、偸盗、邪淫、妄語、綺語、両舌、悪口、貪欲、瞋恚、愚痴または邪見のことです。

次に五逆ですが、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血。

 五逆の殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血はなかなか分かりづらいかなと思います。また、この五逆罪はどれか一つでも犯せば無間地獄に落ちると言われるものですが、今日は全体的な雰囲気で見てもらえればそれでいいのかなとも思います。で、ここにある罪ということですが、単に罪だといいましても、たとえ自分がそれを行わなかったとしても、条件さえそろえば自分もしでかすかもしれないと心に罪の意識を持たれる方もいれば、それとは反対に死刑になっても、罪の意識がないまま他人や世間のせいにして死んで行く人まで様々ですが、ここにいうところの十悪五逆の罪というのは、どちらかと言うなら心の問題として取り上げられているのではないかと思うのですね。

 この滅罪について『浄土論註』に言われているのは、まず『無量寿経』には五逆罪と謗法罪があるということです。天親菩薩が『無量寿経』を釈された『浄土論』を曇鸞大師が註釈されたのが『浄土論註』ですが、そのもともとの原本である『無量寿経』には五逆罪の他に謗法罪があると、まずこう言われます。そしてその五逆罪と謗法罪を比較して、謗法罪のほうが五逆罪より断然重いのだと言われる。で、なぜ謗法罪の方が重いのかといえば、謗法罪とは法を謗る罪ですね。この場合の法とは仏法のことですから、仏法を謗る罪ということになります。この法を謗ることをいま風にいうならば、生きる本質を知らないままに生きていることへの罪ということだと思いますが、現代に生きる私たちの感覚でそう捉えようとすると何処か分かりにくい。

 で、この生の本質を知らないままに過ごしていることを無明といいます。その無明の闇から五逆が生まれるのだというのです。だからこの無明を生きる姿そのままが法を謗ることですから、無明に生きている姿を、真っ暗な部屋に住んでいることとして例えて、その真っ暗な部屋にも一度ひかりがそそげば、千年の闇もたちどころに明るくなる。それと同じように、これまで法を謗る者として生きた姿にひかりがそそげば、謗法罪とともに五逆の罪も我が身の自覚として明らかになるのである。このように五逆罪は謗法罪から始まるので、この謗法罪の抑止を強調されます。だから謗法罪が五逆罪よりも断然に重くて、罪の本質が違うのだという訳です。

 ところが、この「下品下生」には五逆罪はあるが謗法罪がない。だから『浄土論註』ではこの「下品下生」の口称念仏は初めから謗法罪が除かれているので、善知識からすすめられた念仏をただひたすら称えることで往生の業が全うするのだといわれているのでしょう。自分なりの読みですが、おおまかこのような意味だと思っています。

 では、善導大師の『観経疏』の方はどのようにいわれるのかというと、それは「未造業」だといわれる。この「下品下生」には五逆罪はありますが謗法罪がない。そのことをこの『観経疏』の「玄義分」に「下輩の三人はこれ大乗始学の凡夫にして、過の軽重に随いて分かちて三品となす」とあります。下輩の三人とは「散善義」の三三九品の下品の上生、中生、下生のことですが、上品、中品、下品がありまして、それぞれにまた上生、中生、下生がある。「散善義」にあるランク付けですね。その中でも最下位の下品の上、中、下を下輩の三人といいます。この下輩の三人でも大乗の仏法を志すものならば、法を謗って仏法を志すことはできない。だから仮にも仏法を志すものに謗法はないのだといわれているのですが、そのなかの最下位の「下品下生」は、取りようでは十悪五逆の罪の自覚において、自らを「下品下生」と位置づけているのだともいえるでしょう。

 そして、その「下品下生」にはなぜ五逆罪はあるのに謗法罪がないのかと自ら問いを出されます。この答えが「未造業」だというのですね。謗法罪が重罪だというのは同じですが、この五逆罪に謗法罪までが並んでしまえばもう救いようがない。だから「下品下生」の口称念仏で謗法罪を抑止するのだというのです。現代風にいえば大乗仏教を志すものへの、最終おちこぼれセーフティーネットです。このセーフティーネットを「下品下生」の十念にもってくるのですね。最後の土壇場にこの浄土のセーフティーネットが有るからこそ、そこからまた浄土への歩みを始めることができるのだというわけですが、ただし善導大師の「下品下生」の口称念仏は単なるセーフティーネットではありません。それこそ浄土への通門にもなっている。こんなたとえが当たっているかどうかは後にまかせるとして、とりあえず説明するとこういう言い方でしょうか。

 で、どちらがどのように違うのか分かりますか。曇鸞大師は信心のハードルを低くされて参加しやすくされますが、善導大師はストイックな生き方でものを見て行かれる、そんな気がしますね。でもね、個性の違いはあるかもしれませんが、善導大師に何かゆずれんものがあるようにも思えます。それがこの『浄土論註』の「下品下生」の十念です。先ほど紹介しました文に「阿弥陀仏の全体の相なり、各部の相なりを憶念して、そこに感じられてくるままにまかせて、心のほかに想いを入れず、十念が相続するのを名づけて十念とするのである。」とありましたが、このようなオーバーフローの十念を避けようとされているような気がするのですね。

 これは口称念仏ではなくて観想念仏ではないかということだろうと思いますが、このヵ所を観たら阿弥陀仏の相を憶念したところの念仏ですから、分別心という思いが混ざっているといわれてもしょうがない。 しかし、またその次には「はかりしれぬ境地に到達したもののみが、十念というのである」といわれます。では、そこにいわれる十念とはどういう十念なのか、そして『浄土論註』におけるこの「下品下生」の十念と、歎異抄第二条の「ただ念仏して」がどのように関り遇っていくのだろうか。そういうことを思っています。 

 

   

 

観経疏の発菩提心 そのⅡ

令和3年6月  永代経法要より

「また菩提というは、すなわちこれ仏果の名なり、また心というは、すなわちこれ衆生能求の心なり。ゆえに発菩提心というなり。」

  去年の報恩講で躓いたところです。半年前の話ですからもう忘れておられると思いますが、ホームページのブログでは「観経疏の発菩提心」の続きになっていますので続けて読んでいただければ何とか繋がっているかなとも思います。あの時は突然壁が現れたイメージになり先に行けなくなりました。それがこの発菩提心の処です。この「また菩提というは、すなわちこれ仏果の名なり」という言葉に何故躓いたのかといいますと、菩提はたしかに悟りという意味ですから、仏そのものの意味ではあります。しかし菩提心は単にそういう仏を現わす語と言うよりも、私達が何処かに思いえがく向上心のような上りゆくといったようなものが何処かにありませんか。それがここにおいては菩提心から菩提という語だけを取り出して、仏果であるとわざわざ言わなければならないのは何故なのか。すごく違和感があるのですね。

 そして「また心というは、すなわちこれ衆生能求の心なり。」ですから、心はあくまで衆生の心です。菩提は仏果、心は衆生、つまり菩提は仏そのものですから初めから仏であり、衆生は何処までも衆生です。言い方を変えるならば、菩提はずっと菩提であり続けるのであるし、衆生は何処までも凡夫であり続ける。菩提と衆生は何処までも平行線をたどるのであり交差しない。もし衆生能求の心が菩提心であるならばそれはすでに衆生能求の心ではなくて菩提そのものである。

 普通ならば菩提心がいつか成就することを願うのであり、まあ成就するかどうかは別問題としても、いつかどこかでひょっとすると叶うかもしれない、そういう先をイメージするような淡い期待感がありますね。しかし「菩提は仏果の名なり」といきなり言い切られた場合には、衆生においてそういう成就は無いのだと断言するのと同じではないですか。これを念頭において菩提心を発しなさいというのがこの「発菩提心」ですね。これね、普通考えると分からないですよ。でも、今回はこの訳が分からないところを中心にしてもがいて行ければと思い、躓いた処であるこの「発菩提心」を再びテーマにしました。御聞き苦しいかとも思いますが宜しくお願い致します。

 まず『観経疏』「序文義」の終わり辺りにこの「発菩提心」が登場します。お釈迦様の前で韋提希は阿弥陀仏の浄土を願います。その時の願いを「教我思惟、教我正受」と言いまして、この「教我思惟、教我正受」とは浄土への手立てである思惟の仕方を教えて下さい、またそれが正しく受けとれることがどういうことか教えて下さい、と言うような事かなと思いますが、で、この韋提希の願いによってお釈迦様がまず定善観を説かれます。ただ、韋提希はまだ阿弥陀仏の浄土を願いはするが、それを自ら受けとる準備が出来ていない。それで浄土への韋提希の基礎認識にあたる三福を説かれます。その最後にこの「発菩提心」が出て来ます。「発菩提心というは、これ欣心大に趣くことを明かす。浅く小因を発すべからず、広く弘心を発(おこ)すにあらざるよりは何ぞよく菩提と相会することを得ん。たゞ願わくは、我が身、身は虚空に同じく心は法界に斉しく、衆生の性を尽くさん。」と書かれています。今回はこの文章を解読することになりますが、まあ、とにかく先に進んで行きたいと思います。

 まず「欣心大」の欣心(ごんしん)とは願い求める心だと言います。「大」は私を超えているものですから仏のはたらきという事ですね、だからこの場合の「大」は阿弥陀仏でありまた阿弥陀仏の浄土という事でいいのでしょう。するとこの「欣心大に趣く」は阿弥陀仏の浄土を願い求める心に趣くという事になります。次に「浅く小因を発すべからず、広く弘心を発すにあらざるよりは何ぞよく菩提に相会することを得ん」ですから、阿弥陀仏の浄土を願い求める心に趣くとはどういうことか、この発菩提心においてこの「浅く小因を発す」と「広く弘心を発す」との違いを見るのですね。で、どこまでが浅く小因を発すことなのか、またどこからが広く弘心を発すというのか、この事についてまず解かなければなりません。

 以前、佐賀城後に行った時のことですが、いつも鉄道沿線に沿って南北ばかりを往来していたので、たまには違う処にも行ってみようということで佐賀方面に出かけて行ったのですね。佐賀市内は久しぶりで勝手もよく分からずとにかく有名なところへ行こうと佐賀城後の本丸御殿に行きました。佐賀市内は県庁所在地でもありそれなりに歴史と街並みがしっかりした処ですね。で、普通天守閣というのは城郭の中央部にあると思いますが、この佐賀城は天守閣が城郭部分に建ててあるようでした。変わった建て方だというのが印象です。ご存じのように佐賀藩は薩長土肥といいまして明治維新を推進した薩摩、長州、土佐、肥前(佐賀)の四藩の一つですね。大隈重信や江藤新平などを輩出した藩です。本丸御殿には藩校の弘道館の様子も沢山紹介してありました。西洋を見据えながら日本の将来に大志を抱く若者も沢山おられたでしょう。こういう世界に広く視野を向けるのをでは弘心というのだろうか。普通に考えたらそういうものを「広く弘心を発す」と言うのじゃないですか。

 それじゃあ、浅い小因とは何でしょう。この幕末当時においてこの地ではすでに石炭は採掘されています。石炭採掘はつねに水処理の問題が障害になっていたようで、炭坑工夫同士の水争いから、鉱山の水没まで水処理の問題は深刻だったと聞いています。明治以後西洋のポンプ導入でようやう収まったそうですが、では、こういう炭坑の話は「広く弘心を発す」内容にはならないだろうか。それとも「浅く小因を発す」ところの類だろうか。石炭産業は当時の日本の近代産業からすればけして浅く小さなものではないと思いますが。それでも時代の変換からすれば中途半端でもありますね。では、いったいどの辺りから広いと言うのだろうか、そしてまたどこからが浅い小因というのだろうか。私事は他人から見ればちっぽけな出来事ですね。だから浅い小因ですか。でも、私事は私自身からしたらこれほど大きい問題はありませんよ。では、この浅く小因というものと、広く弘心ということの違いは何かといいますと、ここでは「欣心大に趣く」ですから、阿弥陀仏の浄土を願っているかどうかです。すると佐賀藩の弘道館も炭坑の水処理もどちらも浄土を願ったものではありませんし、私事も阿弥陀仏の浄土を願った問題かといえばそうじゃない。するとここにある全部が広い弘心ではないのかもしれない。

 私たちは生きていると色んな事がありますから、毎日何かにつれ悩んだり、喜んだり、怒ったり、横着になったり、自分を卑下することもあります。そんな自分の心をよくよく見つめてみると、よろしくないものも結構あるようです。そんなこんなを本音として持っております。いやいやおれはそんなものは全然持っていないぞとおっしゃる方もおられるかもしれませんが、なるだけそういう方には近づかないようにしております。また、人間関係に悩んでおられる方も多いでしょう。そういう心の問題ですが、この菩提心とは仏になりたいと願う心ですね。ただ何となく願うのではない。強くそうなりたいと願うのでして、健康を願うとか、子供が幸せになってくれることを願う、宝くじが当たる事を願う、こういう願いなら強く願えますが、私は仏になりたいと強く願われる方がどれだけおられるのだろうか。今日の発菩提心はそういう話なのですが、現実的ではないといえばそれまでですが、また人間の深い処での話かとも思います。普段の我々ではあまり考えない事ではありますが、韋提希には人生において、いま、のっぴきならない事が起きているのですね。そこに私自身の耳を傾けて聞いていくのも大事なことだと思います。

 『観経疏』の冒頭に「帰三宝偈」という偈文が書かれています。この偈文の最初の処です。「道俗時衆等 各発無上心 生死甚難厭 仏法復難欣 共発金剛志 横超断四流 願入弥陀界 帰依合掌礼」

 この「道俗時衆等」の「道」は出家した人、「俗」は在家の人という意味です。だから「僧も在家も各々この上ない心を発しても、生まれ死んで行く私たちは、生きることへの執着は甚だ厭(いと)いがたく、仏法をよろこぶことも復困難である。共に金剛志を発(おこ)して、横さまに四流を超断せよ。弥陀界に願入して、帰依し合掌したてまつれ」多少アレンジが入ってますが、だいたいこういう内容かなと思います。で、この二句目の「各発無上心」ですが、これを次の文脈との関連で読むと二つの読み方があります。まず今読んだように「おのおの無上心をおこせども」という読み方です。もう一つが「おのおの無上心をおこしなさい」と読みます。初めの読み方では、それぞれが無上心をおこしても困難だから、共に金剛志をおこしてという意味ですね。次の読み方は「おのおの無上心をおこしなさい、なぜなら生きる事の執着は甚だ厭い難く、仏法をよろこぶことも復難しい。共に金剛志をもって」となります。どちらも一人じゃ困難なので共になっておこせとなりますから、両方とも同じ意味になります。ただこの読みでは「無上心」と「金剛志」は同じ意味ですね。

 で、初めの「道俗時衆等」には「時」の字が措かれていますね。するとこの出家と在家はその時の衆等でしょう。衆等は衆生等ですからその時の衆生等です。この観無量寿経の登場人物では僧は阿難尊者になります。お釈迦様の十大弟子の一人です。そしてこの観無量寿経で韋提希と共にお釈迦様から教えを頂くもう一人の人物です。だからこの時の衆生等は『観無量寿経』からすれば韋提希と阿難ということになります。では、この時とはどんな時でしょうか。先ほどから言っていますように、お釈迦様が韋提希に阿弥陀仏の浄土を説かれる時です。すると「阿難(道)韋提希(俗)もおのおの無上なる心をおこせども、生きる事への執着は甚だ厭い難くして、仏法をよろこぶことも復難しい。共に金剛志をおこして、横さまに四流を超断せよ。弥陀界に願入して、帰依し合掌したてまつれ」と、こういう読みになります。

 この「無上心」とはこの上ない心であり、またこの上ない願心であるという意味ですが、それ以上の事は分かりません。しかしこの無上心をこの二人に限定するならば、阿難の無上心はお釈迦様と同じ境地になる事です。韋提希にとっては阿弥陀仏の浄土への願いが叶うことでしょうか。二人はそれぞれ違う願いですが、お釈迦様からみたらおそらく同じ願いなのでしょう。そして、「共に金剛志をおこして、横さまに四流を超断せよ」です。

 さて、それではこの金剛志とは何でしょうか。サケは生まれ故郷の川に帰って産卵して、サケの一生を終えるでしょう。こういう習性がある生き物は他にも多くいると思います。では人間はどうでしょうか。人生の晩年に故郷の田舎に帰って過ごそうと思われる方はわりと多いかもしれません。そういう晩年の過ごし方もこの習性とどこか似たものがあるのでしょう。比較的奥さんの里に帰られるのが多いようですが。また、沖縄では、お墓の形が女性の子宮を模っていると言われます。毎年お墓で親族が集まり飲んだり食べたりする習慣があるそうですね。お墓が一族のコミュニケーションの場であり、最後はみんなが還っていく処でもある。これもお墓に故郷というワードがあるような気がします。

 また人間は心の生き物ですから、心の故郷もあるかもしれないでしょう。芥川龍之介の作品で『河童』は今度生まれる所を選べる世界だそうです。洒落た世界です。「おっ、予定通りの場所に出て来たぞ、しめしめ」選びの無い私たちの生を、芥川は皮肉を交えて描くのでしょうか。お腹の赤ちゃんがそんな事を考えているとは思えませんが、だからといって何か意識に似たものがないとも言えないですね。お腹の中で動く仕草にはそれぞれすでに個性があるかのように見えます。ではそれよりももっと前、それこそ生の始まりである、私と言うよりも生物的でありますが精子と卵子が結合する時ですが、その時に意識的なものはあるでしょうか。いくらなんでもある訳がないだろうと思うでしょう。しかし、では無いとしたら何故そこから意識が発祥するのだろうか。これは科学者の方にお聞きするしかないと思いますが、お聞きしても分からないかもしれない。ただ何もない所から何かが始まるというよりも、何かのきっかけで何かが始まらなければ説明は出来ませんね。生物学的にまた科学的にはどうだという事ですが、少なくともそこには何かの機能が始まっているという事ではないかと思います。「自の業識」ということを善導大師は言われますが、この自の業識にそれこそ私としての生が始まるその時を見られている。意味としては生きんとする意志と言われています。善導大師においてはこの自の業識が最初の場所であり、私の生の始めです。だからそこは私の心が始まる場所でもある。生きんとする意志は生への意志であり、また自の業識としては心の故郷である。

 「生死甚難厭」韋提希は世俗に生きることを嫌いながらも、生きることへの執着を厭い離れることが出来ない。「仏法復難欣」阿難は仏法に生きる僧でありながら、お釈迦様を拠り所にするあまり本来の仏法をよろこぶ身になれないでいる。そして「共発金剛志」ですね。この「共発金剛志」の金剛は迷いがない、揺るぎのない、変わらないというような意味でしょう。貴方は何事にも揺るぎのない心の持ち主ですかと聞かれたら、いいえそんな心は持ち合わせておりませんと即答致します。もう何事にも揺らぎっぱなしの自分でして、あっちふらふら、こっちふらふら。情けないですが小心者として胸をはってきっぱりと発言させてもらいます。だから自分にはそのような金剛なる心などありません。ただこの金剛志とは変わらず揺るぎのない意志ですから、私のこの心が揺らぐかどうかではなくて私の身にそのような金剛志があるかどうかでしょう。

 韋提希と阿難においてこの金剛志を発して「横さまに四流を超断せよ」です。「横超断四流」の四流は四暴流のことです。暴流とは氾濫した川のような激流の意味だと思いますが、欲暴、有暴、見暴、無明暴を四暴と言いまして、まず欲暴流は欲に激しく流されること、何かのきっかけで途端に暴走する。むさぼりや妬みものそうでして、なかなかこの激流は日常的です。分かりやすいのは瞋恚(しんに)だと言われます。怒りや憎しみ恨みなどがそうです。腹が立つとパッと顔に出るでしょう。生きて行く中でこの欲望流にどれだけ流されるでしょうか。

 そして有暴流です。この辺りから難しくなります。この有暴流からは、実は調べても思うような回答が見つかりませんので、とにかく自分の思う処を申し上げるしかないのですが、まず生物学的に言うと人体の細胞はおよそ半年で全てが入れ替わるのだそうですね。脳細胞からすべての細胞が入れ替わるのだから、半年後は今とは全くの別人なのだそうです。でも、そんなことを言われてもこうして自分はここに居るのだし実感などもありませんね。たとえ科学的に実証されようがこの自分は自分でしかないと普通は考えるじゃないですか。だけど生物学的に言えば無いものを有るものとしている訳でしょう。森羅万象すべて変化の中である。格好つけて言うとそういう事ですね。これ仏教でいう諸行無常という意味です。川の流れをそのまま握ることが出来ますか。川の水を手ですっくてみても、それはすでに川の流れではありません。そしてすくった水を見る私たちもまた諸行無常の存在です。私も変化の中であり捉えようとする対象も変化の中ですね。そういう状況で自分はここに有り、そして対象はそこに有るとする物の捉え方は、本来をそのままに捉えていない事になります。しかしそうは言ってみてもですよ、実際の処はこの私がいてそして貴方がいる。私が有りそしてそこに何かが有る。こういう事でしか物事を測れないでしょう。辞書で認識という語を調べると「物事を見分け、本質を理解し、正しく判断すること。またそうする心のはたらき」だと書いてあります。だから認識するとは、普通にまず考える私がいてそして見ている対象があり、それを私がどのように考えるかということです。

 すると仏教でいうところの本質を知るというのは、一般的にいう物を認識するのとは違うのでしょうね。この有暴の有とはそういう点からして私が普通に考えるところの認識作用の類になりますが、その有に暴流をつけて有暴流ですから、このような様々な有への執着が何かのきっかけで激流のごとくに暴走する様子でしょうか。こうなると思い当たる事がどんどんと出て来ませんか。細かいことはここでは申し上げませんが、いたる所で展開される様々なドラマがこの有暴流の出来事かなとも思います。これらは最初の欲望流とすごく近くて、欲望流が結果なら有暴流はその因となる心の作用なのでしょう。

 次が見暴流ですが、ここで言う見とはこのような有を促す発動のようなものではないかと思っています。有を認識作用とするなら、見はその認識作用へと促すはたらきといいますか、具体的に何かそういう器官が身体にありそれが促すと言うようなことじゃなくて、単に促すところのものということです。これは自分がそう考えているだけですが、自の業識でいう生きんとする意志は私が母親の胎内に宿る時、つまり具体的な生が始まる時を言うのですが、この見はそういう生命の領域に限らないところの促しという事そのもの。そういうふうに考えています。

 そして無明暴ですが、この欲望も有暴も私の心の中の出来事です。そして見暴が私の心そのものを促すものだとしても、これらのことを私は心で捉えようとするのですから、いくらこのような観察をしても私の心から私は出ることは無いのですね。私の心を見るには心の外を通してから見なければ私の心は見えません。『浄土論註』に「蟪蛄(けいこ)春秋を識らず、伊の虫,豈(あ)に朱陽之節を知らん乎、と言うが如し。」という有名な言葉があります。蟪蛄とはひぐらしの事だと言われます、蝉は夏に生れて夏に死んで行くから春秋を知らない、この虫がどうして夏という季節を知ることができるだろうか。私の心が私を測り、その心に私を見る。私の心は私の生きることと共にあります。生まれてから死ぬまでずっと心が私を考えるのですから、心から私は出ることはないのです。だから私の心は私が一番知っているつもりでいながら本来を知らないと言います。この事を無明と言うのですね。この無明であるがゆえに、あるちょっとしたはずみでバランスを崩し、見が暴走して、有にしがみつき、欲が濁流のごとくに貪りだす。こういうシステムになっております。そのままが私の生きて行くところの姿であります。四暴流を簡単ではありますが自分なりに説明してみました。また違う見解も当然あるはずです。

 そして「横超断四流」ですね。このように四暴流は心の産物でありますが、自の業識というのは先ほどからも言いますように、身体に属しながらも私の意識の外にある処の生きんとする意志ですね。言うなれば我が心の外に属しながら、なお且つ身体に備わる変わらない意志でしょう。金剛志を発せとは、この変わらない意志に帰れということではないでしょうか。もしそうならば、それは自の業識へと帰れという事でもあるのです。そして、金剛志が身体に備わるところの意志であるならば、心の産物である四暴流の外でありますから、この金剛志を発すことはすでに四流を横さまに超えているのだというのでしょう。

 「願入弥陀界」はこの「横超断四流」をもって弥陀界に願入せよということです。しかしまた、この『観経疏』では「一切の往生を欲(ほっ)せん知識ら、善くみずから思量せよ。むしろ今世の錯(あやまり)を傷みて仏語を信ぜよ。」と言われています。「往生を欲せん知識ら」という表現が面白いですね。この往生を欲せん知識らとは、知識でこの弥陀界に入ろうとする者のことでしょう。錯はまちがえるということですから、まちがって自分の知識や裁量で弥陀界に入ろうとしても心の中でもがくだけだという事です。そして仏語を信ぜよとは、自らのその錯と傷みの中で帰って来いという阿弥陀仏の願いに気づくことでしょう。ここにおいて「願入弥陀界」「帰依合掌礼」です。そしてこの「帰依合掌礼」の姿がそのまま「横超断四流」の姿であるというのでしょうね。取り急ぎ『帰三宝偈』の「道俗時衆等」から「帰依合掌礼」までを話してみました。

 それでは発菩提心に戻ります。「発菩提心というは、これ衆生の欣心大に趣くことを明かす。」これはもういいでしょう。次の「浅く小因を発すべからず」は心の内なる世界で発すべからず。いくら広い視野でも自分の心から出ることは無いのです。だから「広く弘心を発す」とは私の心よりも広い、広大な外にそのままにしてつながる変わることがない意志に帰ることである。この金剛志を求める心が菩提、つまり仏と相会するのであると言われるのでしょう。「我が身、身は虚空に同じく、心は法界に斉しく、衆生の性を尽くさん」は、我が身は無限に広がる法界にあり、心は金剛志を求める心となり、その心もまた法界に斉しい。ここをもって、ただ願わくは、我ら衆生としてのこの一生を尽くしていこう。

 「また菩提というは、すなわちこれ仏果の名なり。また心というは、すなわちこれ衆生能求の心なり。ゆえに発菩提心というなり。」この菩提と心を何故わざわざ分けられて言われたのだろうか。消化不良は未だなお継続しますが少しはほぐれて来たかなあとも思います。

 

 

  

「帰去来」

令和3年3月 春の彼岸会より

今日は善導大師の『帰去来』を話そうと思います。

まずは北原白秋の『帰去来』から。

山門(やまと)は我が産土(うぶすな)

雲騰(あが)る南風(はえ)のまち、

飛ばまし、今一度(ひとたび)。

筑紫よ、かく呼べば戀しよ潮の落差、

日照沁む夕日の潟。

盲(し)ふるに、早やもこの眼、見ざらむ、

また葦かび、籠飼(ろうげ)や水かげろふ。

帰らなむ、いざ鵲(かささぎ)かの空や櫨(はじ)のたむろ、

待つらむぞ今一度(ひとたび)。

故郷やそのかの子ら、皆老いて遠きに、何ぞ寄る童ごころ。

【大意】大和柳川は私を生んだ大地だ。南風に吹かれて雲がひるがえる、美しい場所(まほろば)だ。ああ鳥となってもう一度飛んで帰りたい。筑紫よ、この名前を呼べば恋しく思い出される。干潟の差の激しいその海が夕日に赤く染まる海の景色、今や私の視力は衰え見えなくなってしまった。たとえ故郷に帰っても葦の群生や籠飼、水かげろうといった懐かしい風物を見ることはできないのだ。それでも帰りたい。カササギの舞う櫨の木が群生する懐かしい故郷柳川に。きっと私をまっているだろう。故郷も当時遊んだ友達も年老いて遠ざかってしまった。それなのに子供のようにこんなにも心がひかれるのはどういうわけだろう。

  

善導大師の『帰去来』

帰去来(いざいなん)、

魔郷には停まるべからず。

曠劫より来(このかた)、

六道に流転して、ことごとくみな経たり。

到る処に余の楽なし、

たゞ愁歎の声を聞く。

この生平を畢(お)えてのち、

かの涅槃の城(みやこ)に入らん。

  観経疏における「帰去来」の位置ですが、定善観第二の「水観」にあります。この「水観」は複雑な構成になっていまして、「水観」の中に「氷想観」があり、その「氷想観」が「瑠璃地の下」と「瑠璃地の上」に別れています。「水観」から「氷想観」へと連続するのではなくて、「水観」の中に「氷想観」があるという独特な様相です。そしてこの「水観」の全体に六首の讃が措かれています。まず「水観」には天親菩薩の『浄土論』から一首。そして「瑠璃地の下」に三首、「瑠璃地の上」に二首とそれぞれに措かれています。「帰去来」は「瑠璃地の下」の三首目にありまして、「瑠璃地の上」へとつながるような、ジョイントの役目をしてるかのように見えます。

  内容も少し変わっていますね。「帰去来」は本来ならば北原白秋のように故郷に帰る歌ですが、ここではその故郷は魔郷だという。そしてその理由が次に述べてあります。「曠劫より来、六道に流転して、ことごとくみな経たり」。六道とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の事ですが、詳しい説明はありません。ただ六道流転とだけ書かれています。そしてこれが魔郷には停るなという理由ですね。解説としたらすごく大雑把な表現です。また、この「曠劫より来、六道に流転して、ことごとくみな経たり」も奇妙な表現です。「みな経たり」ですから、すでに過ぎたという言い方です。いったいどこでそんなことが分かるのだろうか。そしてこの「到る処に余の楽なし、ただ愁歎の声を聞く。」まで、何気なく気分だけで読んでしまうとそんなものかと思いがちですが、気になりだすと何ともおかしい内容です。また、この「曠劫」は極めて長い時間を現わす単位ですが、では実際にどのくらいの時間なのかといえばはっきりしたものは無いようです。10年は一昔と言いますから、では100年は、1000年はというような、そういう時間の捉え方ではおそらくないのでしょう。

  永遠という言葉がありますが、この永遠というのは「あなたの永遠は後どのくらいで終わりますか」というパラドックスが含まれていると言われます。永遠なのだから終わらないはずですが、実際にどこまでかと聞かれるとよく分かりませんね。「曠劫」という時間の概念をこの永遠と同じように考えるとすると、「永遠」の対義語は「瞬間」でありますから、この永遠と瞬間の関係を考えるべきかもしれません。

  最近は宇宙開発が盛んに行われているそうです。そう言った事を時々耳にしますが、この宇宙を地球から見れば満天の星が宇宙の世界でしょう。まじかに見えるのはお月さんですね。金星や火星なども教えてもらうと、あゝあれかなと思ったりします。以前読んだ『宇宙からの帰還』(立花隆著)は、アポロ計画で月に行った宇宙飛行士にインタビューされたものでした。新鮮な感覚で宇宙を肌で感じた事などが取材されています。その時の宇宙と地球との狭間で神をも感じた飛行士もおられたそうです。宇宙から地球を見た時に、地球が単に一個の星にすぎず、自転を繰り返すだけの時間も存在しないような星ではなく、また天候などを観察するくらいの近距離でもない。地球全体が俯瞰されていて、なおかつ自転することに時間の経過を思い、人類の歴史をも感じるくらいの距離があるとするならばどのくらいのものだろうか。 この距離から俯瞰された地球は、一目で観た地球でもありますから、瞬間的な感覚がそういう地球を捉えたという事でしょう。そこには生きている人々の姿や自然の風景、そして過ぎていく時間の感覚もある。もしそう言う距離とその時があるのならば、その俯瞰の時は時間を超えているという事はないでしょうか。

  時間を長さで考えると過去・現在・未来。前・今・後。こういった連続性が前提にされますが、このような俯瞰された時間ならば、その時間は瞬間的に内包されていて始めもなく終わりもない。瞬間に永遠を観るといった場合には、このような内包された時間の永遠性を観るのであり、そう感じたのではないかと思います。永遠と瞬間の関係を何か言葉で表現しようとしたら宇宙の話になってしまいましたが、普通に私たちにも一瞬に何やら永遠なものを感じるような経験があるかとも思いますが、こういう瞬間と永遠の関係もあるのではないかと思うわけです。

  「曠劫」をこういう一瞬に収まる永遠性と読む場合。その曠劫に見た六道に流転する我が身は、そのまま我が身を超えていて、六道が流転する丸ごとの世界観でありますから、六道はことごとくみな経ていながらも、何処にも六道流転でないものは無い。愁歎の声が響いているだけである。と、そういうような意味になるのではないでしょうか。

  「瑠璃地の上」の初めの讃に「処々の光明十方を照らす」とあります。これも興味深い表現です。一瞬に収まる永遠性であるがゆえに、それは光と共に記憶されていくという事でしょう。そしてその光があちこちにあるということですね。だから今度はその光の彩を分析して「瑠璃地の上」を現わす。『帰去来』の「いざいなん」は、この「瑠璃地の上」の光の彩りへと歩き出す時のことを言うのだろうと思います。だからすぐさまこうなりましたと言ったものではなくて、何度も分析を繰り返しながら深まっていくところのものだという訳です。

  この「水観」の前が「日観」です。「日観」はまず真西に太陽が沈む光景を観想します。つまり、今日のように彼岸に中日の事です。その夕日が今まさに沈まんとする時を思い浮かべながら心を整えます。その心は静かに、そして心が身体の一部としてあり、心と身体に隔たりがないかのように整えていきます。そして次にその身体と自然とが一体になるように心をもっと整えます。このように心と身体そして自然が一体になるような観想を行う。この観想の方法をまず身に着ける。そしてこの観想を尺度にして、我が心をそこに映し出すようにする。すると自分が何を思って生活しているか、何を悩んでいるか、心の内面の在り方が見えてくる。この観想の鍛錬からできた尺度は、自分の心の在りようを映し出し、その心が知れる度に、いかに自分の心の在りようが観想から外れているのかが分かってくる。つまり自分の心の在りようをまるごとこの観想に浮き上がらせると言うのですね。

  この「日」を観ずるというのは、私の心の在りようがちょうど鏡に映し出されるように見えるという事です。と、そこに今まで見えなかった、気がつかなかった私の心がそのまま見えることで、光が差すと言います。そしてこの心の在りようが事細かく明らかにされるほどにその光は大きくなり、ついには何千倍もの日輪となる。この日輪が真西に沈む夕日と重なり、「その日正東より出でて直西に没す。弥陀仏国は、日没の処にあたって、直西に十万億の刹を超過する」と、弥陀の浄土の方向が示されて行きます。

  ところで、この「日観」には、「浄心の境を障蔽(しょうへい)して、心をして明照ならしむること能わず」という文言がありまして、この浄心の境を覆い遮るものがこの心の在りようであるという、つまり、心の在りようを映す鏡をここでは浄心の境というのだろうと思いますので、どちらかと言うならば、この浄心の境を明らかにすることを持って「日観」の意義としている。で、この「日観」をもって、次の「水観」に続く訳ですから、この鏡に映る心の在りようの永遠性が「瑠璃地の下」に表現されたのではないでしょうか。そしてそれは瞬間に収まるからこそ、その永遠性に六道流転の世界観を観た。それが「ことごとくみな経たり」であり、「到る処に余の楽なし、たゞ愁歎の声を聞く。」と善導大師に言わしめるのでしょう。そしてその「瑠璃地の下」から「瑠璃地の上」へと「帰去来」いざいなん、です。

  これはお釈迦様が韋提希の願いに立って、阿弥陀仏の浄土を明らかにされる最初の処で、浄土の入り口になります。普段何気なく暮らしている私たちにとって、この「帰去来」に何か意味があるのかよく分かりませんが、どこか胸にしみるのは、生きることの足元にある命の深さをどこかで感じるからだろうかと思います。今日は善導大師の『帰去来』を話しました。親鸞聖人もこの「帰去来」を引用されています。親鸞聖人独自な引用の仕方でもあります。いつか話すことが出来ればいいなと思っています。

  

  

「観経疏の発菩提心」に関する(付録)として

2013年3月 『風俗史学』51号「あるひとつのパターンについて」より

  「これ夫人、婉転涕哭することやゝ久しくて、少しき醒めてはじめて身の威儀を正しくして、合掌して仏に白すことを明かす。」観経疏、序文義に登場することばですが、経典においては「時に韋提希、仏世尊を見たてまつりて、みずから瓔珞を絶ち、身を挙げて地に投げ、号泣して仏に向かひてまうさく、世尊、・・」となります。

  経典においては「号泣して仏に向かひてまうさく」ですが、観経疏には「久しくして、少し醒めてはじめて身の威儀を正しくして」と慟哭から仏に白すまでの間に時間の経過が示されて内容としてはかなりの違いがあります。通常の意味においてはこの時間の経過はないのだから、感情の高ぶりのままに韋提希が釈尊への愚痴を述べる段階だけということですが、ここに時間の経過を現わした時に感情の高まりは抑えられて、冷静さを装ったなかで釈尊に文句をいいはじめるという状況が想像できるわけです。感情の高まりから愚痴を言い出すのは感情が興奮状態であるためのものであることが予想されますが、ここにさめる時間をおいたのは、次に仏に愚痴を告げることが意識の高揚のために告げたのではないことを言わんがためのものではないでしょうか。

  その後に韋提希は釈尊の沈黙により自らの愚かさを自覚するのですが、その自覚の対象が興奮状態による自らの愚かさを自覚するのか、それとも牢獄で命の危うさを感じながらも冷静さを装う姿を見せて、事の原因の責任を釈尊にまで押しつけるような言葉を発していくこと全体から自らの愚かさを自覚させるのか。王妃として過ごしてきた時間に経過が、この慟哭から愚痴までの間に行われたほんの短い時間と重なり、その一瞬に王妃韋提希として生活した時間全体が愚かであったことを自覚したと強調したかったのではないでしょうか。

  意識のある一面の興奮した状態ではなくて、生活そのものの時間であるならば、それは釈尊の沈黙によりその自らの愚かさが露呈されて韋提希の意識全体が崩れたのであり、単に意識のある一面が否定されたのではないのでしょう。このような心的な状況を善導は何故わざわざここに措かなければならなかったのか。この疑問が後の観経疏を読んでいくときの大きな視点になるのですが、勿論善導が用いた経典が現在のものと違いそういう文言が入っていたことも可能性として出て来ます。しかしもしそうであるなら何故その文言が消されたのかを問題視しなければならないでしょう。韋提希はこの後阿弥陀の浄土を釈尊に請い願うのですが、その起点となるものとしてこれを観ていくことが現在の研究の課題のひとつとしてあります。しかしこの問題は観経疏にとどまらず幾つかに同じような形態が描かれていることに目が向けられるのです。

  例えば、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』においても韋提希の心的な一連の状態が現れているように思われます。この『カラマーゾフの兄弟』におけるアリョーシャの宗教体験が「ガリラヤのカナ」で描かれています。しかしその前に「腐臭」に長老ゾシマの死によるアリョーシャの挫折があり、そこから「ガリラヤのカナ」での宗教体験へと続いていきます。この韋提希の愚かさの自覚(意識の崩壊)とアリョーシャの挫折に観るものはいったい何なのか。

  意識が否定された状態は見かたを変えれば、意識が始まる前の状態だともいえるでしょう。何故ならまたそこから見ている自分が感じられて意識が始まるからです。そういう点では意識よりも前であり、何かを見るということはその意識の前を見るということにもなるのかもしれません。それは見ているものと見られているものとの間には差別はなく、ただそうした状態があるということだけなのでしょう。こうした状態が韋提希の愚かさの自覚やアリョーシャの挫折のなかに窺えます。

  ヘーゲルの『精神現象学』における「1、感覚的確信ー(目の前のこれ)と(思いこみ)」においてこういう文章が書かれています。

  「まっさきにわたしたちの目に飛び込んでくる知は、直接の知、直接目の前にあるものを知ること以外にはありえない。この知を前にして、わたしたちは、目の前の事態をそのまま受けとる以外にはなく、示された対象になんの変更も加えず、そこに概念をもちこんだりしてはならない。感覚的確信の具体的内容を見ると、感覚的確信こそ掛け値なしにもっともゆたかな認識、いや、無限のゆたかさをもつ認識に思える。内容が外へと広がる際の空間と時間に限界はないし、充実した内容からその一部をとりだしてきて、それをこまかく分割していっても、限界にぶつかることはないように思える。その上、もっとも正しい認識であるようにも思える。対象からいまだなに一つとりさることもなく、対象をまるごと目の前に見ているのだから。だが、実際は、感覚的確信が真理だとすると称するものは、もっとも抽象的で、もっともまずしいものである。感覚的確信が、自分の知る対象についていうことは、「それがある」ということだけで、その心理にふくまれるのは、事柄があるということだけである。意識のほうも、なにかを感覚的に確信するかぎりでは、純粋な自我としてあるにすぎず、そこでは、自我は純粋な「この人」という以上のものではなく、対象も純粋な「このもの」以上ではない。」長谷川宏訳『精神現象学』

  韋提希の浄土を願うときに釈尊から見せられた浄土の姿を一種の宗教体験とするなら、『カラマーゾフの兄弟』による「ガリラヤのカナ」でのアリョーシャの宗教体験と一致するものがあるでしょう。そしてその前段階にある意識の前の経験は、ヘーゲルにおいては感覚的確信として示されています。またヘーゲルにおいは宗教体験としてではなくて『精神現象学』の中枢部へと進んでいく始めのものとして現わされているのでしょう。この一連の事柄はキルケゴールにおいても見られます。それぞれの後のあつかわれていく内容は統一的ではないかもしれませんが、こういう一人ひとりのその後の内容を編纂することが目下の目的になっています。その人の思考内容が重なったり反発したりしながら、ある一つのものに向かっているような気がしてならないからです。その人の描く図形がある円を描いていたとしたら、また違う円を描く人がそこに登場した時、それぞれの円は違う形をしていますが微妙にどこか重なる部分がある。現在においてはこういう自分なりの研究をしているつもりです。

  観経疏の話に戻りますが、そういう視点で少しずつですが読んでいきますと善導その人が気になってきます。ある面少し気を使って書いているのではないかと勝手にですが詮索することもあります。そしてそれは西洋の哲学とも深く重なっているように見えるのです。

  「観経疏の発菩提心」は予定外の内容でしたが、だからといってその先に何か予定するものがあったわけではなく、着地点が予想外だったという事でした。以前同じ形態とした善導の独自性を『風俗史学』の「あるひとつのパターンについて」で書いていたので付録として掲載しました。

観経疏の発菩提心

令和2年12月 御正忌報恩講より

  親鸞聖人の御命日を記して、こうして報恩講が全国で執り行われます。親鸞聖人が日本の代表的な高僧であることは間違いありません。しかし日本の仏教において高僧だと認められたのはつい最近のことではないでしょうか。聖人が修業をされた比叡山は様々な高僧たちを輩出してきました。聖人もその一人です。ただ日本仏教を代表とする高僧だと認められていたかといえば定かではありませんでした。

  師である法然上人は比叡におられた頃から智慧第一の法然房と言われ、比叡を降りてもなおその名声は日本を代表するものでした。しかし親鸞聖人は違います。何百年もの間、比叡山の高僧とはなっていません。理由は妻帯をされたからです。仏教には妻帯の概念が無いのですね。高野山にケーブルカーで登りますと、途中で女人禁制の場所が残っています。昔女性はそこから先に入れなかったのです。現在はおかまいなしに入れます。禅の道元は、京の伏見の興聖寺で男女ともに禅の修業をしたと聞いていますが、後程福井の山中に永平寺を建立して厳しい修行場を開かれました。親鸞聖人はこの道元と同時代の方ですが、法然上人のもとに行かれる頃には、すでにこの妻帯の問題をどこかで背負っておられています。親鸞聖人が生きられた鎌倉時代は仏教が民衆に入っていく転換期でありますから、こういう民衆的であり、人間的な課題が登場したのではないかと思います。

  また、社会的な見方からすれば、聖人は知識人や文化人から人間親鸞と称されて、非常に人間味ある高僧だと言われ続けております。若き青年親鸞の悩みは何だったのか。よくこういうストーリーが描かれたのではないでしょうか。形ばかりを聖人ぶるより真正直に一人の人間として悩む姿、そしてその現実を生きる姿勢をそのまま仏教にぶつけられた魅力が聖人にはあります。29歳の時に法然上人の元へ行かれた後も変わらずにご自身の問題をひっさげて生きて行かれました。妻の恵信尼との間には沢山のお子さんもおられます。この人間味が親鸞聖人の魅力なのですが、しかしこういった聖人への捉え方はおそらく明治から大正、昭和とその時代の知識人や文化人が描いた親鸞像でもあったのでしょう。

  親鸞聖人が生きた鎌倉時代にはそういう知識人や文化人はいないのですから、青年親鸞、親鸞と名乗られたのはもっと後の話ですが、とにかく親鸞の悩みがいかに人間味があると言っても親鸞一人だけが悩んだのではないはずですね。時代背景に沿って同じような悩みがそこらじゅうにあったはずです。その頃、民衆仏教の先駆けである法然上人はすでに70歳近いお年でした。20年ほど前にすでに比叡を降り専修念仏を京で開かれておりましたので、法然上人の名声は日本全国に広まっていたことでしょう。当然、当時の親鸞聖人にも聞こえたはずです。ご存じにように法然上人に遇いに行かれる時はかなり悩んでおられます。六角堂の百日間の参籠が有名ですが、恵信尼文書にも晩年の思い出としてこの六角堂の参籠の話が書かれていますので、日常の会話にもよく出ていたのでしょう。

  法然上人と親鸞聖人とのご信心について、歎異抄の後序に書かれています。「善信(親鸞)が信心も聖人(法然)の御信心も一つ」と親鸞聖人が言われるのについて、お弟子の勢観房・念仏房が「いかでか聖人の御信心に善信房の信心、一つにはあるべきぞ」と文句をつけられます。親鸞聖人は「聖人の(法然)の御智慧・才覚ひろくおはしますに、一つならんと申さばひがごとならめ。往生の信心においは、まったく異なることなし、ただ一つなり」法然上人の智慧や才覚が親鸞と同じだというならば、自分のいうことは間違いである、しかし往生の信心においてはただ一つだと返答をされる。勢観房・念仏房はその答えになお納得がいかいものだから、法然上人にその旨をお聞きすることになります。すると法然上人は「源空(法然)が信心も、如来からたまはりたる信心なり、善信房の信心も、如来からたまはりたる信心なり。されば、ただ一つなり。別の信心にておはしまさんひとは、源空がまゐらんずる浄土へは、よもまゐらせたまひ候はじ」と弟子たちの論争を収められたことが書かれてあります。 

  この「如来よりたまはりたる信心」という表現はよく耳にして聴きなれているから別に何とも感じませんが、しかし普通なら信心と言えば私が何かを信じることですから、まず私がありそして何かを信じる事ですね。たとえば私が神の存在を信じるとか、ご加護を信じる。何ゝ仏の御利益を信じるというような類になるでしょう。しかし、ここで言われている「如来からたまはりたる信心」は、如来が私に信心をくださるということですね。じゃあどういう信心をくださるのか。考えるとよく分からなくなる。

  これは自分の受け取りでありますけども、この「如来からたまはりたる信心」というのは、この私をたまわることで成立する信心である、そういう事かなと思っております。では、その私をたまわるとはどういう事でしょうか。

  私たちは、普段何事もなく暮らしていると、自分というものがさもを分かったかのように暮らしていますが、いざ自分の思慮分別を超えるくらいのごたごたが生じたら、泣いたり、わめいたり、妬んだり、と変化に富んだ自分が現れます。その時心は何かに振り回されるがごとくに変わっていく。場合によっては取り返しのつかないことまで仕出かしてしまいます。あの時ああすればよかった、こうしたらよかったと、振り返りながら後悔先に立たずの現実です。何事もなく全て順調に過ごしてこられた方もおらるでしょうが、概ねこういうものじゃないですか。誤魔化しが利くものなら知らんふりで過ごせますが、この取り返しがつかない事実の積み重ねはどうしようもない。どれが本当の私なのかと改めて考えても、どれもこれも自分に変わりはないし、だからといってどの自分が私だとさっと出せる答もない。あるのは自分が気に入ったものは私として認めたいし、都合が悪い自分は認めたくないという心である。若い時はそういう認めたくない自分の姿を自分で責めて、自己嫌悪に落ちる人もけっこうおられるでしょう。年取ると老化現象か何か知りませんが、そういう感覚が薄れてきますね。だからといって心が深く広くなったのかといえば、一概にそういう事じゃない。ボケてるか、誤魔化し方が上手くなったのか、そういう事かなとも思います。

  ただ、老いは時間経過の加速する感覚が強いですから、これからどうなるんだろうって、何がどうなるか分からないのにせかされているみたいで、外見よりかなり焦った様子がある気がしますね。老後の心配は勿論あるし、子供が大きくなれば心配の内容が変わるだけで、より心配が増す気がする。身体的にも誤魔化しが利かない。そしていよいよ死が具体的に近づいてくる。それに伴いかえって死にたくない気持ちが増す。問題は山積みです。ずっと前に読んだ夏目漱石の、たしか『門』だと思いますが、その最後辺りに、主人公が門の前にたたずみ、そこから前にも帰ることもできないまま、門の前でただ茫然と日が暮れるのを待つだけだった。そのような内容だったと思いますが、ふと思い出しました。

  若い時は若い時の悩みがありますが、老人には漠然としたそして深刻な悩みがありますよね。この死が漠然としすぎて自分の器量をはみ出しますから考えようがないだけです。しかしこういう周囲や年齢による変化においても変わらずに、この私としていつも還れるような、私本来のこの私自身をいただく。それを「如来からたまはりたる信心」と、こう言われるのだろうと思う訳です。

  観経疏の序文義に「たゞこれ相因って生ずればすなはち父母あり、すでに父母あればすなはち大恩あり。もし父なくんば能生(のうしょう)の因すなはち欠けなん。もし母なくんば所生の縁すなはち乖(そむ)きなん。もし二人ともになくんばすなはち託生の地失わん。かならず須からず父母の縁具して、まさに受身の処あるべし。すでに身を受けんと欲(ほっ)するに、自の業識(ごっしき)をもって内因なし、父母の精血(しょうけつ)をもって外縁(げえん)となす。因縁和合するがゆえにこの身あり。・・・」観経疏は序文義、定善観、散善義 と別れていまして、この文章はその中の序文義の最後辺りのものですが、韋提希がいよいよ阿弥陀仏の浄土をお釈迦様から享受される前段階のところになります。

  韋提希が阿弥陀仏の浄土を求める意義は正しいのですが、その心の根といいますか、浄土を求めるところの心の発する場所がまだ明らかでない。そこで定善観に入る前に、韋提希の心根を正すために設けられた場所ではないかと思っています。普通いうところの本論に入る前の基礎認識ですね。ここを散善顕行縁と言いますが、その初めの文になります。そして次に韋提希の発菩提心が明らかになる。

  この発菩提心に入るまえに、善導大師はひとつの物語を載せています。飢饉で苦しんでいる町にお釈迦様が托鉢に出かけられる場面ですね。町中が飢饉に苦しんでいる状態ですから、誰もお釈迦様に食を施すものはいませんでした。三日たってもひと鉢の食もないまま次第に体が衰えていくお釈迦様に、一人の比丘が心配して何かお召し上がりになりましたかと尋ねます。お釈迦様は衰弱がひどく話す力さえ無くなりつつありました。お釈迦様のその姿を見た比丘は悲しみ泣いて、自分の三衣を売りお釈迦様に食事を施そうとします。するとお釈迦様は「貴方の三衣は、三世諸仏の幢相なり、この衣の因縁極めて重く、極めて恩あり」(あなたの着られている三衣はあなただけにとどまらず、過去・現在・未来に極めて重い因縁があるのです。それは極めて恩があります。)と言われ、私はそれをいただく事は出来ませんと、その食を断ります。

  その時、比丘は「仏(お釈迦様)はこれ三界の福田、聖の中の極みなり、それでも頂いてもらえないなら、他の誰かに施します。」(お釈迦様のような聖の極みのお方においても御召し上がていただけないなら、誰かに施すしかありません)。するとその時、お釈迦様はあなたの親は居られますかと尋ねます、そしてあなたの両親にこの食を与えなさいと言われる。比丘はお釈迦様がお食べにならないのに、どうして私の親が食べることが出来るでしょうか、と返答しました。お釈迦様は、「あなたの両親は食べて良いのです。あなたの両親はあなた自身をこの世に生んだのです。あなたにとってそれは大きな重い恩です。これがためにあなたの両親は食べてよいのです。」と告げられ、そしてまた「あなたの両親は信心がありますか」と尋ねます。比丘は両方とも信心はないと答える。その時にまたお釈迦様は「だからこそあなたの両親に与えなさい、いまそこに信心があるのです。」「あなたの両親もまた親がいます。いままでの経緯を教えてこの食を与えなさい。そうすればあなたの両親はこの食を得ることが出来ます。」

  比丘が言うところの「仏はこれ三界の福田。聖の極みなり」に対して、お釈迦様が比丘に言われた福田とは何だったでしょうか。それはこの三界(過去・現在・未来)において、あなたとして生を受けたことによる両親への恩だということでしょう。この文の最初の処ですが「すでに父母あればすなはち大恩あり」という言葉は、この私のいのちは、過去・現在・未来を貫いている福田であり、大きな恩があると言われるのです。その私のいのちの初めを、次の文に「すでに身を受けんと欲(ほっす)るに、自の業識をもって内因となし、父母の精血をもって外縁となす。因縁和合するがゆえにこの身あり。この義をもってのゆえに父母の恩重し」と、こういう言葉で続けられます。「自の業識をもって内因となし、父母の精血を外縁となす。因縁和合するがゆえにこの身あり」です。だからこそ父母の恩重しですね。

  この自の業識は生きんとする意志だと言われます。生の初めが父母の精血であることは分かりますが、その精血が生きんとする意志と因縁和合することによってという言い方です。自らのいのちが始まる時をこういうふうに表現されのですね。この生きんとする意志を、私が生きようと思うということなら、親の恩を決めるのも私の思い次第です。しかし、この生きんとする意志は、いのちが始まる時を言うのですから、今の私の気持ちがどうであれ否応なしにこの身として始まっているという事実ですね。ここに気づけば父母の恩重しです。私の思いよりも深く、私の意識よりも前に、生きんとする意志が私の生の初めとしてすでに始まっている。そういう私を頂くのでしょう。こういう生の根源を韋提希に享受して、そして発菩提心へと続いていきます。

  で、この発菩提心なのですが、正直困っております。なかなか難しい。当初はそう気にしてなかったのですけど、いざそこを通り過ぎようとした時に大きな壁みたいになってしまいました。

  この発菩提心は最後に「また菩提というは、すなはちこれ仏果の名なり。また心というは、すなはちこれ衆生能求の心なり。ゆえに発菩提心というなり。」の言葉で終わります。これも難しいですが、その前の菩提心の説明もなかなか難しい。「我が身、虚空に同じく心は法界に斉しく、衆生の性を尽くさん。」これをどう解釈するのだろうか。

  とにかく、この「菩提というは仏果の名なり」ですから、ここで言う菩提とは仏果の名前だということですね。仏果の名前なら他にもあります。法、法性法身がある。涅槃もそうでしょうか。まだ他にもあると思いますが、ここで言う菩提はその名の一つであるということです。また、衆生能求の心は衆生自らが求める心でしょう。これは仏果ではありません。あくまでも衆生という人間の心です。だからこの「菩提は仏果の名なり、また心は」というのは、菩提は仏果であり、また韋提希の菩提心は衆生が浄土を求める心である、とこうなるわけです。

  衆生を超える仏果と、韋提希の菩提心は違います。しかし、ここではある関係としてこの両方が生まれている。こういうふうにも読めるのですね。「我が身、虚空に同じく心は法界に斉しく」我が身をどこの我が身と捉えるかですが、この場合はやはり生の初めとしての我が身でしょうね。そしてその身は虚空に同じです。そして心は法界に斉しですね。するとこの心は韋提希の衆生能求の心というよりも、自の業識である生きんとする意志になるでしょう。ここでの法界も虚空も同じことだと思います。だからこの生の初めの我が身と心は法界に斉しい。その我が身と心を基礎認識としている韋提希の衆生能求心が発菩提心である。こういう言い方ではないかと思うのですね。

  そしてこの韋提希の発菩提心を私の信心としていただく時が、今この私を頂くという信心である。「如来よりたまはりたる信心」をこういうふうに思うのです。なかなか難しい所で、かなり消化不良な処になっています。ただこれは善導大師の念仏における信心ということで話しておりまして、法然上人は偏依善導と言われますように、善導大師の御信心を自らの信心だと言われるわけですから、こういう内容が法然上人の専修念仏の背景にもあるということかなと思う訳です。今日は「如来よりたまはりたる信心」を自分なりに探りながらここまで来ましたが、まだまだぼやけたところが多いようです。

  また、一般的に法然上人の専修念仏で、こういった信心が言われているとは聞ききませんが、当時の民衆に進められた専修念仏にこういった背景があったのではないかと考えるところのものです。そして思うのは、親鸞聖人は比叡の時にすでにこの観経疏を読破されていたのではないかという事ですね。

歎異抄第3条

令和2年9月 秋彼岸会より

  今日は歎異抄第3条を話すことにしております。この条の「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉はすごく有名です。今回どのような話をしようか考えていたら、昔の原稿に面白い言葉がありまして、それを取り上げながら話すことにしました。で、それは誰の言葉かといいますと立松和平氏の言葉だと書いてあります。自分で書いて忘れておりますが、原稿が平成19年のものですから覚えてないのも仕方がないかなと思います。

  「強力な先祖に縛られているのも苦しいが、祖先の物語を忘れて神話を喪失してしまったら、自分が何者であり、何故ここにいるのか分からなくなってしまう。」

  この言葉はイースター島のモアイ像について書かれたものです。イースター島はかって島民が滅んでしまったという説がありまして、その島民が滅ぶ原因とモアイ像の関係をイメージして書かれた時の言葉です。今はインターネットでモアイ像と検索すると最新情報が出ますので、興味がある方は検索していただく事にして、立松和平氏のこの言葉だけを引用して、歎異抄第3条を考えることにしました。

  ところで、私たちは立松氏が言われるような強力な先祖を持っているでしょうか。現在はなくても以前はそういう強力な先祖に縛られていたことがあったでしょうか。もしかってはあったとすれば、それはいつ頃なのか、そしてどのような様子でそれは存在しただろうか。

  現在の日本では無宗教が常識のように言われますが、実はこの何となくでも無宗教的だと言われているのは戦後からでして、それ以前はかなりの宗教の国だったと思っています。たしかに戦前・戦中における国家神道を例に挙げればそうなるわけですが、しかし突然降って湧いたように文化がガラッと変わることはないのですから、そういう国家的な宗教観もまた、庶民の宗教的な素地がなければ簡単には染まらないものだとも思います。そういう面では日本においての宗教観が習俗化していくのはもっと以前ではないでしょうか。少なくとも江戸時代頃までに定着していったのじゃないかと思っています。そういう日本において、またこの近年の日本において、先祖とすごく近い時期があったなら、それはいつ頃まであっただろうか。そして何故今はないのか。

  まず、戦後教育があるでしょう。まさしく自分が受けた授業そのものですが、先祖についての授業を受けた記憶はありません。家では両親や祖父母あたりまでが生活の現場ですから、当然、両親やおじいちゃんおばあちゃんを大事にしましょうなどといった話はあったでしょう。しかし、それよりも以前、それも何処まで遡るか分からないほどの祖先をどうしろと言った話はなかったように思います。

  昭和20年、1945年が終戦の年です。それから2年後、昭和22年に家長制度が廃止されました。それまでは家の長を戸主と言うそうですが、それ以外を家族と言ったそうです。戸主と家族という形ですね。代々長男が戸主になり一家を統率する習わしが家長制度です。そこには全財産の相続権もその戸主にありました。次男や三男には相続権はなかった。娘にいたっては嫁入りの費用がかさむのでいろいろと制約もあったそうです。また女子の家長も認められたそうですが、暫定的であり、あくまでも男子家長が原則だったようです。

  家長制度ですから家が中心の制度ですね。家族と言っても今の家族構成などとはイメージが違うものでしょう。そしてその家の家督相続で戸主が全てを受け継ぐのですから、戸主はその家の歴史も一手に担うことになります。それはそのまま家の祖先を受け継ぐことでもあったでしょう。この家長制度が廃止されたのが終戦から2年後1947年です。

  日本において強力な先祖に縛られている姿が、この家長制度の戸主と家族に見えるといえば大げさかもしれませんが、案外そういうことかもしれないなと思います。この家長制度は明治に始まったそうですが、もともとそれまでの習わしが制度化されたのでしょうから、それまで先祖代々受け継がれた日本の風土を明治時代に制度化したといってもいいと思います。当然かなりの弊害があったことも想像できますね。

  昭和22年にこの家長制度が廃止されて祖先との呪縛も無くなり、遺産相続などは様変わりして現在にまで至っているわけですが、では、この文にある「祖先の物語を忘れて(祖先の)神話を喪失してしまったら、自分が何者であり、何故ここにいるのか分からなくなってしまう。」という言葉はどうなったでしょうか。

  現在は祖先という言葉はほとんど死語になっています。誰も考えていないでしょう。優しくしてくれたおじいちゃんやおばあちゃんくらいまでではないですか。しかし、それだけでは自分が何者でありどこから来たのかといったような、アイデンティティーというものは出てこない。ところが、私が気がつかないまでも、そういった日本の風土や歴史を自分の血や肉として、何がしら背負っていることも間違いないのでしょう。そうじゃなかったらここに居ませんから。

  今日お参り下さっている皆さんも全くの偶然でここにお参りされているわけじゃありません。何かの縁がこうしてお参りされている背景にあるのでしょう。背負っていても自分では気がつかない。それほど近いもの、見えないもの。そういうものとして祖先がある。見たこともないし、肌で感じる訳でもない。あるのかどうかも分からないが、だからといって無いのではない。その人その人が持っている感じ方や考え方に癖があるように、そのくらい近いものとして祖先がある。

  これが歎異抄の「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」の言葉ににある善悪の問題だろうと思います。でもね、いきなりこれが歎異抄の善悪の問題だと言っても何のことか分からないですね。しかし、善悪とは、あなたにとっての善悪であり、私にとっての善悪ですから、私にとっての善は善きもの、私にとっての悪は悪きものです。当たり前のようですが、善い悪いは自分の都合できまる。

  もうひとつ、客観的な善いもの悪いものとされるものがある。法律や社会性で善いとされるものや悪とされるものがあるでしょう。戦前の家長制度は長男が家督相続する法律ですね。女の子が先に生まれても長男が継ぎます。では、女の子しか出来なかった場合はどうなるでしょうか。その時はおそらくですが、長女が継ぎます。ただし婿養子が来たらその時点で婿養子が戸主だそうです。女子はそれまでのつなぎですね。

  じゃあ、男も女もいない場合はどうだといえば、戸主は親族会議で決めるようです。親せきからそこの家に戸主が来たのでしょうか。家同士のつながりが現在とかなり違っているようです。長男は生まれた時から家督相続の対象で、その家の歴史もろとも全部担う。その代わりに次男や三男は何も継げません。詳しい財産分与の仕方は調べないとよく分かりませんが、今とはかなり違ったものだったでしょう。

  これは想像ですが、戦前にこの炭坑の地に地方から働きに来た人たちはおそらく次男や三男でしょうね。で、この家長制度を考えると、その人たちは稼いだ賃金はどうしたと思いますか。自分で使ってしまったでしょうか。酒飲んで博打してその日暮らしで暮らしたでしょうか。男の場合はそういう想像もたやすく出来ますが、炭坑には女子もかなり就労しています。これはどう思いますか。里の家に仕送りをしていなかっただろうか。田舎には戸主が家族を養っています。その子供たちがこの炭坑に働きに来ているとしたらどう思われます。

  家長制度の時代に生きた人々は、家のために懸命に働き、その賃金のほとんどを里の家に仕送りするのが当たり前だったかもしれないでしょう。今私たちが生きている世界など知らないのですから、そこに生きた人はそれが当たり前だと思い、それが善だと思った。しかし、今生きる人から見てそれはやりすぎだと思うなら、それは善ではない事になる。まして自分の体がぼろぼろになるまで働いて、その賃金の全てを仕送りするなら、それは社会的においてもおかしいと思う。そうするとそれは悪になる。

  時代において善と悪が変化するでしょう。家長制度に何も異議を感じない人は善人だったのか悪人だったのか。考えていくとなかなか難しい問題です。それぞれの時代には何がしらの善悪があって、そしてその時代状況に生きた人たちがいたということですね。そしてそれを今の自分が外から見て善や悪だという。また、当時の法律や社会性においても、善いとされるものが一個人においては必ずしもそうはならない事があったはずです。まして戦時中ならめまぐるしく善悪の価値観が変わるのではないですか。

  こういう時代状況の違いや社会性の違いの中でもずっと変わらずに続いているものは何だろうか。それは、あれが善だとか悪だと自分の都合で見たり決めたりしてきた、それぞれの時代を通して繰り返されたそれぞれの人のこころの在りようである。そのこころを分別心というのですが、その繰り返される分別心の歴史に、自らの姿を見る。そういう人を歎異抄では悪人と言っています。だから他人を悪人だとかとやかく言うのではなくて、そういう自らの姿を言っているのですね。

  そして善人とは自力作善の人です。自らの分別心を頼りにする人でしょうか。考えてみると、この分別心を頼りに生きるというのは、自分の経験値を生かすことでしょう。状況を読み、何をなすべきか。今日の話の家長制度で言うならば、戸主が家族のためにある状況下で何をするべきか考えて行動する。言い方を変えたら、自分の力で自分が思う処の善をなすです。まさしく善人じゃないですか。じゃあこの善人である自力作善は何故いけないのでしょうか。

  それでは、この辺りで歎異抄第3条を読んでみましょうか。歎異抄第3条全文になります。 

 【 善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや。」この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころのかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからずを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。】

  歎異抄は悪人が善人より優れているぞとは言っていません。善人は本願の意趣に背いていると言っています。何故本願の意趣に背いているのかここに書いてあります。他力をたのむこころがかけているからだ、という訳です。

  自分の人生の経験値が自分の全てだとする方もおられるでしょう。しかし、生まれた環境や血筋などもありますから、一概に自分の経験値だけが全てだと思わないまでも、自分の努力を考慮したらやはり自分の経験値がものをいうのだというのが、だいたいにして普通の見解じゃないですか。

  そこまでは理解できますが、その自分の経験値を描くこころのキャンバスの素地においても、すでに祖先の血の模様が描かれているというような表現はなかなかしない。私にまでなった祖先の歴史とは、私が思い感じるところのこころの背景にまでおよぶということですから、私が何かを見て考えるとして、その私が何をどういうふうに考えるか、その癖においても祖先の歴史が関わっているという事ですね。その全てに祖先の分別心が繰り返され続けた歴史模様がある。

  例えばここに黒板がありますね。今日の話を黒板にいろいろと書いていますが、この書いている文字が現在までの自分の経験値だとするでしょう。今話しているのはこの文字を書いている黒板自体のことを言っていることになります。黒板と言いながら実際の色は深緑ですが、その黒板にチョークで経験値を描いていくとする。するとその黒板自体は無色であるという約束事がどこかにあるでしょう。しかし実際は色はちゃんと付いています。この黒板の色の事を言っているのでして、無色であるという約束は勝手に自分がそう決めているだけであって、黒板そのものにすでに模様が描かれている。その模様が祖先の歴史という模様です。自分の経験値はそこに上書きされているという事ですから、そこに描かれた文字は黒板の模様とのコントラストでありながら、その全体がそのまま自らであるといった表現になると思います。

  この黒板は私のこころの領域なのか、それともこころの領域を超えたものなのか。こころには無意識の領域があるといえばそれがこころの領域にも聞こえますし、また無意識は身体的な領域にあるといえばそれもそれなりに聞こえます。総じて専門の学者じゃありませんから分からないのですね。ただ意識が何かを素地にして現れるのなら、たとえ意識が無になっても素地はそのままです。

  このこころの領域を、私の血となり肉となった分別心の永い歴史として見て、それをここでは生死といっているのではないでしょうか。第3条のこの「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからず」という言葉は、そのことを言っているようにも思えます。それでは、何故それを悪とおさえるのかという問題がありますね。これは分別心の捉え方によるものですが、また別の機会に話したいと思います。

  仏教では善因善果・悪因悪果です。しかし善悪がどのような状況でも同じかと言えば変わってくるでしょう。親鸞聖人は善因善果・悪因悪果というよりも、「因浄なるがゆゑに果また浄なり」と言われますように浄因浄果です。因が浄であるからこそ果もまた浄である。親鸞聖人は浄土往生を問題にされますので、それについての善悪ですから、悪というのは浄土の因に非ずという事ですね。何故なら悪は浄ではないからでしょう。だから私において往生浄土の因がないということは浄にあらずであって、それは悪人としての自覚がそういわせているのです。しかしその悪人の自覚こそが浄土往生の正因に他ならない。何故なら本願の本意は悪人成仏にためだからだということになります。

  今日このように歎異抄第3条を読んでみて感じることは、この善人悪人は二人を並べ比べたものじゃなくて、一人の人間が生きることにおいての生と死の問題だと思いました。精一杯に生きてもそれが自分が納得するものになるかといえばそういうわけではない。また、さぼれば身になるというような都合のいいものでもない。そういう中でのいうなれば人生の謳歌と躓きじゃないかと思います。自力作善と書いてありますが、自分の力で出来ると思っている人は自分を謳歌しているのでしょう。

  また、朝起きて顔を洗いに行くでしょう。鏡の前でまず躓きます。みなさんはまだ大丈夫ですか。老というのは何やかや言っても躓きじゃないだろうか。そしてもうすぐ死です。人生の謳歌は振り返ればけっこうあったような気がしますが、その最中はなかなか気づかいないものですね。しかし躓きはその瞬間で分かります。往生浄土はこの瞬間の問題かなとふと思ったりします。

  今日の話は歎異抄の善悪の問題がまだ不十分だということは分かっていますが、今日話したところの善悪もまた歎異抄の中のものであります。

  で、最後に話をまた立松氏の言葉に戻しますが、「祖先の物語を忘れて、神話を喪失してしまったら自分が何者であり、何故ここにいるのか分からなくなってしまう。」この言葉に自分の考えを添えて終わろうかなと思います。この立松氏の言葉が何故気になったのかというと、この神話を喪失すると自分が分からなくなるということですが、この神話の喪失と自己の喪失がどういうものなのか。

  ご存じのように、真宗にも法蔵菩薩という神話があります。神話と言っていいのか分かりませんが、神話だといえばそうかもしれない。そういう神話だとか違うとかいうのではないけれど、この言葉にある神話の喪失とアイデンティティーの喪失、つまり自己の喪失ということを、立松氏はどのような意味で言われたかなと気になったものですから取り上げました。

  イースター島においてこの神話とは何だったのか、まだ謎のままです。しかし地図で眺めてみると、イースター島は南太平洋の絶海の孤島ですから、逃げ場のない海に囲まれた小さな範囲での神話です。そこにある神話は天と地が垂直に関係した神話ではないだろうか。それこそ垂直に先祖・祖先がそのまま神話化している。自らがそこにいることにおいての垂直的なものを神話と言われているのかなと感じた次第です。だからこういうのを垂直型と言わせてもらいますが、こういうタイプはおそらく東洋的じゃないかもしれない。

  じゃあ東洋的とは何だといいますと、あやかるといいますか、そこに行けばパワーを貰えるというようなパワースポット。神社仏閣のご神木に触れたり側にいたりすると、自分までいい風が当たってくるというような、あやかり型じゃないかと思うのですね。だから東洋的な神話というのは、直接自分に関わりはないけど、しかしその神話は日本の国造りの物語だったりする。だからお伊勢参りをすれば何やら神話のパワーも頂く気がするというようなものじゃないでしょうか。専門的な見解ではないですから、そんな感じじゃないかなと思いますが、それに対して西洋哲学は自分をとことん掘り下げて、ついにはそこに神までを見出そうする垂直型ではないかと思います。

  そういう中で、法蔵菩薩はどちらだろうかと考えるのですね。そういうことを常々考えていますのでこういう言葉が気になったのだろうと思います。まだ答えはありませんが、真宗のご信心には法蔵菩薩がおられます。そういうことも気に留めていただければと思い、ついでと言っては何ですが最後に少しばかり話した次第です。